━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
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☆☆ ☆☆『アセンション館通信』2017/02/19(第671号)
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☆☆ ☆★ 【気刊】――「私は在る」に導かれ♪――
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☆☆ ☆☆ https://www.ascensionkan.com/
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇
このメルマガはアセンション館主人pariと称するあるパターンに
浮上している心象風景の報告です。
苦痛から欲望が生まれ、苦痛のなかで欲望を満たそうとする。
世界の根本原因は自己愛である。そのために私たちは快楽を探し
求め、苦しみを避ける。自己愛を真我への愛に変えなさい。
すると画面は変わってくる。(ニサルガダッタ)
内容は人畜無害、でも読む人は相当変わっていますね。現在872名
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◇◇ もくじ ◇◇
1.この虚しいような不安感はどこから?
2.編集後記
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■ 1.この虚しいような不安感はどこから?
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土曜日だけは自由!(*^_^*)
本当は自由が不自由を想像しているだけなんでしょうけど、
土曜日だけは自由を想像したくなる。
ふ。
バカな話です。(^_-)
(*^_^*)
さて、またまた一週間が過ぎて、
楽しい“アセンション噺”ならぬ「私は在る」噺に、
お付き合いいただく今がやってまいりました。
『アセンション館通信』配達人の pari です。
たぶん、チロチロと期待が揺らめいて、
こうしてなにか不得要領な不安な感じになるんでしょうね。
自分の人生という記憶にフォーカスした
期待と不安がセットになって
今ある実在を覆い隠そうとしているのでしょうか。
個人としての自分が存在しないことが曝露されるのが
恐ろしいのかもしれません。
でも記憶と想像で紡ぎ出される人生が
どこまでいっても堂々巡りにすぎないことがわかってしまった以上、
そこに全面的に期待することももはや不可能です。
だからこうしてとても曖昧な気分で
虚しいような不安感を演出しているのでしょう。
──────────────────
「私は在る」が変わらぬ事実だ。
一方、「私は創造された」はひとつの観念だ。
神も宇宙もあなたのもとへやってきて、
彼らがあなたを創造したと伝えはしなかった。
因果関係の概念に取りつかれたマインドが創造を発明し、
そして「創造者は誰なのか?」と不思議がるのだ。
マインド自体が創造者だ。
これさえもまた完全な真実ではない。
なぜなら創造されたものと創造者はひとつだからだ。
マインドと世界はひとつだ。
あなたが世界として考えているものは、
あなた自身のマインドなのだということを理解しなさい。
『私は在る』(p521)
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> あなたが世界として考えているものは、
> あなた自身のマインドなのだということを理解しなさい。
こんなことがこんなに自明になってしまって、
この先どうしたらいいものやら。(*^_^*)
【見かけ】の上では、わたしは
<何故にすべては始まってしまったのか?>
という疑問から探求の旅をはじめたのでした。
何故にすべては始まってしまったのか?
もちろん、
【見かけ】のなかのこの身体に自己同化したわたしが、
この身体がそれ自体の独立存在を持っているのだと誤解して、
【見かけ】のなかで迷子になって途方に暮れただけです。(*^_^*)
実際は、わたしの前にこの【見かけ】があるだけ。
この身体はその【見かけ】の一部であって、
この身体がその【見かけ】に気づいているわけではない。
身体を含むこの【見かけ】に気づいているのはわたしです。
世界に気づいているのが「わたし」であることを疑う人はいない。
「わたし」とは、
この身体を含むこの【見かけ】に気づいている者を指す言葉です。
われわれは、
ただこの身体が気づいているのだと誤解していただけです。
そして論理的にその誤解が解けたのちにもなお、
そのように考える長年の癖が抜けていないだけです。
そもそも身体の誕生の最初から、
