home > 通信 >『アセンション館通信』(第639号):想像の夢の落とし前



━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
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 ☆☆     ☆☆『アセンション館通信』2016/07/10(第639号)
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☆☆      ☆★ 【気刊】――「私は在る」に導かれ♪――
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 ☆☆   ☆☆          https://www.ascensionkan.com/
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇

このメルマガはアセンション館主人 pari と称するあるパターンに
浮上している心象風景の報告です。

何でもないものが、あらゆるものになってみている。

この瞬間に気づきの内容があり、それに気づくことが起こっている。

内容は人畜無害、でも読む人は相当変わっていますね。現在862名
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◇◇ もくじ ◇◇

1.想像の夢の落とし前

2.編集後記
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■ 1.想像の夢の落とし前
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今日はまたいかにも梅雨らしい

しっとりした雨です。

この時期はどういうわけか薄紫の花が多いですね。
https://goo.gl/rERQ6N

まわりで起こっていることなどには

本当はきわめて鈍感な人間なんですが、

でも庭の花がすっかり変わるので

やはり気づかないわけにもいきません。

紫陽花(あじさい)、アガパンサス、花菖蒲、

擬宝珠(ギボウシ)……。

水の色の一種なんでしょうか。

視界の上半分がすっかり灰色に覆われ、

下半分を覆う緑色のなかに

ところどころそんな薄紫の花が見えています。

今日は土曜日ですね。

あることないことなんでも書ける

マインド無礼講の日が

なんか嬉しい。

(*^_^*)

さて、またまた一週間が過ぎて、

楽しい“アセンション噺”ならぬ「私は在る」噺に、

お付き合いいただく今がやってまいりました。

『アセンション館通信』配達人の pari です。

みなさま固有の「私は在る」を、いかがお過ごしでしょうか?

先日ヒロさんのブログを見に行きました。

「最近読んで感動したもの三選」
https://resonanz360.com/2016/06/30/wonderful-articles/

アッと驚く為五郎!(*@_@*)

なかにこのメルマガも取り上げられていたのです。

ヒロさんの娯楽に役立っているのなら

光栄で嬉しいことです……。(-||-)

最近つくづく思うのですが、

あらゆる意味、あらゆる解釈は

意識のなかに立場があるという前提で

存在できるものなんですよね。

たとえば、自分という言葉は

この身体にまつわるすべての連想を伴って

使われていたはずです。

その自分という言葉を、

この頭部にある二つの穴の後ろから

見ている者の意味として使ったとたんに、

どうも使い勝手が違ってくるのです。

これまで安定していた言語空間が

とても不安定になってくるのです。

これまでの習慣であらゆる瞬間に

意見や感想は湧いてくるのに、

それを自分の意見として言おうとすると

もうそれだけのエネルギーを維持していない。

それは単に、

一瞬の印象のなかで

湧いた想念にすぎないのです。

人間は悪夢のなかで

一瞬一瞬、わき起こるホコリのなかで

右往左往するしかないのでしょうか。

この質問者の気持ちもわかります。

──────────────────
 質問者 間違いなく、
     私は起こることの支配者ではありません。
     むしろ奴隷と言えるでしょう。
 
 マハラジ
 支配者にも奴隷にもなってはいけない。
 超然と離れて在りなさい。
 
 質問者 それは行為を避けることを暗示しているのでしょうか?
 
 マハラジ
 行為を避けることはできない。
 それはほかのすべてのように起こるのだ。
 
 質問者 もちろん、私の行為は私がコントロールできます。
 
 マハラジ
 試してみるがいい。
 しなければならないことをするのだということを、
 あなたはすぐに理解するだろう。

 『私は在る』(p372-373)
──────────────────

> 行為を避けることはできない。

そうなんです。

> それはほかのすべてのように起こるのだ。

はい。

> 試してみるがいい。
> しなければならないことをするのだということを、
> あなたはすぐに理解するだろう。

この言葉にはじめて触れたとき、

はじめて聞いた表現であったにもかかわらず、

それまで、

そんなこと考えたことすらなかったにもかかわらず、

それが本当であることが直感されました。

たしかに……、

自分はしなければならないことをしてるだけだ。(-_-)

