home > 通信 >『アセンション館通信』(第636号):イメージにイメージを生み出す力はない



━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
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 ☆☆     ☆☆『アセンション館通信』2016/06/19(第636号)
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☆☆      ☆★ 【気刊】――「私は在る」に導かれ♪――
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 ☆☆   ☆☆          https://www.ascensionkan.com/
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇

このメルマガはアセンション館主人 pari と称するあるパターンに
浮上している心象風景の報告です。

何でもないものが、あらゆるものになってみている。

この瞬間に気づきの内容があり、それに気づくことが起こっている。

内容は人畜無害、でも読む人は相当変わっていますね。現在843名
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◇◇ もくじ ◇◇

1.イメージにイメージを生み出す力はない

2.編集後記
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■ 1.イメージにイメージを生み出す力はない
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今日はまた素晴らしい晴天です。

ガラス戸を開けると風が入ってきます。

これで何の思いも湧いてこなければ

申し分ないんだけど。

まあ、それはないものねだりでしょう。

だいたい、

何の思いも湧いてこなければ、

こんなメルマガ書くこともないしね。(^_-)

だから、まあ、これでいいんですよ。

これでいいのだ!\(^O^)/

(*^_^*)

さて、またまた一週間が過ぎて、

楽しい“アセンション噺”ならぬ「私は在る」噺に、

お付き合いいただく今がやってまいりました。

『アセンション館通信』配達人の pari です。

みなさま固有の「私は在る」を、いかがお過ごしでしょうか?

われわれ夢のなかの登場人物にとって

一番難しいのはこのことじゃないかと思います。

ネイサン・ギルの端的な表現ではこうです。

──────────────────
 Q.思考は脳と呼ばれている機関から出てくるものにすぎないん
   ですね。
 
 A.
 いえ、そうじゃありません。
 どんなイメージにもほかのイメージを生み出す力はありません。
 劇の中ではそう思われているというだけです。
 
 『すでに目覚めている』(p131)
──────────────────

> どんなイメージにもほかのイメージを生み出す力はありません。

これは、理解するのが難しい……、

とかいうことじゃなくて、

劇の登場人物にはまったく理解不能です。

この同じ話が、

自分が寝ていて見る夢について言われたのなら、

それは完璧に理解できます。

わたしが見ている夢のなかの登場人物に、

その夢の筋書きを変更できる能力も余地も

まったくありえないことは自明ですから。

わたしが見ている“個人的な夢”は、

わたしという個人的潜在意識が

沸き立つことで夢になっているもので、

その夢のなかの登場人物の努力で、

その筋書きをどうこうできるものではない。

その夢のなかの登場人物自体が、

沸き立った個人的潜在意識の造形なのですから。

溜まりに溜まったたくさんの記憶(ゴミ想念)が、

かき回されて沸き立っているだけでしょう。

朝目が覚めて、

自分が夢のなかの登場人物ではなくて、

その夢を見ていた当人だったと自覚したとたんに、

夢のなかの登場人物は雲散霧消してしまいます。

それは単にわたしが見た夢の話で、

そんな登場人物など

はじめっから存在していなかったことは

わたしには自明ですから。

誰に確認する必要もない。

わたしがそれを知っているわけです。

ただ、わたしが夢を見ているときは、

わたしは自分の意識エネルギーを

その夢のなかの登場人物に注ぎ込んでいる。

だからその夢のなかの登場人物もまた

自分がじつは存在しないなどということは

想像することもできない。

ただし、

いわば目覚めのエネルギーが

その夢のなかに差し込むということは

ありえます。

これは体験的に断言できます。

夢のなかでヤクザのような感じの二人に絡まれて

ふと「これは夢だな」と思ったことがある。

そのとたんに目が覚めました。

そのアナロジーでいうなら、

わたしはしゅっちゅう

“これは夢だ”と思っています。(^^;)

でも覚めない。(*^_^*)

ははは。

オマエノカアチャン、デーベソ。(*@_@*)

