home > 通信 >『アセンション館通信』(第649号):十年目の棚卸し



━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
  ☆☆   ☆☆ 
 ☆☆     ☆☆『アセンション館通信』2016/09/18(第649号)
☆☆   ☆   ☆☆
☆☆      ☆★ 【気刊】――「私は在る」に導かれ♪――
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 ☆☆   ☆☆          https://www.ascensionkan.com/
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇

このメルマガはアセンション館主人pariと称するあるパターンに
浮上している心象風景の報告です。

現象がpariに起こっているかぎりpariの苦しみは避けられない。

pariとは誰か、そういう者は本当に存在しているのか?

内容は人畜無害、でも読む人は相当変わっていますね。現在871名
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◇◇ もくじ ◇◇

1.十年目の棚卸し

2.編集後記
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■ 1.十年目の棚卸し
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土曜日ですね。

写経ヨーガのはじまりです。

なんか嬉しい。

(*^_^*)

さて、またまた一週間が過ぎて、

楽しい“アセンション噺”ならぬ「私は在る」噺に、

お付き合いいただく今がやってまいりました。

『アセンション館通信』配達人の pari です。

みなさま固有の「私は在る」を、いかがお過ごしでしょうか?

このメルマガは十二年ほど前に

『アセンション館通信』などと名乗って

当時まだそれほど一般的でもなかった情報を

いかにも知ったかぶりで言いふらすために

はじまりました。

地球がアセンションするということ、

その波動の上昇にあわせて、

惑星地球の上に乗っているわれわれも

これまでのゲームでの思い込みを手放して、

新たな自分好みの行き先を

定めなければならないのだと思ってたのです。

真理の存在を信じていて、

それは言うまでもなく。

この現象世界のなかにあるのだと思っていました。

だから、

誰もが幸せになれる世界を目指して、

突き進んでいくのが探求なのだと。

自分ではそのつもりでした。

ただ、pariパターンの場合、成長の過程で

  <何故にすべては始まってしまったのか?>

という少し変な観念を仕込んでもいました。

今思うに、これはもちろん、

pariパターンの発明などであるはずもなく、

道具としてのpariパターンに積み込まれた

ジェット燃料だったのかもしれません。

というのは、いったん思考が

  <何故にすべては始まってしまったのか?>

という問のあたりでうろうろすると、

たいていの観念的真理は、

ただちに無効化されてしまったからです。

なぜなら、

とても真理らしい観念や物語に遭遇しても、

“もしそれがすべてが始まった理由なら、

 最初からそのように幸せだったらいいじゃないか。

 途中のこんな七面倒臭い不幸や細工が、

 いったいなんのために必要なのか?”

という理屈が頭もたげてくるからです。

この疑問にはあらゆる物語的理想や真理の説得性を

木っ端微塵にしてしまうだけの潜在力があったようです。

永遠の時間があって、

無限無量の試みがなされた挙句の果てに、

今なおその物語的理想や真理が

実現していないではないか、と。

Oshoからは

「生とは解決すべき問題ではない、

 生きるべき神秘だ」

と教わり、

そのように納得しなければならないのだ

と思い込もうとした時期もあります。

しかし、どうやらpariパターンは

そのために用意された道具ではなかったようです。

  <何故にすべては始まってしまったのか?>

という疑問が完全に解体していませんでした。

この『アセンション館通信』が始まってから

わずか一年後に

今は亡き友人のナンダンから

「俺はもう読まないからパリトショにやるよ」

と言われて、

出版後まだ間もない『私は在る』を譲り受けます。

(-||-)

この本は高かったので自分では買わない本でした。

あまり期待して読みはじめた記憶はありません。

でもなぜか、この『私は在る』の言葉は

pariパターンの理屈マインドをヒットしました。

わかったとは言えないけれど、

これは自分にピッタリの本だと確信しました。

やがて良太さんのありがたい提案に乗って、

マハラジの言葉の写経をはじめます。

下垂体腫瘍の手術で入院したのは、

その半年後くらいでした。

『私は在る』を譲り受けてから一年後のことです。

すでにナンダンはいませんでした。

そして退院してからは

もう、アセンションについて書くのは

不可能だと思いました。

それから現在はちょうど十年になります。

にもかかわらず、

相変わらずしていることと言えば一週間にいちど、

このメルマガでマハラジの言葉や

その周辺の言葉をなぞっているだけです。

どんな体験をしたわけでもない。

体験などいらないという言葉を

理解しようとしてきただけです。

──────────────────
 質問者 では、何が私を成熟させるのでしょう?
     体験が必要なのでしょうか?
 
