home > 通信 >『アセンション館通信』第677号:夢のなかで見ることは私ではない



━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
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 ☆☆     ☆☆『アセンション館通信』2017/04/02(第677号)
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☆☆      ☆★ 【気刊】――「私は在る」に導かれ♪――
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 ☆☆   ☆☆          https://www.ascensionkan.com/
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇

このメルマガはアセンション館主人pariと称するあるパターンに
浮上している心象風景の報告です。

 苦痛から欲望が生まれ、苦痛のなかで欲望を満たそうとする。

 世界の根本原因は自己愛である。そのために私たちは快楽を探し
 求め、苦しみを避ける。自己愛を真我への愛に変えなさい。
 すると画面は変わってくる。(ニサルガダッタ)

内容は人畜無害、でも読む人は相当変わっていますね。現在872名
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◇◇ もくじ ◇◇

1.夢のなかで見ることは私ではない

2.いただいたお手紙から:871番さん

3.編集後記
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■ 1.夢のなかで見ることは私ではない
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春ですね。

今日はまだ肌寒い日です。

(*^_^*)

さて、またまた一週間が過ぎて、

楽しい“アセンション噺”ならぬ「私は在る」噺に、

お付き合いいただく今がやってまいりました。

『アセンション館通信』配達人の pari です。

自分はただ自分であるだけ。

手に入るものもなければ失うものもない。

増えることもなければ減ることもない。

まるでお経ですね。(^_-)

これがホントならこれほどの安心はないですが、

もしこれが実際に事実であることがわかったらどうでしょう?

もうあまり動揺する理由もないようなものですが。

でも、あなた、これが事実であることを否定できますか?

正気だったら否定できないでしょう。(*^_^*)

現状がすでに、

これ以上はありえないというところにいるわけです。

いるというか、自分自身がそれであるわけです。

──────────────────
 だが、あなたはほかのことにもっと興味がある。
 そしてあなたはその興味と闘うことはできないのだ。
 
 『私は在る』(p475)
──────────────────

このことだけが問題なんですねぇ。(-_-;)

だから……、

──────────────────
 あなたはそれとともに行き、それを見抜き、
 それが単に判断と賞賛の誤りであることを、
 それ自体が自ら暴くのを見守らなければならないのだ。
 
 『私は在る』(p475)
──────────────────

というわけなのだと思います。

すると、その【見かけ】のなかでは

まことしやかにさまざまな妄想が起こります。

それらさまざまの妄想は

誤解だと思われたり正解だと思われたりする。

それはそうなっているわけです。

誰が悪いわけでもない。

ただの自然現象です。

そういう【見かけ】のなかでは、

まだ何かが手に入ると思うばかりに、

想像上の比較でむやみに苦しがったりすることも起こる。

もし何かが手に入ったとしたら、

そんなものは失うものに決まっているのに。

そういう想像(創造)が起こるのは、

どこかにエネルギーがあり余っているからでしょう。

ま、そんなのは単なるマインドの気休めの理屈ですけど。(^_-)

でも上で言ったこと、これ、事実でしょ。

あなた、否定できますか? 

誰も否定できない。(*^_^*)

そもそも否定できるような誰も存在していない。

と、まあ、

そんなことを大昔の二十代の自分に聞かせてやったら

彼、何かがわかるでしょうか?

いや、わかるはずがないでしょう。

これを聞いて納得するようなら

彼は二十代の自分をやっていられないだろうから。

ははは。(*^_^*)

だからこうして別の自分が顕れて

「やっとわかった」とかなんとか、

別の誤解だか正解だかをのたまっているというわけです。(^_-)

持ってもいないものを

自分のものだと“しょってる”ものだから、

想像で自惚れたその分だけ

降ろさざるをえなくなっただけです。

誰が得したわけでも、誰が損したわけでもない。

──────────────────
 マインド自体が創造者だ。
 これさえもまた完全な真実ではない。
 なぜなら創造されたものと創造者はひとつだからだ。
 マインドと世界はひとつだ。
 あなたが世界として考えているものは、
 あなた自身のマインドなのだということを理解しなさい。
 
