home > 通信 >『アセンション館通信』第669号:喜びへの欲望をあきらめなさい



━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
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 ☆☆     ☆☆『アセンション館通信』2017/02/05(第669号)
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☆☆      ☆★ 【気刊】――「私は在る」に導かれ♪――
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 ☆☆   ☆☆          https://www.ascensionkan.com/
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇

このメルマガはアセンション館主人pariと称するあるパターンに
浮上している心象風景の報告です。

 苦痛から欲望が生まれ、苦痛のなかで欲望を満たそうとする。

 世界の根本原因は自己愛である。そのために私たちは快楽を探し
 求め、苦しみを避ける。自己愛を真我への愛に変えなさい。
 すると画面は変わってくる。(ニサルガダッタ)

内容は人畜無害、でも読む人は相当変わっていますね。現在873名
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◇◇ もくじ ◇◇

1.喜びへの欲望をあきらめなさい

2.編集後記
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■ 1.喜びへの欲望をあきらめなさい
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相変わらず夢のなかのここらあたりは

晴天がつづいています。

ちょっと不公平な気もするけれど、

まあ、得てして夢のなかはそんなものです。

(*^_^*)

さて、またまた一週間が過ぎて、

楽しい“アセンション噺”ならぬ「私は在る」噺に、

お付き合いいただく今がやってまいりました。

『アセンション館通信』配達人の pari です。

実在するもの、

つまり【気づいていること】自体は、

苦しむ必要はありません。

自分が存在していることに疑問はなく、

【気づいていること】だけが常在であること、

そしてそれ以上のものは何ひとつありえないことが、

疑う余地もなく自明だからです。

だから、われわれも、むろん、

ほんらいは苦しむ必要はありません。

なぜなら、われわれも間違いなく、

すべてに【気づいている】その当人だからです。

ところが、われわれの場合は、

自分がすべてに【気づいている】ことは知っていても、

自分がすべてに【気づいている】そのこと自体だとは知らない。

そして自分は【気づいている者】だと思っている。

そうやってわれわれは見かけとして現象している

その他大勢の中に埋没してしまうのです。

言葉を換えると、

すべてに【気づいていること】がなくても、

【気づかれるもの】が存在しうるのだと思い込んでしまう。

この思い込みがいわゆる「無知」と言われるものでしょう。

この「無知」のなかでは、

顕現しているものが存在していると想像されています。

そしてその顕現しているものに【気づいていること】の

実在は忘却されているのです。

なぜこんなことが起こっているのかはわかりません。

ただ、ドラマ仕立てに想像するなら、

顕現しているものが何もなければ、

【気づいていること】自体が実在していることを

思い出すチャンスがないからかもしれません。

われわれが熟睡のなかで

自らの存在を知ることがないように。

ただし、そういう理屈はすべて

意識のなかの内容物です。

もちろん、それは

【気づいていること】と「気づかれる内容物」を

別のものとする用語法に沿っての表現です。

【気づいていること】も「気づかれる内容物」も

ひとつの【意識】の両側面だとするなら、

「気づかれる内容物」は

【意識】のゆらぎ、ひとつの様相ということになるでしょうか。

まったく内容物のない【意識】の様相があるなら

「気づかれる内容物」がまったくなくても

自分が存在していること、

つまり、【気づいていること】が実在していることに

疑いが起こらないのかもしれません。

そのような【意識】の様相にとっては、

【意識】の内容物があろうがなかろうが、

自分が何者であるかについての誤解などは

起こらないのかもしれません。

【意識】の内容物は

単なるつかの間の「見かけ」にすぎず、

一瞬の後には消えてしまうことは自明でしょうから。


しかし、われわれのように

自分が人間だと思っている【意識】の様相にとっては、

【意識】の内容物である

「見かけ」に【気づいていること】は、

【気づいている者】の存在と混同されています。

そのため

【意識】の内容物である「見かけ」自体が、

(つまり知覚対象である環境も自分の身体もそれ自体が)

