home > 通信 >『アセンション館通信』(第651号):抵抗という問題は起こらない



━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
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 ☆☆     ☆☆『アセンション館通信』2016/10/02(第651号)
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☆☆      ☆★ 【気刊】――「私は在る」に導かれ♪――
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇

このメルマガはアセンション館主人pariと称するあるパターンに
浮上している心象風景の報告です。

現象がpariに起こっているかぎりpariの苦しみは避けられない。

pariとは誰か、そういう者は本当に存在しているのか?

内容は人畜無害、でも読む人は相当変わっていますね。現在869名
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◇◇ もくじ ◇◇

1.抵抗という問題は起こらない

2.編集後記
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■ 1.抵抗という問題は起こらない
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十月に入りましたね。

十月に入ってもまだけっこう雨があるのだとか。

とはいえ、夢の中にいて

できることなど何もないんですが。(^^;)

(*^_^*)

さて、またまた一週間が過ぎて、

楽しい“アセンション噺”ならぬ「私は在る」噺に、

お付き合いいただく今がやってまいりました。

『アセンション館通信』配達人の pari です。

みなさま固有の「私は在る」を、いかがお過ごしでしょうか?

どんな理屈をこねることも無駄だと感じています。

でも、まだ無駄だと

知っているわけではないのでしょう。

だからこうして、

また理屈をこねようとしている。

見ているしか仕方ありません。(^^;)

──────────────────
 あなたは心である。
 あるいは、
 あなたは心だと考えている。
 心とは想念以外の何ものでもない。
 さて、あらゆる特定の想念の背後には、
 「私」という普遍的想念がある。
 それがあなた自身である。
 この「私」を第一の想念と呼ぶこととしよう。
 この「私」という想念を心に保ちなさい。
 そしてそれが何なのかを見いだすために
 問いただしなさい。
 この問いがあなたの注意を
 強固に引きとどめるようになったとき、
 他には何も考えることができなくなるのだ。
 
 『あるがままに』(p102)
──────────────────

> あなたは心である。

マハルシが本心でこうおっしゃるわけはないので、

ここでいう「あなた」は

もちろん、自我の意味ですよね。

> あるいは、
> あなたは心だと考えている。

そういうことです。

これを賢者の口真似の理屈で、

“いえ、わたしはマインドではありません”などと

否定することは簡単です。

でも、事実上は

このメッセージを否定できる人はまずいない。

われわれのいう「わたし」というのは

マインドのことです。

自分に今そういう気持ちが起こっているという

その自分の気持ちのことです。

> 心とは想念以外の何ものでもない。

われわれが自分だと自覚しているものは

その瞬間その瞬間に湧いてくる想念のことだ、

とマハルシはおっしゃっているわけです。

> さて、あらゆる特定の想念の背後には、
> 「私」という普遍的想念がある。

その瞬間その瞬間に

多様な想念が湧いてくるのは、

その背後に「私」という普遍的想念があるからだ、と。

> それがあなた自身である。

その「私」という普遍的想念が

事実上のわたし自身、

われわれの自分という感覚の本体である、

とマハルシはおっしゃる。

> この「私」を第一の想念と呼ぶこととしよう。

なので、

この「私」という普遍的想念を

第一の想念と呼ぶこととしよう、と。

むろん、

われわれに異存のありようはずもありません。

> この「私」という想念を心に保ちなさい。

このマハルシの指示は

とてもグレードの高い指示なのかもしれません。

でも、その瞬間その瞬間に湧いてくる想念に

一喜一憂しているときに、

ふっと、

これはわたしに対して湧いている想念であって、

わたし自身ではなかった、と思い出す瞬間が

まったくない、というわけでもありません。

ふっと、

あ、これは想念だった、(@_@)

わたし自身ではない、と思い出すことも、

めったにないけど……、(^_-)

