home > 通信 >『アセンション館通信』第681号:kichiさんの誘い水でよしなしごとを



━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
  ☆☆   ☆☆ 
 ☆☆     ☆☆『アセンション館通信』2017/04/30(第681号)
☆☆   ☆   ☆☆
☆☆      ☆★ 【気刊】――「私は在る」に導かれ♪――
-☆☆---------☆☆------------------------------------------
 ☆☆   ☆☆          https://www.ascensionkan.com/
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇

このメルマガはアセンション館主人pariと称するあるパターンに
浮上している心象風景の報告です。

 苦痛から欲望が生まれ、苦痛のなかで欲望を満たそうとする。

 世界の根本原因は自己愛である。そのために私たちは快楽を探し
 求め、苦しみを避ける。自己愛を真我への愛に変えなさい。
 すると画面は変わってくる。(ニサルガダッタ)

内容は人畜無害、でも読む人は相当変わっていますね。現在862名
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◇◇ もくじ ◇◇

1.kichiさんの誘い水でよしなしごとを

2.編集後記
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■ 1.kichiさんの誘い水でよしなしごとを
━━━━━━━━━━━━━━━━━━

今日はハレーションを起こしたような晴天。

ゴールデンウィークの初日です。

毎年この季節は庭が派手なんです。

色合いの異なるピンクの花がたくさん咲きます。

正面の花桃、手前のミヤマツツジ、

左手に葉桜になってきた八重桜。

その他にも何種類か見えているのですが、

何度教わっても覚えられません。

白い花はユキヤナギが終わった今は

アイリスが目立っています。

黄色は正面のレンギョウは終わりかけですが、

左手にはこれから賑やかになりそうなのがあります。

それにこの季節は遠景の山の緑が色とりどりです。

まあ、美しい夢を見せてもらっています。

(*^_^*)

さて、またまた一週間が過ぎて、

楽しい“アセンション噺”ならぬ「私は在る」噺に、

お付き合いいただく今がやってまいりました。

『アセンション館通信』配達人の pari です。

今回とても懐かしい方からご投稿をいただいたので、

本来は「いただいたお手紙から」でご紹介すべきですが、

これ幸いとその手紙に沿ってよしなしごとを

書かせていただこうと思います。

早速ご紹介します。

──────────────────
 pariさん、お久しぶりです。
 ホントご無沙汰してしまってますが、憶えてらしゃいますでしょう
 か?
 kichiです。
 
 久しぶりにメルマガに投稿なんぞさせてもうおうという気になった
 のが、ここんとこ世間で「忖度(そんたく)」という言葉を日々の
 ニュース報道なんかで耳にすることが多くなってきたからで。
 
 この時期に、あろうことかあわよくば流行語大賞にでもなろうかと
 いう勢いで、こんな一般的でない言葉が流行ってるってのもホント
 におかしなもんだと思います。
 
 私としてはこの忖度(そんたく)という言葉を聞くにつけ、あの
 pariさんの文章「部分最適化系の崩壊」を思い出してしまうという
 わけなんであります。
 https://www.ascensionkan.com/work/bubun-3.html
 
 無学な私としてはpariさんのこの文章を読むまでは、こんな高尚な
 言葉を読んだり聞いたりしたこともなかったですし、この文章とこ
 の言葉がセットになって私の記憶に残されてるんですね。
 
 pariさんのメルマガを知ったのは確か2003年くらいだったと思いま
 すが、それまで精神世界だのアセンションだの縁もゆかりもなかっ
 た自分が、ある日突然頂上体験のようなものをしてしまったもの
 で、いったい自分がなぜ意図もせずにそんなことになってしまった
 のかっていう意味を納得させてくれるような情報を、その頃生活の
 中で定着しつつあったインターネット上で貪り漁っていた時期でし
 た。
 
 この手の情報はといえば今も昔も胡散臭いものばっかりという中
 で、pariさんの文章はなんか自分とウマが合うというか、そんな気
 がなぜか当時からしてましたし、いまだにこうしてメルマガに投稿
 なんぞしようという気になるというのも、自分としては何か縁でも
 あるのかと思ってしまうところがないわけではありません。
 
 そういえばあの頃はミカエルさんなんていう重要人物がよく登場な
 さってましったけね。ああ懐かしい・・・。
 
 pariさんもアセンションの広告塔だったくらいですから(笑)きっ
 とそうだったと思いますが、あの頃は2012年あたりには、それこそ
 他人の思いを忖度することも、その必要もない世界が本当に来るも
 んだと割りと真剣に思ってたもんでしたっけ。
 
 まあこの2017年になってその忖度という言葉が、世間で流行ってく
 るなんて、予想だにしない展開で、なんて皮肉というか、なんとい
 うかという気分になったもんですから。思わず久しぶりにこうして
 キーボードを叩く気になったというわけです。
 
 きっと当初のシナリオというのはいろんなところで予想されてた通
 り、逆算するときっと2006年ぐらいからは天変地異や人口激減など
 のそれこそ地獄絵図となるような世界的大激変を経て、ようやく
 2012年あたりに平和な弥勒の世が訪れるというような超ハードラン
 ディングな着地という筋書きが予定されてたんではないかと思いま
 す。
 
 それがまあ水面下でどんな攻防があったのか、「この人類の現状
 じゃそんな激烈なシナリオに耐えられるわけがない」というような
 判断をした存在がいたのかどうか定かでないですが、できるだけ引
 き延ばしに引き延ばしを重ねてここまで来てるんでしょう。
 
 それもいつまで続けることができるのか、もうそろそろ限界も来そ
 うだとかっていうような情報も所々でみかけたりもしますが、まあ
 これは自分も含め予想は全くアテにならんというのをトコトン身に
 しみて理解らせられた、この十数年でしたから。
 
