home > 通信 >『アセンション館通信』(第656号):在るのは「アイデンティティ」



━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
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 ☆☆     ☆☆『アセンション館通信』2016/11/06(第656号)
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☆☆      ☆★ 【気刊】――「私は在る」に導かれ♪――
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇

このメルマガはアセンション館主人pariと称するあるパターンに
浮上している心象風景の報告です。

現象がpariに起こっているかぎりpariの苦しみは避けられない。

pariとは誰か、そういう者は本当に存在しているのか?

内容は人畜無害、でも読む人は相当変わっていますね。現在869名
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◇◇ もくじ ◇◇

1.在るのは「アイデンティティ」

2.編集後記
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■ 1.在るのは「アイデンティティ」
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今日は土曜日、すばらしい天気ですね。

だからどうだということもないのですが、

でもそうひねくれることもないし。(^_-)

いい天気はいい天気です。

(*^_^*)

さて、またまた一週間が過ぎて、

楽しい“アセンション噺”ならぬ「私は在る」噺に、

お付き合いいただく今がやってまいりました。

『アセンション館通信』配達人の pari です。

いま上にも書きましたが、なにやかや

とにかくいろいろな想念がわいてくるものです。

で、われわれはたいてい

そのわいてきた想念を“自分”だと思う。

“自分”という者がいることになっているからです。

でも、いろいろ

覚者と言われるような方々のご意見をうかがうと

どうやらその

【“自分”という者がいる】という観念以外に

“自分”の実体は存在しないらしい。

言われてみるとたしかに、

“自分”なんてそれほど素性の確かなものでもない。

たとえば、たどれる記憶の限界があります。

pariパターンなどの場合だと

最初の記憶というのは、

年齢のことはわかりませんが、

いくつか畳が立てかけてある部屋の記憶があります。

二枚の畳を両側からもたせかけて

部屋のなかにいくつか立ててある(らしい)場面です。

床の印象がほこりっぽいのです。

たぶん、そのほこりっぽい床の印象が

とても新鮮でショックだったのだと思います。

もしかしたら、

大掃除で畳を上げた床には、

一面に新聞紙が敷き詰めてあったのかもしれません。

それくらい普段見慣れた光景と違って

ショックだったから記憶が残ったのでしょう。

おそらく三歳か四歳。

ということは、それ以前の経験は

もちろん、記憶の形成には使われているだろうけど、

回想された記憶としては残っていないわけです。

昔は、今よりはずっと、

子供は子供のままで放っておかれたと思います。

わたしの家は本屋だったので、

子供にかまっている時間などなかったでしょう。

お陰でずいぶん楽をさせてもらったと思います。

記憶もないのに“自分”なんているわけがないです。

もちろん、その“自分”の根拠になるような

【存在感】があるわけでしょうけど。

この【存在感】という言葉を、

ラマナ・マハルシが言う

湧いてくる最初の想念の意味にとれば、

それは「分離の夢」の根拠になるものでしょう。

──────────────────
 あなたは心である。
 あるいは、あなたは心だと考えている。
 心とは想念以外の何ものでもない。
 さて、あらゆる特定の想念の背後には、
 「私」という普遍的想念がある。
 それがあなた自身である。
 この「私」を第一の想念と呼ぶこととしよう。
 この「私」という想念を心に保ちなさい。
 そしてそれが何なのかを
 見いだすために問いただしなさい。
 この問いがあなたの注意を
 強固に引きとどめるようになったとき、
 他には何も考えることができなくなるのだ。
 
 『あるがままに』(p102) 
──────────────────

あらゆる特定の想念の背後には

第一の想念として「私」という普遍的想念が

わいているらしい。

この【存在感】をその意味にとれば、

これは「分離の夢」の根拠でしょう。


しかしまた、この【存在感】を

わいてくる想念すべての背景にある

意識の根拠の意味に取れば、

それはマハラジがいう

「アイデンティティ」に相当することにもなります。


ところで、pariパターンが

「アイデンティティ」という言葉に出会ったのは

江藤淳さんの文章が初めてでした。

そのときは、それがどういう意味なのか

結局はよくわかりませんでした。(*^_^*)

