home > 通信 >『アセンション館通信』(第645号):二つの自己を認めるだろうか?



━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
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 ☆☆     ☆☆『アセンション館通信』2016/08/21(第645号)
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☆☆      ☆★ 【気刊】――「私は在る」に導かれ♪――
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇

このメルマガはアセンション館主人pariと称するあるパターンに
浮上している心象風景の報告です。

現象がpariに起こっているかぎりpariの苦しみは避けられない。

pariとは誰か、そういう者は本当に存在しているのか?

内容は人畜無害、でも読む人は相当変わっていますね。現在870名
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◇◇ もくじ ◇◇

1.二つの自己を認めるだろうか?

2.編集後記
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■ 1.二つの自己を認めるだろうか?
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今日は雨の土曜日です。

ふふ。(^^;)

これまで「このメルマガの趣旨」として

先頭のヘッダーにその時点のマイブームで

いろんな人達の言葉を拝借して書いてきました。

このところしばらく

ヒロさんが訳されたネイサン・ギルの

『すでに目覚めている』からの言葉を

書いていました。

ふと今日、それを見てみて、

何となく今起こっている状態と

とてもずれているような気がしました。

【何でもないものが、あらゆるものになってみている。

 この瞬間に気づきの内容があり、それに気づくことが
 起こっている。】

というのはとても超越的な表現で、

まことにステキなのだけれど、

いまpariパターンとして起こっている状態と

かけ離れているような気がします。

それで、何となく書き直してできたのが、

上の表現です。

これなら現状とかけ離れてはいないようです。

【現象がpariに起こっているかぎりpariの苦しみは避けられない。

 pariとは誰か、そういう者は本当に存在しているのか?】

そうそう、このとおりだ。

pariという個人が

実体としては存在しないことを頭では理解している。

しかしエネルギー的には

pariという個人として不幸になっている。

この状態を表現するには

これがピッタリだと思いました。

(*^_^*)

さて、またまた一週間が過ぎて、

楽しい“アセンション噺”ならぬ「私は在る」噺に、

お付き合いいただく今がやってまいりました。

『アセンション館通信』配達人の pari です。

みなさま固有の「私は在る」を、いかがお過ごしでしょうか?

このメルマガは惰性で続いていますが、

pariの意志でやっているとも言えないです。

これまで十年以上も書き続けてきて、

ここでただ中途半端にやめるという

エネルギー的転換が起こらないだけです。

やめる理由がない。(*^_^*)

だから何となく惰性で続いています。

pariという架空の個人の主観としてはそうです。

でもラマナ・マハルシから

──────────────────
 人が手にできる唯一の自由とは、
 努力をしてジニャーニを得ることである。
 それが彼と身体との同一化を断ち切る。
 身体はプラーラブダによって宿命づけられた、
 避けることのできない行為を
 通り抜けていくだろう。
 人は身体と彼自身を同一視し、
 その身体の行為の報いに執着するか、
 あるいはそれから離れ、
 身体の活動の単なる目撃者となるか、
 という選択の自由だけをもっているのである。
 
 『あるがままに』(p389) 
──────────────────

と教えられています。

ありがたいことに(と言うかなんというか)、

pariパターンはとても信じやすいので

ラマナ・マハルシがこう言うのなら、

これはこの通りなのだろうと思っています。

ラマナ・マハルシのような方が

ただ人を騙すために

こんなことを言うはずがない。

身体が自分だと思っているわれわれのようなエゴパターンは

嘘をつくことがあります。

しかし、覚醒が離脱してしまった

覚者パターン(覚者の身体)は

嘘をつける架空の主体がいないので

嘘をつくことができない。

あるいは、嘘をつく原因が存在しない、

というのがpariパターンの理解です。

もちろん、まわりのエゴパターンのために

全面的な真実を語れない(嘘をつく)場合はありうるけれど、

それはあくまでも

まわりで苦しんでいる(と信じている)エゴのためで、

エゴの最善を願ってのやむを得ない嘘でしかない。

しかも覚醒は、

その苦しんでいるエゴパターンが

一瞬の現象に対する執着(想念)でしかなく、

実際は存在していないことを知っているわけです。

ジーヴァン・ムクタ(生存中に覚醒を実現した者)の

現象世界に対する関心は、

実際は存在していない単なる想念圏(夢)に対する

関心でしかないために、

覚醒が離脱したその身体が崩壊したら

その関心は存続しえないのでしょうね。

永遠の実在である覚醒にとっては

実際は何も起こっていないわけですから。

この【何も起こっていない】というメッセージは

想念圏(夢)のなかで苦しんでいるわれわれエゴには

承服しがたいものです。

しかし、ラマナ・マハルシは

無知、あるいはその原因であるエゴについて

次のように語っています。

──────────────────
 質問者 自我はどのように現れたのでしょうか?
 
