home > 通信 >『アセンション館通信』第676号:困るのは対象に自己同化した自分だけ



━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
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 ☆☆     ☆☆『アセンション館通信』2017/03/26(第676号)
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☆☆      ☆★ 【気刊】――「私は在る」に導かれ♪――
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 ☆☆   ☆☆          https://www.ascensionkan.com/
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇

このメルマガはアセンション館主人pariと称するあるパターンに
浮上している心象風景の報告です。

 苦痛から欲望が生まれ、苦痛のなかで欲望を満たそうとする。

 世界の根本原因は自己愛である。そのために私たちは快楽を探し
 求め、苦しみを避ける。自己愛を真我への愛に変えなさい。
 すると画面は変わってくる。(ニサルガダッタ)

内容は人畜無害、でも読む人は相当変わっていますね。現在871名
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◇◇ もくじ ◇◇

1.困るのは対象に自己同化した自分だけ

2.編集後記
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■ 1.困るのは対象に自己同化した自分だけ
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春ですね。

肌寒い日もあるけれど。

(*^_^*)

さて、またまた一週間が過ぎて、

楽しい“アセンション噺”ならぬ「私は在る」噺に、

お付き合いいただく今がやってまいりました。

『アセンション館通信』配達人の pari です。

やっとおおよそのことが腑に落ちてきた感じがしています。

ここ十年ほどニサルガダッタの言葉の周辺にまとわりついて

なんとかその意味を理解しようとしてきました。

縁から言っても、自分の論理的趣味性から言っても、

自分にとってマハラジの言葉以上に

論理的に追随しやすく、

論理的に納得しやすい言葉は

他にないだろうと思っていました。

言葉など追っかけてもどうしようもないかもしれません。

でも同時に自分にとっては

論理的に納得しなければどうしようもない

という感じもあったわけです。

──────────────────
 あなたに必要なのは理解することだけだ。
 そして理解はマインドの開花なのだ。
 ……
 宇宙を創造した欲望はあなたのものだ。
 世界はあなた自身の創造だと知り、自由になりなさい。
 
 『私は在る』(p397-398)
──────────────────

こういう言葉を言ってくれる人は、

わたしが知るかぎりマハラジの他にはいなかったです。

──────────────────
 ひとたびあなたが世界は苦しみで満ち、
 生まれてくること自体が災いだという真実を把握すれば、
 それを超えていこうとする衝動とエネルギーを見いだすだろう。
 快楽はあなたを眠らせ、苦痛は目覚めさせる。
 至福を通してだけではあなた自身を知ることはできない。
 あなたの本性そのものが至福だからだ。
 悟りを得るためには、あなたではないもの、
 対極と向き合わなければならないのだ。
 
 『私は在る』(p325)
──────────────────

こういうマハラジの言葉が、

わたしにはいちばん納得しやすい入り口でした。

だから、マハラジが遺してくれた言葉を

その言葉のままに論理的に追随して、

その結果、彼が伝えようとしている意図が腑に落ちれば、

自分にとってそれ以上の道は望めないだろうと

感じていたというわけです。

自分にわいてくる思考は、基本的には

端的な理解を回避する手段だろうとも感じていました。

その意味では、

マイケル・ラングフォードの言う

「エゴの維持戦略」という観念は

とても的確で有効だと思っていました。

なぜなら、こういう言葉を聴くと、

わたしのマインドはすぐに、

そもそもなぜそんなものが必要なのか、と設問したがります。

でもこの場合は、そのこと自体が

「エゴの維持戦略」という観念の的確さを

証明してもいましたから。

夢の中にいるわれわれの論理が、

基本的にその夢の破綻を回避するために働くのは

当然だと思います。

そのためのいちばん簡単で

いちばん頻繁に利用される方法は、

とりあえず画面を変えて注意を奪い

目先を新たな瑣末事に向けることでしょう。

もともと夢の世界がつづいてほしいわれわれ登場人物は

喜んでその新たに展開される餌に食いつくでしょうから。

そういうサービスをいっさいしないのが

夢の外にいる沈黙でしょうが、

普通はそんなものは夢のなかまで聞こえてこない。

例外的に聞こえてくるのが

夢が終わったのにまだ身体に入れる沈黙の意識だと思います。

それだって使える身体の条件がいろいろだから、

夢のなかで興味をもった万人に妥当する道などありえない。

それぞれの縁と条件のなかで可能な道が起こるしかない。

要するに、起こることはすべて自然現象なのだと思います。

その自然現象の一部であるpariパターンにとって、

マハラジの言葉がとても響いたというわけでした。

ただ総論としては納得できるのですが、

細かい点でいろいろ不明なところがありました。

なにしろ、話題が話題なので、

人間の言葉で語られると必然的に誤解が起こります。

まあ、そんなこともあって、

いまいちはっきりしないことがたくさんあったのです。

たとえば、

この二つの目の後ろから「見ている自分」と

痛みを「感じている自分」は

同じなのか、それとも違うのか、とか、

「関心をもっているのはあなたなのだ!」(p488)

