home > 通信 >『アセンション館通信』(第641号):アンニャが無執着(ヴァイラーギャ)



━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
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 ☆☆     ☆☆『アセンション館通信』2016/07/24(第641号)
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☆☆      ☆★ 【気刊】――「私は在る」に導かれ♪――
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇

このメルマガはアセンション館主人 pari と称するあるパターンに
浮上している心象風景の報告です。

何でもないものが、あらゆるものになってみている。

この瞬間に気づきの内容があり、それに気づくことが起こっている。

内容は人畜無害、でも読む人は相当変わっていますね。現在865名
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◇◇ もくじ ◇◇

1.アンニャが無執着(ヴァイラーギャ)

2.編集後記
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■ 1.アンニャが無執着(ヴァイラーギャ)
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なかば山のなかにいるせいか

今日なんか、なんか寒いですね。

ののちゃんを見ると

もう子どもたちは夏休みに入ったみたいなのに

最近は一向に夏という気がしない。

まあ、すごしやすくていいんですけどね。

(*^_^*)

さて、またまた一週間が過ぎて、

楽しい“アセンション噺”ならぬ「私は在る」噺に、

お付き合いいただく今がやってまいりました。

『アセンション館通信』配達人の pari です。

みなさま固有の「私は在る」を、いかがお過ごしでしょうか?

これまで価値があると思っていたことは、

すべてたんに人から聞いた噂話にすぎなかった。

人の世の価値というものが、

すべて想像にすぎなかった……。

こんなことがわかってしまって、

何となく気落ちしています。

しかも、

そういうすべてのゴミから抜けだしたのではなく、

気がついたら、

自分が掴んでいるのがそのゴミだけだった

というのだから最悪です。(*^_^*)

もちろん、すべて想像ですけどね。(^_-)

この自分という観念は

まったく“ゴミ収集車”みたいなものですね。

とはいえこの“ゴミ収集車”を

意図して手放し、立ち去るということはできません。

なにしろ、

その“ゴミ収集車”が自分なのですから。

そういう意味では、

“ゴミ収集車”というイメージより

“ゴミ吸着磁石”とでも言ったほうがいいかもしれません。

磁力を帯電しているのが自分です。

自分という観念は

観念であると同時に

エネルギー現象でもある。

自分という観念に

固着剤を入れてゼリー状に固めて、

箱に詰めてパッケージ化して取り外す……、

というようなわけにはいかない。(^_-)

なんと言っても、

磁力を帯電している当人が自分です。

そしてまわりにホコリは

つねに舞い上がっているようです。

その舞い上がるホコリを自分の根拠とするために

“ゴミ吸着磁石”はたちまちそれを引き寄せる。

マハラジを通って出てきた表現はこんな感じです。

──────────────────
 そこにはつねに観照される何かがある。
 もし観照されるものがなければ、
 その不在がある。
 観照は自然なもので、問題のないものだ。
 問題は自己同一化に導く過剰な興味なのだ。
 何であれあなたを没頭させるものを、
 あなたは実在と見なしてしまう。

 『私は在る』(p368)
──────────────────

> そこにはつねに観照される何かがある。

どうやらホコリはつねに舞い上がっているらしい。

> もし観照されるものがなければ、
> その不在がある。

そういう状態もあるんですね。

> 観照は自然なもので、問題のないものだ。

それが生命そのものなのかもしれません。

> 問題は自己同一化に導く、
> 過剰な興味なのだ。

【過剰な興味】……。

その不自然もまた自然のなかにあるのだろうけど、

でも、自然なものとも言えないのかなぁ。

では誰が興味をもっているんだろう? (?_?)

(>_<) \←【関心をもっているのはあなたなのだ!】

> 何であれあなたを没頭させるものを、
> あなたは実在と見なしてしまう。

ふーん。(-_-)

そうなのか……。

まあ、あらゆる言葉は観念ですが。

ラマナからはこんな言葉が流れてきます。

──────────────────
 マハルシ
 ……
 純粋な「私」は、二つの状態
 あるいは二つの想念の合間に体験される。
 自我はまず一点をつかんでおいてから
 もう一点を離れる尺取り虫のようなものである。
 その真の本性は、
 対象物あるいは想念との
 接触を断ち切られたときに明らかになる。
 
 実体をもたないこの幽霊のような自我は、
 ひとつの形態をつかむことによって存在を現わし、
 形態をつかむことで生きつづける。
 つかんだ形態によって養われながら、
 さらに大きくなっていき、
 ひとつの形態を手放しながら別の形態をつかむ。
 だが、探しだそうとすると、
 それは逃げだしてしまう。
 
 『あるがままに』(p93-94) 
──────────────────

(*_*) ⌒★?

