━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
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☆☆ ☆☆『アセンション館通信』2016/08/07(第643号)
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☆☆ ☆★ 【気刊】――「私は在る」に導かれ♪――
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇
このメルマガはアセンション館主人 pari と称するあるパターンに
浮上している心象風景の報告です。
何でもないものが、あらゆるものになってみている。
この瞬間に気づきの内容があり、それに気づくことが起こっている。
内容は人畜無害、でも読む人は相当変わっていますね。現在868名
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◇◇ もくじ ◇◇
1.人が手にできる唯一の自由
2.編集後記
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■ 1.人が手にできる唯一の自由
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ついさっき、
広島への原爆投下の時刻に
黙祷のサイレンが山里にも響き渡りました。
黙祷している瞬間にも
何かを求めてウロウロ彷徨おうとする
マインドのような状態がある。
いや、
そういった想念予備軍が問題なんじゃなくて、
意識の焦点がそれに向かっていること自体が
“問題”なんだなぁ。(-_-;)
(*^_^*)
さて、またまた一週間が過ぎて、
楽しい“アセンション噺”ならぬ「私は在る」噺に、
お付き合いいただく今がやってまいりました。
『アセンション館通信』配達人の pari です。
みなさま固有の「私は在る」を、いかがお過ごしでしょうか?
湧いてこようとする想念群に
注目していることだけが“問題”なんだ。(-_-)
注目しなくてもいいんだ。
これは癖だ。
注目するから嫌悪感が湧く……。
変化のなかには何もない。
ただ観念的な見かけの善と悪があるだけ。
見かけの物語があるだけ。
見かけの劇と、
その劇によって引き起こされた
つかの間の観念的興奮と嫌悪感があるだけ。
別にそれに注目する義務はない。
これは単なる長年の癖……。
見かけの劇に注目する者が、
言うなればプラトンの言う洞窟のなかの“囚人”たち。
実際は存在していない、つかの間の想像。
かつて存在したことのない無知。
つねに注目され、
つねに信じられてきたかの有名な無知……。
──────────────────
質問者 私はつねに落ち着きがなく、切望し、
期待し、探しだし、見つけだし、楽しみ、
放棄し、また探しはじめるのです。
何が私を煮えたたせつづけるのでしょうか?
マハラジ
本当は、あなたは
知らぬままにあなた自身を探しているのだ。
あなたは愛するにふさわしい、
完全に愛する価値あるものに恋いこがれている。
無知ゆえに、
あなたはそれを矛盾と対立の世界のなかに探し求めている。
あなたがそれを内側に見いだしたとき、
あなたの探求は終わるのだ。
『私は在る』(p419)
──────────────────
> 質問者 私はつねに落ち着きがなく、切望し、
> 期待し、探しだし、見つけだし、楽しみ、
> 放棄し、また探しはじめるのです。
> 何が私を煮えたたせつづけるのでしょうか?
まったく。(*-_-*)
> マハラジ
> 本当は、あなたは
> 知らぬままにあなた自身を探しているのだ。
ああ……。
> あなたは愛するにふさわしい、
> 完全に愛する価値あるものに恋いこがれている。
そうなんですね。(;_;)
> 無知ゆえに、
> あなたはそれを矛盾と対立の世界のなかに探し求めている。
たしかに。
> あなたがそれを内側に見いだしたとき、
> あなたの探求は終わるのだ。
おお……。
(-||-)
──────────────────
無知にははじまりがない。
しかし、終わりはある。
誰が無知なのか、と探求しなさい。
そうすれば、無知は夢のように溶け去る。
世界は矛盾でいっぱいだ。
それゆえ、
あなたは調和と平和を探しているのだ。
それらを世界のなかに見いだすことはできない。
世界とは混沌(こんとん)の子供だからだ。
秩序を見いだすためには、
あなたは内面を探求しなければならない。
あなたが身体の中に生まれて、
はじめて世界は存在を表す。
身体がなければ、世界はない。
まずあなたが身体なのかどうか、探求しなさい。
世界を理解することは、
後にそれにしたがってやってくるだろう。
『私は在る』(p224)
──────────────────
> 無知にははじまりがない。
はい。
> しかし、終わりはある。
ほんとですか。(@_@)
> 誰が無知なのか、と探求しなさい。
あーあ、
「私は誰か?」とはそのことなのか。
> そうすれば、無知は夢のように溶け去る。
そうなんですね。(@_@)
> 世界は矛盾でいっぱいだ。
はい。
> それゆえ、
> あなたは調和と平和を探しているのだ。
たしかに。
> それらを世界のなかに見いだすことはできない。
それは間違いない。
> 世界とは混沌(こんとん)の子供だからだ。
わかります。
> 秩序を見いだすためには、
> あなたは内面を探求しなければならない。
やっとわかってきた。(-_-)
> あなたが身体の中に生まれて、
> はじめて世界は存在を表す。
ええ。
> 身体がなければ、世界はない。
たしかに。
> まずあなたが身体なのかどうか、探求しなさい。
あ……あ、そういうことか。
> 世界を理解することは、
> 後にそれにしたがってやってくるだろう。
わかりました。
(-||-)
──────────────────
意識の源は、
意識のなかの対象物ではありえない。
源を知るということは、
源として在るということだ。
あなたが個人ではなく純粋で静かなる観照者であり、
恐れのない気づきが真の存在だと悟ったとき、
あなたは実在となる。
それが源であり、
無尽蔵の可能性だ。
『私は在る』(p84)
──────────────────
> 意識の源は、
> 意識のなかの対象物ではありえない。
自明ですね。
> 源を知るということは、
> 源として在るということだ。
なるほど。(@_@)
> あなたが個人ではなく純粋で静かなる観照者であり、
> 恐れのない気づきが真の存在だと悟ったとき、
> あなたは実在となる。
そういうことか。
> それが源であり、
> 無尽蔵の可能性だ。
やっと、聞こえました。
ありがとうございました。(-||-)
身体がたどる運命は、
身体を誕生させたものが
もともと面倒を見てくれているんだ。
──────────────────
質問者 この身体が終わるまでつづくと言われている
プラーラブダ・カルマを、身体が存在する間に
克服することができるでしょうか?