というときのその「あなた」とは誰のことなのかとか……。

そもそも、

──────────────────
 すべては必要にしたがって起こる。
 しかも、何も起こってはいないのだ。
 
 『私は在る』(p209)
──────────────────

と言われるときの、

この「何も起こっていない」とは

気分ではわかるような気もするけれど、

実際は、いったいどういう意味なのか (?_?)

そういう細かなことが不明だったわけです。

まあ、少し違うかもしれませんが、

煎じ詰めれば、

ネイサン・ギルの

「Clarity(明晰さ)」の「ストーリー」にある

こんな気分でしょうか。(^^;)

──────────────────
 何をまだ見つけていないと言うんだろう?
 すでに目覚めていて自由だというのが本当なら、
 自分の人生がいつでもくだらないものに感じられるのは
 なぜなんだろう?
 
 『すでに目覚めている』(p36) http://goo.gl/rx9Q8W
──────────────────

と……ふふ。(*^_^*)

で、そう思いながら、

毎回、マハラジの言葉をなぞってきたわけですが、

ここにきて、やっとごく単純なことが

腑に落ちたということです。

といっても、別にたいそうなことじゃなくて、

なに、pariさん、

これまでそんなことも気づいていなかったの? (@_@)

と思われるようなことかもしれません。

でもまあ、思わせぶりはやめて端的に行きますね。

何が腑に落ちたのかというと、

・気づいている「わたし」と

・関心を持っている「わたし」と

・創造している「わたし」という

「わたし」の細かい意味合いのなかで混乱していたのが

なんとなく落ち着いて明瞭になったということです。

それぞれ、思いつくままにコメントします。


(1)気づいている「わたし」

何が腑に落ちたかというと、どんな場合にも、

【困っているのは、

 困っていると思っているわたしだけで、

 実際のわたしは何も困っていない】、

ということに得心がいったのです。(*^_^*)

代名詞を少し変えて、

【困っているのは、

 困っていると思っているあなただけで、

 実際のあなたは何も困っていない】、

と言ってもいいです。

これ、納得いきますか? (^_-)

もし、これまでのpariパターンのように、

いまいち納得がいかない気分があるようなら、

少し蛇足を弄してご説明します。


われわれが使っている人間の言葉は、

マハラジやマハルシのような

夢の中にいない意識存在のための道具じゃないので、

彼らも「わたし」や「あなた」という言葉を

使わざるを得ないし、

そういう言葉が使われたら、

夢の中にいるわれわれも自分が馴染んだ意味合いで

それらの言葉を理解せざるをえません。

で、言葉のなかで生まれる状況はじつに多彩なので、

そうして生まれる諸状況のなかで

語り手を指す「わたし」や

聞き手を指す「あなた」は

暗黙の内に多様な位置設定を帯びてしまいます。

誤解が起こって当然と言うか、

正解など起こるはずもないような話です。

でも、興味を持ってしつこくつきまとえば、

そんな言葉だって真意を打ち明けてくれます。

上で言及した変な語義矛盾は、

次のような矛盾のない表現に置き換えることができます。

それは、

【困るのは対象(や状況)に自己同化している自分だけで、

 実際に存在しているわたしではない】

という表現です。

通常われわれは誰もが

対象や状況に自己同定しているので

(つまり、対象や状況を自分だと思っているので)、

「実際は、何も起こっていない」と言われても、

「しかし、こうして実際に起こっているじゃないか」、

ということになると思います。

だから夢を見ていない意識が語るこのあたりの表現は、

通りいっぺんに大雑把に見ていたのでは、

もう誤解と語義矛盾だらけになってしまうわけです。

でも、断固として

誤解しているのはこちらの方で、

事実はマハラジが語っているとおりなのだという

信頼というか思い込みを手放さずにいると、

やっと向こうが語っていることが伝わってきます。

たとえばの話、いろいろな状況のなかで

われわれにはいろんな感想が起こってきます。

その【いろいろな状況】とか【いろんな感想】が

実際に“起こっている”と前提された意識空間では、

事実上いろいろな問題が起こってくるし、

問題があるという事態が事実になるのです。

そのなかで自分が困る状況も起こります。

でも実際は、わたしには何も起こっていないのです。

なぜか?

