home > 通信 >『アセンション館通信』(第647号):『時間と自己』と夢を見ている者



━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
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 ☆☆     ☆☆『アセンション館通信』2016/09/04(第647号)
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☆☆      ☆★ 【気刊】――「私は在る」に導かれ♪――
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 ☆☆   ☆☆          https://www.ascensionkan.com/
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇

このメルマガはアセンション館主人pariと称するあるパターンに
浮上している心象風景の報告です。

現象がpariに起こっているかぎりpariの苦しみは避けられない。

pariとは誰か、そういう者は本当に存在しているのか?

内容は人畜無害、でも読む人は相当変わっていますね。現在870名
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◇◇ もくじ ◇◇

1.『時間と自己』と夢を見ている者

2.編集後記
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■ 1.『時間と自己』と夢を見ている者
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今日は下の畑に置いたドラム缶で

庭木の剪定した枝を燃やしました。

一時間もしない内に、

途中で日射しが暑くなってきて

途中だったけど切り上げました。

息の切れ方、なんとなくの感じで、

これ以上やるとヤバイかなと思った。

そのあとのシャワーに気持ちよかったこと。

(*^_^*)

さて、またまた一週間が過ぎて、

楽しい“アセンション噺”ならぬ「私は在る」噺に、

お付き合いいただく今がやってまいりました。

『アセンション館通信』配達人の pari です。

みなさま固有の「私は在る」を、いかがお過ごしでしょうか?

つい先日、というか二日前の9月1日

『朝日新聞』の「折々のことば」で

こんな言葉が採り上げられていました。

──────────────────
 「折々のことば」鷲田清一 506

 私たちが自分の人生と思っているものは、だ
 れかによって見られている夢ではないのだろ
 うか。
                  木村敏
 
 「私」は私の人生を主宰する者ではない。
 「私」は人生という劇を演出する者という
 よりはむしろ、そこに出ずっぱりの役者な
 のだろう。「いのち」とでも言うよりほか
 ないものが「私」を一登場人物とする物語
 を編んできたのだとすると、そこにほころ
 びや矛盾が見いだされてもそれなりに合点
 がゆく。精神科医の「時間と自己」から。

 2016-9-1 (「朝日新聞」より)
──────────────────

これを読んで、つい、

『時間と自己』という本が気になって

早速アマゾンで調べてみました。

あまり高い本じゃなかったので注文しました。

それが早くもさっき届いたのです。(@_@)

早速、目次を覗いてみたのだけれど、

目次ではこの文章が現れそうな

場所はわかりません。

なので、まず「あとがき」を覗いてみました。

なんと、あっさりそこに出てきました。

こういう文脈です。

──────────────────
 ……
 私はつねづね、
 人間に関するいかなる思索も、
 死を真正面から見つめたものでなければ、
 生きた現実を捉えた思索には
 なりえないのではないかと思っている。
 もちろん、
 この死というのは個人個人の
 有限な生と相対的に考えられた、
 個別的生の終焉としての死のことではない。
 生の源泉としての死、
 生が一定の軌跡を描いたのちに
 再びそこへ戻って行く故郷としての死、
 私たちの生にこれほどまでの輝かしさと、
 同時にまたこれほどまでの陰鬱さを
 与えている包括者としての死のことである。
 私たちの生は、
 その一刻一刻がすべて、
 この大いなる死との絶えまない関わりとして
 生きられているのであろう。
 私たちは自分自身の人生を
 自分の手で生きていると思っている。
 しかし実のところは、
 私たちが自分の人生と思っているものは、
 だれかによって見られている夢ではないのだろうか。
 夢を見ている人が夢の中でときどきわれに返るように、
 私たちも人生の真只中で、
 ときとしてふとこの「だれか」に
 返ることができるのではないか。
 このような実感を抱いたことのある人は、
 おそらく私だけではないだろう。
 
 夜、異郷、祭、狂気、
 そういった非日常のときどきに、
 私たちはこの「だれか」を
 いつも以上に身近に感じとっているはずである。
 夜半に訪れる今日と明日のあいだ、
 昨日と今日のあいだ、
 大晦日の夜の今年と来年のあいだ、
 去年と今年のあいだ、
 そういった「時と時とのあいだ」のすきまを、
 じっと視線をこらして覗きこんでみるといい。
 そこに見えてくる一つの顔があるだろう。
 その顔の持主が夢を見はじめたときに、
 私はこの世に生まれてきたのだろう。
 そして、その「だれか」が夢から醒めるとき、
 私の人生はどこかへ消え失せているのだろう。
 この夢の主は、
 死という名をもっているのではないのか。
 ……

