home > 通信 >『アセンション館通信』(第648号):真我はつねに実現されている



━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
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 ☆☆     ☆☆『アセンション館通信』2016/09/11(第648号)
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☆☆      ☆★ 【気刊】――「私は在る」に導かれ♪――
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 ☆☆   ☆☆          https://www.ascensionkan.com/
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇

このメルマガはアセンション館主人pariと称するあるパターンに
浮上している心象風景の報告です。

現象がpariに起こっているかぎりpariの苦しみは避けられない。

pariとは誰か、そういう者は本当に存在しているのか?

内容は人畜無害、でも読む人は相当変わっていますね。現在870名
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◇◇ もくじ ◇◇

1.真我はつねに実現されている

2.編集後記
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■ 1.真我はつねに実現されている
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体験の世界では今日は

青空に雲を浮かべた秋風が涼しい日です。

今は庭の水瓶に水を入れる水道の音がしている。

しばらく金魚の水を替えていなかったので、

さっきホースの蛇口を開けたのです。

一日一日が、そして一瞬一瞬が

その情調を運んでいます。

当たり前です、

その現れに何かが注目しているのですから。

何が注目しているんでしょうね?

自分がいるのは間違いない。

でも、どうやらその自分は

自分が何かを知らない可能性があるらしい。(^_-)

(*^_^*)

さて、またまた一週間が過ぎて、

楽しい“アセンション噺”ならぬ「私は在る」噺に、

お付き合いいただく今がやってまいりました。

『アセンション館通信』配達人の pari です。

みなさま固有の「私は在る」を、いかがお過ごしでしょうか?

物心ついてからというもの

いつも外界の状況の変化と

それと連動しているらしい気分の変化に注目してきました。

それが自分に関係がある、というか、

むしろその情調が自分だと思い込んでいたからです。

だから、その気分を良くすることが人生でした。

その気分を良くすることができるという希望がある間は

それでよかったんです。

でもやがて、それがだんだん難しくなった。

そうするとたいてい、

求道ってやつがはじまるんですよね。(^_-)

自分が存在すると信じている自分が、

自分であることに納得できなくなってくるんです。

自分はなんのために生きているのか?

とか、

大袈裟な場合は、

何故にすべては始まってしまったのか?

などという大層な疑問まで抱えてしまう。

もちろん、

疑問を抱える“自分”がいるとしての話ですが。

前回ご紹介した精神病理学者木村敏博士の

『時間と自己』という本を

ところどころ拾い読みしました。

いわゆる「狂う」というのは

とてもつらい世界(体験)なんだなということを、

改めて知らされた感じでした。

レトリック的には

いっそ狂ってしまいたい、とか、

狂ってしまったほうがどれほど楽か、とか

そんな表現があるのは知っています。

また個人的にも若い時には、

そんなことを思わないでもなかったのですが、

とんでもないですね。

狂わなくて、どれほどありがたかったことか……。(-||-)

そして、

自分が分裂症親和性のある人格パターンらしい

ということも知りました。

つまり、

精神分裂症の病像というのを伺うと

それがとても理解できるわけです。

木村敏先生によると、

精神病理学者の先生たちでも

どのタイプの精神病理も

(自分が個人的に体験してきた心理の延長上で)

理解できるというものではないらしいんですね。

木村先生によると、

精神病理(学)の世界というのはとても特殊で

その個々の病的な世界(観)のなかで

出口を見つけられずに苦しんでいる当人たちだけでも

また観察する精神病理学者たちだけでも

成り立ちえない世界なんだそうです。

精神を病んで助けを求めている人たちの世界に

外側からトコトン興味を持って立ち会う精神病理学者がいて

はじめて成立する世界なんだそうです。

実際読んでいても、

哲学書を読むのととても近いような印象でした。

この本は大きく三部に分かれていて、

「第一部 こととしての時間」
「第二部 時間と精神病理」
   1 分裂病者の時間
   2 鬱病者の時間
   3 祝祭の病理
「第三部 時間と自己──結びにかえて」