要するに、

夢のなかの登場人物に

> どんなイメージにもほかのイメージを生み出す力はありません。

ということを理解することはできないということです。

これはまったく

夢のなかの登場人物が関われる話ではないので、

運命とか恩寵とかいうしかない。

だから夢のなかの登場人物としては

努力が起こっていれば努力するしかない。

なにしろ、いわば宇宙意識が

そういう夢を見ているわけでしょうから。

努力すれば状況が変わるかもしれない

と思われる夢が見られていて、

わたしは単にその夢の登場人物にすぎないわけです。

“求道者OB”みたいなところのあるわたしは

自分にできることは何もないことを、

何とか理解できないかと思ってきたものでした。

あまり一般的ではない方向だけれど、

そういう努力が起こっていたわけです。

それを理解することで何とか楽になりたいと思った。

神を出し抜こうとするみたいな

試みだったのかもしれません。

もちろん、

神が夢見た物語が

そんなストーリーだったということです。

で、そんな努力のなかで

これは何とか理解できるかもしれない、

という気がした方向性が二つあります。

ひとつは、

(1)【見かけ(物質)に意志はありえない】

ことを理解する方向です。

もうひとつは、

(2)【時間が存在しない】

ことを受け容れるという方向です。

どちらも知力が知力を納得させるという意味では、

ある程度の成果はあったかもしれない。

(1)【見かけ(物質)に意志はありえない】

ということを理解しようとする途上で出遭ったのが

これまで何度も触れてきた

『踊る物理学者たち』

という本でした。

普通“自分が意志している”という意味は、

この身体が独自の意志をもって

何かを意図しているということでしょう。

じゃ、この身体である自分が

本当に意志したりできるのか、

その自分の意図というものの

【物質的根拠】のイメージを確認したかった。

そのときの理屈の四苦八苦が

こんな感じ↓です。
https://www.ascensionkan.com/mm/vol598.html#1-1

まあ、意識の遊び(リーラ)というか、

神が「聖なる催眠」をかけた知的ロボットが

何とか自分の無能を理解しようと

懸命に藻掻いたその足掻きの跡です。

──────────────────
 ヴァチカンにあるサンピエトロ大聖堂の
 ドームの直径は十四階分ある。
 ドームの真中に塩を一粒置き、
 ドームの外周を回っているほこりの粒がある、
 と想像してほしい。
 原子以下のレベルの粒子たちはこんな尺度にある。

 『踊る物理学者たち』(p71)
──────────────────

この空間比率で言うと完全に無とも言える

「一粒の塩」と「ほこりの粒」のネットワークが

果たしてこの大宇宙を創造する意図を構成できるだろうか?

ということをイメージしようとしたわけです。

そして、

もし物質を“意識ではないもの”と想定するなら

“意識ではないもの”が意識に憧れることはできない

という知的結論にたどり着いたわけです。


そして、もうひとつは、

(2)【時間が存在しない】としたら……、

という方向です。

地球の人間(と思っている夢のなかで)は、

もちろん、時間があるかのよう生きています。

しかし、

じつは時間というものは存在しない、

という言葉はいろいろなところで耳にします。

地上の覚者も言えば、

ニューエイジのETエンティティたちも言います。

時間というのは

単なる認識のひとつの形式にすぎない、と。

で、あるとき、このメッセージは

知的にそれほど理解しがたいわけでもないな、

と感じたわけです。

それはバシャールの喩えを聞いたときでした。

映画のなかの物語が

一巻のフィルムに収まってすべて同時に存在しているように、

あらゆる過去・現在・未来は

じつはすべて今のなかに全部存在しているのだと。

なるほど!?(@_@) ⌒★?

と思いました。

これはとても、納得のいく説明でした。

つまり、

普通、現象のなかに当然のように想像されている

「動き」とか「継続」とかいったものは

単なる錯覚現象として提供されているにすぎない、

というわけです。

たしかに、

人間が地上でアニメーションを作成するときも

「動き」や「継続」を直接創造することはできない。

一コマ一コマの別の画像を連続的に投影して

「動き」や「継続」の幻影を作っているにすぎない。

ならば、

源泉という神なる意識も

じつは一コマ一コマの別の画像をすべて用意して

「動き」や「継続」の幻影を作っているのではないか?。

それなら、

創造も、努力も、成長もありえないわけです。

バシャールの話をいったん受け入れると、

今度はバシャールの話自体が

とても中途半端なものに聞こえるようになりました。

もし多次元宇宙のあらゆる物語のあらゆる場面が、

すべて今のなかに存在しているのなら、

それをあたかも現実であるかのように

宇宙のあちこちに飛び回って

過去に行ったり未来に言ったりすること自体、

任天堂のゲームオタクとさほど違ったことでもない、

と思われてきたからです。

それならラマナ・マハルシのように、

創造もなく、破壊もなく、道もなく、目標もなく、

自由もなく、運命もなく、何も起こっていない

と言ったほうが

いっそずっとすっきりしているではないか、

と思われてきたというわけです。

しかし、そう思ったら、今度はまた、

バシャールにも

彼のありよう以外のどんなありようもできないのだという

思いも湧いてきました。

わたしもまた、

ほかにはどうしようもないのだから。(*^_^*)

