home > 通信 >『アセンション館通信』(第638号):【気づいている者】【気づかれるもの】



━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
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 ☆☆     ☆☆『アセンション館通信』2016/07/03(第638号)
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☆☆      ☆★ 【気刊】――「私は在る」に導かれ♪――
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 ☆☆   ☆☆          https://www.ascensionkan.com/
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇

このメルマガはアセンション館主人 pari と称するあるパターンに
浮上している心象風景の報告です。

何でもないものが、あらゆるものになってみている。

この瞬間に気づきの内容があり、それに気づくことが起こっている。

内容は人畜無害、でも読む人は相当変わっていますね。現在855名
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◇◇ もくじ ◇◇

1.【気づいている者】【気づかれるもの】

2.いただいたお手紙から:霜田さん

3.編集後記
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■ 1.【気づいている者】【気づかれるもの】
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近くで草刈機の音が響いています。

ガラス戸を開け放っていると

涼しい風は入ってくるけれど、

こんな山里でも

じっとしていても汗ばむくらいの暑さです。

今日は土曜日です。

なんか嬉しい。

(*^_^*)

さて、またまた一週間が過ぎて、

楽しい“アセンション噺”ならぬ「私は在る」噺に、

お付き合いいただく今がやってまいりました。

『アセンション館通信』配達人の pari です。

みなさま固有の「私は在る」を、いかがお過ごしでしょうか?

自分が問題のなかにいるのではなく、

自分が問題を支えているのだという

あまりにも当たり前のことを改めて意識すると

なんか変ですね。(^^;)

こっちはまじめに人間やってるのに、

調子狂っちゃいます。(^_-)

問題はわたしに依拠しているけれど、

わたしはまったく問題に依拠していない。

問題なんか在ってもなくても、

わたしは在る。

意識は存在している。

これはもうまったく疑問の余地がないです。

誰にも否定できません。

少なくとも今この瞬間に意識している

わたしやあなたには否定できない。

否定できないのは、

わたしやあなたが問題に気づいているのであって、

問題がわたしやあなたに気づいているのではない

という当たり前のことです。

言うまでもないですが、

現象はそれに気づく者がいて

はじめて現象することができます。

毎回引っ張りだして耳タコでしょうが、

マハラジ流の言い方ではこうなります。

──────────────────
 あなたが
 あなたを含むすべての証明なのだということを、
 まず悟るべきだ。
 あなたの存在を証明できるものは何もないのだ。
 なぜなら、
 他者の存在もあなたによって
 確認されなければならないからだ。
 あなたは完全に、
 あなた自身によって在るのだということを
 覚えておきなさい。
 あなたはどこからも来なかったし、
 どこへも行かない。
 あなたは時間を超えた存在、
 そして気づきなのだ。
 
 『私は在る』(p178)
──────────────────

つまり、

【気づいている者】は

自らの存在を他の何ものにも依存していないし、

他のどんなものもその存在を証明できない、

ということです。

マハラジの口から漏れたこの表現は、

【気づいている者】と【気づかれているもの】を

あたかも識別・分離しているようにも聞こえます。

でも、

気づきの対象である現れ(物理現象)のなかで

無我夢中になっている夢のなかの登場人物に

自分自身に注意を向けるように語りかけるには、

まず起こっているその現象の根拠そのものに

注意を向けさせるのが手っ取り早かったわけでしょう。

あなたが抱えている問題はすべて、

それに気づいているあなたがいるから在るのだと。

マハラジのこの方便は

そのことに意識を向ければ

誰にも否定できないということがミソですから。

というのも、

多種多様なスピリチュアル言語空間で

【自分自身】という翻訳語は

それこそ多種多様なニュアンスで使われていて、

実際はその大部分の場合において、

【自分自身】には

なんらかの物語が付着しています。

【自分自身】のイメージから

あらゆる物語を排除するには

あなたが気づいている当人なのだ

という事実を指摘するのが

いちばん手っ取り早かったのだと思います。

その準備があったからこそ、

この【自分自身】のニュアンスが

充分に周知された集団も誕生したわけでしょうし、

ネイサン・ギルの次の表現も

受け止められる地盤の生まれたわけでしょうから。

──────────────────
 Q.対象は重要ではないけれども、
  〈意識〉そのものは重要だというのは
  どういうわけですか?
 