なぜなら、

わたしは、それが起こっていることに

【気づいている】からです。

え、なんのこと?(?_?)

つまり、わたしがその状況に【気づいて】いなければ、

その状況は起こらないということです。

われわれは自分が気づいていない対象や状況を

もつこと(起こすこと)はできません。

何かが起こるためには、

わたしがそれに気づいていることが不可欠です。

そして、わたしがそれに気づいていること自体が、

それがわたしではないことを明かしているのです。

何かが起こっているとは、

何かが起こっていることに

わたしが気づいているという意味です。

当然、起こっているその事態は、

わたしではないという暗黙の意味合いが含まれます。

なぜなら、

その事態はわたしに対して起こっていて、

わたしはそれに気づいている当人だからです。

しかも、その気づいているわたしがいなければ、

それは起こることもできないのです。

「わたし」はそれが起こることを可能にしたけれど、

しかし、起こったその事態は「わたし」ではないのです。

意味は伝わりましたか?

問題はただ、

知覚された事態を自分だと誤解しているエネルギーにのみ

起こっているということです。

しかし、実際は、

それを知覚しているあなたには何も起こっていないのです。

まあ、何度くどくど言っても同じですが。(*^_^*)

──────────────────
 知覚されたものは知覚者ではありえない、
 と覚えておくことを覚えておきなさい。
 あなたが何を見ようと、
 聞こうと、考えようと、覚えようと――
 起こることがあなたなのではない。
 あなたはそれが起こる当人なのだ。
 
 『私は在る』(p538-539)
──────────────────

十年前はじめてこの文章に触れたときも、

このことが真実であることを知っていました。

十年後のいまも、

このことが真実であることを知っています。

ただ腑に落ちるまで十年かかっただけです。

ナンノコッチャ。(*^_^*)


(2)関心をもっている「わたし」

──────────────────
 関心をもっているのはあなたなのだ!
 そして、その絵があなたの真実、
 愛、美の感覚と衝突するかぎり、
 あなたはそれに関心をもちつづけるだろう。
 調和と平和への熱望は、
 消し去ることのできないものだ。
 だが、ひとたびそれが満たされれば関心は去り、
 身体的生活は注意のレベル以下の努力を要しないものとなる。
 身体を得るか、身体を去るかは、
 あなたにとって同じこととなる。
 あなたには何ひとつ起こらないという地点に達するのだ。
 身体なしには殺されない。
 所有物なしには奪われない。
 マインドなしには騙(だま)されない。
 そこに欲望や恐れを引っかける留めクギもない。
 何の変化もあなたに起こらないかぎり、
 ほかに何の問題があるだろうか?
 
 『私は在る』(p488)
──────────────────

> 関心をもっているのはあなたなのだ!

この関心をもっている「あなた」が

いったい誰のことなのか、

どうもいまいち明確ではありませんでした。

でも、いまやそれが明確になりつつあります。(*^_^*)

明確でなかったと言ったのは、

この「あなた」が

知覚対象に自己同化している「あなた」のことなのか、

それとも背後にいる真我としての「あなた」のことなのか、

いまいち明確でなかったからです。

で、何が腑に落ちたのかと言えば、

それを言葉の上で、

自己同化した「あなた」とか、

真我としての「あなた」とか区別立てしても、

別になんの意味もないとわかったということです。

自己同化した「あなた」でもいいし、

真我としての「あなた」でもいいし、

両者を二枚重ねにした「あなた」でもいいのです。

要するに、マハラジが語りかけている「あなた」、

聴いているわれわれである「あなた」です。

現象世界が現実だと思っているわれわれは、

大なり小なり、知覚対象に自己同化した状態を

「わたし」だと思っています。

マハラジは「あなた」が本当は真我であることを知っている。

その上でマハラジは「わたし」に語りかけている。

> そして、その絵があなたの真実、
> 愛、美の感覚と衝突するかぎり、
> あなたはそれに関心をもちつづけるだろう。

知覚対象である現象世界に注意を向けているかぎり、

わたしはその対象に関心をもちつづけるわけです。

しかし現象世界に関心をもちつづけている者は

実際のわたしではない。

なぜなら、実際のわたしは、

現象世界に関心をもちつづける状態に

気づいている者だからです。

現象世界に対する関心は、

現象世界に対する関心に気づくことはできない。

現象世界に対する関心に気づいているのは、

その関心に気づくことができる者、

現象世界に関心をもっていない状態です。

その気づいている者には何も起こっていない。

夢に夢中になっている状態が、

夢に夢中になっている状態に

気づくことはありえないのです。

で、現象に夢中になっている状態に

気づいているのは実際にわたしなので、

このわれわれであるところの「わたし」には、

実際に【何も起こっていない】のです。(*^_^*)