 マハラジ
 あなたはすでに必要な体験をすべて得ている。
 そうでなければここには来なかっただろう。
 これ以上体験を積む必要はない。
 むしろ体験を超えていかなければならないのだ。
 あなたがいかなる努力をし、
 いかなる修練(サーダナ)にしたがおうとも、
 それは単により多くの体験を重ねるだけで、
 それを超えてはいかない。
 本を読むこともまた、
 あなたを助けはしないだろう。
 それらはあなたのマインドを豊かにはするだろう。
 だが、個人であるあなたは影響を受けないままだ。
 もし探求から物質的、精神的、
 霊的な何らかの恩恵を期待するなら、
 あなたは要点をはずしているのだ。
 真理はいかなる利点もあなたに与えない。
 それはあなたにより高い地位も、
 他者に対するいかなる権力も与えはしない。
 あなたが得るのは真理、
 そして偽りからの自由だけなのだ。
 
 『私は在る』(p332)
──────────────────

(-||-)

> あなたはすでに必要な体験をすべて得ている。

このマハラジの言葉を信じるしかありません。

そうでなければ、

マハラジの言葉を読む意味もない。

> もし探求から物質的、精神的、
> 霊的な何らかの恩恵を期待するなら、
> あなたは要点をはずしているのだ。

これはわかるような気がします。

> 真理はいかなる利点もあなたに与えない。

しかし……そうか。(-_-)

> あなたが得るのは真理、
> そして偽りからの自由だけなのだ。

了解です。


というわけでこの十年間、

ああでもないこうでもないと、

マハラジの言葉に思い悩んできただけです。

それも、一週間に一度だけ。

それで、いったいなにがわかったか?

いま、pariパターンという想念群で

何が確かなことがあるのか、

それを再確認しようと思います。

というのも、

じつは十年前の今日が、

地域の草刈りの後で

頭が痛くなって寝込んだ日だったのです。
https://www.ascensionkan.com/mm/vol134.html#6

十年はアッという間にすぎますね。

まるでこの十年は、

一向に深まらない理屈マインドにとって

想念の世界を諦めることが

どれほどの難事業なのかという

証明みたいなものとも言えます。

なにしろ十年かけても、

まだ諦めきれないわけですから。

──────────────────
 何にもまして、
 私たちは意識しつづけていたい。
 あらゆる苦しみや屈辱を耐えてでも、
 意識しつづけることを望むのだ。
 この体験への欲望に逆らって、
 顕現すべてを手放さないかぎり、
 解放はありえない。
 私たちは罠にはまったままなのだ。
 
 『私は在る』(p346)
──────────────────

(*-_-*)

つまり、

諦めるには諦めるだけの理屈がいる、

ということです。

そういうパターンには

そういう道しかないわけですから。

──────────────────
 解放への道には何も立ちはだかっていない。
 そしそしてそれは今ここで起こることができる。
 だが、
 あなたはほかのことにもっと興味がある。
 そしてあなたはその興味と闘うことはできないのだ。
 あなたはそれとともに行き、それを見抜き、
 それが単に判断と賞賛の誤りであることを、
 それ自体が自ら暴くのを見守らなければならないのだ。
 
 『私は在る』(p475)
──────────────────

> あなたはそれとともに行き、それを見抜き、
> それが単に判断と賞賛の誤りであることを、
> それ自体が自ら暴くのを見守らなければならないのだ。

この「それ自体が自ら暴くのを見守」る行為を、

もしこれからすべて自分の個人的体験によって

やろうとするなら、

それこそいくつの生涯があっても

足りるということはないでしょう。

──────────────────
 体験はただ記憶を後に残し、
 すでに充分重い重荷に加えるだけだ。
 あなたにこれ以上の体験は必要ない。
 過去のものだけで充分だ。
 そして、
 もしそれ以上が必要だというのなら、
 周囲の人びとのハートのなかに見入るがいい。
 何千年かけても不可能な
 多様な体験の数々をあなたは見いだすだろう。
 他者の悲しみから学びなさい。
 そしてあなた自身を救うがいい。
 あなたに必要なのは体験ではなく、
 すべての体験から自由になることだ。
 体験に貪欲(どんよく)になってはいけない。
 あなたには何も必要ないのだ。
 