それは、

それまで聞かされてきた話、

それまで信じていたこととはまったく違いました。

でも、それが本当であることがわかってしまった。

たとえばの話、

思春期が来て、性欲が発動したら、

これまで自分でそんなことを計画したことも、

自分で発想したことすらなかったのに、

自分が異性を求めているのだと思うものです。

pariパターンの場合などは、

とてもやましさ、恥ずかしさを

感じさせられたものでした。

この身体のなかで性欲が発動していることを、

人間は自分が欲望しているのだと思う。

そう思うようになっているわけです。

弱さも、強さも、美しさも、醜さも、

すべての現象、すべての解釈が、

実際は、全自動でただ起こっている。

でも夢のなかでは、

われわれはそれが自分の

弱さ、強さ、美しさ、醜さだと思うのです。

ラメッシ・バルセカールのいう

「聖なる催眠」がかかっているわけです。

それまでだって、

“それはあなたの持ち物ではない、

 あなたの属性ではない”、

というような言葉は聞いたことがありました。

でも、

> 試してみるがいい。
> しなければならないことをするのだということを、
> あなたはすぐに理解するだろう。

という表現から伝わってくるものは、

それとは少し違っているようでした。

それまでに聞かされてきた

自分の所有物に対する

“それはあなたの持ち物ではない、

 あなたの属性ではない”、

といった言葉は、

まるで高みへ誘う憧れの言葉のように聞こえました。

しかし、

> 試してみるがいい。
> しなければならないことをするのだということを、
> あなたはすぐに理解するだろう。

という表現は、

まるで強引に押しつけられた役割への

異物感を呼び覚まそうとする言葉のようでした。

マハラジの言葉はいつもそんなふうです。

──────────────────
 あなたが計画を立てようと立てまいと、
 人生は続いていくのだ。
 だがその人生において、
 マインドのなかに小さな渦巻きが現れる。
 それは幻想にふけり、
 それ自体が人生を支配し、
 コントロールしていると想像するのだ。

 『私は在る』(p316)
──────────────────

> あなたが計画を立てようと立てまいと、
> 人生は続いていくのだ。

たしかに、

これが事実であるのは明らかです。

> だがその人生において、
> マインドのなかに小さな渦巻きが現れる。
> それは幻想にふけり、
> それ自体が人生を支配し、
> コントロールしていると想像するのだ。

夢のなかの物語の

自己修復作用が起こるんですね。

これが“聖なる催眠”の正体だったんですね。

pariパターンの場合、

一週間に一度、この土曜日だけは

マインド無礼講で、

あたかも自分が真我であるかのような立場で

覚者の物真似をしています。

でも、一週間のほかの六日間は

あたかも自分がこの「身体−精神」であるかのように

サバイバルのためにもがいている。

自分がこの「身体−精神」だと思えば、

この「身体−精神」は生きていかなければならない

と想像します。

もし自分がこの「身体−精神」ではないのなら、

何もしなくてもいいのかもしれない。

結局、責任というのは

自分が何であると自覚するかによって

変わるわけです。(-_-;)

この「身体−精神」が自分であるなら、

もちろん、夢の物語のなかで

状況に追い立てられて右往左往するしかない。

努力が必要なときは

努力の場面が起こるというわけです。

でももし、

自分が「真我」であるというなら、

それなら想像の夢を見ている落とし前は

自分でつけなければならない。

どちらの責任もすっぽかす、

というわけにはいかないようです。

どっちかなんですね。

なぜなら、

「真我」と「身体−精神」は

同一の地平には存在していないようですから。

──────────────────
 マハラジ
 時間と空間のなかの出来事、
 誕生と死、原因と結果――
 これらはひとつであると見なされるだろう。
 だが、
 身体と身体に宿るものは
 同じ実在の理法上にはないのだ。
 身体は時間と空間のなかに存在する。
 はかなく、かぎりあるものだ。
 一方、身体に宿るものは
 時間と空間を超え、永遠で、普遍のものだ。
 この二つを同一視することは悲惨な過ちであり、
 果てしない苦しみの原因だ。
 マインドと身体がひとつだと言うことはできる。
 だが、
 「身体―精神」は実在の基礎をなすものではないのだ。

 『私は在る』(p316)
──────────────────

> 身体と身体に宿るものは
> 同じ実在の理法上にはないのだ。

夢の内容と夢を見ている者は、

(ネイサン・ギルふうに)

同じ一つの意識の両面だということもできれば、

(あるいは、マハラジふうに)

【同じ実在の理法上にはない】とも言える。

どちらの観念のほうがヒットするかは

もちろん、われわれバイオロボットの

一存で決まるはずもないことです。

とりあえず、ここでは、

マハラジふうの表現がつづきます。

> 身体は時間と空間のなかに存在する。
> はかなく、かぎりあるものだ。

はい。

> 一方、身体に宿るものは
> 時間と空間を超え、永遠で、普遍のものだ。

わかります。

> この二つを同一視することは悲惨な過ちであり、
> 果てしない苦しみの原因だ。

はい。

> マインドと身体がひとつだと言うことはできる。
> だが、
> 「身体―精神」は実在の基礎をなすものではないのだ。

「身体―精神」は

寿命のある間だけ現れるつかの間の現象です。

実在の基礎とは、

現れの背後にある永遠の不動、

永遠の沈黙です。

このバイオロボットの頭部にある

二つの穴の後ろから見ている者です。

今その永遠の見る者でしかありえない実在が

「私は在る」として

劇のなかの登場人物に自己同化している。

登場人物として劇のなかで生き死にするか

見る者として背後に退くか、

どちらか一方しかありえないのは自明です。

pariパターンのように

一週一度のサイクルで豹変したりしていては

いたずらに妥協の苦しみを長引かせるだけ。(*^_^*)

バカな話です。

ただ、まあ、

そんな劇をさせられていても、

いずれにしろゼンマイは緩むのかもしれません。

どんな夢を見ていても、

どんな役割をさせられていても、

そこで起こっていることは100%虚構で、

100%正しいのだと思います。

何の意味もない、と言っても同じです。

ただ身体の中にいては、

それが100%虚構だとは思えない。

TVドラマを見るよりは

まあ、まじめに見ているわけです。

だからこそ、

この質問者のように言いたくなる。

──────────────────
 質問者 それが誰であろうとも、
     宿るものが身体をコントロールし、
     それゆえ責任があります。
 
 マハラジ
 普遍的力がコントロールをし、
 責任をもっているのだ。
 
 質問者 では、私は何でも好きなことをして、
     普遍的な力に非難を浴びせればいいということですか?
     なんと楽なことでしょう!
 
