home > 通信 >『アセンション館通信』第668号:それとともに在りなさい



━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
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 ☆☆     ☆☆『アセンション館通信』2017/01/29(第668号)
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☆☆      ☆★ 【気刊】――「私は在る」に導かれ♪――
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 ☆☆   ☆☆          https://www.ascensionkan.com/
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇

このメルマガはアセンション館主人pariと称するあるパターンに
浮上している心象風景の報告です。

 苦痛から欲望が生まれ、苦痛のなかで欲望を満たそうとする。

 それとともに在りなさい。そのために私たちは快楽を探し
 求め、苦しみを避ける。自己愛を真我への愛に変えなさい。
 すると画面は変わってくる。(ニサルガダッタ)

内容は人畜無害、でも読む人は相当変わっていますね。現在871名
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◇◇ もくじ ◇◇

1.それとともに在りなさい

2.編集後記
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■ 1.それとともに在りなさい
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相変わらず夢のなかのここらあたりは

晴天がつづいています。

(*^_^*)

さて、またまた一週間が過ぎて、

楽しい“アセンション噺”ならぬ「私は在る」噺に、

お付き合いいただく今がやってまいりました。

『アセンション館通信』配達人の pari です。

ご存知と思いますが、

このメルマガは、いわば独り言です。

その上、ここで話題になることと言えば、

誰かを元気づけるような話でもありません。

自分でそれを事実として知覚しているわけでもないあるパターンが

じつはここには誰もいないんだという誰かから聞いた話を

喋り続けているというだけです。(*^_^*)

なんでそんなバカなことができるのか?

なんでそんな自分が知覚しているわけでもない、

また誰の役にも立つわけでもない話を吹聴しつづけることに

こんなふうに興味を持ち続けられるのか?

そういうことはこのパターン自身にはわかりません。

ただ、わかっているのは、

何年か前に、一週間にいちどくらいは、

自分が本当に本当だと思うことを

思いっきり喋ってやりたいと、

そう思い立ったというだけのことです。

当初は、ご存知のとおり、

この地球という物理次元にすばらしい時代が訪れるのだという

これも人から聞いた例の話を吹聴したかったわけです。

ところがどういうわけか、

途中で友人のナンダン経由で、

ニサルガダッタという人の『私は在る』という本に出会った。

最初この本を読むとき、

この本にあまり期待していたわけでもありませんでした。

ところが読みはじめたとたん、

なぜだか知らないけれど、ここに書いてあるのは全部本当のことだと

わかってしまったのです。

もちろん、“知的には”という意味ですけどね。

子供のころは画家になりたかった人間なので、

自分は、どちらかと言うと、

感性タイプの人間かと思っていました。

でも、いまになってみると、

どうも論理型のバイオコンピュータだったらしい。

ニサルガダッタの言っていることが

なんとなく論理的感性で納得できてしまうわけです。

創造的に価値を生みだすというよりは、

すべての歩留まり、

つまりすべての無価値を納得したいほうの型だったのでしょう。

というわけで、それ以来ずっと、

こうして『私は在る』に書かれている

ニサルガダッタの言葉の論理性をなぞり続けています。

で、そんなに長いことニサルガダッタの言葉をなぞり続けて、

結局、何かわかかったのか?