 『私は在る』(p521) 
──────────────────

> マインド自体が創造者だ。

もし【見かけ(現象世界)】に対する欲望が

【見かけ】の次の画面を呼び出しているに違いないなら

「マインド自体が創造者」であることは否定できない。

> これさえもまた完全な真実ではない。
> なぜなら創造されたものと創造者はひとつだからだ。

夢のなかの画面は

その画面を呼び出している欲望そのもの(の表現)。

このことに納得できるなら、

> マインドと世界はひとつだ。

【見かけ(世界)】が

それを呼び出している欲望(想念)の表現であることを

否定することはできない。

> あなたが世界として考えているものは、
> あなた自身のマインドなのだということを理解しなさい。

けっきょく、わたしが体験している【見かけ(画面)】は

わたし(がフォーカスしている想念)が

呼び出していることは自明です。

眠りのなかで見ている夢は

個人的記憶が呼び出した画面だとすれば、

目覚めていて見ている夢は、

集合意識が見ている夢に参加して

好みの部分をつまみ食いしていると言ってもいい。

どちらも観念化という習慣が呼び出す夢なのでしょう。

夢の発生についてマハラジはこんなふうに答えています。

──────────────────
 質問者 夢は考えることによって起こるのでしょうか?
 
 マハラジ
 すべては観念の戯(たわむ)れだ。
 観念化から自由になった状態
 (ニルヴィカルパ・サマーディ)のなかでは、
 何も知覚されはしない。
 その根本となる観念が「私は在る」だ。
 それが純粋意識の状態を打ち破る。
 すると無数の感覚、知覚、感情、観念がその後に続いていく。
 それらの全体性が神であり、その世界なのだ。
 「私は在る」は観照者として残る。
 しかし、すべては神の意志で起こるのだ。
 
 質問者 私の意志で、ではないのでしょうか?
 
 マハラジ
 またしても、
 あなたはあなた自身を神と観照者に分割した。
 それらはひとつなのだ。
 
 『私は在る』(p136)
──────────────────

> 観念化から自由になった状態
> (ニルヴィカルパ・サマーディ)のなかでは、
> 何も知覚されはしない。

そういうことなのか……。(-_-)

観念化の磁力圏内に住んでいるかぎり、

夢が止むことはないらしいです。

このメルマガを書いているかぎりは……。(-_-)

> すべては観念の戯(たわむ)れ

なのだから。

> あなたが世界として考えているものは、
> あなた自身のマインドなのだということを理解しなさい。

夢を見つづけたい欲望としては

理解したくはないけれど、

嫌でも理解に押しまくられる。(-_-;)

──────────────────
 夢は同じではない。
 だが、夢見る人はひとりだ。
 夢のなかでは、私が昆虫であり、私が詩人なのだ。
 私は光だ。
 その光のなかで、すべての夢が現れては消える。
 私は夢の内側と外側だ。
 頭痛もちの人がその痛みを知り、
 また自分がその痛みではないことを知っているように、
 私も夢を知り、私自身が夢を見、
 また見ないことを同時に知っている。
 私は私で在る。
 夢の前も、夢の間も、夢の後も。
 だが、私が夢のなかで見ることは、
 私ではないのだ。
 
 『私は在る』(p135)
──────────────────

> 夢は同じではない。

はい。

> だが、夢見る人はひとりだ。

二つの目の後ろから見ている人ですか?

> 夢のなかでは、私が昆虫であり、私が詩人なのだ。
> 私は光だ。

はい。

> その光のなかで、すべての夢が現れては消える。

わかります。

> 私は夢の内側と外側だ。

夢の外から見ているわたし(光)と、

その光のなかに現れる夢の形と。

> 頭痛もちの人がその痛みを知り、
> また自分がその痛みではないことを知っているように、

はい。

> 私も夢を知り、
> 私自身が夢を見、また見ないことを同時に知っている。

わたしも夢に気づいていて、

その夢に興味を持って注意を向けているわたしも、

そのわたしにも気づく可能根拠としてのわたしもいる。

> 私は私で在る。

はい。

知覚されるものはすべて夢。

その夢に気づいているわたしは実在。

> 夢の前も、夢の間も、夢の後も。

わたしはいる。

> だが、私が夢のなかで見ることは、
> 私ではないのだ。

知覚されるものはすべてつかの間の【見かけ】、

実在してはいない。

(-||-)

だから、マハルシもこう語るのでしょう。

──────────────────
 26 無欲と智慧にはどんな関係があるのでしょうか?
 