こんなタイトルのもとに展開されています。

「第一部 こととしての時間」では、

時間というものが

「客観的・対象的なものとして現れ」ているわけではなく、

それとはまったく別種な現れ方であり、

そのいわば理解の枠組みのような現れ方のことを

日本語では「こと」と呼んでいると説明します。

しかし、また同時に

【日本語には元来、

 事(こと)と言(こと)の区別がなかった】

ことにも触れて、

事(こと)といっても、

それは表現された言葉という形体から分離した

純粋性をもちうるわけではない、と。

つまり、

事(こと)はつねに、

表現された言葉という形体に“汚染”される、と。

端的に言うと、

事(こと)はつねに

実際に使われる言葉によって影響を受けつづけると。

まあ、時間というのは、

言語空間次第の可塑的な観念だということでしょう。

そうすると、

個人が遺伝資質や成長過程の影響で

どのような時間観念を形成するかによって、

彼がどのような時間を生きるかが決まるはずです。

そして、たまたま諸要因の組み合わせの結果、

当人の時間観念が

常軌を逸して純粋に生きられた場合に発症するのが

さまざまな精神病だというのです。

その諸様態がわれわれ一般人にも推測可能な程度に

「第二部 時間と精神病理」
   1 分裂病者の時間
   2 鬱病者の時間
   3 祝祭の病理 

で展開されています。

(ここで「祝祭の病理」というタイトルで

 展開されているのは真性癲癇です。)

──────────────────
 第二部の三つの章で扱ってきた精神病は、
 それぞれ特徴的な形で
 時間と自己に関する異常を示していた。
 これらの「異常」を、
 精神病という特別な事態のために、
 健全な正常者にとってはまるで無縁な、
 新奇な現象が発生したものと考えるのは、
 いうまでもなく間違いである。
 精神病という事態は、
 多くの身体疾患とは違って、
 われわれのだれもが持っている
 それ自体異常でもなんでもない存在の意味方向が、
 種々の事情によって
 全体の均衡を破って極端に偏った事態にすぎない。
 一応健全な社会生活を送っているように思っている
 われわれのだれもが、
 その潜在的な可能性においては、
 分裂病にも鬱病にも、
 躁鬱病にも癲癇にもなりうるということなのである。
 
 『時間と自己』(p174)
──────────────────

まったく、

異論の挟みようがないですね。

要するに、言い方によっては、

精神病者というのは

人類の精神世界の正常範囲を策定するために

ある時間概念の方向性を

身を挺して自らの体験として突き詰め、

計測してくださっている方々とも言える。

pariパターンが

せっかくの休みにこんなメルマガを書いているように、

その方々も自らの欲望によって

使われて(自ら献身させられて)いるのでしょう。

(もちろん、

 その個々人というのが存在すればということですが。(^_-) )

つづいて木村敏先生はこう書きます。

──────────────────
 だから、
 これらの精神病に特徴的な時間や自己のありかたは、
 それが全体として
 均衡のとれた組合せを作っているかぎり、
 そこに健全な日常的意識が
 形成されているようなありかたなのだ、
 と考えてもよいだろう。
 もちろん、
 それらはものの部分のように
 ばらばらに切り離した上でもう一度寄せ集めて
 復原できるようなものではない。
 時間ということ、
 自己ということが有限な個人によって
 直接に生きられる仕方には、
 いくつかの決った方向のようなものを取り出すことができて、
 健全な人というのは、
 そのどれかの方向を際立たせることによって
 おのおのの個性を出しながら、
 潜在的にはそのすべての方向を生きる可能性を
 身に着けている人のことなのだ、
 というだけのことにすぎない。
 