(-_-;)

そういうことだったのか。

真の見者にこんなことバラされたら、

尺取り虫は震え上がるでしょうね。

> 実体をもたないこの幽霊のような自我は、
> ひとつの形態をつかむことによって存在を現わし、
> 形態をつかむことで生きつづける。

まずは“自分の身体”を掴んで

恐怖心を掻き立てて生き延びる……。

> つかんだ形態によって養われながら、
> さらに大きくなっていき、
> ひとつの形態を手放しながら別の形態をつかむ。

そしてじきに

自分の意見とか言っては

鼻をふくらませ、

自分の感情とか言っては

もっともらしい顔をするわけか……。

> だが、探しだそうとすると、
> それは逃げだしてしまう。

だが、現れた知覚可能な形態以外には

実際はどこにもなんの実体も存在しないんだ。

……。

(@_@) ⌒★?

そうか。

実際は、それだけのことなんだ。

そのとおりのことなんだ。

現象にパワーを与えているのは

わたし(=実在)なんだ。(@_@)

【関心をもっているのはあなたなのだ!】

(-||-)

わたしが知覚可能な現象に意味を求め

それに執着するかぎり、

わたしは尺取り虫にパワーを与えて

どこまでも果てしなく

劇のなかの登場人物として

一喜一憂するしかない。

こんなことは、

秘密でも何でもないし。

そして、

そうやっておきながら、

今度はまた生まれてくる恐怖に襲われたりするわけか。(-_-;)

あるときからは、

もう生まれてきたくないというのが

わたしの関心だった。(*-_-*)

でもそう思いながらも、

そこで起こる現象すべてに

実体的な価値や意味があるとも思っていたんだ。

そういうものがすべて

たんなる想像だとは思っていなかった。

この質問者もそうは思っていないように。

──────────────────
 質問者 私は死に関して考えることが私を脅かすことに
 気づきました。なぜなら、私はふたたび誕生したくない
 からです。誰もそれを強要していないことは知っていま
 す。それでも、満たされなかった欲望の圧力は圧倒的で、
 私には抵抗できそうにないかもしれません。
 
 マハラジ
 抵抗という問題は起こらない。
 誕生し、再誕生するものは、あなたではないからだ。
 それを起こらせるがいい。
 それが起こるのを見なさい。
 
 質問者 では、なぜそれに関心をもつのでしょうか?
 
 マハラジ
 関心をもっているのはあなたなのだ!
 そして、その絵があなたの
 真実、愛、美の感覚と衝突するかぎり、
 あなたはそれに関心をもちつづけるだろう。
 調和と平和への熱望は、
 消し去ることのできないものだ。
 だが、
 ひとたびそれが満たされれば関心は去り、
 身体的生活は注意のレベル以下の
 努力を要しないものとなる。
 身体を得るか、身体を去るかは、
 あなたにとって同じこととなる。
 あなたには何ひとつ起こらないという地点に達するのだ。
 身体なしには殺されない。
 所有物なしには奪われない。
 マインドなしには騙(だま)されない。
 そこに欲望や恐れを引っかける留めクギもない。
 何の変化もあなたに起こらないかぎり、
 ほかに何の問題があるだろうか?
 
