home > 通信 >『アセンション館通信』(第654号):誰も生きていない生の感覚



━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
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 ☆☆     ☆☆『アセンション館通信』2016/10/23(第654号)
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☆☆      ☆★ 【気刊】――「私は在る」に導かれ♪――
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 ☆☆   ☆☆          https://www.ascensionkan.com/
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇

このメルマガはアセンション館主人pariと称するあるパターンに
浮上している心象風景の報告です。

現象がpariに起こっているかぎりpariの苦しみは避けられない。

pariとは誰か、そういう者は本当に存在しているのか?

内容は人畜無害、でも読む人は相当変わっていますね。現在869名
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◇◇ もくじ ◇◇

1.誰も生きていない生の感覚

2.「ご投稿・情報提供」: KENさん

3.編集後記
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■ 1.誰も生きていない生の感覚
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今日は土曜日、

夢の中は心なしか蓋をしたような一面の曇り空です。

(*^_^*)

さて、またまた一週間が過ぎて、

楽しい“アセンション噺”ならぬ「私は在る」噺に、

お付き合いいただく今がやってまいりました。

『アセンション館通信』配達人の pari です。

みなさま固有の「私は在る」を、いかがお過ごしでしょうか?

これまで様々な覚者が

物語を支えていた個人が消失したあとの光景を、

それぞれの言葉で語ってきました。

仮想されたそれぞれの個人がたどった

様々な物語や風景や解釈の癖をつうじて、

このわれわれが体験している分離の幻想が

実際はもともと存在していないのだと……。


そういうお話に惹きつけられる分離の夢にとっては

そういう話はそれぞれとても魅力的ですし、

それは真理に違いない、それはそうでなくてはならない

と思われるのです。


さて、ところで、いま上で

【このわれわれが体験している分離の幻想が】

と書きました。

ところがこれは、じつになんというか、

明らかにきわめて誘導的な陳述です。

そこでは、

“分離の幻想”という現象を体験している

われわれという実体が存在することが

あたかも自明の前提であるかのような

表現が採用されているからです。


でも、実際には、

いまここにそんなものは現象していない。

いまここで現象しているのは、

目の前のモニター画面として識別されている視覚的印象、

そのまわりの戸外の風景や部屋として識別されている視覚的印象、

キーボードを叩いている腕や指として識別されている視覚的印象、

そしてその身体的内部感覚の印象、

それと同時にどこからともなく湧いてくる想念、

まあ、そういった感覚的な印象だけです。

そして、これらの感覚的印象ですら、

赤ん坊が感じるであろうと推測される印象とは、

すでに天地ほどの懸隔のある

観念的構造を備えた印象であるに違いありません。


たとえば、「われわれが体験する感覚的印象とは」、

と、こう言っただけで、

これはもう、十分すぎるほどの観念的表現であるわけです。

つまり、そもそも言葉では、

もう観念しか表現のしようがないわけです。

言葉で表現できることは

すべて物語だと言うしかありません。

そしてその記憶の上に構築された観念的物語のなかに

架空の喜びも不幸もあるわけです。


観念的物語のなかに幸福を探し求める想念自体が

すでに幸福から切り離された感覚そのものなので、

その理由の分からない欠落感の理由を

さらに新たな観念的物語を紡ぐことのなかで

改めて発見しようと懸命にもがくのです。

それはまるで、

明らかにこれは何か間違っているとわかっていながら

ユリディスを探し求めて夜の市役所のなかを彷徨い歩く

黒いオルフェのようなものかもしれません。

このごろ、ときどき

トニー・パーソンズの文章を眺めます。

眺めてもどうしようもないのですが、

それがただ起こっていることなので。(*^_^*)

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 どんなことも起こっていません。
 過去もなく、未来もなく、上もなく、下もなく、
 内側もなく、外側もないのです。
 現在の瞬間もありません。
 私に現在の瞬間を見せてください……
 それはどこにありうるでしょうか?
 