 マハルシ
 自我は存在しない。
 さもなければ、
 二つの自己をあなたは認めるだろうか?
 自我がないとき、
 無知が存在できるだろうか?
 もしあなたが
 もともと不在だった無知を探しだそうとすれば、
 それは存在していなかったということを知るだろう。
 あるいはそれが消え去ったとあなたは言うだろう。
 
 無知は自我に結びついている。
 なぜ自我のことを想い、そして苦しむのか?
 無知とはいったい何だろうか?
 それは存在しないものなのだ。
 しかしながら、
 世俗的な人生は
 アヴィディヤーという前提を必要としている。
 アヴィディヤーとはわれわれの無知に他ならない。
 それは自己に対する無知あるいは忘却である。
 太陽の前に暗闇がありうるだろうか?
 同じように、自ら輝き、
 自ら明らかな真我の前に無知がありうるだろうか?
 もしあなたが真我を知れば、
 そこには暗闇も、無知も、苦しみもないだろう。
 
 不幸と困難を感じるのは心である。
 暗闇は来ることも去ることもない。
 太陽を見なさい。
 そうすればそこに暗闇はない。
 それと同じように、真我を見なさい。
 するとそこにアヴィディヤーはないことを見いだすだろう。
 
 『あるがままに』(p47-48)
──────────────────

じつに、わかったような、

わからないような言葉ですが、

まずは、

いちど文字面そのものをなぞってみたいと思います。

なにしろ、普段思考が一切ないマハルシの

視界の透明度は並外れたものなので、

そこで語られた論理の自明性は、

普段思考で覆われている

われわれのようなエゴの自明性・論理性とは

ちょっとかけ離れているからです。

> 質問者 自我はどのように現れたのでしょうか?

うん。

> マハルシ
> 自我は存在しない。

まずマハルシは

【自我は存在しない】と断定します。

そしてその理由らしきものを次にあげています。

> さもなければ、
> 二つの自己をあなたは認めるだろうか?

この論理的展開はわれわれエゴにとっては速すぎます。

このいわば光速で展開される論理を

われわれ動物種のエゴにとっての最高速度

鳥速くらいには落とさなくてはならない。

ここでマハルシが展開している論理は

もしあなたが「自我」の存在を認めて

それもまた【自己】だというなら、

あなたはあなた自身以外にも【自己】を認めるのか?

と問うているわけだと思います。

ここでラマナの論理性が突いているのは

(1)【自我は存在しない】

(2)もし、あなたがそのことを否定し、

 自我は存在する、と言うのなら

 あなたは【二つの自己】を認めるのか?

ということです。

どうやらあなたは

「自我」というものの存在を認めていて、

しかも自分はその「自我」であると主張したいらしい。

わたし(ラマナ)は

あなたが存在していることを知っているし、

あなたも自分の存在を否定はしないと思う。

あなたが存在することは間違いないし、

わたしもあなたもそれには同意している。

しかしあなたは、

自分の他に「自我」というものの存在も認めていて、

自分はその「自我」だと主張したいようだ。

あなたはあなた自身の存在は否定できない。

それはつねに存在し

すべての現象を知る主体性としての自覚存在だ。

そしてあなたの言う「自我」とは、

あなたの身体を自分と認識している想念のことに違いない。

ではあなたは、

「自我」というその想念を認識しているあなたと、

身体を自分だと認識しているその「自我」という、

【二つの自己】を認めていることになるが、

あなたは本当にその【二つの自己】を認めるのか?

と問うているわけでしょう。

【二つの自己】というのが

語義矛盾でしかないことは自明です。

「抱かれているのは確かに俺だが、

 抱いている俺は一体誰だろう?」(?_?)
 