 『私は在る』(p488)
──────────────────

> 質問者 私は死に関して考えることが私を脅かすことに
> 気づきました。なぜなら、私はふたたび誕生したくない
> からです。誰もそれを強要していないことは知っていま
> す。それでも、満たされなかった欲望の圧力は圧倒的で、
> 私には抵抗できそうにないかもしれません。

違うところもあるけど、

どこかで聞いたことがあるようなパターン。

> マハラジ
> 抵抗という問題は起こらない。

これまで何度も読んでいながら、

ここのニュアンスがいまいちしっくりこなかった。

> 誕生し、再誕生するものは、あなたではないからだ。

この言葉自体は、たしかに知的には理解できるんたけど。

ところが、いま見てみたら、

【誕生し、再誕生するものは、あなたではないからだ】

というのは、まったくの単純な事実だった。

> それを起こらせるがいい。

まったくだ。

> それが起こるのを見なさい。

そういうことですね。

> 質問者 では、なぜそれに関心をもつのでしょうか?

うん。

> マハラジ
> 関心をもっているのはあなたなのだ!

そういうことなんだ。

現象がリアルなものだと思っているから。

(-||-)

> そして、その絵があなたの
> 真実、愛、美の感覚と衝突するかぎり、
> あなたはそれに関心をもちつづけるだろう。

現象がリアルなものだと信じているかぎり

そういうことになるはずですね。

> 調和と平和への熱望は、
> 消し去ることのできないものだ。

わかります。

> だが、
> ひとたびそれが満たされれば関心は去り、
> 身体的生活は注意のレベル以下の
> 努力を要しないものとなる。

だがひとたび

調和と沈黙そのものが自分なのだとわかれば、

現象として現れている騒音への関心は

注意のレベル以下の

努力を要しないものとなる。

> 身体を得るか、身体を去るかは、
> あなたにとって同じこととなる。

まったくです。

それはわたしとはまったく関係のないものであるか、

あるいは、別の言い方をすれば

すべてがわたしの表現であることは

自明になるから。

身体を得るか、身体を去るかは、

事実、たんなる出来事にすぎない。

> あなたには何ひとつ起こらないという地点に達するのだ。

はい。

顕現というゲームは

ゲームとしての役割を終え、

ゲームの意味をなさなくなる。

> 身体なしには殺されない。
> 所有物なしには奪われない。
> マインドなしには騙(だま)されない。

はい。(-||-)

> そこに欲望や恐れを引っかける留めクギもない。

問題を起動していたのはこれだった。

【欲望や恐れを引っかける留めクギ】の存在こそが

唯一の問題だった。

> 何の変化もあなたに起こらないかぎり、
> ほかに何の問題があるだろうか?

何の問題もありません。

(-||-)

──────────────────
 解放への道には何も立ちはだかっていない。
 そしそしてそれは今ここで起こることができる。
 だが、あなたはほかのことにもっと興味がある。
 そしてあなたはその興味と闘うことはできないのだ。
 あなたはそれとともに行き、
 それを見抜き、
 それが単に判断と賞賛の誤りであることを、
 それ自体が自ら暴くのを見守らなければならないのだ。
 
 『私は在る』(p475)
──────────────────

なんと……。

ここにすべて書かれているではないか。

> 解放への道には何も立ちはだかっていない。

こんなことは信じていなかった。

でも、事実なんだ。

> そしそしてそれは今ここで起こることができる。

はい。

> だが、あなたはほかのことにもっと興味がある。

それこそが紛れもない事実です。

> そしてあなたはその興味と闘うことはできないのだ。

はい。

> あなたはそれとともに行き、
> それを見抜き、
> それが単に判断と賞賛の誤りであることを、
> それ自体が自ら暴くのを見守らなければならないのだ。

本当なんですね。

(-||-)

偽りの中心には、

どうしてそんなことが起こるんだろう?

といった疑問が起こる。

それが偽りの中心の役割だから。

──────────────────
 質問者 もしすべてが光なら、どのようにして暗闇は
 現れるのでしょうか?
 光のただなかで、どうして暗闇がありうるでしょうか?
 
 マハラジ
 光のただなかに暗闇はない。
 真我を忘れることが暗闇なのだ。
 真我ではないものごとのなかに没頭するとき、
 私たちは真我を忘れてしまう。
 それは不自然なことではない。
 しかし、なぜ過剰な執着のために
 真我を忘れることがあろうか?
 体験者と体験の両方の源である真我を
 けっして忘れないことのなかに智慧があるのだ。

 『私は在る』(p152)
──────────────────

> 質問者 もしすべてが光なら、どのようにして暗闇は
> 現れるのでしょうか?
> 光のただなかで、どうして暗闇がありうるでしょうか?