 『私は在る』(p336)
──────────────────

> 他者の悲しみから学びなさい。

(;_;)

> そしてあなた自身を救うがいい。

(-_-)

> あなたに必要なのは体験ではなく、
> すべての体験から自由になることだ。

……。(-||-)


むかし、

神保町の職場に勤めていたころ

pariパターンはOshoの本に出会いました。

そして通勤電車のなかでこんな言葉を読んだ。

“三ヶ月間、他のものは読まずに、

 これだけを読みなさい。

 そうすれば、変化が起こる”、と。

そして、実際にそうしてみた。

行き帰りの電車の中では他の本は読まなかった。

すると、結局、

インドに行かなければならないことになりました。

帰ってきてからしばらくして出版された

山尾三省訳の『ラマナ・マハリシの教え』
http://tinyurl.com/2cs6x7y

を買って読んでみました。

しかしこの本は、

当時のpariパターンには理解不能でした。

何を言っているのか、まったくわからなかった。

それから二十年以上が経って

『私は在る』を読んだとき、

語られている観念の領域に

pariパターンという想念群が

接触可能になっていたのでしょう。

なぜかマハラジの言葉が

ストレートにヒットしてきました。

たぶん、現在というタイムラインでは

もっとずっと容易に接触できるのかもしれません。

そんなことはともかく、

いまですよね。

確実だと思えることが何かあるのか、です。

たとえば、こういうことは、

明らかなことなのか?

──────────────────
 世界は矛盾でいっぱいだ。
 それゆえ、
 あなたは調和と平和を探しているのだ。
 それらを世界のなかに見いだすことはできない。
 世界とは混沌(こんとん)の子供だからだ。
 秩序を見いだすためには、
 あなたは内面を探求しなければならない。
 あなたが身体の中に生まれて、
 はじめて世界は存在を表す。
 身体がなければ、世界はない。
 まずあなたが身体なのかどうか、
 探求しなさい。
 世界を理解することは、
 後にそれにしたがってやってくるだろう。
 
 『私は在る』(p224)
──────────────────

> 世界は矛盾でいっぱいだ。

それは完璧にわかります。

> それゆえ、
> あなたは調和と平和を探しているのだ。

たしかに。

> それらを世界のなかに見いだすことはできない。

そう。(-_-;)

今のこの瞬間はそう思うのだけれど。(*-_-*)

> 世界とは混沌(こんとん)の子供だからだ。

はい。(-_-)

> 秩序を見いだすためには、
> あなたは内面を探求しなければならない。

それがどれくらい、はっきりしているのか。(*-_-*)

というより、その探求が始まっているのか……。

> あなたが身体の中に生まれて、
> はじめて世界は存在を表す。

はい。

> 身体がなければ、世界はない。

わかります。

> まずあなたが身体なのかどうか、
> 探求しなさい。

自分が身体じゃないことは、

観念的にはわかっているつもりなのに……。

> 世界を理解することは、
> 後にそれにしたがってやってくるだろう。

そうなんだよなぁ。(-_-;)


という具合で、

まず最初から脱線事故です。

要するに、

【秩序を見いだすためには、
 あなたは内面を探求しなければならない。】

という、これだけのことが、

完璧に納得できていないということなのでしょう。

十年以上マハラジの言葉を読んできました。

しかし、これだけのことを本当に理解したのかどうか。

──────────────────
 世界の不幸はそれと関わるなかで、
 あなたがあなた自身の欲望と恐れから
 つくり出してきたのだ。
 すべてはあなたが
 真我の存在を忘れてしまったためだ。
 スクリーン上の画像に現実性を与えた上で、
 あなたはそれらの人々を愛し、
 彼らのために苦しみ、
 彼らへの救いを求める。
 そうではない。
 あなたはまず、
 あなた自身からはじめなければならないのだ。
 ほかに道はない。
 
 『私は在る』(p62)
──────────────────

(-_-;)