まあ、そんなことをおさらいしてみます。

確かに納得できたということは、

われわれの束縛はすべて想像上のものだということです。

自分が想像したのかどうか、それはちょっとわかりません。

自分とは誰のことだ、ということにもなるでしょうし。

ただ、心配する人間、つまり心配する個人というものはいないが、

心配という想念はある(=現象する)、という意味では、

束縛とは、心配する想念が想像したものだと言えるかもしれません。

どうして心配する想念なんてものがあるのか、と言うなら、

やっぱり、

現象のなかに分離した自分がいると思い込んだ、その思い込みが

構造的な理由でしょう。


前にもいちど書いたことがあるかと思いますが、

小学生のとき、全校生がグラウンドに出て、

皆既日蝕の観測というのをしたことがあります。

その後でクラスに戻って、

それが理科の時間だったのかどうか、

先生から太陽にも寿命があるのだという話を聞きました。

それが100億年ほどだと聞いたかどうかまでは憶えていませんが、

とにかくあの太陽もいつか死ぬのだと教わったわけです。

家で祖父が死んだのが小四のころだったので、

もしかしたら、その直後かなにかで、

死というものの印象がまだ強く残っていたのかもしれません。

とにかく、地球の表面でたかだか百年にも満たない一瞬の命を営む身で、

百億年後に寿命が尽きて太陽が死んでしまったら

自分の身がどうなるかを心配したわけです。(*^_^*)

まあ、おおよそ、心配というのはそういうものです。

この形ある“自分”は現象そのものの一部だという理解がないばかりに、

現象から分離独立して存在している自分という観念を

信じこむようになっていたわけです。

最近どこかで

(もしかしたらヒロさんのサイトからたどった先でかもしれません)

読んだ話にこんなのがありました。

あるワークショップのリーダーが参加者にこんなふうに聞きます。

「このなかで自分は環境から分離して存在していると

 信じている方がいらっしゃいますか?
 
 いたらちょっと手を挙げてみてください」

何人かの手が挙がると、そのリーダーはこう言います。

「じゃあ、これから五分間息を止めてみてください」

まあ、これはちょっと人が悪いですが、(*^_^*)

実際、証明はじつに単純ですよね。

現象世界のなかに分離独立した存在(現象)がありえないことは

とても簡単に理解できます。

でも、分離は存在しえないという知的理解が、

ただちに心配の消滅を意味するとはかぎらないことは

あなたも体験的によくご存知のとおりです。(^_-)

もし、分離は存在しえないという知的理解が、

ただちに心配の消滅を意味していたのなら、

かくいうpariパターンは、

とおの昔に心配から解放されていたことでしょう。(*^_^*)