 『時間と自己』
──────────────────

(-_-)

なんとも……、

見事な文章ですね。

この本は、いまちょっと

チラチラと覗いてみただけでも、

ドストエフスキーだとか、

その作中人物、

癲癇患者のムイシュキンやキリーロフ、

『悪霊』の美貌の令嬢リザヴェータなど

pariパターン好みの話題もいっぱいのようです。

ところで、木村敏さんは

> 私たちは自分自身の人生を
> 自分の手で生きていると思っている。
> しかし実のところは、
> 私たちが自分の人生と思っているものは、
> だれかによって見られている夢ではないのだろうか。
> 夢を見ている人が夢の中でときどきわれに返るように、
> 私たちも人生の真只中で、
> ときとしてふとこの「だれか」に
> 返ることができるのではないか。
> このような実感を抱いたことのある人は、
> おそらく私だけではないだろう。

こう書いていらっしゃいます。

「このような実感を抱いたことのある人は、
 おそらく私だけではないだろう。」

たしかに、

こう明確に表現できないまでも、

こんな感覚を味わったことがあるのは

木村先生だけではないかもしれません。

しかし、もちろん、

誰もが抱く実感でもありません。


誰かが何処かで

「わかる」というのは、

言葉の意味を理解できるということではなく、

なぜそんなことを問題にしているのかが

わかるということだ、

というようなことを言っていたようです。

そういう意味で言うと、

精神世界として語られるさまざまな話題も

実際は、文字面で理解できる情報内容だけでなく

そういう暗黙の前提構造を内包しているでしょう。

そういう背景的、文脈的、構造的観念は、

多種多様な情報が語られる場面で

通常あまり明示的に言及されません。

ちょっと語弊はありますが、

日本語で言う「空気」みたいなところもある。

当事者たちは全員知っているけれども、

そういう観念にはじめて触れる者には

最初はまったく見えません。

そこで暗黙の内に前提されている

観念とか理解が

読み手にとって異質なものだと

理解は起こらないし

そもそも興味を惹かれることもない。

つまり、わからないわけでしょう。


そういう意味でときどき思い出すのが、

昔、自立学校で埴谷雄高さんが

「興味」というテーマを出題されたときに

見せた反応です。

以前ちょっと書いたことがあります。
https://www.ascensionkan.com/mm/vol468.html#1

「これは大きな問題が出てきましたね」

としばし言葉を止めて、

それから、問題があまり大きいので、

ちょっと宿題にさせてください、と応じたのです。

当時のわたしなどは

その埴谷さんの反応の意外さのゆえに、

この「興味」という言葉を記憶したほどです。

pariパターンに今浮上してくる文脈で言うなら

興味というのは……まあ……、

カルマそのものでしょうか。(*^_^*)

あんまり大雑把で話にもなりません。(^_-)

でもですね、

いちど聞いたラマナのこの言葉は、

なんというか、文字どおり目から鱗が落ちる思いでした。

──────────────────
 質問者 知性(ブッディ)とは何でしょうか?
 
 マハルシ
 思考あるいは識別の機能です。
 それらは単なる名前でしかありません。
 自我、心、知性、それらはみな同じものです。
 誰の心でしょう?
 誰の知性だと言うのでしょう?
 自我のです。
 自我は実在でしょうか?
 いいえ。
 私たちは自我を取り違えて知性や心と呼ぶのです。

 『ラマナ・マハルシとの対話 第1巻』(p379)
──────────────────

どうですか、これ……。(@_@)

「知性」「思考」「識別」「自我」「心」

こういうものは全部同じものだというのです。

単なる名前でしかない、と。

その上さらに、

「私たちは自我を取り違えて知性や心と呼ぶ」

とまでダメおしされると……。(-_-;)

ここまで見晴らしが良くなったら、

「興味」は「カルマ」でしょうくらい、

まったくなんということもありません。(*^_^*)

このラマナの言葉は、

あなたにはどんなふうに聞こえますか?

