home > 通信 >『アセンション館通信』第679号:心配する自分を知覚するわたし



━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
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 ☆☆     ☆☆『アセンション館通信』2017/04/16(第679号)
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☆☆      ☆★ 【気刊】――「私は在る」に導かれ♪――
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇

このメルマガはアセンション館主人pariと称するあるパターンに
浮上している心象風景の報告です。

 苦痛から欲望が生まれ、苦痛のなかで欲望を満たそうとする。

 世界の根本原因は自己愛である。そのために私たちは快楽を探し
 求め、苦しみを避ける。自己愛を真我への愛に変えなさい。
 すると画面は変わってくる。(ニサルガダッタ)

内容は人畜無害、でも読む人は相当変わっていますね。現在862名
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◇◇ もくじ ◇◇

1.心配する自分を知覚するわたし

2.編集後記
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■ 1.心配する自分を知覚するわたし
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ずいぶん暖かくなりましたね。

今日などはまるで夏の陽気です。

庭はこの季節が一年中でいちばん賑やかになります。

正面に見えるレンギョウの黄色、

その手前の水仙やユキヤナギの白。

その右上のピンクの花桃が一分咲きくらいでしょうか。

手前にあるチューリップの色はいろいろです。

庭に出ると紫の小さな花がたくさん見えます。

ムスカリ、すみれ、イヌフグリ。

これくらいはわかるけれど、

ちょっと前に咲いていたミヤコワスレは

また見てわかるかどうかはわかりません。

左手の八重桜はまだですね。

ありがたいことです。(-||-)

(*^_^*)

さて、またまた一週間が過ぎて、

楽しい“アセンション噺”ならぬ「私は在る」噺に、

お付き合いいただく今がやってまいりました。

『アセンション館通信』配達人の pari です。

癖になって土曜日になるとこうして書きはじめますが、

なんで書いているんでしょうねぇ? (-_-;)

強いて理屈をつけるなら、

得るものも失うものも何もないということを

一週間にいちどくらい思い出そうというのでしょうか。

夢を見ているわれわれが、

条件反射的に応接しているこの自分ですが、

その中身が具体的に何なのかと言えば、

その瞬間に浮上している想念ですよね。

基本的に、わたしなどの場合は

ご多分に漏れず、ただの心配です。(*^_^*)

──────────────────
 質問者 そもそも、
     なぜ欲望は湧いてくるのでしょうか?
 
 マハラジ
 なぜなら、あなたは生まれてきて、
 もしあなたが身体の面倒を見なければ
 死んでしまうだろうと想像するからだ。
 身体をもつ存在の欲望が心配の根本原因だ。
 
 『私は在る』(p87)
──────────────────

> なぜなら、あなたは生まれてきて、
> もしあなたが身体の面倒を見なければ
> 死んでしまうだろうと想像するからだ。

こうまで的確に指摘されては立つ瀬がありません。

> 身体をもつ存在の欲望が心配の根本原因だ。

そういうわけらしいですよ、みなさん。(*^_^*)\ゴン

(/_;)

まあ、こういう言葉をたんと聞かされてきました。

それでですね、

夢の外側にいるパターンといえども

こうして夢のなかの登場人物に話しかけるときは

その身体が持っている諸条件を使うしかありません。

だから、いわゆる覚者たちの表現も

それぞれ違ってくるわけです。

で、マハラジは、ここでは

> もしあなたが身体の面倒を見なければ
> 死んでしまうだろうと想像するからだ。

という表現を使っているわけです。

で。この場合の、

自分が身体の面倒を見なければ死んでしまうと想像する

その自分ですけど、

具体的実体はと言えば

その瞬間に湧いてきている想念ですよね。

ここでは、マハラジは

【あなたが……想像するからだ】

という言い方をしています。

つまり、

【あなた】が【想像するからだ】と。

でも、もちろん、これは言葉で、

“その瞬間に湧いてきている想念”以外に、

“あなた”という実体が存在するわけではないので、

実際は、

“湧いてきている想念”に焦点を当てた瞬間に、

“あなた”が発生するということでしょう。

じゃ、誰が、なぜ、その想念に焦点を当てるのか? (?_?)