 マハラジ
 そうだ。
 とても楽なのだ。
 すべての動きを司るものの存在を悟り、
 彼にすべてをまかせなさい。
 もしあなたがためらわず、
 ごまかすこともなければ、
 これが真我の実現への最短の道だ。
 欲望と恐れなしに
 すべてのコントロールと責任を放棄しなさい。
 
 質問者 何という狂気の沙汰でしょう!
 
 マハラジ
 そうだ。
 神聖な狂気だ。
 ただの幻想である個人的コントロールと、
 個人的責任を放棄することの何が悪いのだろうか?
 どちらもマインドのなかにあるだけだ。
 もちろん、
 あなたがコントロールを握っていると想像するかぎりは、
 あなたに責任があると想像するべきだ。
 その逆もまたしかりだ。

 『私は在る』(p168)
──────────────────

> 質問者 それが誰であろうとも、
>     宿るものが身体をコントロールし、
>     それゆえ責任があります。

この質問者ほど確信に満ちてはいませんが、

それでも、

責任があるかのような気分には襲われます。

> マハラジ
> 普遍的力がコントロールをし、
> 責任をもっているのだ。

わたしが寝て見る個人的な夢なら、

このことは完璧にわかります。

わたしの個人的潜在意識が舞い上がって

すべてを演出していることは自明ですから。

個人的潜在意識の造形である夢のなかの登場人物に

夢を制御するどんな手段もありえません。

目が覚めたら

夢のなかの登場人物など最初からいないのですから。

> 質問者 では、私は何でも好きなことをして、
>     普遍的な力に非難を浴びせればいいということですか?
>     なんと楽なことでしょう!

もし夢のなかの登場人物にそれが選択できるなら。

> マハラジ
> そうだ。
> とても楽なのだ。
> すべての動きを司るものの存在を悟り、
> 彼にすべてをまかせなさい。

それが起こるときには

それが起こるのでしょうね。

> もしあなたがためらわず、
> ごまかすこともなければ、
> これが真我の実現への最短の道だ。

もしそれが起こるなら。

> 欲望と恐れなしに
> すべてのコントロールと責任を放棄しなさい。

それが想像の夢を見ている者が

夢を解除できる道。

個人的夢のなかの登場人物に兆した

「これは夢だな」という想念に当たるもの。

> 質問者 何という狂気の沙汰でしょう!
> 
> マハラジ
> そうだ。
> 神聖な狂気だ。

起こるときにしか起こらない神性な狂気。

> ただの幻想である個人的コントロールと、
> 個人的責任を放棄することの何が悪いのだろうか?

まったく。

> どちらもマインドのなかにあるだけだ。

間違いなく。

> もちろん、
> あなたがコントロールを握っていると想像するかぎりは、
> あなたに責任があると想像するべきだ。

そうなんです。

その催眠がつづいている間はそれしか起こらない。

> その逆もまたしかりだ。

御心のままに……。(-||-)

──────────────────
 あなたは在る。
 ほかのすべては現れにすぎない。
 
 『私は在る』(p421)
──────────────────

(-||-)

──────────────────
 永久的なもの、それはあなた自身の存在である。
 真我として在りなさい。
 それが至福である。
 あなたはいつもそれなのである。
 
 『あるがままに』(p58) 
──────────────────

……。(-_-)

ありがとうございました。<(_ _)>

(-||-)

今日はこんなところで。

……。

m(_ _)m


       ………○…………○…………○………


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■ 2.編集後記:
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こんな曇り空も嫌いではないのですが、

好きも嫌いも余計なお世話とも言えます。

そんな思いがまったくなかったところから、

いついかなる時にも、

その場面が好きかどうかを気にしなければならない夢へと

のこのこ出てきたのでしょう。

すべての定義づけは

この身体への執着にしか根拠がないというのに。

──────────────────
 ひとたびあなたが、
 これが自分だと指し示すことができるものは何もなく、
 「私は在る」ということ以外に
 自己を語ることができないと確信すれば、
 「私は在る」という指針の役目は終わる。
 もはやあなたは、
 自己が何なのかを
 言葉の上に置き換えようなどとはしないだろう。
 必要なのは、
 自己を定義しようとする傾向を捨て去ることだけだ。
 すべての定義づけは、
 身体とその表現にしか当てはまらない。
 この身体への固執が消えれば、
 あなたは自然なあるがままの姿に
 努力することなく帰り着くだろう。
 
 『私は在る』(p27)
──────────────────

今日はまだまだ明るいです。

それではまた。

<(_ _)>


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■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
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