それは、たとえば、

「ラマナがそう言ったからといって

 あんたはそれを信じるのか?」(\/U)

という話だと思いますか?

pariパターンにとっては、

これはもう、信じる信じないの話ではなかったです。

いちどラマナ・マハルシがこう言ったと

知ってしまったら、

それで一巻の終わりです。

いったん目から鱗が落ちたら、

「知性」「思考」「識別」「自我」「心」

といった言葉が単なる名前でしかなく、

すべて同じものであるのは自明じゃないですか。

すべて「私」という

「知る者」に湧いてくる一瞬一瞬の想念に

つけた名前にすぎないことは明らかです。

すべて観念のなかの単なるラベルです。

「知性」「思考」「識別」「自我」「心」

これらすべては

現象という【見かけ】のなかに境界を設け、

現象のある部分をそれ以外の部分と分離して、

それを「識別」し、

別の一部に同化した「自我」の立場から

「心」を巡らせ、「思考」し、

あれやこれやと「判断」している……、

とまあ、のたまっているだけです。

「自我」が創造する構造世界を

内部から飾り立て補強しているだけであるのは

自明ではないでしょうか。

pariパターンにとって

これほど明らかと思われる話でも、

いったん、では

誰もがこんな話に納得するのか、と問うなら、

もちろん、

そんなことがありえないこともまた自明です。

さらには、言うまでもなく、

あらゆる「自我」がこんな話を耳にするわけでもない。

そしてたとえ、

おそらく、ラマナ・マハルシの言葉を知らなくても

木村敏先生のように

> そういった「時と時とのあいだ」のすきまを、
> じっと視線をこらして覗きこんでみるといい。
> そこに見えてくる一つの顔があるだろう。
> その顔の持主が夢を見はじめたときに、
> 私はこの世に生まれてきたのだろう。
> そして、その「だれか」が夢から醒めるとき、
> 私の人生はどこかへ消え失せているのだろう。
> この夢の主は、
> 死という名をもっているのではないのか。

とおっしゃる方もいるわけです。

完璧ですよね。(-||-)

京都大学名誉教授の木村敏先生は

世界的な精神病理学者ですから、

一般的な精神世界の本を書いているわけではありません。

しかし、

世界とか人生というものに対して流れている

ある前提感情のようなものが共振するわけです。

それは仏陀の言葉を借りるなら

【苦諦】とでもいう共通認識でしょうか。

もちろん、

木村先生は人生の意味や価値や真理の存在を

信じていらっしゃるようです。

だからこそ、そういうものを支える根拠として

「死」というものを構想するのでしょう。

木村敏先生は

この夢を見る者の名前を「死」と呼んでおられる。

そしてたしかに、この夢を見る者は

「真我」とは違うようです。

pariパターンも

この夢を見ている者は誰なんだろうと

不思議に思っていました。

夢から覚めたら、

夢の物語がじつはどこにも存在しておらず、

夢のなかの登場人物も

夢といっしょに雲散霧消してしまう。

実際は、

実在である真我しか存在していない。

こういうことは何度も聞かされています。


そのこと自体は理解できるような気もするのですが、

しかし、われわれが寝て見る夢の場合は、

夢から覚めたら、夢の世界はたしかに

どこにも存在していなかったことがわかりますが、

これまで夢を見ていた「自分」は残る。

というか、まだ破壞されていないわけです。(*^_^*)

そのアナロジーから類推するかぎり、

夢を見ていた「自分」はいるのではないか

と思えてしまうわけです。

しかし、覚者たちの話を信じるかぎり、

誰も夢など見ていなかった。

夢を見ていた者など誰もいなかった、

と言っているようです。

これが、その夢を見ている当人にとっては

理解不能なわけです。(*^_^*)

はてさて、

俺はいないって言われても、ここに俺はいるし、

というわけです。(^_-)

もちろん、

ラマナやニサルガダッタなら

それが誰かを探しなさい、と言うであろうことも

言葉としては知っているのですが。

『時間と自己』の「あとがき」のなかで、

木村敏先生は、

時を超えた「時と時とのあいだ」の住人が

夢を見はじめたときに、

私はこの世に生まれてきたのだろう、

とおっしゃっている。

そして、その「だれか」が夢から醒めるとき、

私の人生はどこかへ消え失せているのだろう、と。

そして、その夢を見る者の名を、

「死」と名指ししておられるわけです。

唯一の実在である真我が

夢を見ているわけではないらしい。

しかし、夢を見ている当人がいないというのが

なんといっても理解し難いことなのです。

まあ、そのあたりのことが

どうももやもやしていたということです。

すると、

ちょうどそのあたりのことを

ラマナ・マハルシに質問してくれていた方がいました。

そして編者のデーヴィッド・ゴッドマンさんは、

その質問をちゃんと収録してくれていました。

質問者は、とても的確に質問しています。

夢を見させているものは

意識なのか、それとも無知なのか、

と尋ねているのです。

──────────────────
 質問者 「私」という感覚と世界の知識を与えている光は、
     無知でしょうか、それともチット、意識でしょうか?
     
 マハルシ
 「私」が他と異なっていると信じさせるのは、
 チットが反映した光である。
 
 このチットが反映した光が
 「私」に事物を創造させるのである。
 だがこの反映のためには、
 そこに反映されるべき表面がなければならない。
 
 質問者 その表面とは何でしょうか?
 