マハルシ
できる。
カルマは、身体と真我の間に生じた
自我と呼ばれる行為者に依存している。
自我がその源のなかに溶けて姿を消してしまえば、
それに依存しているカルマも生き残ることはできない。
それゆえ、
「私」がないところにはカルマもない。
『あるがままに』(p380)
──────────────────
> 質問者 この身体が終わるまでつづくと言われている
> プラーラブダ・カルマを、身体が存在する間に
> 克服することができるでしょうか?
そうそう。
> マハルシ
> できる。
できる。(-_-)
> カルマは、身体と真我の間に生じた
> 自我と呼ばれる行為者に依存している。
そうか……。
カルマは行為者に付随するのか。(-_-)
> 自我がその源のなかに溶けて姿を消してしまえば、
> それに依存しているカルマも生き残ることはできない。
そうなんですね。
> それゆえ、
> 「私」がないところにはカルマもない。
わかりました。
(-||-)
──────────────────
質問者 プラーラブダ・カルマは
前世から積まれたカルマの小さなひとかけら
にすぎないと言われています。
これは本当なのでしょうか?
人は前世で多くのカルマを積んできたかもしれない。
そのなかのわずかなものだけがこの生のために選ばれ、
人はその結実を現世で味わうことになる。
それはちょうどスライドの展示会で、
投影する人がショーに出すスライドだけを選びとり、
残りのスライドは
次のショーのためにとっておくようなものである。
これらのカルマはすべて、
真我の知識を得ることによって破壊される。
過去の体験の結果であるカルマがスライドであり、
心が投影機である。
その投影機が破壊されなければならない。
そうすればこれ以上の投影はなく、
これ以上の誕生も死もないだろう。
『あるがままに』(p380-381)
──────────────────
> 質問者 プラーラブダ・カルマは
> 前世から積まれたカルマの小さなひとかけら
> にすぎないと言われています。
> これは本当なのでしょうか?
プラーラブダ・カルマって、
この身体がもっている運命のことだ。
その運命はこれまでの転生で
その魂(行為者)が積んできた
たくさんの行為の反作用のひとかけら、というのが
ヒンドゥー教の教義なのか。
> 人は前世で多くのカルマを積んできたかもしれない。
はい。
> そのなかのわずかなものだけがこの生のために選ばれ、
> 人はその結実を現世で味わうことになる。
なるほど。(-_-)
> それはちょうどスライドの展示会で、
> 投影する人がショーに出すスライドだけを選びとり、
> 残りのスライドは
> 次のショーのためにとっておくようなものである。
そういうことか! (@_@)
> これらのカルマはすべて、
> 真我の知識を得ることによって破壊される。
おお……。
> 過去の体験の結果であるカルマがスライドであり、
> 心が投影機である。
なんと!(@_@) ⌒★?
【カルマがスライド】、【心が投影機】。
> その投影機が破壊されなければならない。
そうか。
> そうすればこれ以上の投影はなく、
> これ以上の誕生も死もないだろう。
ありがたい。(-||-)
でもほんとに
3Dウルトラハイビジョンの
スライド・ショーを見ているだけなんだなぁ。
やっぱり、自由意志なんて作り話なんだ。
──────────────────
質問者 それでは、自由意志とは作り話なのでしょうか?
マハルシ
自由意志は個人性に関わる領域で維持される。
個人性が維持されるかぎり、
自由意志は存在する。
すべての聖典はこの事実を基盤としたうえで、
自由意志を正しい経路に向けるように勧めている。
誰にとって
自由意志や運命が問題となるのか見いだしなさい。
それらがどこから来るのか見いだし、
そしてその源にとどまりなさい。
もしあなたがそうするなら、
その両方とも超越される。
それがこの質問について論議をする
唯一の目的なのである。
誰にとってこの質問が起こったのか?