 『時間と自己』(p174-175)
──────────────────

> 時間ということ、
> 自己ということが有限な個人によって
> 直接に生きられる仕方には、
> いくつかの決った方向のようなものを取り出すことができて、
> 健全な人というのは、
> そのどれかの方向を際立たせることによって
> おのおのの個性を出しながら、
> 潜在的にはそのすべての方向を生きる可能性を
> 身に着けている人のことなのだ、
> というだけのことにすぎない。

多様多彩な精神病理症例に付き合ってきた方の

確信であり断言なのだと思います。

ここを読んでいて、

大きな円筒形の漁網に追い込まれた

魚群を想像してしまいました。(^_-)

そんな漁法はもちろんないのですが、

どこまでも続くその円筒形の漁網のなかを進んでいると、

なかにはその日常に耐えられなくなって、

独自の方向に一点突破を試みる魚が

一定比率で発生するのです。

上昇方向に活路を求める魚や下降方向に活路を求める魚。

でも上下左右のどちらの方向に一点突破を試みても、

網に絡め取られて袋小路の窮地に陥るだけです。

大部分の魚はそれを集合知で察知して、

そちらの方向に脱出路がないことを知っているのです。

そして仲間内での適度の比較や物語の作成で、

なんとかこの日常に適応しようとする……。

でもその集合知を自らの体験で確認するために、

つねに一定比率で無謀な試みに挑戦する者が出てくるんです。

まあ、魚群集団が集団の集合知を更新するには

それぐらいのロスは設計値として設定済みなのでしょう。

しかし、

もし魚の神様というのが存在するとすれば、

漁網のなかの魚のどれかに、

お前は魚ではない、

漁網に取り囲まれているのはお前の身体にすぎない。

お前は、漁網をも包含した海そのものなのだと、

囁くのでしょうね。(^_-)

pariパターンは

木村敏先生の時間観念の細かい構造や、

海外の哲学者や精神病理学者たちとの

細かい立場の違いまでは興味をもてませんでした。

そのような細部にまでこだわることができる能力は

もう持ってなかったですけど。

もしかしたら、ラマナやニサルガダッタが

すでに破壊してくれたのかもしれません。

なにしろこうですからね。(^_-)

──────────────────
 質問者 知性(ブッディ)とは何でしょうか?
 
 マハルシ
 思考あるいは識別の機能です。
 それらは単なる名前でしかありません。
 自我、心、知性、それらはみな同じものです。
 誰の心でしょう?
 誰の知性だと言うのでしょう?
 自我のです。
 自我は実在でしょうか?
 いいえ。
 私たちは自我を取り違えて知性や心と呼ぶのです。

 『ラマナ・マハルシとの対話 第1巻』(p379)
──────────────────

こうなると、たいていの理屈はどうでもよくなってしまいます。

マハラジの表現もステキですよね。

──────────────────
 私のグルに出会うまでは、
 私は非常に多くのことを知っていた。
 今、私は何ひとつ知らない。
 なぜなら、
 すべての知識は夢のなかだけにあり、
 根拠の確かなものではないからだ。
 私は自己を知っている。
 そして、
 私のなかには死も生もなく、
 ただ純粋な存在――これでもあれでもなく、
 ただ在ることだけがある。
 しかし、
 マインドが貯蔵庫から記憶を引き出し、
 想像しはじめると、
 それは空間を対象物で、
 時間を出来事で埋めつくしてしまう。
 
 『私は在る』(p281) 
──────────────────

(-||-)

わたしなどはたんに言葉を聞いているだけですが、

こういう言葉を一週間に一度聞いているだけでも、

格好良さの基準が違ってきてしまいます。

いつの間にか

だんだん他のものを欲しがれなくなっている。

新たに手に入るものなど

何の意味もないことが自明なわけですから。

──────────────────
 もしあとになってそれを実現するというなら、
 それはつまり、
 今実現していないということだ。
 実現していないというその状態が、
 未来に再び起こるかもしれない。
 なぜなら時間は限りないものだからだ。
 それゆえ、
 そのような実現もつかの間のものでしかない。
 しかし、それは真実ではない。
 実現を一時的なものと考えることは誤りだ。
 実現とは変化することのない永遠の状態なのである。
 