と、マハラジに聞いたとすれば、

マハラジはこう答えるかもしれません。

──────────────────
 関心をもっているのはあなたなのだ!
 そして、その絵があなたの真実、
 愛、美の感覚と衝突するかぎり、
 あなたはそれに関心をもちつづけるだろう。
 
 『私は在る』(p488)
──────────────────

> 関心をもっているのはあなたなのだ!

この表現はとてもインパクトが強いと同時に

とても多義でもあるので、

何度も何度も気になった表現でした。

だからここでも何度も引用したと思います。

浮上してくる心配想念にフォーカスしているのは、

ひとつには、むろん、

身体に自己同化している“わたし”です。

自分が身体だと前提しているからこそ

その身体が死ぬかもしれない未来(という想念)に

フォーカスするわけですから。

要するに、それは

わたしが自分だと思っているわたしです。

で、前々回も書きましたが、

実際には【わたしには何も起こっていない】。
https://www.ascensionkan.com/mm/vol676.html#1-1

なぜなら、

わたしはその起こっていることに気づいているからです。

つまり、われわれはいつも、

出来事や物語に関心を持っている自分と

知覚している自分をごっちゃにして混同している。

ところが実際は、

知覚対象である出来事や物語に“関心を持っている自分”も

また対象のひとつだということです。

なぜなら、その“関心を持っている自分”は

知覚対象である出来事や物語を知覚できないからです。

“関心を持っている自分”とは、

実際はそれ自体がその瞬間に浮上している想念だからです。

“関心を持っている自分”という実体が、

その想念以外のどこかに存在しているわけではない。

でも、そうは言っても、

誰でもが知っているように、

“関心を持っている自分”はいますよね。

現象する対象に欲望を持つ自分はいるわけです。

では、その“関心を持っている自分”は

自前で存在しているのか?

いいえ、

それはそれ自体として存在できるわけではない。

それは、知覚されてはじめて存在できるのです。

じゃ、誰が、あるいは何がそれを知覚しているのか? (?_?)

誰でもないもの、何でもないものがそれを知覚している。

トニー・パーソンズじゃありませんが、

文字どおり、

『何でもないものがあらゆるものになっている』のです。

……。(-||-)

こんなことを知的に理解して、

それが何かの足しになるのでしょうか?

あなたは、どう思いますか? (*^_^*)

足しになるかもしれないし、ならないかもしれない。

ただ、誰かがいるという観点に立てば、

こんなことは誰もが理解するわけでもありません。

理解する人がいるかもしれないし、

理解しない人もいることでしょう。

理解する人はそういうことを理解したかったのかもしれません。

そして理解しない人は、

そういうことを理解したくなかったのかもしれません。

何を言っているのかピンとこなかったかもしれません。

でも、大部分の人はそもそもそんな話に触れません。

当たり前ですよね。(^^;)

だから、そういう観点からすれば、

こういうことを理解するのと理解しないのとでは、

違いがあるとも言える。(*^_^*)