存在しているように想像されています。

知覚対象である現象世界全体は、

おそらく波動現象として実現されているのでしょう。

あらゆる物質現象は相互に深く織り込まれて

相互に干渉し合って現象しているはずです。

でも人間の内面としては、

知覚対象であるこの自分の身体が

あたかも周囲の環境から分離独立した個人として

自律して存在しているように感じられてしまいます。

この「聖なる催眠」状態にある人間は、

どういうわけか、

変移しつづける多様な状況バランスのなかで

つねに自分の幸福を追求しなければなりません。

自分を人間だと思っているわれわれには、

その理由ははっきりとはわかりません。

しかし、マハラジは遠慮会釈なく、

人間が(幸福という名の)快楽を求めるのは、

人間が苦痛のなかにいるからだと言います。

──────────────────
 苦痛から欲望が生まれ、
 苦痛のなかで欲望を満たそうとする。
 そしてそれは欲求不満と絶望のなかで終わるのだ。
 苦痛は快楽の背景であり、
 快楽の追求はすべて苦痛のなかに生まれ、
 苦痛のなかに終わるのだ。

 『私は在る』(p102)
──────────────────

もしわれわれが、ここで言われるように

つねに苦痛のなかにいるのだとすれば、

そこから何とか逃れようとして、

懸命に(幸福という名前の)快楽を求めるのも

無理はないと思われます。

苦痛と快楽が存在しなければならない

目的をマハラジに聞いた人がいます。

マハラジの答えは驚くほどに論理的です。

──────────────────
 質問者 苦痛と快楽の目的は何でしょうか?
 
 マハラジ
 それらはそれら自体で存在するだろうか?
 あるいはマインドのなかにだけ存在するのだろうか?
 
 質問者 それでも、それらは存在します。
     マインドはともかくも。
 
 マハラジ
 苦痛と快楽は、
 誤った知識と誤った感情の結果の単なる兆候にすぎない。
 結果がそれ自体の目的をもつことはできない。

 『私は在る』(p195)
──────────────────

> それら(苦痛と快楽)はそれら自体で存在するだろうか?
> あるいはマインドのなかにだけ存在するのだろうか?

なるほど。(@_@)

> 苦痛と快楽は、
> 誤った知識と誤った感情の結果の単なる兆候にすぎない。

そういうことなんですねぇ。(-_-;)

> 結果がそれ自体の目的をもつことはできない。

あ。(@_@) ⌒★?

【結果がそれ自体の目的をもつことはできない】

たしかに、さまざまな結果は起こります。

しかし、結果が起こったということは、

その結果自体に目的があったことを意味しないというのです。

たとえばの話、

われわれが成功を求めて努力して、

しかも失敗するということはよくある話です。

しかし、結果として失敗が起こったからと言って、

その失敗自体が目的をもつことはできない。

もしその失敗が、

失敗者を教育して成長させるためにあったのだと言うなら、

何のためにそんなことが必要なのか?

ということになるでしょうし、

結局は、早晩、

   <何故にすべては始まってしまったのか?>

ということにならざるをえない。(*^_^*)

要するに、結局、

> 苦痛と快楽は、
> 誤った知識と誤った感情の結果の単なる兆候にすぎない。

というわけです。


「無知」による誤った知識と誤った感情がなければ、

苦痛と快楽はないとマハラジは言います。

──────────────────
 自然は快くもなければ、
 苦痛に満ちたものでもない。
 それはみな、知性と美にあふれているのだ。
 苦痛と快楽はマインドのなかにあるものだ。
 あなたの価値観の尺度を変えなさい。
 そうすれば、すべては変わるだろう。
 快楽と苦痛は、単に感覚を乱すものにすぎない。
 それらを同等に扱いなさい。
 そうすれば、そこには至福だけがあるだろう。

 『私は在る』(p267)
──────────────────

【快楽と苦痛は、単に感覚を乱すものにすぎない】

そういうことなのか……。

──────────────────
 苦痛と快楽は起こる。
 だが、苦痛は快楽の値段であり、
 快楽は苦痛の報酬なのだ。
 
 人生のなかでも、
 しばしばあなたは傷つけることで喜び、
 喜ばすことによって傷ついている。
 苦痛と快楽がひとつだと知ることが平和なのだ。

 『私は在る』(p182)
──────────────────

> だが、苦痛は快楽の値段であり、
> 快楽は苦痛の報酬なのだ。

われわれは自分の苦痛によって、

快楽を購っている。

> 人生のなかでも、
> しばしばあなたは傷つけることで喜び、
> 喜ばすことによって傷ついている。

ああ、たしかに。

> 苦痛と快楽がひとつだと知ることが平和なのだ。

それしかありえないのか。(-_-;)