 無欲が智慧である。
 二つは別のものではない。
 それは同じである。
 無欲とは、心がいかなる対象物に向かうことも
 差し控えることである。
 智慧とは、何の対象物も現れないことを意味している。
 言い換えれば、
 真我以外の何ものも求めないことが
 無執着あるいは無欲であり、
 真我をけっして離れないことが智慧である。
 
 『あるがままに』(p406) http://tinyurl.com/yzbe26
──────────────────

> 無欲が智慧である。

ああ。

> 二つは別のものではない。
> それは同じである。

はい。

> 無欲とは、心がいかなる対象物に向かうことも
> 差し控えることである。

【見かけ】に対する

観念化の戯れに向かうのを差し控えること。

なんとも遠いような。(-_-)

> 智慧とは、何の対象物も現れないことを意味している。

観念化の対象である【見かけ】そのものが現れないこと。

> 言い換えれば、
> 真我以外の何ものも求めないことが
> 無執着あるいは無欲であり、
> 真我をけっして離れないことが智慧である。

在ることに満足して、顕れを求めないこと。

顕れがあるかぎり、

わたしは顕れを求めているのか。

> あなたが世界として考えているものは、
> あなた自身のマインドなのだということを理解しなさい。

わかりました。

(-||-)

──────────────────
 あなたは在る。
 ほかのすべては現れにすぎない。
 
 『私は在る』(p421) 
──────────────────

(-||-)

──────────────────
 永久的なもの、それはあなた自身の存在である。
 真我として在りなさい。
 それが至福である。
 あなたはいつもそれなのである。
 
 『あるがままに』(p58) 
──────────────────

……。(-_-)

ありがとうございました。<(_ _)>

(-||-)

今日はこんなところで。

……。

m(_ _)m


       ………○…………○…………○………


『私は在る』の「目次」はここ↓に置いてあります。
https://www.ascensionkan.com/books/I_AM_THAT-index.html

ときどき「ニサルガ辞書」で遊んでみてください。
https://www.ascensionkan.com/ndic/

新しい「ラマナ・マハルシ辞書」はここです。
https://www.ascensionkan.com/rdic/

おこがましくも『アセ通』既刊号はすべてここに置いてあります。
https://www.ascensionkan.com/mm/


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■ 2.いただいたお手紙から:871番さん
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▼『アセ通』への「私は在る」関連ご意見投稿フォーム:
http://www.formzu.net/fgen.ex?ID=P48750702
というのを作らせていただきました。(^^;)

「私は在る」に関するご意見・ご感想・シェアリング、または単な
るメールなど、ご自由にお書きいただければと思います。


       ………○…………○…………○………

今回、871番さんという方からご投稿をいただきました。

さっそく、ご紹介します。

【件名】: 「I AM THAT」について
──────────────────
 pari様
 
 何時も楽しく読まさせて頂いてます。ありがとうございます。
 何度も記入しては取り止めましたが、今回は取りやめを止めまし
 た。
 
 一つお考えをお聞かせください。
 「I AM THAT」は読み始めた頃より持ち続けている疑問がありま
 す。
 それは表題「私は在る」の日本語の訳の妥当性についてです。
 そしてその意味は「ソーハム(so 'ham)」と同意と解釈してよい
 でしょうか。
 もしよろしければお教えください。
 では。
 ※「マハラジのすべての言葉が矛盾なく収まる理解に到達したと思
   います。」とのこと。
 私もそう言えるようにいつも誠実に取り組んでいきたいと思いま
 す。 
──────────────────

> pari様
> 
> 何時も楽しく読まさせて頂いてます。ありがとうございます。

こちらこそ、いつも読んでいただいて、ありがとうございます。

> 何度も記入しては取り止めましたが、今回は取りやめを止めまし
> た。

それは良かったです。(^^)/

こうして反応をいただけるのは嬉しいです。

夢の中以外に他者が存在しないことは、

理屈では重々承知していますが、

その夢のなかの住人をやっていますので。(^^;)

> 一つお考えをお聞かせください。

はい。

> 「I AM THAT」は読み始めた頃より持ち続けている疑問がありま
> す。
> それは表題「私は在る」の日本語の訳の妥当性についてです。

なるほど。

> そしてその意味は「ソーハム(so 'ham)」と同意と解釈してよい
> でしょうか。
> もしよろしければお教えください。

わかりました。

もちろん、

教えるというようなことではありませんが。

たしかに、『I AM THAT』というタイトル、

当初、わたしも何度か気になった覚えがあります。

いつの間にか、

そんなことも考えなくなりましたが。(^^;)