 質問者 それはこういったものが概念だからでしょうか。
 
 はい。
 それらはただ分離した人の夢や信念や期待が、
 この時間、目標、意味、目的、原因と結果、
 カルマ、過去生の中に起こっているだけです……
 すべての夢物語がこれとして起こっているのです。
 私たちが分離するやいなや、私たちは答えを望み、
 だから
 「ああ、何か意味があるはずだ。
  なぜこれは起こっているのだろうか?
  なぜ私は天国にいないのだろうか?
  善はどこにあるのだろうか?
  なぜ私はそれを失ったのだろうか?
  私が生きているこの人生には意味があるはずだ。
  だから私がしなければならないことは、
  意味を発見することである」
 という考えをその希望にくつっけるのです。
 それで私たちは意味を教えてくれる人たちのところへ行きます。
 「はい、意味があります。
  努力、犠牲、献身、帰依、変化、
  心身の個人的な浄化、
  その他の何かになる教えを通じて、
  その意味を発見する方法を、
  私が教えてあげましょう」
 と言う悟りマスターたちのところへ行くのです。
 
 『何でもないものが あらゆるものである』(p163)
──────────────────

ぷ。(>_<)

まったく。

トニー・パーソンズの表現は、

あらゆる構造や条件や物語を拒否して、

『何でもないものが あらゆるものである』

の一点張りです。

まあ、高度に洗練された論理的聴衆を前にできる

現代だからこそ起こりうる説法なのかもしれません。

すべてがありのままで、

何でもないものが あらゆるものになっているわけですから、

もちろん、

探求もそのひとつの見かけの現れです

──────────────────
 でも、探求も存在です。
 それが起こっていることです。
 見かけの探求がある間はずっと、
 見かけの原因と結果に対する信念と期待があります。
 ですから、
 何かに近づこうとすることや、
 何かを発見しようとすることの全エネルギーは、
 得ることができない永遠のものを
 いつかは得るだろうという期待のエネルギーです。
 でも、探求しろとか探求するなと、
 私が言っているのではないことは明確にしましょう。
 私はただ、
 「探求者」が常に期待の中で機能しているという
 見かけのジレンマを描写しているだけです。
 探求者の問題は、
 彼らが常に自分は何かであると考えていることです。
 「私は何かである。
  私は人間と呼ばれている何かである。
  そして、『悟り』と呼ばれている何か別のものがあり、
  私はそれを得なければならない」。
 それは別の何かです。
 しかし目覚めとは、
 あなたが探し求めてきたものはすでに何でもなく、
 かつあらゆるものであるという理解です。
 それは向こうの何かではありません。
 それはあらゆるものです。
 まさにこれです。
 あなたが探し求めているものはこれです。
 それは決して失われたことがありませんでした。
 存在の内部で、
 見かけの原因と結果が起こるのです。

 『何でもないものが あらゆるものである』(p144)
──────────────────

こういうメッセージを聴くことによって、

エネルギー的なシフトが起こりうるような

そういう高度に論理的な個人幻想が

引き寄せられているということなんでしょうね。

──────────────────
 目覚めはエネルギー的な出来事です。
 それは収縮から無限性への
 エネルギー的な転換なのです。
 ついでに言うと解放は、
 あるものすべてはあらゆるものであるという
 理解をもたらします。
 あるものすべては存在です。
 あるものすべては生の感覚です。
 生の感覚は存在であり、
 この部屋に今あるのは生の感覚です。
 物事は起きています。
 誰かが入って来るときにはドアの音がします。
 椅子に座っていることが起きています。
 この声を聞くこと、
 この男が自分の腕を振りまわすこと……
 これが今、起こっていることです。
 それは生が起こっているのです。
 これが存在です。
 これは存在がマイクロフォンをやっていて、
 これは存在が椅子をやっていて、
 これは存在が生きているということです。
 
 自分に今起こっているとあなたが考えるどんなことも、
 あなたに起こっているのではなく、
 それはただ起こっているのです。
 生はただ起こっています。
 
 『何でもないものが あらゆるものである』(p140-141)
──────────────────

こういう言葉をただじーっと聴いている……。

すると、

それがあまりにも自明のことであるために、

シフトが起こって剥落する

そういう個人幻想もあるということなのでしょう。

それは起こるかもしれないし、

起こらないかもしれない。

それは誰が起こしているわけでもなければ、

誰に起こっているわけでもない。

──────────────────
 でも、準備ができたとき、
 しかし実際は
 誰の準備ができたわけでもないのですが、
 何か他のことが聞かれることは可能です……
 完全に革命的な別の可能性が聞かれるのです。
 そして聞かれうることとは、
 夢からの目覚めがあるということです。
 でも夢から目覚めるのは夢見る人ではありません。
 夢見る人、探求者がもはや突然いなくなりますが、
 それが目覚めなのです。
 