> 調和と平和への熱望は、
> 消し去ることのできないものだ。

現象世界のなかをどんなに探し回ったところで、

わたしの調和と平和への熱望が消えることはない。

> だが、ひとたびそれが満たされれば関心は去り、
> 身体的生活は注意のレベル以下の努力を要しないものとなる。

だがひとたび現象世界への関心が退潮し、

関心が真に自分であるものに向かって

自分が何であるかを知ったら、

身体的生活は注意するには値しないものとなる。

> 身体を得るか、身体を去るかは、
> あなたにとって同じこととなる。

自分の関心が支えている【見かけ】の中で変化は

わたしにとってはどうでもいいものになる。

> 身体なしには殺されない。
> 所有物なしには奪われない。
> マインドなしには騙(だま)されない。

すべては自分の関心が支える夢のなかの場面。

そこで何かを得ることもできなければ、

何かを失うこともありえないわけですから。

> そこに欲望や恐れを引っかける留めクギもない。
> 何の変化もあなたに起こらないかぎり、
> ほかに何の問題があるだろうか?

夢のなかの場面にどんな欲望も持ちえない以上、

そこにどんな問題がありうるでしょうか。


(3)創造者である「わたし」

たとえば、苦しみからの脱出法を研究するのは、

苦しむ者か、または苦しむ者に共感する者です。

苦しむ者とは、

起こっている苦しみに自己同化している意識状態です。

この意識状態が苦しみからの脱出を図り、

脱出法を創出しようとするわけです。

このことから、創造者とは

現象に自己同化した意識状態であることがわかります。

けっして、その意識状態に気づいている者ではない。

知覚対象に自己同化した意識エネルギーが

創造者なのです。

真我が個人を魔法にかけて苦しめているわけではない。

真我はすべてに気づいている者です。

つまり、実際に、

気づいているこの「わたし」なのです。

このことは、

数学的に確実だと思います。

(-||-)

だから、ここまでがマインドの作業でした。

この先は、

マインドが知的所有物にできるようなものでもない。

──────────────────
 「何も私ではない」が第一段階だ。
 「すべてが私だ」がつぎの段階だ。
 そのどちらも「そこに世界が存在する」
 という観念にかかっている。
 この観念もまた放棄されたとき、
 あなたはあるがままの
 非二元性のあなたとして残る。
 今ここで、あなたはそれなのだ。
 だが、あなたの視野は
 自己に関する偽りの観念によって
 妨げられているのだ。
 
 『私は在る』(p537)
──────────────────

もしまだ油を売ることが起こるのなら、

自分が生みだす夢に関心を持っているのが

わたしであるのは明らかです。

これ以上疑問もなければ、知るべきこともありません。

マハラジは助けのいらないところまで、

わたしを導いでくださった。

これ以上、

誰に何を教わることができるというのでしょうか。

(-||-)

──────────────────
 あなたは在る。
 ほかのすべては現れにすぎない。
 
 『私は在る』(p421) 
──────────────────

(-||-)

──────────────────
 永久的なもの、それはあなた自身の存在である。
 真我として在りなさい。
 それが至福である。
 あなたはいつもそれなのである。
 
 『あるがままに』(p58) 
──────────────────

……。(-_-)

ありがとうございました。<(_ _)>

(-||-)

今日はこんなところで。

……。

m(_ _)m


       ………○…………○…………○………


『私は在る』の「目次」はここ↓に置いてあります。
https://www.ascensionkan.com/books/I_AM_THAT-index.html

ときどき「ニサルガ辞書」で遊んでみてください。
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新しい「ラマナ・マハルシ辞書」はここです。
https://www.ascensionkan.com/rdic/

おこがましくも『アセ通』既刊号はすべてここに置いてあります。
https://www.ascensionkan.com/mm/


       ………○…………○…………○………


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■ 2.編集後記:
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マハラジのすべての言葉が

矛盾なく収まる理解に到達したと思います。

この先、自然現象がどちらに向かうのかは

わかりませんが。

今日も暗くなりました。

お休みなさい。

<(_ _)>


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■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
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