『I AM THAT』というタイトル自体は、

逐語訳すれば「私はそれだ」ですよね。

フリードマンが編纂翻訳した『I AM THAT』には

マラティ語のテキスト原本があって、

それはマハラジ本人が監修しているみたいですね。

その原本のタイトルはどうなってるんでしょうね。

たぶん、871番さんがおっしゃるように、

「ソーハム(so 'ham)」に当る言葉だと思われます。

もちろん、訳者の福間巌さんはすべて承知の上で

タイトルに『私は在る』を選ばれたわけですよね。

一般的に翻訳書のタイトルの最終決定権は、

翻訳者より出版社の側にあると思います。

ですが、こういう本の場合

そして、特にこの本の場合は、

翻訳者の福間さんの意見が尊重されたでしょうね。

ただ、『私は在る』という邦訳書タイトル自体、

必ずしも『I AM THAT』の訳語として

選ばれているわけではないかもしれない、

ということは考えられます。

実際、本の内容を読めば、

『I AM THAT』のメインメッセージが

「私は在る」であることも確かですから。

というわけですが、でもおそらく、

871番さんが何度か投稿を止められたのは、

そんな思いがそのたびに浮かんだからかもしれませんね。

でも、今回こうしてご投稿くださったのは、

でけっきょく、pariさんは個人的にはどう思う?

とちょっと聞いてみたかったのかしれません。(^^;)

えーとですね、

いま思うに、わたしにとっては、

このタイトルは、とても良かったです。(^^)/

『私は在る』。

ちょっと日本語として違和感のある表現ですよね。

人間の「私」なら通常は「私はいる」でしょう。

でも、「私はいる」で通しては

おそらく、この本は翻訳できない。(*^_^*)

その日本語として少々違和感のある表現を、

訳者の福間巌さんは発明したのだと思います。

そしてそれは、ある意味で何かをヒットした。

それまで耳にしたことのなかった

この「私は在る」という表現が、

今はもうスピリチュアル用語として

色々なところで見かけるようになった気がします。

このタイトルは、

「私」=「在る」というふうに、

述部が動詞になっています。

「私」を定義する言葉が動詞だということ、

つまり、動詞を

主語の動作を述べるためでなく

主語を定義するために使うというのは、

新しい概念を伝える手段として

とても巧みだったと思います。

「私は神だ」、

「私はブラフマンだ」と言うのではなく、

「私は在る」、

存在することが私なのだ、という表現は

とてもユニークなメッセージになったと思います。

これは福間さんの発明ですね。

ただ、翻訳というのは実際いろいろありえます。

たとえば、

トニー・パーソンズの

『Nothing Being Everything』の邦訳書のタイトルを

翻訳者の高木悠鼓さんは

『何でもないものがあらゆるものである』

と訳されてます。

もちろん、これを「無」と訳してほしかった

とおっしゃる方もいることでしょう。

でも、この「何でもないもの」という

日本語としてはちょっと熟さない表現が、

「無」では伝えられなニュアンスを

いつの間にか伝えてくれる、

ということが間違いなくあるんですよね。

いろいろありうる、という意味では、

「I AM THAT」を『私がそれだ』と翻訳する手も

ありうるでしょうね。

一生求めに求めつづけてきたけれど、

なんのことはない、

わたしが求めに求めてきたそれは、

現状ですでに『私がそれだ』った、と。

長く書いてしまいました。

871番さん、ご投稿ありがとうございました。

m(_ _)m

PS.変わった、ニックネームですね。(*^_^*)


       ………○…………○…………○………


▼『アセンション館通信』への情報ご投稿フォーム
http://www.formzu.net/fgen.ex?ID=P87119518


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■ 3.編集後記:
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別に変わる必要もないですし、

このメルマガが周辺をウロウロしているのは、

努力して変われるような当人など

実際は存在していないというメッセージでもあります。

なので、こちらが変化しないことについては

気にしなくてもいいとも言えます。

幸か不幸か、けっして動くことのない相手、

マハラジの言葉とつねに付き合っているので、

やっぱり時間が経つにつれて、

こちらのほうは

少しずつだけど動いているらしい、ということはあります。

実際、マハラジの言葉に比べると、

pariの言葉は吹けば飛ぶよな軽さですから。(^^;)

そして、pariの言葉が

マハラジに影響を及ぼせる可能性は皆無ですから、

一方的にこちらが影響されるだけです。

まあ、それでいいわけです。(*^_^*)

そう望んだのですから。

今日も暗くなりました。

お休みなさい。

<(_ _)>


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■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
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  → メール: pariアットマークjk2.so-net.ne.jp
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