 A.
 そうですね、
 〈意識〉というのはどういう意味なのかを
 はっきりさせておく必要がありますね。
 〈意識〉というのは全体性あるいは一体性で、
 ふたつの側面があると言っていいでしょう。
 気づいているという側面と、
 気づいている内容という側面です。
 つまり今あなたが対象と呼んだのは、
 気づきの内容のことです。
 内容というのは気づきの中に現れるイメージで、
 気づきの中で気づかれています。
 気づきの内容は重要ではないという
 その考えかたは誤解です。
 そういう考えは、
 霊性についての伝統的な観念、
 物質や内容を避けようという観念から
 生まれたものです。
 そのせいで物質が否定されがちなんです。
 でも、存在しているのが〈意識〉だけ
 ──気づきと気づきの内容ですが──なのであれば、
 内容も気づきとまったく同じように
 等しく重要だということになります。
 
 『すでに目覚めている』(p52)
──────────────────

> つまり今あなたが対象と呼んだのは、
> 気づきの内容のことです。

まさしく。

> 内容というのは気づきの中に現れるイメージで、
> 気づきの中で気づかれています。

はい。

> 気づきの内容は重要ではないという
> その考えかたは誤解です。

あらゆる観念は、

その瞬間における意識の表現という意味では

すべて正解であり、

またすべてが観念だという意味では

すべてが誤解ということにもなるでしょうね。

言うまでもなく、そんなことは、

ネイサン・ギルは

百も承知、千も合点でしょうが。

> そういう考えは、
> 霊性についての伝統的な観念、
> 物質や内容を避けようという観念から
> 生まれたものです。

ネイサン・ギルの

その瞬間の意識の位置から見れば、

そういう意味合いになる、

ということになるわけだろうと思います。

> そのせいで物質が否定されがちなんです。

たしかに、そういう側面もあるでしょう。

そして、もちろん、

> でも、存在しているのが〈意識〉だけ
> ──気づきと気づきの内容ですが──なのであれば、
> 内容も気づきとまったく同じように
> 等しく重要だということになります。