この身体が気づいているのだと誤解していたわけでもありません。
身体が誕生したばかりのころは、
そもそも自分の身体がどれかすら知らなかったわけですから。
もし、二歳とか三歳のその当時から
言葉を操って話すことができたとしたら、
はじめて母親と父親といっしょに鏡を覗いたら、
「お母さんとお父さんの間にいるコレは何?」
とか訊いたかもしれません。(*^_^*)
しかし、そのような疑問が起こったとして、
そう質問したかったその疑問を「わたし」だというのも、
またあまり正確じゃありません。
「お母さんとお父さんの間にいるコレは何?」
というその疑問は、ある意味では、
そう訊いている当人ですが、
また別の意味では、
その疑問の表現媒体(意識形態)であって、
その疑問に気づいている者ではないからです。
その疑問に気づいている者が、
その疑問の表現媒体(意識形態)でないことは自明です。
あらゆる騒音に気づくことができるのは沈黙であって、
いかなる騒音でもないことが自明であるように、
また、あらゆる色彩を映し出せるのは白いスクリーンであって、
いかなる色彩でもないことが自明であるように、
いかなる表現媒体(意識形態)も
気づいている者当人であることはできないでしょう。
そのような語法では、
すべてに気づいている「真我」は、
唯一無二の「純粋な気づき」しかありえないでしょう。
あらゆる音色に気づくことができるのは沈黙しかないように。
あらゆる色彩を映し出せるのは白いスクリーンしかないように。
すべてに気づいている「真我」は、
いかなる属性も持つことはできない。
あらゆる属性は表現媒体にしか帰属しません。
つまりは、
事実として、わたしとあなたの「わたし」は、
まったく同じものです。(*^_^*)
わたしもあなたも、
まったく同じものを指して、
まったく同じ存在感、まったく同じ気づきをさして、
「わたしは……」「ぼくは……」
とかなんとか言っているわけです。(^^;)
ですから、「わたしはあなたとは違う」、
とかなんとか言ったとたんに、
その“わたし”は何らかの属性をもたざるをえず、
気づいているその当人ではありえなくなる。
つまりは、
何らかの表現媒体にならざるをえなくなるということです。
ごくごく、単純なことですね。(*^_^*)
もちろん、
言うまでもないことですが、
表現媒体の立場から言うなら、すべては許されているわけです。
そして、あらゆる表明は、
すべて表現媒体の立場からしか語られることはありえません。
実在するものは、
ただ、永遠の「いま」として、
不動の常在である「気づき」として、
表現媒体である意識の諸相を映し出しているだけですから。
われわれは今、
映し出している常在よりは、
映し出されている【見かけ】の方に興味がある。
【見かけ】の有為転変に翻弄されながら、
溺れかかった一瞬、
苦しさ紛れに、気分で
「真我」である自分を知りたい
などとのたまっているわけです。(*^_^*)
言うなれば、
たったひとつしかない「意識の大海」の
表面に飛び散る一瞬の“波しぶき”が
遥かに深い“不動の海底”に
秋波を送ったようなものかもしれません。(^_-)
そのような用語法では、
「意識の表現媒体」と「気づき」とは、
永遠に常在するたった一つの<意識の大海>の
“波立つ海面”と“不動の海底”という、
二つの側面にすぎないとも言えるでしょう。
この<意識の大海>のなかでは、
いかなる微小部分といえども、
自らにふさわしくないところに位置することは
ありえないのかもしれません。
誰も自らの興味に逆らうことはできないようですから。(^_-)
──────────────────
解放への道には何も立ちはだかっていない。
そしそしてそれは今ここで起こることができる。
だが、あなたはほかのことにもっと興味がある。
そしてあなたはその興味と闘うことはできないのだ。
あなたはそれとともに行き、それを見抜き、
それが単に判断と賞賛の誤りであることを、
それ自体が自ら暴くのを見守らなければならないのだ。
『私は在る』(p475)
──────────────────
なぜかこの言葉が、いつも気になります。
> だが、あなたはほかのことにもっと興味がある。
> そしてあなたはその興味と闘うことはできないのだ。
ね、あなたも気になるでしょ。(*^_^*)
じゃ、われわれの興味自体は
いったいどういうことになっているのか?
──────────────────
質問者 何が私に興味をもたせるのでしょうか?
マハラジ
苦痛への恐れと快楽への欲望だ。
快楽は苦痛の終焉であり、苦痛は快楽の終焉だ。
それらは果てしない連続性のなかで交代しているだけなのだ。
あなたがそれを超えたあなた自身を見いだすまで、
その悪循環を調べてみるがいい。
『私は在る』(p396)
──────────────────
> 質問者 何が私に興味をもたせるのでしょうか?
