home > 通信 >『アセンション館通信』(第657号):あなたが探し求めてきたものは



━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
  ☆☆   ☆☆ 
 ☆☆     ☆☆『アセンション館通信』2016/11/13(第657号)
☆☆   ☆   ☆☆
☆☆      ☆★ 【気刊】――「私は在る」に導かれ♪――
-☆☆---------☆☆------------------------------------------
 ☆☆   ☆☆          https://www.ascensionkan.com/
━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇

このメルマガはアセンション館主人pariと称するあるパターンに
浮上している心象風景の報告です。

現象がpariに起こっているかぎりpariの苦しみは避けられない。

pariとは誰か、そういう者は本当に存在しているのか?

内容は人畜無害、でも読む人は相当変わっていますね。現在867名
------------------------------------------------------------
◇◇ もくじ ◇◇

1.あなたが探し求めてきたものは

2.編集後記
------------------------------------------------------------

━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■ 1.あなたが探し求めてきたものは
━━━━━━━━━━━━━━━━━━

今日は土曜日。

今日もまたすばらしい天気です。

(*^_^*)

さて、またまた一週間が過ぎて、

楽しい“アセンション噺”ならぬ「私は在る」噺に、

お付き合いいただく今がやってまいりました。

『アセンション館通信』配達人の pari です。

時々、波のように押し寄せてくるのが、

こういうメルマガを書くこと自体に対する

宙ぶらりんの感覚です。

いったい、どのような立場で

書くという行為や

その動機が継続しているのかということです。

ただ、映画のなかでそういう場面になっているから、

こんなふうに毎週書くということが起こっているのでしょうか?

いつも書いている内容からすれば、

そういう理屈になります。

でも、実際は、現象がそんなふうに

起こるわけもありません。

なぜなら、

pariパターンは現にこうして

【分離の夢】のなかでひとつのエゴとして

行為しているわけですから。

ではpariパターンはいったい何を願っているのか?

そもそもpariパターンは何かを願っているのか?

もちろん、

こんな理屈がすべて、

たんなるつかの間の想念であるということはわかります。

というか、なかば自動的に

そういう想念もまた後続して浮上してくるわけです。

じつはいま、

こんな果の果の限界集落のような丘の上まで

「エホバの証人」の方が来られたのです。

というか、いつも、

月に一度くらいは来られるようです。

なぜ、こんな奥のわが家にまでいらっしゃるのか?

なぜなら、

他にほとんど受け取ってくれる家がないからなのです。

シャーラは断ることができないし、

わたしもまた玄関先でそれほど丁寧に

お話を伺うわけでもありませんが、

まあ、冊子を受け取るまでのご挨拶をして

受け取って終わりにしていたのです。

でも今日はちょっと違う事情があった。


じつは昨日郵便受けに不在通知が入っていて

翌日の今日午前中に別の郵便物が来ることがわかっていました。

それで慌てて印鑑をもって玄関の扉を開けたわけです。

そうしたら、

初めてお見かけするお二人の「エホバの証人」の方が

そこに立っておられたというわけです。

適当な挨拶で、冊子を渡してもらえたら

いつものようにそのまま受け取れたのですが。

前に立った若い方がまだ弁舌が不慣れで、

ついつい話始める前のきっかけをつくっていらっしゃる。

それで冊子をカバンから出すまでのタイミングが

ちょっと少し丁寧な回り道になってしまった。

すぐには渡してくださらない。(-_-;)

こちらはと言えば、

慌てて印鑑をもって玄関の扉を開けたわけです。

こちらから勝手に手を出すわけにもいかなくて、

なんとなく、

「今はこういう時代で、
 
 いくらでも情報があるのでなかなか難しいですよね」
 
みたいな言葉が、口からポロリと出てしまった。(>_<) 

これは、まずかったです。(*-_-*)

まあ、スピリチュアル用語で言うなら、

【気づきが足りない】とでもいうのでしょう。

前の方に立っている若い方は

「ええ、情報が溢れすぎていて

 どれが正しい情報なのかがかえってわからなくなっています」

みたいなことをおっしゃる。

そして

「こういうのはお読みになったことがありますか?」

と冊子を出そうとするので、

「ええ、いつもいただいているので……」

「あ、そうなんですか」

「こういう話は人に薦めるのは難しいですよね。
 
 いくらでも自分で情報を取れる時代ですから……」

みたいな言葉が出てしまっている。

ああ、もうメチャクチャです。(>_<)