江藤さんが説明するアメリカ風の人格概念は

pariパターンの理解の範囲にはなかったのでしょう。

その時はその意味が結局わからずに、

何となく自分のなかで宿題になったような記憶があります。

そのうち、アメリカ人のいう

「アイデンティティ」という言葉の雰囲気が伝わってくると、

なんかとても下等な話を聞いたような

気分になったものでした。(*^_^*)

それもこれも、

ただの想念への自己同化ですが。


それから、いつだったか、

新聞に載っていた湯川秀樹さんの

『旅人 ある物理学者の回想』という文章で

「同定」という言葉に出会いました。

この「アイデンティファイ」という言葉を知って

はじめて「アイデンティティ」が

どういうニュアンスの言葉なのかということを理解しました。

これとこれは同じものだ

と認識する、認定するという意味なんですね。

考えてみれば、

これこそが現象世界の曙かもしれません。(^^;)


ま、話がそれましたが、

最初にアメリカ風の

「アイデンティティ」概念の洗礼を受けたので、

それ以来「アイデンティティ」という言葉に対しては、

ずっと同じような感じを持っていたわけです。

そのpariパターンの「アイデンティティ」連想を

大きく打ち破ったのがマハラジの

「アイデンティティ」という言葉の用法でした。

それはアメリカ風「アイデンティティ」概念の

まさに正反対という感じです。

たとえば、こんな感じ。

──────────────────
 個人、「私は身体だ」、
 このマインド、この記憶の連鎖、
 この一束の欲望と恐れは消え去る。
 だが、
 アイデンティティと呼ばれる何かはそのまま残る。
 それは必要とされるとき、
 私が個人となることを可能にするのだ。
 愛はそれ自身の必要性をつくり出すのだ。
 ひとりの個人と成ることさえも。
 
 『私は在る』(p507) 
──────────────────

うーむ。(-_-;)

つまり、この用法で言うなら

「アイデンティティ」こそが「真我」

ということですよね。

──────────────────
 そこには喜ばしい気づきがある。
 だが、誰も喜んでいる人はそこにいない。
 もちろん、アイデンティティの感覚はある。
 しかし、
 それは一連の記憶のアイデンティティ、
 不変のスクリーン上の画像の連鎖との
 アイデンティティのようなものなのだ。
 光とスクリーンなしに画像はありえない。
 画像がスクリーン上の
 光の戯(たわむ)れであると知ることは、
 画像が実在だという観念からの解放を与えてくれる。
 
 『私は在る』(p406)
──────────────────

まあ、

言葉だけいくらなぞっても意味は無いともいえます。


でもpariパターンの意識の位置から言っても

われわれが普通に言う「自分」が、

単なる回想された記憶の連鎖であり、

「物語」でしかないことは自明です。


悟りとかシフトがあまり起こらないのは

この記憶で作られた「物語」に対する執着が、

普通は人格のなかでいちばん優勢な欲望だ

ということなのでしょう。


つまり、われわれは

とっても「物語」が好きなわけです。

それだけのことですね。


と、まあ、一見、そんなふうにも見えます。(^_-)

でも、実際は、それは

「物語」が好きなわれわれが存在する

という意味ではないのです。

そう見えるのは、

夢のなかからの風景です。(*^_^*)


なぜなら、

夢が好きな“夢のなかの登場人物”など

(夢のなかにしか)

存在しないのは自明だからです。

朝目が醒めたら、

夢が消えるのといっしょに

“夢のなかの登場人物”もすべて

実際は存在しなかったことが自明になります。

つまり、

「物語」が好きなわれわれというのは

じつは、存在していなかったということです。


では、いったい、

誰が存在しているのか? (?_?)