> 世界の不幸はそれと関わるなかで、
> あなたがあなた自身の欲望と恐れから
> つくり出してきたのだ。

これだけのことが、

本当に納得できているのか……。

マハラジから少しでも学ぼうとするなら、

まず、ここは突破しなければならない。

> あなたはまず、
> あなた自身からはじめなければならないのだ。
> ほかに道はない。

これは、けっきょくは

【まずあなたが身体なのかどうか、
 探求しなさい。】
 
ということになるわけですよね。

pariパターンの場合、なぜか

この悩んでいる存在が身体ではないということが、

最初からあまりにも自明だと思われていました。

ところがそこのところが、

理屈だけでは確信が深まらない……。

だからさらに十年以上をかけて

これを理屈で理解しようとしてきたわけです。

効果はゼロではないかもしれないけど、

砂上の楼閣かもしれません。

やはり、

自分で確認するしかないわけです。

マハラジが言うには、

こういうことのようなのです。

──────────────────
 実際には、何の欠如も必要もない。
 すべての仕事はただ表面上のものだ。
 その深みには完全な平和がある。
 すべての問題が現れるのは、
 あなたが自分自身を定義し、
 それゆえ限定したからだ。
 あなたが自分自身をあれやこれやと考えないとき、
 すべての葛藤はやむ。
 問題に対処しようとするいかなる試みも、
 失敗せざるをえない。
 なぜなら、
 欲望によって起こったことは、
 欲望から自由になることによってのみ、
 取り消すことができるからだ。
 あなたは自分自身を時間と空間のなかに閉じこめ、
 一生という期間と、
 身体という容積のなかに自分を押し込めてしまった。
 それゆえ、
 生と死、快楽と苦痛、期待と恐れという
 無数の葛藤をつくり出したのだ。
 幻想を放棄せずに、
 問題を追い払うことはできない。
 
 『私は在る』(p221)
──────────────────

> 実際には、何の欠如も必要もない。

これも理屈マインドとしては納得できる話です。

むしろ、そうでなければならない。

> すべての仕事はただ表面上のものだ。

すべての仕事はただ表面上のものなんです。

> その深みには完全な平和がある。

やっぱり、ここですね。

これを体験的に納得しなければならない。

表面の想念群をかき回しながら、

完全な平和に到ろうというのは無理なのです。

> あなたが自分自身をあれやこれやと考えないとき、
> すべての葛藤はやむ。

そう……思考が働いていなければ何の問題もない。

> 問題に対処しようとするいかなる試みも、
> 失敗せざるをえない。

これは、なぜ?

> なぜなら、
> 欲望によって起こったことは、
> 欲望から自由になることによってのみ、
> 取り消すことができるからだ。

あぁ、そういうことなのか。(-_-;)

けっきょく、

欲望から自由にならなければならないんだ。

> あなたは自分自身を時間と空間のなかに閉じこめ、
> 一生という期間と、
> 身体という容積のなかに自分を押し込めてしまった。

その定義を負ったままで、

平和に到ろうというのは無理なんだ。

> 幻想を放棄せずに、
> 問題を追い払うことはできない。

その路線はいい加減に諦めなさい、

ということだなぁ。(-_-)


pariパターンという下根パターンは、

十年かけて、

それは無理なんだということを

理解しつつあるということでしょうね。

もうその路線は、

追求するだけの意味がないわけです。

──────────────────
 あなた自身を改善しようと試みてはならない。
 ただすべての変化が無駄であることを見るのだ。
 変化するものは変化しつづける。
 その間、
 不変なるものは待ちつづけているのだ。
 変化するものが
 不変なるものへとあなたを連れていくと、
 期待してはならない。
 それはけっして起こらない。
 変化という観念自体が偽りとして見られ、
 放棄されたときにのみ、
 不変なるものがおのずと現れるのだ。
 
 『私は在る』(p541)
──────────────────

> あなた自身を改善しようと試みてはならない。

これは夢のなかの境遇を改善しようとしてはならない、

という意味なのかなぁ。(-_-)