それを見いだして、心安らかになりなさい。
『あるがままに』(p389)
──────────────────
> 自由意志は個人性に関わる領域で維持される。
おお……。
> 個人性が維持されるかぎり、
> 自由意志は存在する。
じゃ、身体に自己同化しているかぎり、
自由意志はあるわけだ。(*-_-*)
> すべての聖典はこの事実を基盤としたうえで、
> 自由意志を正しい経路に向けるように勧めている。
そういうことか。
> 誰にとって
> 自由意志や運命が問題となるのか見いだしなさい。
なるほど。
その“誰”を見つければ、
つまり“誰もいないことを”を見つければ、
それで一巻の終わりということか。
> それらがどこから来るのか見いだし、
> そしてその源にとどまりなさい。
想念がどこから湧くのかを見いだし、
その源にとどまる……。
> もしあなたがそうするなら、
> その両方とも超越される。
わかりました。
> それがこの質問について論議をする
> 唯一の目的なのである。
はい。
> 誰にとってこの質問が起こったのか?
> それを見いだして、心安らかになりなさい。
ありがとうございました。(-||-)
──────────────────
人が手にできる唯一の自由とは、
努力をしてジニャーニを得ることである。
それが彼と身体との同一化を断ち切る。
身体はプラーラブダによって宿命づけられた、
避けることのできない行為を
通り抜けていくだろう。
人は身体と彼自身を同一視し、
その身体の行為の報いに執着するか、
あるいはそれから離れ、
身体の活動の単なる目撃者となるか、
という選択の自由だけをもっているのである。
『あるがままに』(p389)
──────────────────
> 人が手にできる唯一の自由とは、
あ、はい。(@_@)
> 努力をしてジニャーニを得ることである。
(-_-)
> それが彼と身体との同一化を断ち切る。
わかりました。
> 身体はプラーラブダによって宿命づけられた、
> 避けることのできない行為を
> 通り抜けていくだろう。
はい。
> 人は身体と彼自身を同一視し、
> その身体の行為の報いに執着するか、
ええ、
> あるいはそれから離れ、
> 身体の活動の単なる目撃者となるか、
> という選択の自由だけをもっているのである。
おお……。(@_@)
(-_-;)
わかりました。
ありがとうございました。(-||-)
──────────────────
あなたは在る。
ほかのすべては現れにすぎない。
『私は在る』(p421)
──────────────────
(-||-)
──────────────────
永久的なもの、それはあなた自身の存在である。
真我として在りなさい。
それが至福である。
あなたはいつもそれなのである。
『あるがままに』(p58)
──────────────────
……。(-_-)
ありがとうございました。<(_ _)>
(-||-)
今日はこんなところで。
……。
m(_ _)m
………○…………○…………○………
『私は在る』の「目次」はここ↓に置いてあります。
https://www.ascensionkan.com/books/I_AM_THAT-index.html
ときどき「ニサルガ辞書」で遊んでみてください。
https://www.ascensionkan.com/ndic/
新しい「ラマナ・マハルシ辞書」はここです。
https://www.ascensionkan.com/rdic/
おこがましくも『アセ通』既刊号はすべてここに置いてあります。
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………○…………○…………○………
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http://www.formzu.net/fgen.ex?ID=P48750702
というのを作らせていただきました。(^^;)
「私は在る」に関するご意見・ご感想・シェアリング、または単な
るメールなど、ご自由にお書きいただければと思います。
………○…………○…………○………
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http://www.formzu.net/fgen.ex?ID=P87119518
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■ 2.編集後記:
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たぶん、
まだまだ本は読むでしょうが……、
でももう、
聞くべきことは聞きました。
知るべきことは知りました。
観念的に“努力の可能性”に
否定的になっていたのです。
起こることになっていることが
起こるだけだと思いながらも、
どうしても
何が起こるのかに無関心にはなれずに、
気を取られていました。
でも、
「個人性が維持されるかぎり、
自由意志は存在する」
と明瞭に指摘されて、
身体への自己同化があるうちは、
その領域では自由意志から
解放されているわけではないことを知りました。(*-_-*)
考えてみれば、当たり前ですね。
現れを楽しめる行為者と、
現れがカルマのスライド・ショーであることを
知っているジニャーニが
同時に共存できるはずがありません。
そしてその前提の上で、
「人が手にできる唯一の自由とは、
努力をしてジニャーニを得ることである。
それが彼と身体との同一化を断ち切る。
身体はプラーラブダによって宿命づけられた、
避けることのできない行為を
通り抜けていくだろう。
人は身体と彼自身を同一視し、
その身体の行為の報いに執着するか、
あるいはそれから離れ、
身体の活動の単なる目撃者となるか、
という選択の自由だけをもっている」
ことを教えられたわけです。
ありがたいことです。(-||-)
今日はとても早く終えました。
それではまた。
<(_ _)>
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■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
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