うん。
> マハラジ
> 苦痛への恐れと快楽への欲望だ。
アチャ。(>_<)
> 快楽は苦痛の終焉であり、苦痛は快楽の終焉だ。
なんと……。
> それらは果てしない連続性のなかで交代しているだけなのだ。
そうか。
> あなたがそれを超えたあなた自身を見いだすまで、
> その悪循環を調べてみるがいい。
そういうことなんだなぁ。(-_-)
われわれは身体の誕生以来、
目に見えている【見かけ】のなかに
“自分”が現象しているという思い込み(ドラマ)を生きています。
でも、もし、
現象に気づいているのが自分だとするなら、
その「自分」は現象できません。
顕現に気づくことは非顕現にしかできませんから。
何らかの表現属性を担って顕現している“自分”が
すべてに気づいているという誤解が
この人生というドラマを成り立たせています。
ある意味では、面白くてやめられないのだろうけど、
気がついたときには、
想像で夢中になったネトゲ廃人のように
それらすべての【見かけ】を支えているのが
気づいている自分であることを忘却してしまう。
──────────────────
そこには想像があるだけだ。
知性とエネルギーは、
あなたの想像のなかですべて使い果たされてしまった。
あなたはまったく想像に夢中にさせられてしまったため、
どれほど実在から遠く離れてさまよい歩いたのかさえ
わからなくなってしまったのだ。
想像が豊かな創造力であることに疑いはない。
宇宙のなかの宇宙も、
想像によって構築されているのだ。
それにもかかわらず、
それらはみな空間と時間、過去と未来のなかにあり、
実際は存在しないのだ。
『私は在る』(p306-307)
──────────────────
> 想像が豊かな創造力であることに疑いはない。
はい。
> それにもかかわらず、
> それらはみな空間と時間、過去と未来のなかにあり、
> 実際は存在しないのだ。
すべては想像された観念的構築物であり、
実際は存在しない……。(-_-;)
【実際は存在しない】……。
では、何が存在しているのか。
実際に常在しているのは「気づき」だけとも言えます。
──────────────────
気づきは根本的なものだ。
それは根元的状態であり、
はじまりがなく、終わりもない。
原因がなく、支えがなく、部分も、変化もない。
意識は表層の反映と関連しており、二元的な状態だ。
気づきなしに意識は在りえない。
しかし深い眠りのように、
意識がなくても気づきは存在しうる。
気づきは絶対的だ。
意識はつねに何かに属し、その内容との相関関係にある。
意識は部分的であり、変化するもの。
気づきは完全で、不変であり、静かで沈黙の内にある。
そして、それはあらゆる経験の共通の母体なのだ。
『私は在る』(p49-50)
──────────────────
> 気づきなしに意識は在りえない。
水なしに色水は在りえない、
というようなものでしょうか。
> しかし深い眠りのように、
> 意識がなくても気づきは存在しうる。
しかし、色を含まない真水は存在しうる。
> 気づきは絶対的だ。
生命は真水のようなものだ。
> 意識はつねに何かに属し、その内容との相関関係にある。
色水はつねに何かを表現しており、
その表現内容と無縁ではありえない。
> 意識は部分的であり、変化するもの。
何かを表現すれば、それは全体ではありえず、
変化を避けることはできない。
> 気づきは完全で、不変であり、静かで沈黙の内にある。
> そして、それはあらゆる経験の共通の母体なのだ。
すべて存在の可能根拠である気づきは、
完全であり、不変であり、静かで沈黙の内にある。
あらゆる経験の背後にそれはつねに存在している。
> 気づきは根本的なものだ。
> それは根元的状態であり、
> はじまりがなく、終わりもない。
> 原因がなく、支えがなく、部分も、変化もない。
気づきは、永遠の常在であり、
はじまりがなく、終わりもない。
原因がなく、支えがなく、部分も、変化もない。
(-||-)
だからこそ、マハラジはこう言うのでしょう。
──────────────────
いずれにせよ、あなたは気づいている。
そうあろうと試みる必要はない。
あなたに必要なのは、
気づいていることに気づくことだ。
意図的に、そして意識的に気づいていなさい。
気づきの領域を広げ、そして深めなさい。
あなたはつねにマインドを意識している。
だが、
あなた自身が意識していることに気づいてはいないのだ。
『私は在る』(p238)
──────────────────
(-||-)
そして、わたしの曖昧な気分は、
想像から生まれる不安や期待の派生物であるようです。
──────────────────
不安と期待は想像から生まれる。
私はその両方から自由だ。
私はシンプルな存在だ。
何に寄りかかる必要もないのだ。
『私は在る』(p124)
──────────────────
> 不安と期待は想像から生まれる。