ほんとに、たまーには、ありますよね。

> そしてそれが何なのかを見いだすために
> 問いただしなさい。

そのとき、

この、事実上のわたし自身、わたしという感覚の本体、

この「私」という想念って、いったいなんなんだろうって、

問いただすというのが、これから作らなければならない

習慣であるらしい。(-_-;)

> この問いがあなたの注意を
> 強固に引きとどめるようになったとき、
> 他には何も考えることができなくなるのだ。

なるほど。

先のなが〜い話だけれど、

この問いがわたしの注意を

強固に引きとどめるようになるまでは

粘らなければならない。

どうやらそういうことらしいです。

なにしろ、

「何故にすべては始まってしまったのか?」

と自分で疑問を持ちはじめた、

と主張している“凝り”のようなものがあるらしいですから。

──────────────────
 質問者
 私は死に関して考えることが私を脅かすことに気づきました。
 なぜなら、私はふたたび誕生したくないからです。
 誰もそれを強要していないことは知っています。
 それでも、満たされなかった欲望の圧力は圧倒的で、私には
 抵抗できそうにないかもしれません。
 
 マハラジ
 抵抗という問題は起こらない。
 誕生し、再誕生するものは、あなたではないからだ。
 それを起こらせるがいい。
 それが起こるのを見なさい。
 
 『私は在る』(p488)
──────────────────

> 抵抗という問題は起こらない。

マハラジのこの言葉が

いまいち腑に落ちていませんでした。(-_-;)

> 誕生し、再誕生するものは、あなたではないからだ。

ここがどうも、

いまいちスッキリしていなかったです。

そのスッキリしていないその部分が、

「誕生し、再誕生するもの」に自己同化している“凝り”の部分、

ということなんでしょうね。(^_-)

そもそも、

「誕生し、再誕生するもの」は劇の登場人物なのですから、

これが登場している劇のシナリオに抵抗するなどということは

ありえないわけです。(^^;)

抵抗するシナリオになっていれば別ですが。(^_-)

それなら映画のなかでシナリオどおりに抵抗しているわけで、

それを抵抗というのかどうか。(*^_^*)

劇を見ている者、

つまり映画の観賞者にとっては、

> それを起こらせるがいい。
> それが起こるのを見なさい。

ということになるわけでしょうね。

なにしろ、

その映画を観に来ているんだから。

だからこそ……、

> 関心をもっているのはあなたなのだ!

なんですよね。

──────────────────
 関心をもっているのはあなたなのだ!
 そして、その絵があなたの真実、
 愛、美の感覚と衝突するかぎり、
 あなたはそれに関心をもちつづけるだろう。
 調和と平和への熱望は、
 消し去ることのできないものだ。
 だが、
 ひとたびそれが満たされれば関心は去り、
 身体的生活は注意のレベル以下の
 努力を要しないものとなる。
 身体を得るか、身体を去るかは、
 あなたにとって同じこととなる。
 あなたには
 何ひとつ起こらないという地点に達するのだ。
 身体なしには殺されない。
 所有物なしには奪われない。
 マインドなしには騙(だま)されない。
 そこに欲望や恐れを引っかける留めクギもない。
 何の変化もあなたに起こらないかぎり、
 ほかに何の問題があるだろうか?
 
 『私は在る』(p488)
──────────────────

> 関心をもっているのはあなたなのだ!

たしかに。(-_-)

このドラマを観にきたのはわたしでした。

それがマハルシのいう【「私」という想念】の

基に当たるのでしょう。

> そして、その絵があなたの真実、
> 愛、美の感覚と衝突するかぎり、
> あなたはそれに関心をもちつづけるだろう。

映画を観に映画館に行く者は、

映画のなかのドラマによって引き起こされる反応を、

物語の展開に応じてその瞬間その瞬間に湧いてくる想念を、

楽しみに来たわけです。

その瞬間それを自分だと思えるから、それができる。

テレビのニュースなどで、

両親に連れられてイベント会場にきた小さな子が、

よくインタビュアーのマイクに向かって、

「タノシカッタア」などと言っているものです。

あれを味わいに来たわけです。

でも、子供を連れてきた親の方は、

子供ほど楽しんでいるわけではない。

入園料が想像以上に高くて落ち込んでるかもしれない。

でも、他に方法はないわけです。

だって、

映画に登場しちゃってるんですから。(*^_^*)