──────────────────
 苦痛は身体的なもの、苦しみは精神的なものだ。
 マインドを超えたところに苦しみはない。
 苦痛は身体が危険にあり、
 注意を要求しているという単なる信号なのだ。
 同様に、
 苦しみは個人と呼ばれる記憶と習慣の構造が、
 喪失、あるいは変化によって脅かされていると
 私たちに警告しているのだ。
 苦痛は身体の存続のために欠くことのできないものだ。
 しかし、誰もあなたに苦しむよう強要してはいない。
 苦しみは完全に、執着すること、
 あるいは抵抗することを理由に起こる。
 それは私たちが人生とともに流れ、
 進んでいくことを自ら欲しないことの兆候なのだ。
 健全な人生が苦痛から自由であるように、
 聖人の人生は苦しみから自由なのだ。

 『私は在る』(p289)
──────────────────

> 苦痛は身体的なもの、苦しみは精神的なものだ。

はい。

> マインドを超えたところに苦しみはない。

理解できます。

> 苦痛は身体が危険にあり、
> 注意を要求しているという単なる信号なのだ。

たしかに。

> 同様に、
> 苦しみは個人と呼ばれる記憶と習慣の構造が、
> 喪失、あるいは変化によって脅かされていると
> 私たちに警告しているのだ。

ああ、間違いないですね。

> 苦痛は身体の存続のために欠くことのできないものだ。

はい。

> しかし、誰もあなたに苦しむよう強要してはいない。

そうか。

> 苦しみは完全に、執着すること、
> あるいは抵抗することを理由に起こる。

わかります。

> それは私たちが人生とともに流れ、
> 進んでいくことを自ら欲しないことの兆候なのだ。

なるほど。

> 健全な人生が苦痛から自由であるように、
> 聖人の人生は苦しみから自由なのだ。

生命体が健康であれば苦痛がないように、

無知による執着や抵抗のないところには苦しみもないのか。

─────────────────
 苦痛と快楽はともに手を携えていくものだ。
 一方からの自由はその両方からの自由を意味する。
 もし快楽を気にかけなければ、
 苦痛を恐れることはないだろう。
 だが、そのどちらでもなく、
 両方を完全に超えている幸福がある。
 ……
 もっとも明確なことは、
 実在は苦痛と快楽の源泉でも、
 原因でも、根源でもないということだ。
 それらは存在と非存在を超えた
 表現不可能な実在そのものからではなく、
 実在についての無知からやってくるのだ。

 『私は在る』(p162)
──────────────────

そうか……。

苦痛と快楽は、実在そのものからではなく、

実在についての無知からやってくるのか……。

──────────────────
 私たちは多様性を、
 苦痛と快楽の劇を愛している。
 私たちは対比によって魅せられているのだ。
 このために対立するものと、
 それらの表面上の分裂を必要としている。
 しばらくの間それらを楽しみ、
 それから退屈して、
 純粋な存在の平和と沈黙を切望するのだ。
 宇宙のハートは絶え間なく鼓動している。
 あなたはその観照者であり、そのハートでもあるのだ。

 『私は在る』(p434)
──────────────────

> 私たちは多様性を、
> 苦痛と快楽の劇を愛している。

はい、わかっています。(*-_-*)

> 私たちは対比によって魅せられているのだ。

そのとおりです。

> このために対立するものと、
> それらの表面上の分裂を必要としている。

そうなんですね。

> しばらくの間それらを楽しみ、
> それから退屈して、
> 純粋な存在の平和と沈黙を切望するのだ。

そうか……。

わたしは苦痛と快楽の劇のほうを愛していて、

まだそのことに退屈していないのか。(-_-)

> 宇宙のハートは絶え間なく鼓動している。

はい。

> あなたはその観照者であり、
> そのハートでもあるのだ。

そうなんですね。

──────────────────
 この苦痛の宇宙全体は欲望から生まれたのだ。
 喜びへの欲望をあきらめなさい。
 そうすれば、
 あなたは苦痛が何かさえ知らずにすむだろう。