 『あるがままに』(p59)
──────────────────

> 実現を一時的なものと考えることは誤りだ。

実現というのは……、

これから手に入るようなものではありえない。

> 実現とは変化することのない永遠の状態なのである。

ありがとうございます。(-||-)

──────────────────
 そこに到達されるような目的地はない。
 達成されるようなものもない。
 あなたは真我である。
 あなたはつねに存在している。
 それが存在する、ということ以上に
 真我を断定できるものは何もない。
 
 『あるがままに』(p46)
──────────────────

> あなたは真我である。

この言葉は何を意味しているのか?

> あなたはつねに存在している。

わたしは今現在すでに存在している。

そして自分が存在していることを知っている。

> それが存在する、ということ以上に
> 真我を断定できるものは何もない。

ということは、

わたしが今現在すでに実在であるということの

この上ない証明なわけです。

なにしろ、

【それが存在する、ということ以上に
 真我を断定できるものは何もない。】

と、ラマナ・マハルシが保証しているわけですから。

──────────────────
 真我はつねに実現されている。
 すでに、そしてつねに実現されているものを
 あらためて実現する必要はない。
 あなた自身の存在を否定することはできないからだ。
 その存在が意識、真我である。
 
 あなたがそこに存在しないかぎり、
 質問することもできないだろう。
 それゆえ、
 あなたはあなた自身の存在を認めなければならない。
 その存在が真我である。
 真我はすでに実現されている。
 そのため、実現するための努力は、
 ただあなたが実現していないという
 現在の過ちを認識することにある。
 新たな実現といったものはない。
 ただ真我がその本性を現すだけである。
 
 『あるがままに』(p58)
──────────────────

> 真我はつねに実現されている。

これはまったく疑う余地がありません。

> すでに、そしてつねに実現されているものを
> あらためて実現する必要はない。

まったく当然です。

> あなた自身の存在を否定することはできないからだ。

はい。

> その存在が意識、真我である。

(-||-)

> あなたがそこに存在しないかぎり、
> 質問することもできないだろう。

わかります。

> それゆえ、
> あなたはあなた自身の存在を認めなければならない。

はい、わたしは自分の存在を認めます。

> その存在が真我である。

わかりました。

> 真我はすでに実現されている。

はい。

> そのため、実現するための努力は、
> ただあなたが実現していないという
> 現在の過ちを認識することにある。

たしかに。

> 新たな実現といったものはない。

はい。

> ただ真我がその本性を現すだけである。

わかりました。

(-||-)

──────────────────
 質問者 この覚醒とは何でしょうか? 
     どのようにしてそれを得、
     培(つちか)うことができるのでしょうか?
 
 あなたが覚醒なのだ。
 覚醒とはあなたのもうひとつの名前だ。
 あなたが覚醒なのだから、
 それを得たり、培ったりする必要はない。
 あなたがしなければならないことは、
 真我でない他のものごとに
 注意をはらうのをやめることだけだ。
 もしそれらに気づくのをやめれば、
 純粋な覚醒だけが残る。
 それが真我である。
 
 『あるがままに』(p21)
──────────────────

> あなたが覚醒なのだ。

はい。

> 覚醒とはあなたのもうひとつの名前だ。

わかりました。

> あなたが覚醒なのだから、
> それを得たり、培ったりする必要はない。

了解いたしました。

> あなたがしなければならないことは、
> 真我でない他のものごとに
> 注意をはらうのをやめることだけだ。

ああ、そこがまだ腰が座っていない。

> もしそれらに気づくのをやめれば、
> 純粋な覚醒だけが残る。

よくわかります。

> それが真我である。

はい。(-||-)

──────────────────
 あなたの本当の不幸の原因は
 あなたの内側にある。
 それを人生のできごとのせいにしたところで
 何の利益があるというのかね?
 外側のものごとから
 どんな幸福を得ようというのか?
 たとえそれを得たとしても、
 どれほど長くつづくというのだろうか?
 