【不安と期待は想像から生まれる】……。
想像することに、
これほどの可能性と破壊力があったとは。(-_-;)
──────────────────
夢が夢見る人から離れてはいないように、
知ることも在ることから離れてはいない。
夢は夢見る人であり、知識は知る人なのだ。
区別は単に言葉の上にあるだけだ。
『私は在る』(p124)
──────────────────
> 夢は夢見る人であり、知識は知る人なのだ。
> 区別は単に言葉の上にあるだけだ。
かくて、気づきと体験はひとつになる。
──────────────────
存在の静かな状態が至福なのだ。
乱された状態が世界として現れる。
非二元性のなかには至福がある。
二元性のなかには体験がある。
来ては去っていくのは苦痛と快楽の二元性の体験だ。
至福とは知られるものではない。
人はつねに至福なのだ。
しかし、けっして至福に満ちているのではない。
至福とはひとつの属性ではないのだ。
『私は在る』(p124)
──────────────────
> 存在の静かな状態が至福なのだ。
はい。
> 乱された状態が世界として現れる。
わかりました。
> 非二元性のなかには至福がある。
(-_-)
> 二元性のなかには体験がある。
ああ。(-_-)
> 来ては去っていくのは苦痛と快楽の二元性の体験だ。
わかりました。
> 至福とは知られるものではない。
はい。
> 人はつねに至福なのだ。
(-||-)
> しかし、けっして至福に満ちているのではない。
> 至福とはひとつの属性ではないのだ。
わかりました。<(_ _)>
(-||-)
──────────────────
あなたは在る。
ほかのすべては現れにすぎない。
『私は在る』(p421)
──────────────────
(-||-)
──────────────────
永久的なもの、それはあなた自身の存在である。
真我として在りなさい。
それが至福である。
あなたはいつもそれなのである。
『あるがままに』(p58)
──────────────────
……。(-_-)
ありがとうございました。<(_ _)>
(-||-)
今日はこんなところで。
……。
m(_ _)m
………○…………○…………○………
『私は在る』の「目次」はここ↓に置いてあります。
https://www.ascensionkan.com/books/I_AM_THAT-index.html
ときどき「ニサルガ辞書」で遊んでみてください。
https://www.ascensionkan.com/ndic/
新しい「ラマナ・マハルシ辞書」はここです。
https://www.ascensionkan.com/rdic/
おこがましくも『アセ通』既刊号はすべてここに置いてあります。
https://www.ascensionkan.com/mm/
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▼『アセ通』への「私は在る」関連ご意見投稿フォーム:
http://www.formzu.net/fgen.ex?ID=P48750702
というのを作らせていただきました。(^^;)
「私は在る」に関するご意見・ご感想・シェアリング、または単な
るメールなど、ご自由にお書きいただければと思います。
………○…………○…………○………
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■ 2.編集後記:
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土曜日のマインド無礼講モードになかで
微かに揺らめく曖昧な気分は
体験の世界に何かを期待する
想像のなかから生まれていたのでした。
特に求めている体験というのもないのだから、
生活のなかで必要とされることをこなしながら
後は手放していくことができるでしょう。
夢のなかで何かができる登場人物が
存在するはずもないのだから。
夢のなかの登場人物は
夢のなかの欲動に突き動かされながら
右往左往していればいいのだと思います。
そのうち、その虚しさすらも見抜かれて
だんだん右往左往もしなくなるかもしれません。
そんなことは誰にもわからない。
日が暮れました。
これから夕ご飯です。
<(_ _)>
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■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
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→ メール: pariアットマークjk2.so-net.ne.jp
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