という落語「粗忽長屋」の落ちそのものですから。

「抱かれている俺」は本物の俺ではありえないわけです。

次にラマナが触れているのは

【無知は存在しない】というテーマです。

あるいは、

【自我】の影である【無知】は、

【自我】が存在するという誤解のもとでしか存在できない、

ということでしょう。

> 自我がないとき、
> 無知が存在できるだろうか?

現象世界の微小部分である人間の身体が知覚主体だ

という観念、「自我」の観念のもとにしか

無知は現れることができない。

その「自我」の観念が存在しないとき

無知が存在できるだろうか?

> もしあなたが
> もともと不在だった無知を探しだそうとすれば、
> それは存在していなかったということを知るだろう。

現象のあらゆるネガティブな側面が

本当に存在するかどうかを、

もしあなたが探しだそうとすれば、

それが存在していなかったことを知るだろう。

> あるいはそれが消え去ったとあなたは言うだろう。

あるいはそれが消え去ったとあなたは言うだろう。

> 無知は自我に結びついている。

現象のあらゆるネガティブな側面は

自我が存在するという観念の影として生まれた

闇の中で想像されたものにすぎない。

> なぜ自我のことを想い、そして苦しむのか?

なぜそのような存在しない自我の観念を後生大事に抱え、

その結果として苦しむのか?

> 無知とはいったい何だろうか?
> それは存在しないものなのだ。

あなたが気にしている現象のネガティブな側面とは何か?

それはそもそも存在しないものなのだ。

> しかしながら、
> 世俗的な人生は
> アヴィディヤーという前提を必要としている。

しかし、この人生という世俗的な劇は、

ネガティブな現象があるという前提を必要としている。

そうでなければドラマはありえないからだ。

> アヴィディヤーとはわれわれの無知に他ならない。

無知とはわれわれが自分の本性を知らないということ。

> それは自己に対する無知あるいは忘却である。

自分本来の存在を知らないということ、

自分本来の存在を忘れたということ、

そして仮初の現象の中に幸福を求めているということだ。

> 太陽の前に暗闇がありうるだろうか?

太陽の前に暗闇が存在することを想像できるだろうか?

> 同じように、自ら輝き、
> 自ら明らかな真我の前に無知がありうるだろうか?

それと同じように、

自ら輝き、自ら明らかな真我の前に

無知はありえないのだ。

> もしあなたが真我を知れば、
> そこには暗闇も、無知も、苦しみもないだろう。

もしあなたが真我を知れば、

そこには暗闇も、無知も、苦しみもない。

> 不幸と困難を感じるのは心である。

不幸と困難を感じるもの、

そしてそれに執着して立ち現れるのは想念なのだ。

> 暗闇は来ることも去ることもない。

実際には、

やってくる暗闇もなければ、

立ち去る暗闇もない。

すべては「自我」の影に想像されたイメージにすぎない。

> 太陽を見なさい。
> そうすればそこに暗闇はない。

自ら光り輝く太陽を見れば、

そこに暗闇は存在しない。

> それと同じように、真我を見なさい。
> するとそこにアヴィディヤーはないことを見いだすだろう。

それと同じように、

不幸好きの想念に注目するのをやめて、

誰にその想念が起こったのか、

想念の根っこを探求しなさい。

いちどその想念の根っこを見定めたら、

自我が存在しないことがわかるだろう。

そこに無知の暗闇が存在しないことがわかるだろう。

そうすれば、

自ずから明らかになるものがあるだろう。

(-||-)

勢いあまって、

身分不相応な言葉を綴りました。(*-_-*)

ただ、欲望ぐるみで

使われていることも間違いありません。

(-||-)

──────────────────
 あなたは在る。
 ほかのすべては現れにすぎない。
 
 『私は在る』(p421)
──────────────────

(-||-)

──────────────────
 永久的なもの、それはあなた自身の存在である。
 真我として在りなさい。
 それが至福である。
 あなたはいつもそれなのである。
 
 『あるがままに』(p58) 
──────────────────

……。(-_-)

ありがとうございました。<(_ _)>

(-||-)

今日はこんなところで。

……。

m(_ _)m


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■ 2.編集後記:
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今日は涼しくていいですね。

山里は雨に曇っています。

下の庭からニケがゆっくりと登ってくる。

今日は早く終わりました。

それではまた。

<(_ _)>


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■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
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