home > 通信 >『アセンション館通信』(第632号):意識を超えたアイデンティティ(または顔料を溶いた水)



━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
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 ☆☆     ☆☆『アセンション館通信』2016/05/15(第632号)
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☆☆      ☆★ 【気刊】――「私は在る」に導かれ♪――
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇

このメルマガはアセンション館主人 pari と称するあるパターンに
浮上している心象風景の報告です。

何でもないものが、あらゆるものになってみている。

この瞬間に気づきの内容があり、それに気づくことが起こっている。

内容は人畜無害、でも読む人は相当変わっていますね。現在845名
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◇◇ もくじ ◇◇

1.意識を超えたアイデンティティ(または顔料を溶いた水)

2.編集後記
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■ 1.意識を超えたアイデンティティ
       (または顔料を溶いた水)
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今日もいい天気。

こんないい天気に、こんな気分でいていいのかなぁ。

それでいいのだ。\(^o^)/ \←……(\/U)

(;_;)

まったく、バカな話です。(^_-)

ふ。

(*^_^*)

さて、またまた一週間が過ぎて、

楽しい“アセンション噺”ならぬ「私は在る」噺に、

お付き合いいただく今がやってまいりました。

『アセンション館通信』配達人の pari です。

みなさま固有の「私は在る」を、いかがお過ごしでしょうか?

「私は在る」……という言葉には、

両義性がありますね。

「私は在る」という言葉が喚起するイメージは、

聞いた人の数だけあるでしょう。

pariパターンの場合なども、

初めて「私は在る」という表現に触れたとき、

「私は在る」……これこそは確かだ、

と思ったものです。

そのとき持ったイメージは、

このわたしについて、

確かなことは存在しているということだけだ。

わたしが存在していることだけは間違いない。

それ以外はすべて想像だ、

というものでした。

まあ、マハラジがそう教えてくれたので

わたしも文字どおりそれをなぞって

そう思ったわけです。

まことに立派な理解で、

言葉の上では、

間違っていることなど何もなさそうです。

たしかに、

わたしは間違いなく存在しているわけですから。

ところがこの表現は微妙に

“わたし”を密輸入しています。(^_-)

なぜなら、

マハラジが指しているこのただ存在しているものは、

湧いてくる“わたし”という想念と

同じではないからです。

“わたし”という想念が湧く以前から

それはすでに存在している。

この永遠に存在する常在の存在感が

有機体である人間の言葉に翻訳されたものが

「私は在る」です。

その意味では、

「私は在る」とは意識に反映された

実在の響きです。

でも、その実在の響きが

「私は在る」と表現されたときには、

すでにその言葉のなかに

「『私』は在る」というニュアンスが

含まれてしまっている。

このほんのわずかの違いが

あまりにも決定的なので、

「私は在る」という言葉を

いくら知的に理解しても、

まったくへの突っ張りにもならない。(*^_^*)

たとえば、

実在を水に喩えてみましょうか。

そしてその水に顔料を溶いて、

その顔料で水の透明性を表現しようとしたとします。

もちろん、

水は、純粋な意識(静止した意識)の比喩であり

顔料は表現手段としての形体と

形体の解釈である想念の比喩です。

形体や想念を躍動する意識と言ってもいい。

顔料はなんとかして

自分の形で水を捉え、それを表現したい。

想念が実在を理解したいと望むわけです。

(まあ、ここではそうしておきましょう。)

でも、別に想念に理解されなくても

実在はすでに存在している。(^^;)

水に溶かれた顔料が

水の中でどんな模様を描こうとも、

そんなことに関係なく、

水はすでに水であり、濡れている。

濡れているのは、言うまでもなく、

顔料ではなく水のほうです。

それより何より、顔料の特質は

目に見える(知覚可能)ということですから、

その顔料で

水の透明性(知覚不能)を表現するのは無理です。

水の透明性(知覚不能)を露出させるには

顔料はただ消えるしかない。

顔料が静まって水のなかに沈殿したら、

透明な水だけが残っているでしょう。

といった具合で、

もし「気づき」と「意識」を別概念として分けるなら、

「気づき」は「水」であり、

「意識」は「顔料」だという比喩も可能でしょう。

しかし、存在するのは「意識」だけ、

という表現を採用するなら、

顔料を含まない水は存在しないことになる。

ただ、揺らせば顔料は水のなかに広がり、

静止すれば、顔料は水のなかで沈殿する。

知覚可能なものとして現れているのは

つねに「形体」と「想念」という

つかの間の【見かけ】だけだということになる。

さて、ところで、

こういう言葉の羅列に何か意味があるのか?