現象世界というのは、

波動の干渉現象によって実現されている

二番目のない<唯一無二>の世界(=見かけ)であることは、

自ら納得したくて考えてみる者には

簡単に理解できることだと思います。

そしてまた、

現象が現象を認識できないことも理解できるはずです。

たとえば、自分の欲望に気づいているとしたら、

その気づいている者自体は、その欲望ではありえないわけです。

赤色光線は「赤」という現象を知覚できません。

青色光線は「青」という現象を知覚できません。

あらゆる現象を認識できる者は、

あらゆる現象(であること)から解放されていなくてはならない。

何らかの現象を映し出してその現象に執着を抱き、

それを“自分の”現象だと思うなら、

その思いは(表現担当である)現象の一部であって、

その現象に気づいている者ではないということです。

つまり、知覚を可能にするものは、

いかなる現象でもありえないわけです。

その表現担当の顕現に気づいているものを非顕現と呼ぶなら、

いかなる顕現も非顕現ではありえないわけです。

これを逆に言うなら、

非顕現は、いかなる顕現でもありえないわけです。

しかも、そうでありながらなおかつ、

非顕現は顕現なしには自らの存在を知りえない。

その意味では、あらゆる顕現は非顕現そのものなのです。

つまるところ、非顕現とは森羅万象のこと、

あらゆる顕現そのものだということです。

(表現担当の)現象は(知覚担当の)知る者ではありえない。

同じく、

(知覚担当の)知る者は(表現担当の)現象ではありえない。

にもかかわらず、

(表現担当である)現象なしに(知覚担当の)知る者は存在できない。

そして同じく、

(知覚担当の)知る者は(表現担当の)現象なしには存在できないのです。

すなわち、

(表現担当の)現象とは(知覚担当の)知る者のこと

色即是空

(知覚担当の)知る者とは(表現担当の)現象のこと

空即是色

なのです。

以上のことは論理的に理解できることです。

ただしエネルギー的な知覚変化が起こっていなければ

それを感覚的に知覚することはできません。

バイオロボットに深く条件づけられた習慣的理解形式に従ってしまう

「無知」というか、錯覚が起こらざるをえない。

それでもやっぱり、

あらゆる束縛とはまさに想像上のものなのです。

表現担当が生みだす【見かけ】の見事さに、

その表現を可能にしている知覚担当当人が

われを失っているだけのことです。

あたかも表現担当(マインド)だけで

その表現(ドラマ)が成り立っているかのように。

「私たちは皆マインドの救済に関わっているのでしょうか?」

と問う者に、ニサルガダッタはこう答えています。

──────────────────
 それ以外の何だというのだろう?
 マインドが道に迷い、マインドが家に帰り着くのだ。
 「迷う」という言葉さえ的確ではない。
 マインドはそれ自身のあらゆる気分を知らなければならない。
 繰り返されないかぎり、
 何ひとつ間違いということはないのだ。

 『私は在る』(p330)
──────────────────

と。

また、

──────────────────
 あなたはマインドを超えている。
 だが、あなたはマインドで知るのだ。

 『私は在る』(p330)
──────────────────

とも言っています。

だから、

──────────────────
 ひとたびあなたの想像以外は
 何も困難をもたらすことができない、
 と絶対の確信を持って知るなら、
 あなたは欲望や恐れ、
 概念や見解に注意を払わず、
 真実とともにのみ生きるだろう。

 『私は在る』(p131)
──────────────────

ということになるのでしょう。

そしてそのためには、

何も特別なことが必要なわけではないと言います。

──────────────────
 あなた自身のためには、何も必要ない。
 あなたは純粋な明け渡しだ。
 無始無窮(むきゅう)であり、無尽蔵なのだ。
 あなたが悲しみや苦しみを見るときは、
 それとともに在りなさい。
 性急に行動に走ってはならない。
 学ぶことも行動も、
 本当の意味での助けにはならないのだ。
 悲しみとともに在りなさい。
 そして、
 その根底にあるものを露(あら)わにしなさい。
 理解することを助けることが本当の助けとなるのだ。

 『私は在る』(p279-280)
──────────────────

> あなたが悲しみや苦しみを見るときは、
> それとともに在りなさい。

【それとともに在りなさい】……。

(-_-)

> 性急に行動に走ってはならない。

性急に行動に走ってはならない。

> 学ぶことも行動も、
> 本当の意味での助けにはならないのだ。

そうなのか。(-_-)

> 悲しみとともに在りなさい。

【悲しみとともに在りなさい】……。

> そして、
> その根底にあるものを露(あら)わにしなさい。

(-_-)?

> 理解することを助けることが本当の助けとなるのだ。

わかりました。

(-||-)

──────────────────
 あなたは在る。
 ほかのすべては現れにすぎない。
 
 『私は在る』(p421) 
──────────────────

(-||-)

──────────────────
 永久的なもの、それはあなた自身の存在である。
 真我として在りなさい。
 それが至福である。
 あなたはいつもそれなのである。
 
 『あるがままに』(p58) 
──────────────────

……。(-_-)

ありがとうございました。<(_ _)>

(-||-)

今日はこんなところで。

……。

m(_ _)m


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『私は在る』の「目次」はここ↓に置いてあります。
https://www.ascensionkan.com/books/I_AM_THAT-index.html

ときどき「ニサルガ辞書」で遊んでみてください。
https://www.ascensionkan.com/ndic/

新しい「ラマナ・マハルシ辞書」はここです。
https://www.ascensionkan.com/rdic/

おこがましくも『アセ通』既刊号はすべてここに置いてあります。
https://www.ascensionkan.com/mm/


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http://www.formzu.net/fgen.ex?ID=P48750702
というのを作らせていただきました。(^^;)

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るメールなど、ご自由にお書きいただければと思います。


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■ 2.編集後記:
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ありがたいことです。(-||-)

いろいろ想念はわいてきますが、

別に気にすることもありません。

自分でないものを獲得することはできないし、

自分であるものを失うこともできませんから。

今日も晩くなりました。

ではお休みなさい。

<(_ _)>


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■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
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