これもエゴが展開する見事な論理ですね。

でもマハラジは簡単にこう応えます。

> マハラジ
> 光のただなかに暗闇はない。
> 真我を忘れることが暗闇なのだ。

【真我を忘れることが暗闇】……。

> 真我ではないものごとのなかに没頭するとき、
> 私たちは真我を忘れてしまう。

たしかに。

> それは不自然なことではない。

ほう。(@_@)

> しかし、なぜ過剰な執着のために
> 真我を忘れることがあろうか?

ここは……英語はどうなっているんだろう?

──────────────────
 But, why forget the self through 
 excess of attachment?
 
 『I AM THAT』(p135)
──────────────────

そうか……。

「しかし、なぜ余計な執着で

 真我を忘れる(必要がある)のかね?」

みたいな感じか……。

> 体験者と体験の両方の源である真我を
> けっして忘れないことのなかに智慧があるのだ。

なるほどなぁ。(-||-)

だから、ラマナは

【無欲と智慧は同じものだ】と言ったのか。

──────────────────
 対象物へと向かう感覚の潜在的傾向が
 心のなかにあるかぎり、
 「私は誰か?」という探求は必要だ。
 想念が起こるなり、
 そのとき、その源で、
 探求によってすべての想念を根絶するべきである。
 真我以外の何ものも求めないこと(アンニャ)が
 無執着(ヴァイラーギャ)
 あるいは無欲(ニラーシャ)であり、
 真我をけっして離れないことが
 智慧(ジニャーナ)である。
 実際には、無欲と智慧はひとつなのだ。
 
 『あるがままに』(p105) 
──────────────────

> 対象物へと向かう感覚の潜在的傾向が
> 心のなかにあるかぎり、

というと、われわれ全員まず間違いない。

> 「私は誰か?」という探求は必要だ。

対象物へと向かう興味のなかに留まりたいのか、

真我を求めていると主張したいのか、

まずは、自分で整理が必要ですね。(*^_^*)

(-_-;)

> 想念が起こるなり、
> そのとき、その源で、
> 探求によってすべての想念を根絶するべきである。

何もいえません。

> 真我以外の何ものも求めないこと(アンニャ)が
> 無執着(ヴァイラーギャ)
> あるいは無欲(ニラーシャ)であり、

そういう意味なんですね。

> 真我をけっして離れないことが
> 智慧(ジニャーナ)である。

わかりました。

> 実際には、無欲と智慧はひとつなのだ。

もう、自明ですね。

だんだん、何をか言わんや

という状況になってきますな。(^_-)

(*-_-*)

──────────────────
 あなたは在る。
 ほかのすべては現れにすぎない。
 
 『私は在る』(p421)
──────────────────

(-||-)

──────────────────
 永久的なもの、それはあなた自身の存在である。
 真我として在りなさい。
 それが至福である。
 あなたはいつもそれなのである。
 
 『あるがままに』(p58) 
──────────────────

……。(-_-)

ありがとうございました。<(_ _)>

(-||-)

今日はこんなところで。

……。

m(_ _)m


       ………○…………○…………○………


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■ 2.編集後記:
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自分というようなものはいないことを

知的には完璧に理解しています。

そう言っていいと思います。

ただ、

エネルギー的な執着が解けていない。

それも間違いありません。

だから、

本当はどっちを望んでいるのか、

真我を求めているのか、

それともまだ現象世界の中でウロウロしたいのか。

それがはっきりするのを

待つしかないのだろうと思います。

どうなっているんでしょうね。(*^_^*)

間に合うとか間に合わないとか、

そういうことはすべて劇のなかの話ですね。

そういうものはすべて時間と空間の中にしかない。

つまり、

物語としてしかありえない話だと思います。

要するに、

欲望するのがだんだん面倒になる、

そういうことではないでしょうか。

というか、

欲望してもあまりうまくいかなくなる。(*^_^*)

まあ、そういう状況が進行するのでしょう。

だから、面倒にもなる。(^_-)

これもまたひとつの“あるがまま”です。

今日はまだまだ明るいようです。

<(_ _)>


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■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
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