もちろん、何の役にも立ちません。

なぜなら、

こういう言葉が願っているのは、

【見かけ】の無意味の理解と、

安心だからです。

そして、その目的に対しては、

こういう言葉は、

への突っ張りにもならないわけです。

なぜなら、

これらのすべての展開のなかで、

「わたし」という観念は

いささかも曝露されることがないため

疑われることなく存続しているからです。

この無傷の「わたし」という観念は

あたかも言葉に意味があるかのごとく

得々とこれらの解釈を展開してやまない。

しかしその「わたし」は

けっして常在そのものを意味することはないため

かならず形体とその解釈のなかで

揺れ動いていなければならない。

具体的に言えば、

「わたし」はつねに知覚可能な世界のなかの

この身体としてイメージされているからです。

すると、

その「わたし」は、

つかの間の【見かけ】の変化のなかで

たえず恐れていなくてはならない。

「わたし」の存在が

【見かけ】と何か関係があるとイメージされるかぎり

「わたし」は【見かけ】のなかで

恐れおののかなくてはならないのです。

マハラジは、

「実在」をアイデンティティという言葉に言い換えます。

そしてアイデンティティこそが常在なのだと。

──────────────────
 アイデンティティは実在だ。
 実在がアイデンティティなのだ。
 実在とは無形の集合や無言の混沌ではない。
 それは強力で、気づいていて、
 至福に満ちている。
 それと比べれば、
 あなたの人生など太陽に対する
 ロウソクのようなものだ。
 
 『あるがままに』(p455)
──────────────────

> アイデンティティは実在だ。
> 実在がアイデンティティなのだ。

これは、通常のアイデンティティの用法とは

まったく別のことですね。

上の比喩では、

このアイデンティティこそが濡れている水、

気づいている当人なのでしょう。

──────────────────
 意識は隙間だらけの断続的なものだ。
 それにもかかわらず、
 そこには継続するアイデンティティがある。
 もしこのアイデンティティの感覚が
 意識を超えた何かでなければ、
 いったい何によるというのだろう。
 
 『私は在る』(p329) 
──────────────────

> 意識は隙間だらけの断続的なものだ。

うん。(-_-)

> それにもかかわらず、
> そこには継続するアイデンティティがある。

はい。

> もしこのアイデンティティの感覚が
> 意識を超えた何かでなければ、
> いったい何によるというのだろう。

それが、昨夜はよく眠った、と言うわけか。

──────────────────
 アイデンティティの状態は
 実在のなかで固有のものであり、
 けっして消え去るものではない。
 しかし、アイデンティティとは
 一時的な個人(ヴィヤクティ)でも、
 カルマによって束縛された
 人格(ヴィヤクタ)でもないのだ。
 それはすべての自己同一化が
 偽りとして放棄されたときに残るものだ。
 純粋な意識、そこにある、
 またはありうるすべての存在の感覚だ。
 意識ははじめ純粋で、
 終わりもまた純粋なままだ。
 その中間において、
 創造の根本である想像によって汚されてしまうのだ。
 意識はつねに同じ状態で残る。
 それをあるがままに知ることが真我の実現であり、
 永遠の平和なのだ。
 
 『私は在る』(p412)
──────────────────

> アイデンティティの状態は
> 実在のなかで固有のものであり、
> けっして消え去るものではない。

けっして消え去らないものを

アイデンティティと呼んでいるんだ。

> しかし、アイデンティティとは
> 一時的な個人(ヴィヤクティ)でも、
> カルマによって束縛された
> 人格(ヴィヤクタ)でもないのだ。

はい。

> それはすべての自己同一化が
> 偽りとして放棄されたときに残るものだ。

わかりました。

> 純粋な意識、そこにある、
> またはありうるすべての存在の感覚だ。

はい。

> 意識ははじめ純粋で、
> 終わりもまた純粋なままだ。

生まれる前と死んだ後。

> その中間において、
> 創造の根本である想像によって汚されてしまうのだ。

生きている間だけは汚れにまみれ、

苦しむのか。

「生存するとは苦しむことだ」というわけか。

> 意識はつねに同じ状態で残る。

なるほど。

> それをあるがままに知ることが真我の実現であり、
> 永遠の平和なのだ。

わかりました。

(-||-)

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 あなたは在る。
 ほかのすべては現れにすぎない。
 
 『私は在る』(p421)
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(-||-)

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 永久的なもの、それはあなた自身の存在である。
 真我として在りなさい。
 それが至福である。
 あなたはいつもそれなのである。
 
 『あるがままに』(p58) 
------------------------------------

……。(-_-)

ありがとうございました。<(_ _)>

(-||-)

今日はこんなところで。

……。

m(_ _)m


       ………○…………○…………○………


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■ 2.編集後記:
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劇は起こりつづけていて

その劇に巻き込まれることが起こりつづけています。

朝方、もらったコンクリートの鉄の型枠で

庭の南はしに小さなテラスをつくりました。

今日はまだ明るいです。

晩くなりました。

お休みなさい。

<(_ _)>


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■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
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