後ろのお年の女性もつらそうに頷いているし、

前の罪のない若いお嬢さんは次の句が出ません。


結局、何となく冊子を受け取り損ねちゃって、

せっかくこの丘の上まで歩いてこられたお二人を

無為に帰してしまいました。(-_-;)


これはもう、すべて起こっちゃったことなので、

元々存在していないわたしには何の責任もありません……、

と言うことも、もちろん、できます。


いわゆる、スピリチュアルな挿話のように、

pariパターンがどれくらい人に優しくできるかを

神がお嬢さんの姿をしてテストなさった、

というふうに、言うこともできます。


すべて、たんなる観念にすぎません。

すべて観念で、

すべてお話にすぎないことは確かです。

こうして今わいてくる記憶の叙述、

少しでも見苦しくないように塩梅している配慮、

こういうことがすべてが一人芝居であり、

すべてが配達されてきた想念であり、

すべてが……なんなんでしょう。(*^_^*)


pariパターンの人生のメインテーマは、

“恥ずかしさこそ人生”です。

マハラジもこう確証していらっしゃる。

──────────────────
 何にもまして、
 私たちは意識しつづけていたい。
 あらゆる苦しみや屈辱を耐えてでも、
 意識しつづけることを望むのだ。
 この体験への欲望に逆らって、
 顕現すべてを手放さないかぎり、
 解放はありえない。
 私たちは罠にはまったままなのだ。
 
 『私は在る』(p346)
──────────────────

マハラジは痛いとこ突きますよねぇ。

> あらゆる苦しみや屈辱を耐えてでも、
> 意識しつづけることを望むのだ。

なんて……、よく言うよ。(-_-;)

でも、これが自然に起こっている。

つまり、本当なのです。


というわけで、

理屈なんか、いくら言っても

【分離の夢】に1ミリのヒビも入らない、

ということです。


でも、誰が何のためにしているのかは知らないけれど、

こうして、ひとつのエンタテインメントが起こっている。

──────────────────
 世界は華麗にきらめく空虚なショーだ。
 それは在り、しかもそれはない。
 私が見たいと欲し、
 それに参加したいと望むかぎり、
 それはそこに在る。
 私が気にかけるのをやめるとき、
 それは溶け去る。
 それは原因がなく、何の目的にも仕えない。
 それは私たちが放心しているときに起こる。
 まったく見たとおりに現れはするが、
 そこには何の深みも意味もない。
 ただその傍観者だけが実在なのだ。
 彼は真我ともアートマとも呼ばれる。
 真我にとって世界は、
 それが続くかぎり楽しみ、
 終われば忘れられてしまう、
 ただの色鮮やかなショーにすぎない。
 何であれ、
 舞台の上で起こることが彼を恐怖で身震いさせようと、
 あるいは笑い転げさせようと、
 常に彼はそれがただのショーだと知っている。
 欲望や恐れなしに、
 彼は起こるがままに楽しむのだ。

 『私は在る』(p196)
──────────────────

> 世界は華麗にきらめく空虚なショーだ。

pariパターンはまだこのことを納得していないのでしょうか?