 マハルシ
 真我を実現したとき、
 あなたはその反映と反映される表面が、
 実は存在していないことを知るだろう。
 だが、それらはひとつであり、
 どちらも同じチットなのである。
 世界は存在する。
 世界はその存在のために場所と、
 それを知覚可能にするための光を必要とする。
 そのどちらも同時に立ち現れる。
 それゆえ、
 世界の物理的存在とその知覚は、
 真我から反映された心の光に依存しているのである。
 映画の画像が反映された光によって、
 それも暗闇のなかでだけ見ることができるように、
 世界という画像も、
 無知の暗闇のなかで、
 真我から反映された光によってのみ
 見ることができるのである。
 世界は深い眠りのように、
 アヴィディヤー(無知)の
 完全な暗闇のなかでは見ることができないし、
 また真我実現やサマーディのように、
 完全な光のなかでも見ることができないのである。

 『あるがままに』(p333) 
──────────────────

うーむ。(-_-;)

最終的に「私」という夢から醒めると

これまで見ていた世界は、

その世界というドラマを映し出していたスクリーンも、

そのスクリーに映画を投影していた光も、

両方とも存在していなかったことがわかる

ということのようです。

うーん。(-_-)

イメージとして観念的に理解しようとしても、

なかなか難しいですね。(^^;)

そんな難しいことを観念的に理解しようとするよりも

誰がそんなことを知りたがっているのか、

その人を見つけなさい、

と言われることは間違いない。(*^_^*)


そして、

そういう文脈の背後にあるのが、

じつは普通は語られない理解の前提であり

それこそが決定的なのでしょう。

つまり、仏陀のいう【苦諦】です。

この世界という夢が

まだそこに希望と真理を発見できる可能性を

求めることができるようなものなのか。

それとも、それは単に

三界に家なし、と言われるような

単なる無意味な堂々巡りにすぎないのか。

木村敏先生は

精神分裂病と躁鬱病と真性癲癇病を

けっして特殊な病態とは考えておられない。

人間の狂気の突き詰めた形として

理解されているようです。

未来に向けて突破を試みる精神分裂病、

過去に向けて突破を試みる躁鬱病、

現在のなかで突破を試みる真性癲癇病。

とにかく、この世界という夢は

つまり、意識の汚れ(内容)は

安住の地には成りえないものなのです。

それでもなお、

われわれはそこで意識として苦しみたい。

まだまだこの観念的な夢のなかで

娯楽を求めてつづけたいのです。

──────────────────
 何にもまして、
 私たちは意識しつづけていたい。
 あらゆる苦しみや屈辱を耐えてでも、
 意識しつづけることを望むのだ。
 この体験への欲望に逆らって、
 顕現すべてを手放さないかぎり、
 解放はありえない。
 私たちは罠にはまったままなのだ。
 
 『私は在る』(p346)
──────────────────

(*-_-*)

ここが正念場ですね。

──────────────────
 生命への執着は不幸への執着だ。
 私たちは私たちに苦痛を与えるものに執着するのだ。
 私たちの本性とはそんなものなのだ。
 
 『私は在る』(p436)
──────────────────

ああ……。

(-||-)

──────────────────
 あなたは在る。
 ほかのすべては現れにすぎない。
 
 『私は在る』(p421)
──────────────────

(-||-)

──────────────────
 永久的なもの、それはあなた自身の存在である。
 真我として在りなさい。
 それが至福である。
 あなたはいつもそれなのである。
 
 『あるがままに』(p58) 
──────────────────

……。(-_-)

ありがとうございました。<(_ _)>

(-||-)

今日はこんなところで。

……。

m(_ _)m


       ………○…………○…………○………


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■ 2.編集後記:
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世界のすべてが

観念の堂々巡りであることがわかっても、

どんな価値観の立て直しも不可能だとわかっても、

しかもなお、

まだこうして観念に興味を持ちつづける。

悲しいもんですね。(;_;)

──────────────────
 解放への道には何も立ちはだかっていない。
 そしそしてそれは今ここで起こることができる。
 だが、あなたはほかのことにもっと興味がある。
 そしてあなたはその興味と闘うことはできないのだ。
 あなたはそれとともに行き、
 それを見抜き、
 それが単に判断と賞賛の誤りであることを、
 それ自体が自ら暴くのを見守らなければならないのだ。
 
 『私は在る』(p475)
──────────────────

(-||-)

こうして書くことが

その未練を焼尽する役も果たしているといいのですが。

今日はすっかり夜になりました。

お休みなさい。

<(_ _)>


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■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
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