 『あるがままに』(p364)
──────────────────

> あなたの本当の不幸の原因は
> あなたの内側にある。

自我という形で。

> それを人生のできごとのせいにしたところで
> 何の利益があるというのかね?

自我が架空の不幸の種を

人生の出来事として投影している。(-_-)

> 外側のものごとから
> どんな幸福を得ようというのか?

たしかに。

> たとえそれを得たとしても、
> どれほど長くつづくというのだろうか?

……。(*-_-*)

(-||-)

マハラジの言葉も聞きたいです。

──────────────────
 あなた自身のためには、何も必要ない。
 あなたは純粋な明け渡しだ。
 無始無窮(むきゅう)であり、
 無尽蔵なのだ。
 あなたが悲しみや苦しみを見るときは、
 それとともに在りなさい。
 性急に行動に走ってはならない。
 学ぶことも行動も、
 本当の意味での助けにはならないのだ。
 悲しみとともに在りなさい。
 そして、
 その根底にあるものを露(あら)わにしなさい。
 理解することを助けることが
 本当の助けとなるのだ。
 
 『私は在る』(p279-280)
──────────────────

> あなた自身のためには、何も必要ない。

はい。(-_-)

> あなたは純粋な明け渡しだ。

真我とはそういうものなのですね。

> 無始無窮(むきゅう)であり、
> 無尽蔵なのだ。

わかりました。

> あなたが悲しみや苦しみを見るときは、
> それとともに在りなさい。

(@_@)

> 性急に行動に走ってはならない。

(-_-;)

そうか……。

> 学ぶことも行動も、
> 本当の意味での助けにはならないのだ。

そうなんですか。

> 悲しみとともに在りなさい。

【悲しみとともに在りなさい】……。

> そして、
> その根底にあるものを露(あら)わにしなさい。

(-_-)

> 理解することを助けることが
> 本当の助けとなるのだ。

もしも、覚えていられるなら……。

(-||-)

──────────────────
 あなたは在る。
 ほかのすべては現れにすぎない。
 
 『私は在る』(p421)
──────────────────

(-||-)

──────────────────
 永久的なもの、それはあなた自身の存在である。
 真我として在りなさい。
 それが至福である。
 あなたはいつもそれなのである。
 
 『あるがままに』(p58) 
──────────────────

……。(-_-)

ありがとうございました。<(_ _)>

(-||-)

今日はこんなところで。

……。

m(_ _)m


       ………○…………○…………○………


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ときどき「ニサルガ辞書」で遊んでみてください。
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        …………○…………○…………○…………


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■ 2.編集後記:
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一週間に一度、

ただ文字面でこんな言葉をなぞるだけですが、

なんだかそれなりの動きが起こっているような

気がしないでもありません。

写経ヨガとでもいうのでしょうか。

pariパターンの言葉が

だんだん晒され、

無きが如きものになってしまって、

覚者たちの言葉だけが

比重を高めていくようです。

──────────────────
 解放への道には何も立ちはだかっていない。
 そしそしてそれは今ここで起こることができる。
 だが、あなたはほかのことにもっと興味がある。
 そしてあなたはその興味と闘うことはできないのだ。
 あなたはそれとともに行き、
 それを見抜き、
 それが単に判断と賞賛の誤りであることを、
 それ自体が自ら暴くのを見守らなければならないのだ。
 
 『私は在る』(p475)
──────────────────

(-||-)

こうした写経が

そうした判断と賞賛の誤りを

暴露する役も果たしてくれますように。(-||-)

今日はすっかり夜になりました。

お休みなさい。

<(_ _)>


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
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  → メール: pariアットマークjk2.so-net.ne.jp
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