要するに、

文句は湧いてくるときには湧いてくるし、

ほかにはどうしようもないのです。(^^;)

バシャールもいなければ、わたしもいない。

文句を言っている誰かが存在しているわけでは

ないのです。(^^;)

──────────────────
 すべての二元性は幻想であり、
 すべての行為は瞬間的で、
 そして、すべての意志は幻想です。
 いたんこれが理解されれば、
 人は自発的であろうとするのをやめます。
 ……
 ある中国の哲学者は、
 「すべてはタオである」ので、
 タオを理解するすべての努力は、
 「蛇足」と見なしています。
 ニサルガダッタ・ハラジも、
 そういういった努力を同じような言葉で
 言及していたことに気づくのは、
 興味深いことです。

 『誰がかまうもんか?!』(p194)
──────────────────

(-||-)

──────────────────
 真理の証拠は聞き手への影響のなかにあるのだ。
 
 影響がかならずしも体験である必要はない。
 それは人格、動機、人々との、
 そして自己との関係性における変化でもありうる。
 ……
 ここで語られた真理は不動の、
 永遠のものだ。
 そしてその証拠は聞き手のなかに、
 彼の存在全体における
 深い永続的な変化のなかにあるのだ。
 彼自身の自己の存在を疑わないかぎり、
 その証拠は彼が疑えるようなものではない。
 わたしの体験があなた自身の体験となったとき、
 それ以上の証拠をあなたは求めるだろうか?
 
 『私は在る』(p376)
──────────────────

> ここで語られた真理は不動の、
> 永遠のものだ。

はい。

> そしてその証拠は聞き手のなかに、
> 彼の存在全体における
> 深い永続的な変化のなかにあるのだ。

わかります。

> 彼自身の自己の存在を疑わないかぎり、
> その証拠は彼が疑えるようなものではない。

信じます。

(-||-)

──────────────────
 あなたが
 あなたを含むすべての証明なのだということを、
 まず悟るべきだ。
 あなたの存在を証明できるものは何もないのだ。
 なぜなら、
 他者の存在もあなたによって
 確認されなければならないからだ。
 あなたは完全に、
 あなた自身によって在るのだということを
 覚えておきなさい。
 あなたはどこからも来なかったし、
 どこへも行かない。
 あなたは時間を超えた存在、
 そして気づきなのだ。
 
 『私は在る』(p178)
──────────────────

(-||-)

──────────────────
 あなたは在る。
 ほかのすべては現れにすぎない。
 
 『私は在る』(p421)
──────────────────

(-||-)

──────────────────
 永久的なもの、それはあなた自身の存在である。
 真我として在りなさい。
 それが至福である。
 あなたはいつもそれなのである。
 
 『あるがままに』(p58) 
──────────────────

……。(-_-)

ありがとうございました。<(_ _)>

(-||-)

今日はこんなところで。

……。

m(_ _)m


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『私は在る』の「目次」はここ↓に置いてあります。
https://www.ascensionkan.com/books/I_AM_THAT-index.html

ときどき「ニサルガ辞書」で遊んでみてください。
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新しい「ラマナ・マハルシ辞書」はここです。
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おこがましくも『アセ通』既刊号はすべてここに置いてあります。
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■ 2.編集後記:
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いろいろ乱れていたとしても

それはそういう場面なのでしょう。

その場面に意識エネルギーが投入されないかぎり、

その場面は起こらない。

意識が興味を失えば

どんな場面も存在することはできない。

意識エネルギーのあり方が現象しているだけ。

興味が薄れれば

自然にその場面の吸引力が失われていく。

存在するのは意識だけ。

源泉がそのように現れ

源泉がそれを味わっているのでしょう。

今日は昏くなりました。

お休みなさい。

<(_ _)>


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■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
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