まわりじゅうに森羅万象があること

さまざまな「形」と「名前」が、

多様多彩な物語や意味として現象していることは

日常経験していることです。

そしてわれわれは、

その物語や意味を体験している

“自分”が存在していると思っている。


でも、単なる論理として考えても、

わずか記憶を回想できないだけで、

その“自分”が存在できないことは自明なのです。

だから、

おそらく大掃除の日の記憶であっただろう

あの“畳を起こした部屋”の記憶以前には

pariパターンはまったく存在していなかった。

ところが今は明らかに、

pariパターンという人物が存在するかのような

想像が起こっている。

ここにいまpariパターンという

肉体精神現象が起こっていることは確かです。

そのことまで否定する必要もないでしょう。

たとえ、それがホログラムであるとしても、

今現在、それは起こっているのですから。

では、

その現象のどこに“自分”はいるのか?

起こっている肉体精神現象そのもののなかには

どうやら“自分”はいないらしい。

それは単なる現象の表現媒体であって

大宇宙という現象全体の一部でしかありません。

そこにどんな分離独立した存在を想定することはできない。

それはただ起こっているだけです。

では、われわれが言う“自分”とは何なのか?

起こっている肉体精神現象に対する

【同定(現象)】が起こっているのです。

「アイデンティフィケーション」が起こっている。

しかし、マハラジの言葉によれば

【アイデンティティ】は必ずしも

現象に自己同定しなくてもいいものらしい。

【アイデンティティ】そのものは

必ずしも何かの現象にくっつかなくても

いいものらしい。

それはそれ自体で存在している。

何にも依拠する必要がない。

──────────────────
 あなたがあなたを含む
 すべての証明なのだということを、
 まず悟るべきだ。
 あなたの存在を証明できるものは何もないのだ。
 なぜなら、
 他者の存在もあなたによって
 確認されなければならないからだ。
 あなたは完全に、
 あなた自身によって在るのだということを
 覚えておきなさい。
 あなたはどこからも来なかったし、
 どこへも行かない。
 あなたは時間を超えた存在、
 そして気づきなのだ。
 
 『私は在る』(p178)
──────────────────

(-||-)

“自分”は何かだと思うことによって、

わたしは自ら牢獄に入る。

自分を定義することによって

わたしはその定義の延長に拘束される。

──────────────────
 必要なのは、
 自己を定義しようとする
 傾向を捨て去ることだけだ。
 すべての定義づけは、
 身体とその表現にしか当てはまらない。
 この身体への固執が消えれば、
 あなたは自然なあるがままの姿に
 努力することなく帰り着くだろう。
 
 『私は在る』(p27)
──────────────────

(-||-)

──────────────────
 あなたは在る。
 ほかのすべては現れにすぎない。
 
 『私は在る』(p421)
──────────────────

(-||-)

──────────────────
 永久的なもの、それはあなた自身の存在である。
 真我として在りなさい。
 それが至福である。
 あなたはいつもそれなのである。
 
 『あるがままに』(p58) 
──────────────────

……。(-_-)

ありがとうございました。<(_ _)>

(-||-)

今日はこんなところで。

……。

m(_ _)m


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■ 2.編集後記:
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われわれはドラマが好きですよね。

ドラマ中毒とでも言うのか。

たしかに、ドラマのなかでは何かになれますから。

そういう物語とか観念が好きなんですよね。

それが好きな誰かがいるとしての話です。

何かを言おうとすると、

いろんな思考や観念が乱反射して、

あるいは相殺して、

何かを言うこと自体が難しくなる、

ということはあるかもしれません。

それでもこうして、

何か気の利いたことを言おうとする。

そういうエネルギーがあるうちは

それは表現されなければならないのでしょうね。

できることは何もありません。

トニー・パーソンズふうに言うなら、

何もできない誰かがいるわけではなくて、

そもそも誰もいないからでしょうね。(^_-)

今日は午後から書きはじめて外はもう昏くなりました。

今日はこんなところで。

<(_ _)>


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■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
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