> それは在り、しかもそれはない。

たしかに、今はあるようにみえるけれど、

夜床に入って眠ったら、一瞬の内に消えてしまいます。

> 私が見たいと欲し、
> それに参加したいと望むかぎり、
> それはそこに在る。

たしかに。

反応すれば、それはただちに現実になる。

> 私が気にかけるのをやめるとき、
> それは溶け去る。

興味を失ったら、

それはたちまち存在を消してしまう。

> それは原因がなく、
> 何の目的にも仕えない。

ですよねぇ。

いかにもそれに原因があるかのような理屈を編み出し、

目的があるかのような理屈を編み出すのは、

すべてつかの間の現れである観念にすぎないのです。

> それは私たちが放心しているときに起こる。

たしかに。

無防備に想念の跋扈を許せば、

たちまちに想念が造る監獄に捉えられてしまう。

> まったく見たとおりに現れはするが、
> そこには何の深みも意味もない。

深みや意味はすべて、

つかの間の現れである観念によって支えられている。

> ただその傍観者だけが実在なのだ。

観ることを可能にしているものだけは

けっして消滅することはない。

なぜなら、それはすでに、なにものでもなく、

存在と非在を超越しているから。

> 彼は真我ともアートマとも呼ばれる。

在るものはそれのみ。

それ以外はすべて現れているにすぎない。

> 真我にとって世界は、
> それが続くかぎり楽しみ、
> 終われば忘れられてしまう、
> ただの色鮮やかなショーにすぎない。

すべてつかの間の現れ、

そこにどんな永遠の姿もありえない。

> 何であれ、
> 舞台の上で起こることが彼を恐怖で身震いさせようと、
> あるいは笑い転げさせようと、
> 常に彼はそれがただのショーだと知っている。

どんな現れも

けっして永続しないことを知っているから。

> 欲望や恐れなしに、
> 彼は起こるがままに楽しむのだ。

欲望や恐れをもって現れを見たときだけ、

欲望や恐れの対象が現実となって眼前に姿を現す。

マハラジの表現をなぞるなら、

まあ、こういうことになります。


いろいろな表現を覗くことがいいことでもないでしょうが、

でも、それが起こっているとき、

それをどうにかできる誰かがいるわけでもありません。


なので、

ここでトニー・パーソンズの表現にもご登場願いましょう。

トニー・パーソンズの表現は、

これほどにも絶対的です。

いいですか、覚悟を決めてください。

(*^_^*)

──────────────────
 でも、探求も存在です。
 それが起こっていることです。
 見かけの探求がある間はずっと、
 見かけの原因と結果に対する信念と期待があります。
 ですから、
 何かに近づこうとすることや、
 何かを発見しようとすることの全エネルギーは、
 得ることができない永遠のものを
 いつかは得るだろうという期待のエネルギーです。
 でも、
 探求しろとか探求するなと、
 私が言っているのではないことは明確にしましょう。
 私はただ、
 「探求者」が常に期待の中で機能しているという
 見かけのジレンマを描写しているだけです。
 探求者の問題は、
 彼らが常に自分は何かであると考えていることです。
 「私は何かである。
  私は人間と呼ばれている何かである。
  そして、『悟り』と呼ばれている何か別のものがあり、
  私はそれを得なければならない」。
 それは別の何かです。
 しかし目覚めとは、
 あなたが探し求めてきたものはすでに何でもなく、
 かつあらゆるものであるという理解です。
 それは向こうの何かではありません。
 それはあらゆるものです。
 まさにこれです。
 あなたが探し求めているものはこれです。
 それは決して失われたことがありませんでした。
 
 存在の内部で、
 見かけの原因と結果が起こるのです。
 
 『何でもないものが あらゆるものである』(p144)
──────────────────

ここで、どれほど決定的なことが語られているか

わかりますか?

覚者たちがよく仰ることです。

つまり、

われわれはゴール地点に立っているのに、

なにやかや泣きわめいていると。(^_-)

われわれはつねに、

何か別のものを探し求めています。

そして、存在のなかでそれが起こっている以上

それをどうすることもできないし、

どうにかできる人がいるわけでもないのです。

それにそもそも、探求に何も悪いことはない。

そして、明らかにわれわれは

すでに求めているゴールそのものの上に立っているのです。

今の状態が求めているものなのです。

あらゆるものでありながら

かつそのどれでもないものを現に体験しつつあるわけです。

> 探求者の問題は、
> 彼らが常に自分は何かであると考えていることです。

まさに、これだけが問題なのです。(*^_^*)

> 「私は何かである。
>  私は人間と呼ばれている何かである。
>  そして、『悟り』と呼ばれている何か別のものがあり、
>  私はそれを得なければならない」。

ほんとにねぇ。(-_-)

> それは別の何かです。

われわれはいつも別の何かを求めている。

> しかし目覚めとは、
> あなたが探し求めてきたものはすでに何でもなく、
> かつあらゆるものであるという理解です。

(*_*) ⌒★?