そしていつか、

なんでそんなことをしているのかわからなくなる。

<何故にすべては始まってしまったのか?>

などと改めて戸惑うことになる。

でも、「何故にすべては始まってしまったのか?」

もへったくれもありません。

> 関心をもっているのはあなたなのだ!

というわけなのです。

この映画に興味を持ったのは間違いなく自分です。

でも、その賞味期限が切れつつあるのも確かです。

もう、子供みたいに素直に、

「タノシカッタア」とばかりも言っていられない。

もう楽しみたいエネルギーなどはヘタってしまって、

気分の上下動を楽しむ余裕すらなくなって、

ただもう落ち着きたいんです。

> 調和と平和への熱望は、
> 消し去ることのできないものだ。

間違いなく、そんな感じです。

> だが、
> ひとたびそれが満たされれば関心は去り、
> 身体的生活は注意のレベル以下の
> 努力を要しないものとなる。

映画のなかのドラマと自分が

まったく別物であることが自明になったら、

別に必ずしも、クソ真面目に

刺激を求めなければならないわけでもない。

> 身体を得るか、身体を去るかは、
> あなたにとって同じこととなる。

どうでもいいものは、どうでもいいわけです。

> あなたには
> 何ひとつ起こらないという地点に達するのだ。

身体がいつか死ぬことは自明だけれど、

だからといってどうできるわけでもないし、

どうしたいということもない。

それはただ映画のなかの役割にすぎない。

“見たい自分”がいなくなれば、

気にする存在も心配する存在もいないのでしょう。

> 身体なしには殺されない。
> 所有物なしには奪われない。

それは映画のなかの身体の運命。

> マインドなしには騙(だま)されない。

その瞬間その瞬間に湧いてくる想念を

自分だと思っていた誰かはもういない。

> そこに欲望や恐れを引っかける留めクギもない。

関心というフックがひとつひとつ丁寧に

解除されている……。

> 何の変化もあなたに起こらないかぎり、
> ほかに何の問題があるだろうか?

気にする誰がそこにいるだろうか?

まあ、そういうことなんでしょうか。(*-_-*)

すべてマインドの想念にすぎませんが。

(-||-)

──────────────────
 あなたは在る。
 ほかのすべては現れにすぎない。
 
 『私は在る』(p421)
──────────────────

(-||-)

──────────────────
 永久的なもの、それはあなた自身の存在である。
 真我として在りなさい。
 それが至福である。
 あなたはいつもそれなのである。
 
 『あるがままに』(p58) 
──────────────────

……。(-_-)

ありがとうございました。<(_ _)>

(-||-)

今日はこんなところで。

……。

m(_ _)m


       ………○…………○…………○………


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■ 2.編集後記:
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こうして実力以上のメルマガを書くことが、

いいことだと思っているわけでもありません。

いいと思おうが、悪いと思おうが、

どのみち身体に

その運命を変える自由があるわけではない、

と信じようとしているだけです。

マハルシがわれわれを騙すはずもないので。

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 身体はプラーラブダによって宿命づけられた、
 避けることのできない行為を通り抜けていくだろう。
 人は身体と彼自身を同一視し、
 その身体の行為の報いに執着するか、
 あるいはそれから離れ、
 身体の活動の単なる目撃者となるか、
 という選択の自由だけをもっているのである。
 
 『あるがままに』(p389)
──────────────────

身体が辿る運命をリードするのは、

この身体に湧いてくる想念だけだと思っています。

今日は午後から書きはじめましたが、

霧のなかに滲んでいる外はまだ明るいようです。

今日はこんなところで。

<(_ _)>


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■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
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