 『私は在る』(p100)
──────────────────

> この苦痛の宇宙全体は欲望から生まれたのだ。

了解しました。

> 喜びへの欲望をあきらめなさい。

ああ。

> そうすれば、
> あなたは苦痛が何かさえ知らずにすむだろう。

そうか。

──────────────────
 快楽と苦痛自体が悟りをもたらすことはない。
 ただ理解だけがそれをもたらすのだ。
 ひとたびあなたが世界は苦しみで満ち、
 生まれてくること自体が災いだという真実を把握すれば、
 それを超えていこうとする
 衝動とエネルギーを見いだすだろう。
 快楽はあなたを眠らせ、苦痛は目覚めさせる。
 至福を通してだけではあなた自身を知ることはできない。
 あなたの本性そのものが至福だからだ。
 悟りを得るためには、あなたではないもの、
 対極と向き合わなければならないのだ。

 『私は在る』(p325)
──────────────────

> 快楽と苦痛自体が悟りをもたらすことはない。

はい。

> ただ理解だけがそれをもたらすのだ。

わかりました。

> ひとたびあなたが世界は苦しみで満ち、
> 生まれてくること自体が災いだという真実を把握すれば、

はい、どうやらそれは理解しているようです。

> それを超えていこうとする
> 衝動とエネルギーを見いだすだろう。

理解していながら、散漫なのです。(*-_-*)

> 快楽はあなたを眠らせ、苦痛は目覚めさせる。

あ。

> 至福を通してだけではあなた自身を知ることはできない。

そうか。

> あなたの本性そのものが至福だからだ。

……。(-_-)

> 悟りを得るためには、あなたではないもの、
> 対極と向き合わなければならないのだ。

わかりました。

──────────────────
 苦痛と快楽は、至福の海の波の頂と谷間だ。
 その底深くには完全な充足があるのだ。

 『私は在る』(p183)
──────────────────

> 苦痛と快楽は、至福の海の波の頂と谷間だ。

現象世界は振幅のある波動によってしか

実現できないのですね。

> その底深くには完全な充足があるのだ。

知覚可能な意識の内容物に焦点を当てなければ、

そこにはただあることに満足している

純粋な意識がある。

──────────────────
 苦痛の終焉は快楽のなかにはない。
 あなたが自分を苦痛も快楽も超えたものだと、
 超然として屈することなく気づくとき、
 幸福を追求することはやみ、
 結果として悲しみも消え去る。
 なぜなら、苦痛は快楽のあとを追い、
 快楽は容赦なく苦痛に終わるからだ。

 『私は在る』(p164)
──────────────────

> 苦痛の終焉は快楽のなかにはない。

はい。

> あなたが自分を苦痛も快楽も超えたものだと、
> 超然として屈することなく気づくとき、
> 幸福を追求することはやみ、
> 結果として悲しみも消え去る。

(-||-)

> なぜなら、苦痛は快楽のあとを追い、
> 快楽は容赦なく苦痛に終わるからだ。

わかりました。

──────────────────
 あなたは在る。
 ほかのすべては現れにすぎない。
 
 『私は在る』(p421) 
──────────────────

(-||-)

──────────────────
 永久的なもの、それはあなた自身の存在である。
 真我として在りなさい。
 それが至福である。
 あなたはいつもそれなのである。
 
 『あるがままに』(p58) 
──────────────────

……。(-_-)

ありがとうございました。<(_ _)>

(-||-)

今日はこんなところで。

……。

m(_ _)m


       ………○…………○…………○………


『私は在る』の「目次」はここ↓に置いてあります。
https://www.ascensionkan.com/books/I_AM_THAT-index.html

ときどき「ニサルガ辞書」で遊んでみてください。
https://www.ascensionkan.com/ndic/

新しい「ラマナ・マハルシ辞書」はここです。
https://www.ascensionkan.com/rdic/

おこがましくも『アセ通』既刊号はすべてここに置いてあります。
https://www.ascensionkan.com/mm/


       ………○…………○…………○………


▼『アセ通』への「私は在る」関連ご意見投稿フォーム:
http://www.formzu.net/fgen.ex?ID=P48750702
というのを作らせていただきました。(^^;)

「私は在る」に関するご意見・ご感想・シェアリング、または単な
るメールなど、ご自由にお書きいただければと思います。


       ………○…………○…………○………


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■ 2.編集後記:
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「これではまるで、

 生まれてこなかったほうが良かったようではないか」

と思ったことがありました。

まさか、そんなことはありえないだろうと思いながら。

でも、実際は、まさにそのとおりでしたね。

Oshoもどこかで、笑いながら、

「あなた方は最善は逃した」

と言っていたことがありましたが。

今日は、枕木を運んだりして

やっぱり晩くなりました。

お休みなさい。

<(_ _)>


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■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
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