というふうにも言えるわけです。

いかなる場合も、

源泉が別の口をとおして

その瞬間のその観点のメッセージを表現しては、

それをまた、いろいろな観点から

味わっているのでしょうね。

だから、ある意味では、

【気づいている者】と【気づかれているもの】は

意識の二つの側面であり、

一対ではじめて意味を持つものです。


でもまた別の意味では、

【気づかれているもの】のなかから

それに【気づいている者】に

焦点を移すことで

その峻別が強烈な意味をもつこともある。

なにしろ、

【気づかれているもの】は

永遠の変化、

永遠の【見かけ】でしかないのに、

それに【気づいている者】は

その【気づかれているもの】の背景として

けっして欠くことのできない

永遠の不動

永遠の沈黙であるわけですから。

そしてまた、

【気づかれているもの】は

けっしてそれ自身に気づくことはできないわけです。

だからこそ、

その峻別が意味を持ってくるわけです。

この【気づいている者】と【気づかれているもの】

という識別を方便として利用する場合は、

【気づかれているもの】は

けっしてそれ自身に気づきえないことを

絶対的に納得する必要がある。

そのひとつの方便が、

われわれが赤ん坊として生まれてきたとき、

まだ“自分”は存在していない

ということを無条件で納得することだと思います。

身体が誕生したとき、

ある意味で、その赤ん坊は生きている。

生き物として現象している。

しかし、まだ

そこには誰も現象していない。

生き物として現象してはいるが、

そこに自分はいない。

そこに自分が存在していない以上、

“自分”が気づいているとは言えない。

“自分”が気づきを所有しているとは言えない。

しかしまた、別の意味では

その赤ん坊は間違いなく気づいている。

笑いかければ、

その赤ん坊は応える。

でもその時点で、

“自分”が気づきを持っているのでないことは自明です。

そもそも“自分”がまだいないのですから。

“自分”とはもともと学習して身につけるもの。

親やまわりから言葉を教わる過程で、

赤ん坊は“自分”という観念を学ぶわけです。

現代社会では、

セイラー・ボブさんの見解を借りるなら

だいたい二歳から二歳半くらいの時期でしょう。

鏡が生活空間に入ってくることで、

これはずっと早まったでしょう。

赤ん坊は、鏡のなかで、

知っている人たちに入り混じって

動いている小さな物体の映像を認知する。

もちろん、最初は、

鏡のなかに

これまで見たことのない何か見慣れないものが

動いているのに気づくだけです。

あれは、なんだろう(?_?) と思う。

もし、鏡のなかに

お母さんやお父さんがいっしょに映っていれば、

小さい奇妙なのだけが何だかわからない。

そして鏡に近づいてみれば、

そいつも近づいてくる。

たぶん、

はじめて鏡を見たとき他に人がいなくても、

しばらく動いてみているうちに、

赤ん坊はハッと (@_@) するのではないか。

でもたいていは、

「ほら、これが○○ちゃんよ」とかなんとか、

まわりから教えられたりするでしょう。

そうやって“自分”が

世界のなかに登場するのです。

映像全体のなかに“自分”が形をもって現れる。

曖昧な一体性のなかで微睡んでいた赤ん坊は、

その瞬間、

そこに客観的な形をもった“自分”が

存在することを知ることになる。

これがこの現象世界に“自分”が誕生する瞬間です。

もしこういう過程があっただろうと

認めることができるなら、

“自分”が、

つまりこの身体が

気づきを所有しているのでないことは自明です。

だって、

ゼロ歳児の赤ん坊が

まわりの呼びかけに応えたとき、

そこに肉体過程は存在していたけれど、

そこにまだ“自分”はいなかったことは

明らかなのですから。

要するに、

“自分”の誕生とは

“自分”が【気づき】を所有した

という意味ではなくて、

【気づき】のなかに

“自分”という想念が浮上したことを

意味しているにすぎないのです。

“自分”は

誕生したり崩壊したりすることができる。

しかし、気づきは

誕生することも崩壊することもできないのです。

言葉を換えると、

誕生したり崩壊したりできるものは、

気づくことはできないということです。

そうでありながら、

しかもなお、

【気づいている者】は

【気づかれているもの】の相棒なのでしょう。

だから、マハラジは、

一方では、

──────────────────
 知る者が非顕現であり、
 知られるものが顕現だ。
 知られるものはつねに動いている。
 それは変化し、それ自体の形も、
 住処(すみか)ももたない。
 知る者はすべての知識の不変の支持者だ。
 どちらも互いを必要としている。
 だが、実在はその彼方に在るのだ。
 
 『私は在る』(p178)
──────────────────

と語り、もう一方では、

──────────────────
 実在は証明することも、
 反証することもできない。
 マインドの範疇(はんちゅう)では不可能であり、
 マインドを超えればその必要もない。
 実在のなかでは、
 「実在とは何か?」という疑問は起こらない。
 顕現(サグナ)と非顕現(ニルグナ)は
 別のものではないのだ。
 
 『私は在る』(p112) 
──────────────────

と語るのでしょう。

(-||-)

たしかに、

身体という有機体の誕生とともに

気づきは起こる。

しかしそれは、

身体という(誕生し崩壊する)有機体が

気づきを所有していることを意味するのではなく、

(永遠の実在である)気づきのなかに

身体という有機体が起こったことを

意味するにすぎないのです。


そして、いったん、

この身体が気づいているのではないことが

自明になったら、

> あなたが
> あなたを含むすべての証明なのだということを、
> まず悟るべきだ。
> あなたの存在を証明できるものは何もないのだ。
> なぜなら、
> 他者の存在もあなたによって
> 確認されなければならないからだ。
> あなたは完全に、
> あなた自身によって在るのだということを
> 覚えておきなさい。
> あなたはどこからも来なかったし、
> どこへも行かない。
> あなたは時間を超えた存在、
> そして気づきなのだ。

という言葉の絶対的な意味が

聞こえるだろうと思います。

(-||-)