> ただすべての変化が無駄であることを見るのだ。

夢の場面の変化は夢の場面の変化の意味しかない。

どんなにまじめに追求しても、

見ている執着の解体にはつながらない。

> 変化するものは変化しつづける。

夢の場面は変化しつづける。

> その間、
> 不変なるものは待ちつづけているのだ。

夢を見ている執着の背後で、

そのドラマを可能にしているものは、

永遠に待ちつづけている。

> 変化するものが
> 不変なるものへとあなたを連れていくと、
> 期待してはならない。

見ている夢のドラマの展開が

それを見ている執着の解体につながると、

期待してはならない。

> それはけっして起こらない。

そんなことはかつて起こった試しがない。

太陽は地上のドラマを可能にしてはいても、

地上のドラマの展開に責任はないのだから。

> 変化という観念自体が偽りとして見られ、
> 放棄されたときにのみ、
> 不変なるものがおのずと現れるのだ。

現れるもの、変化するものが

すべて偽りとして理解され

放棄されたときにのみ、

ドラマを見ていた執着は

自らの執着の無意味さを理解しはじめる。

──────────────────
 知覚されたものは知覚者ではありえない、
 と覚えておくことを覚えておきなさい。
 あなたが何を見ようと、
 聞こうと、考えようと、覚えようと――
 起こることがあなたなのではない。
 あなたはそれが起こる当人なのだ。
 「私は在る」という感覚のなかに
 深く潜っていきなさい。
 そうすれば、
 かならず知覚の中心が、
 世界を照らす光のように
 普遍的であることを発見することだろう。
 宇宙のなかで起こることはすべて、
 沈黙の観照者であるあなたに起こる。
 その反対に、
 何であれ為されたことは、
 普遍的で無尽蔵のエネルギーである
 あなたによって為されるのだ。
 
 『私は在る』(p538-539)
──────────────────

要するに……

> 「私は在る」という感覚のなかに
> 深く潜っていきなさい。

ということだと思います。

なぜなら、

「私は在る」は夢のなかでも事実であり、

しかも夢の外にまで通貫している事実だから。

──────────────────
 「私は在る」は世界のなかにある。
 しかし、それは世界の外に出るための
 扉を開く鍵なのだ。
 水面に踊る月は、水のなかに見られる。
 だが、それは水によってではなく、
 空の月によって生じたのだ。
 
 『私は在る』(p217)
──────────────────

> 「私は在る」は世界のなかにある。

はい、現象のなかの執着、自我ですら、

「私は在る」と言います。

> しかし、それは世界の外に出るための
> 扉を開く鍵なのだ。

この「私は在る」の感覚だけは、

夢の外にまで通貫している。

> 水面に踊る月は、水のなかに見られる。

水面にちらちら揺れる月影……。

この現象のなかの執着、自我ですら知っている

「私は在る」の感覚……。

> だが、それは水によってではなく、
> 空の月によって生じたのだ。

この「私は在る」の感覚は、

現象のなかの執着、自我に由来するのではなく、

すべての顕現を可能にしている

非顕現である実在が可能にしているのだ。

──────────────────
 そこには、
 何であれそれが知覚するものに
 実在性を分け与える中心がある。
 あなたが理解すべきことは、
 あなたは実在の源であり、
 実在を得るのではなく、
 あなたが実在を与えるということだけだ。
 あなたには何の支持も確証も必要ないのだ。
 
 『私は在る』(p361)
──────────────────

> そこには、
> 何であれそれが知覚するものに
> 実在性を分け与える中心がある。

そこにはつかの間の現れに

現実性を分け与える中心がある。

> あなたが理解すべきことは、
> あなたは実在の源であり、
> 実在を得るのではなく、
> あなたが実在を与えるということだけだ。

理解すべきことは、

わたしが執着をもって対象を見るとき

わたしがその対象に現実性を与えている

ということだけだ。

> あなたには何の支持も確証も必要ないのだ。

わたしの存在感覚、

つまり夢への執着(自我)の存在感覚は、

実在(の存在性)の反映であって、

ほかのどんな支持も確証も必要としていない。

──────────────────
 結局、
 幻想をつくり出すのはマインドであり、
 それから自由になるのもマインドなのだ。
 
 『私は在る』(p192)
──────────────────

> 結局、
> 幻想をつくり出すのはマインドであり、

はい。

> それから自由になるのもマインドなのだ。

わかりました。

(-||-)

──────────────────
 あなたがどこへ行こうと、
 今、ここという感覚はつねにあなたとともにある。
 それはつまり、
 あなたは時間と空間に依存していないということだ。
 時間と空間はあなたのなかにあり、
 あなたがそれらのなかにあるのではない。
 時間と空間に限定された身体との自己同一化が、
 あなたに有限の感覚を与えるのだ。
 実際には、あなたは無限で永遠なのだ。
 