これ、わ・か・り・ま・す? (@_@)

われわれは、じつは、なにものでもない。

しかも、あらゆるものなのです。

昨日も、今日も、明日も……。

ここ以外のところに行けるわけではない。

これこそが、永遠の常在だから。

すべてはただ、

なんでもないものが、あらゆるものになっているだけだから。(>_<)

哲学者的文学者であった埴谷雄高さんは、

何かであるということが、

ただちにその他の何者にもなれないことを、

つまり、いったん、自分がAになってしまったら、

A=A でしかなく、

A=B にはなれないことを、

【自同律の不快】と表現したわけです。

まあ、不要な思考の代表のようなものですが、

存在がそれをやっているわけですから

他にどうしようもない。(*^_^*)

ただ、埴谷雄高さんとしては、

自分が何かになっていると想像した以上、

そのとたんにそれ以外のものではありえないことを、

不快だと表現したかったというわけです。

まあ、それは

なんでのないものが、あらゆるものになっている

存在のひとつのパフォーマンスであるわけでしょう。

他にどうにかできる誰かがいるわけではありません。

> それは向こうの何かではありません。

まったく。

> それはあらゆるものです。

了解です。(*^_^*)

> まさにこれです。

はいです。

> あなたが探し求めているものはこれです。

そうです。

> それは決して失われたことがありませんでした。

わかります。

(*^_^*)

──────────────────
 では、探求をやめるためにできることは何もないのですか?
 
 
 誰もいませんし、
 探求をやめようとすることは、
 探求をやめることを求めることです!
 あなたにできることは何もない、
 ということではないのです。
 そもそもそこに誰もいないのですから。
 あるものすべては生です。
 あるものすべては存在です。
 それは誰にも起こっていません。
 それはただ存在です。
 問題は、
 あなたが自分は何かを見つけなければならない人である
 と考えていることです。
 見つけるべき何もないのです。
 待つべき何もないのです。
 知るべき、あるいは気づくべき
 何も絶対的にありません。
 まさにこれです。
 
 『何でもないものが あらゆるものである』(p144-145)
──────────────────

(-||-)

なんか、バカらしいような。(*^_^*)

でも、こう言ったらと言って、

pariパターンにいわゆるシフト、

知覚の変化が起こったというわけではありません。

いままでどおりの、

恥ずかしがり屋のpariパターンがいます。

でも、

pariパターンにどうしようがあるでしょう。

存在がそれをやっているのですから。

(-||-)

──────────────────
 あなたは在る。
 ほかのすべては現れにすぎない。
 
 『私は在る』(p421)
──────────────────

(-||-)

──────────────────
 永久的なもの、それはあなた自身の存在である。
 真我として在りなさい。
 それが至福である。
 あなたはいつもそれなのである。
 
 『あるがままに』(p58) 
──────────────────

……。(-_-)

ありがとうございました。<(_ _)>

(-||-)

今日はこんなところで。

……。

m(_ _)m


       ………○…………○…………○………


『私は在る』の「目次」はここ↓に置いてあります。
https://www.ascensionkan.com/books/I_AM_THAT-index.html

ときどき「ニサルガ辞書」で遊んでみてください。
https://www.ascensionkan.com/ndic/

新しい「ラマナ・マハルシ辞書」はここです。
https://www.ascensionkan.com/rdic/

おこがましくも『アセ通』既刊号はすべてここに置いてあります。
https://www.ascensionkan.com/mm/


       ………○…………○…………○………


▼『アセ通』への「私は在る」関連ご意見投稿フォーム:
http://www.formzu.net/fgen.ex?ID=P48750702
というのを作らせていただきました。(^^;)

「私は在る」に関するご意見・ご感想・シェアリング、または単な
るメールなど、ご自由にお書きいただければと思います。


       ………○…………○…………○………


『アセンション館通信』への
「ご投稿・情報提供」を歓迎いたします。

▼『アセンション館通信』への情報ご投稿フォーム
http://www.formzu.net/fgen.ex?ID=P87119518


        …………○…………○…………○…………


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■ 2.編集後記:
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

ドラマが好きのわれわれ。

恥ずかしがり屋のpariパターン。

何が変わったわけでもない。

あるがまま、あるがまま。

(-||-)

今日は天気がいいですね。

今日はこんなところで。

<(_ _)>


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
  → メール: pariアットマークjk2.so-net.ne.jp
------------------------------------------------------------
このメールマガジンは二つの配信スタンド
「まぐまぐ」は:http://www.mag2.com/m/0000126287.html
「melma」は  :http://www.melma.com/backnumber_110091/
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
Copyleft(C)2015 paritosho
------------------------------------------------------------