──────────────────
 あなたは在る。
 ほかのすべては現れにすぎない。
 
 『私は在る』(p421)
──────────────────

(-||-)

──────────────────
 永久的なもの、それはあなた自身の存在である。
 真我として在りなさい。
 それが至福である。
 あなたはいつもそれなのである。
 
 『あるがままに』(p58) 
──────────────────

……。(-_-)

ありがとうございました。<(_ _)>

(-||-)

今日はこんなところで。

……。

m(_ _)m


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『私は在る』の「目次」はここ↓に置いてあります。
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ときどき「ニサルガ辞書」で遊んでみてください。
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おこがましくも『アセ通』既刊号はすべてここに置いてあります。
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■ 2.いただいたお手紙から:霜田さん
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▼『アセ通』への「私は在る」関連ご意見投稿フォーム:
http://www.formzu.net/fgen.ex?ID=P48750702
というのを作らせていただきました。(^^;)

「私は在る」に関するご意見・ご感想・シェアリング、または単な
るメールなど、ご自由にお書きいただければと思います。


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今回、霜田さんとおっしゃる方からメールをいただきました。

ご本人のご了解を得て、

ここでもご紹介させていただきます。

【件名】: Pariさま
──────────────────
 pariさん
 
 霜田と申します。
 
 いつも楽しく拝読させていただいております。
 
 特に日本では未訳のセイラー・ボブさんの本の翻訳は
 ありがたかったです。
 
 最近、日本の禅僧のごく一部の方達が、
 非二元にとても近い表現をされています。
 
 もしご興味があれば、聞かれてみてください。
 
 https://goo.gl/lrvru7
  
 長井自然さんと、
 川上雪担さんのお話がオススメです。
 
 調べてみますと、
 どちらも井上ぎえんという方のお弟子さんみたいです。
 
 ぎえんさんの息子さんである、
 井上哲玄さんと井上貫道さんの動画もyoutubeで検索する
 と出てきます。
 
 それと、禅とは関係ないですが、
 大和田菜穂さんにも魅かれてしまいます。
 
 トニー・パーソンとかなり似ていますけど。
 
 結局、思考では捉えられないものみたいですね。
 
 なので日々思考に騙されず、
 淡々と目の前の物事に向き合って行こうと思う
 今日この頃です。
 
 とりとめのない話ですみません。
 
 今後も、メルマガ、楽しみにしています。
 
 霜田
──────────────────

> pariさん
> 
> 霜田と申します。

pariです。(^^)/

> いつも楽しく拝読させていただいております。

ありがとうございます。m(_ _)m

> 特に日本では未訳のセイラー・ボブさんの本の翻訳は
> ありがたかったです。

お役に立ててよかったです。(^^)/

> 最近、日本の禅僧のごく一部の方達が、
> 非二元にとても近い表現をされています。

そうなんですか。

> もしご興味があれば、聞かれてみてください。
> 
> https://goo.gl/lrvru7

ありがとうございます。

今回あまり時間がなかったのですが、

もし皆さんのなかに関心を共有される方があればと思い

ご紹介の許可をお願いしました。

> 結局、思考では捉えられないものみたいですね。

まったく、そうなんでしょうね。

> なので日々思考に騙されず、
> 淡々と目の前の物事に向き合って行こうと思う
> 今日この頃です。

(^^)/

> とりとめのない話ですみません。

とんでもない、ありがたかったです。

> 今後も、メルマガ、楽しみにしています。

いつも読んでいただいて、ありがとうございます。

m(_ _)m


       ………○…………○…………○………


『アセンション館通信』への「情報提供」を歓迎いたします。

▼『アセンション館通信』への情報ご投稿フォーム
http://www.formzu.net/fgen.ex?ID=P87119518


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■ 3.編集後記:
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今日は、たまたま途中でお客さんがあって、

遅くなってしまいました。

こんなに遅くなったのは久しぶりです。(^^;)

明日は朝から集落の草刈りです。

それではおやすみなさい。

<(_ _)>


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■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
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  → メール: pariアットマークjk2.so-net.ne.jp
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