 『私は在る』(p535)
──────────────────

> あなたがどこへ行こうと、
> 今、ここという感覚はつねにあなたとともにある。

わかります。

> それはつまり、
> あなたは時間と空間に依存していないということだ。

了解です。

> 時間と空間はあなたのなかにあり、
> あなたがそれらのなかにあるのではない。

夢のドラマはわたしのなかにあり、

わたしが夢のドラマのなかにいるのではない。

> 時間と空間に限定された身体との自己同一化が、
> あなたに有限の感覚を与えるのだ。

はい、間違いありません。

> 実際には、あなたは無限で永遠なのだ。

実際には、わたしが無限で永遠なのです。

(-||-)

──────────────────
 もしあなたが興味を失えば
 いかなる記憶も持続はしない。
 束縛を永続させるのは感情的なつながりなのだ。
 あなたはつねに快楽を求め、
 苦痛を避けている。
 いつも幸福と平和を追い続けているのだ。
 あなたの幸福への探求自体が、
 あなたを惨めに感じさせているのが
 わからないだろうか?
 ほかの方法を試してみなさい。
 苦痛と快楽に無関心でありなさい。
 求めず、拒まず、
 永遠に存在する「私は在る」のレベルに、
 あなたのすべての注意を払いなさい。
 
 『私は在る』(p258)
──────────────────

> もしあなたが興味を失えば
> いかなる記憶も持続はしない。

十年本を読みつづけても、

夢の画面が勝手に

夢を見ることに興味を失う場面に

連れて行ってはくれない。

あなたが興味を失うまでは……。

運命と恩寵は同じものです。

夢に興味を失うこと……。

(-||-)

──────────────────
 あなたは在る。
 ほかのすべては現れにすぎない。
 
 『私は在る』(p421)
──────────────────

(-||-)

──────────────────
 永久的なもの、それはあなた自身の存在である。
 真我として在りなさい。
 それが至福である。
 あなたはいつもそれなのである。
 
 『あるがままに』(p58) 
──────────────────

……。(-_-)

ありがとうございました。<(_ _)>

(-||-)

今日はこんなところで。

……。

m(_ _)m


       ………○…………○…………○………


『私は在る』の「目次」はここ↓に置いてあります。
https://www.ascensionkan.com/books/I_AM_THAT-index.html

ときどき「ニサルガ辞書」で遊んでみてください。
https://www.ascensionkan.com/ndic/

新しい「ラマナ・マハルシ辞書」はここです。
https://www.ascensionkan.com/rdic/

おこがましくも『アセ通』既刊号はすべてここに置いてあります。
https://www.ascensionkan.com/mm/


       ………○…………○…………○………


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というのを作らせていただきました。(^^;)

「私は在る」に関するご意見・ご感想・シェアリング、または単な
るメールなど、ご自由にお書きいただければと思います。


       ………○…………○…………○………


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「ご投稿・情報提供」を歓迎いたします。

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        …………○…………○…………○…………


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■ 2.編集後記:
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書きはじめてふと気がついて調べてみたら、

あれから十年目でした。

バカな話……とも思えます。

でも、

興味を持ってみている夢のストーリーに

文句を言っても仕方がない。

──────────────────
 質問者 
 人の人生において、彼の国、国民、家族、仕事、職業、結婚、死な
 どにおける顕著な出来事が、彼のカルマによってすべて宿命づけら
 れていることは理解できますが、しかし彼の人生の詳細すべてに至
 るまで、取るに足らないことまで、すでに決定されているのでしょ
 うか? 例えば、今私は手のなかの扇を床の上に置きました。それ
 はこの日、この時間に、私がこのように扇を動かし、このようにこ
 こに置くということまで、すでに決定されているということなので
 しょうか?
 
 マハルシ
 もちろんだ。
 何であれこの身体がすること、
 そして何であれそれが通り抜ける体験は、
 その身体が存在を現したときにすでに決定されているのである。
 
 『あるがままに』(p388) 
──────────────────

このマハルシの言葉を信じています。

マハルシが嘘を言って、

われわれを騙す必要があるとは思えないので。

今日はすっかり夜になりました。

お休みなさい。

<(_ _)>


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■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
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  → メール: pariアットマークjk2.so-net.ne.jp
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