 起こるのは知覚における根本的な転換です。
 でもそれを起こすことができる人も、
 その目覚めが起きる人も誰もいないのです。
 誰もあなたのためにそれができる人はいませんし、
 あなたもそれをできません。
 なぜなら探求者であるあなたは、
 発見や期待するという
 動きのある物語の中でしか機能しないからです。
 「次回はそうなるだろう。
  次の瞑想のあとでそうなるだろう。
  次のページに書いてあるだろう……
  答えは次のページにあるかもしれない」。
 夢見る人は常に期待に生きています。
 時計は常に時を刻んでいます。
 
 解放はそれとともに、
 どんな時計も、夢見る人も、
 探求者もグルも、
 目覚めも解放もないという理解を
 付随的にもたらします……
 存在するのはただ存在だけです。
 
 ですから、たぶん私たちは、
 質問は起こりうるが、
 ある意味ではどんな答えもないということを
 一緒に発見することでしょう。
 なぜなら、答えは何もないからです。
 人生への答えは解答が何もないことです。
 人生がその答えです。
 それで、おそらく心は戦い、
 それがおこなったり選択できる
 何かを発見しようとし続けるでしょう。
 しかし、ここではそれは
 可能ではないことが発見されるかもしれません。
 対話を通じて、
 質問がそれ自身を再生産し続けるという議論がありますが、
 ここではそれは起こる必要はないのです。
 到着すべき場所はどこにもないことを、
 心はここで発見し、
 だからそれはあきらめることができるのです。
 
 ということで、
 生、すなわちこれは見かけで起こっています。
 それは何でもないものの中で起こっています。
 これはあまりにシンプルなので、
 完全に心を困惑させる根本的な転換です。
 それは誰も生きていない生の感覚です。
 
 『何でもないものが あらゆるものである』(p213-214)
──────────────────

【誰も生きていない生の感覚】

いいですねえ。(-_-;)

ここで起こってくれないかなあ。

(*^_^*)

──────────────────
 あなたは在る。
 ほかのすべては現れにすぎない。
 
 『私は在る』(p421)
──────────────────

(-||-)

──────────────────
 永久的なもの、それはあなた自身の存在である。
 真我として在りなさい。
 それが至福である。
 あなたはいつもそれなのである。
 
 『あるがままに』(p58) 
──────────────────

……。(-_-)

ありがとうございました。<(_ _)>

(-||-)

今日はこんなところで。

……。

m(_ _)m


       ………○…………○…………○………


『私は在る』の「目次」はここ↓に置いてあります。
https://www.ascensionkan.com/books/I_AM_THAT-index.html

ときどき「ニサルガ辞書」で遊んでみてください。
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新しい「ラマナ・マハルシ辞書」はここです。
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おこがましくも『アセ通』既刊号はすべてここに置いてあります。
https://www.ascensionkan.com/mm/


       ………○…………○…………○………


▼『アセ通』への「私は在る」関連ご意見投稿フォーム:
http://www.formzu.net/fgen.ex?ID=P48750702
というのを作らせていただきました。(^^;)

「私は在る」に関するご意見・ご感想・シェアリング、または単な
るメールなど、ご自由にお書きいただければと思います。


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■ 2.「ご投稿・情報提供」: KENさん
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『アセンション館通信』への
「ご投稿・情報提供」を歓迎いたします。

▼『アセンション館通信』への情報ご投稿フォーム
http://www.formzu.net/fgen.ex?ID=P87119518


        …………○…………○…………○…………

今回は、 KENさんという方から情報のご提供がありました。

早速、ご紹介させていただきます。

【件名】: 
──────────────────
 Pariさん
 サイトのシェアをしたいと思います。
 
 自分にとってはすごく来るものがありました。
 http://rix.sakura.ne.jp/kokoro/
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KENさん、ご投稿ありがとうございました。

掲載させていただきました。

<(_ _)>

        …………○…………○…………○…………


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■ 3.編集後記:
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 生命への執着は不幸への執着だ。
 私たちは私たちに苦痛を与えるものに執着するのだ。
 私たちの本性とはそんなものなのだ。
 
 『私は在る』(p436)
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このことについては、

同意するしかない感じです。

エゴには不幸になる能力だけはありますね。

これは間違いない。

──────────────────
 私にとって、
 死の瞬間は恐れではなく祝福の瞬間だ。
 私は泣いて生まれてきた。
 私は笑って死ぬだろう。
 
 『私は在る』(p436)
──────────────────

そうかもしれません。

ま、pariが消失していればということでしょうか。

今日はこんなところで。

<(_ _)>


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■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
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  → メール: pariアットマークjk2.so-net.ne.jp
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