でも、別の観点からすれば、

そもそも違いはすべて知覚対象のなかにしかないわけです。

そしてそのあらゆる違いを知覚しているのは同じわたしです。

すべてを知覚するわたし(真我or空間or無境界)が

ひとつしかありえないことは、

その場合はあまりにも自明でしょう。

そうなると知覚する者と知覚されるものという二元対立は、

在って無きがごときものです。

あらゆる多様性を見ている者はひとりなのですから。

多様性というものはすべて

ひとりのわたしが成立させているものです。

どんな想念にフォーカス(自己同化)しようとも、

それはすべてわたしがその興味を映しているから在るわけです。

われわれはあらゆる瞬間に、

“わたしのもの”とか“わたしの考え”とか言います。

そしてすぐに傷ついたり、心配したりする。

あるいは政治家のように

“わたし”の範囲を身体の境界を超えて拡張し、

自治体とか、国とか、あるいは惑星の将来まで

心配するかもしれません。

でも、それもこれもすべて

ひとりしかいないわたしが映し出すから現象できている。

で、このpariパターンだってそうなわけです。

いろいろ個人的な心配をする。

でも、その個人的な心配は

知覚されるからこそ現象できている。

まさか、個人的な心配が個人的な心配を

知覚することは可能ではないでしょう。

個人的な心配を映し出すことができるのは

何でもないものしかありえません。

つまり、われわれはあらゆる瞬間に

あらゆるものであることを許されているわけです。

わたしが映し出すから“わたし”がいるのです。

──────────────────
 あなたが世界として考えているものは、
 あなた自身のマインドなのだということを理解しなさい。
 
 『私は在る』(p521)
──────────────────

そして、実際に存在しているのはわたしだけです。

なぜなら“わたし”は知覚されているからです。

だから、どうなの? (?_?)

だから、一瞬一瞬

心配してもいいのです。(*^_^*)

“わたし”が心配するのをわたしが許しているのだから。

“わたし”が世界として考えているものは、

“わたし”自身のマインドなのですから。

そして“わたし”が自分のマインドにフォーカスすることを

わたしが知覚することで、

わたしが許しているのだから。(*^_^*)

われわれが神を出し抜くというのは

ある意味、とても稚拙な想像とも言えます。

“わたし”が浮上してくるどんな想念にフォーカスしても

わたしはつねにその想像を知覚することで

つねにそのことを許しているからです。

これからも、いろいろ想像して、

心配したり、自惚れたり、落ち込んだりしましょう。

すべてわたしが知覚して許しているんですから。

(*^_^*)

> そして、その絵があなたの真実、
> 愛、美の感覚と衝突するかぎり、
> あなたはそれに関心をもちつづけるだろう。

そういうことなんですね。

好きなだけ、油を売ったらいいんです。

転生を想像することだってできるんだし、

その苦痛は永遠に引き伸ばせるのかもしれません。

“わたし”が引き伸ばしたければ。

わたしは永遠にそれを映し出しているのです。

そして、心配が“わたし”にしかないことは明らかです。

わたしは、“わたし”が心配にフォーカスすることを

永遠に知覚(映し出し)しているだけです。

(-||-)

──────────────────
 あなたは在る。
 ほかのすべては現れにすぎない。
 
 『私は在る』(p421) 
──────────────────

(-||-)

──────────────────
 永久的なもの、それはあなた自身の存在である。
 真我として在りなさい。
 それが至福である。
 あなたはいつもそれなのである。
 
 『あるがままに』(p58) 
──────────────────

……。(-_-)

ありがとうございました。<(_ _)>

(-||-)

今日はこんなところで。

……。

m(_ _)m


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■ 2.編集後記:
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この身体が生きている内に真我を実現しなければ、

すべてはゼロクリアされるのだと信じてきました。

以前、グルジェフか誰かの言葉で

そんな観念を仕込んだからです。

そうなのかもしれません。

わかりません。

でも、pariパターンの場合は、

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 解放への道には何も立ちはだかっていない。
 そしそしてそれは今ここで起こることができる。
 だが、あなたはほかのことにもっと興味がある。
 そしてあなたはその興味と闘うことはできないのだ。
 あなたはそれとともに行き、それを見抜き、
 それが単に判断と賞賛の誤りであることを、
 それ自体が自ら暴くのを見守らなければならないのだ。
 
 『私は在る』(p475)
──────────────────

このマハラジの言葉のほうが

信じられるような気もします。

つまり、この

> そしてあなたはその興味と闘うことはできないのだ。

という言葉のほうが。

今日も暗くなりました。

お休みなさい。

<(_ _)>


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■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
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