 まあこの期に及んで、ジタバタしようにも何ももうできることがな
 いみたいな感じもあるので、風に任せて行くしかないですが、pari
 さんもお身体には気をつけて日々お過ごしいただければと思います。
 
 ではまた。
──────────────────
 
> pariさん、お久しぶりです。

ホントお久しぶりですね。(^^)/

> ホントご無沙汰してしまってますが、憶えてらしゃいますでしょう
> か? kichiです。

その節は温かいお手紙をありがとうございました。<(_ _)>

お元気そうで何よりです。(^^)/

> 久しぶりにメルマガに投稿なんぞさせてもうおうという気になった
> のが、ここんとこ世間で「忖度(そんたく)」という言葉を日々の
> ニュース報道なんかで耳にすることが多くなってきたからで。

このごろ政治的な話題になってるみたいですね。

> この時期に、あろうことかあわよくば流行語大賞にでもなろうかと
> いう勢いで、こんな一般的でない言葉が流行ってるってのもホント
> におかしなもんだと思います。

忖度してるなんて、当然でしょうにね。(^^;)

> 私としてはこの忖度(そんたく)という言葉を聞くにつけ、あの
> pariさんの文章「部分最適化系の崩壊」を思い出してしまうという
> わけなんであります。
> https://www.ascensionkan.com/work/bubun-3.html

この文章にはkichiさんが反応してくださって。

> 無学な私としてはpariさんのこの文章を読むまでは、こんな高尚な
> 言葉を読んだり聞いたりしたこともなかったですし、この文章とこ
> の言葉がセットになって私の記憶に残されてるんですね。

自分でもとても思い入れがあった文章ですが

反応してくださったのはkichiさんだけでした。

嬉しかったです。(^||^)

> pariさんのメルマガを知ったのは確か2003年くらいだったと思いま
> すが、それまで精神世界だのアセンションだの縁もゆかりもなかっ
> た自分が、ある日突然頂上体験のようなものをしてしまったもの
> で、いったい自分がなぜ意図もせずにそんなことになってしまった
> のかっていう意味を納得させてくれるような情報を、その頃生活の
> 中で定着しつつあったインターネット上で貪り漁っていた時期でし
> た。

そうでしたねぇ。

当時とても特別の体験をなさったんでしたね。

ネイサン・ギルの場合みたいに、

自転車かなにか、

乗り物に乗っている時だったとおっしゃっていたような。

> この手の情報はといえば今も昔も胡散臭いものばっかりという中
> で、pariさんの文章はなんか自分とウマが合うというか、そんな気
> がなぜか当時からしてましたし、いまだにこうしてメルマガに投稿
> なんぞしようという気になるというのも、自分としては何か縁でも
> あるのかと思ってしまうところがないわけではありません。

ありがとうございます。m(_ _)m

いまだにこうして書いています。^^;

> そういえばあの頃はミカエルさんなんていう重要人物がよく登場な
> さってましったけね。ああ懐かしい・・・。

ホントですねぇ。

> pariさんもアセンションの広告塔だったくらいですから(笑)きっ
> とそうだったと思いますが、あの頃は2012年あたりには、それこそ
> 他人の思いを忖度することも、その必要もない世界が本当に来るも
> んだと割りと真剣に思ってたもんでしたっけ。

そうでした。

一種の希望的ハッピーエンディングでしたね。(*^_^*)

> まあこの2017年になってその忖度という言葉が、世間で流行ってく
> るなんて、予想だにしない展開で、なんて皮肉というか、なんとい
> うかという気分になったもんですから。思わず久しぶりにこうして
> キーボードを叩く気になったというわけです。

思い出していただいて嬉しいです。

> きっと当初のシナリオというのはいろんなところで予想されてた通
> り、逆算するときっと2006年ぐらいからは天変地異や人口激減など
> のそれこそ地獄絵図となるような世界的大激変を経て、ようやく
> 2012年あたりに平和な弥勒の世が訪れるというような超ハードラン
> ディングな着地という筋書きが予定されてたんではないかと思いま
> す。

当時は本当にそんなイメージを持っていました。

> それがまあ水面下でどんな攻防があったのか、「この人類の現状
> じゃそんな激烈なシナリオに耐えられるわけがない」というような
> 判断をした存在がいたのかどうか定かでないですが、できるだけ引
> き延ばしに引き延ばしを重ねてここまで来てるんでしょう。

どうなんでしょうねぇ。

> それもいつまで続けることができるのか、もうそろそろ限界も来そ
> うだとかっていうような情報も所々でみかけたりもしますが、まあ
> これは自分も含め予想は全くアテにならんというのをトコトン身に
> しみて理解らせられた、この十数年でしたから。

まったくです。(*^_^*)

> まあこの期に及んで、ジタバタしようにも何ももうできることがな
> いみたいな感じもあるので、風に任せて行くしかないですが、pari
> さんもお身体には気をつけて日々お過ごしいただければと思います。
> 
> ではまた。

ありがとうございます。m(_ _)m

kichiさん、お便りいただけてとても嬉しかったです。

それで、こうしてkichiさんに

昔のことを思い出させていただいたので、

今回はそんな思い出からエネルギーをもらいながら、

湧いてくるよしなしごとを書いてみたいと思います。

あのころと今と、

自分の何かが変わったでしょうかねぇ……。(-_-;)

まあ、何も変わっていないとも言えるでしょうが、

変わる自分などいなかったというのも確かなような。

どうもわたしの場合は、

いわゆる自分の思いというものが

単なる理屈なのかある種の内面的な変化なのか、

当人にもちょっと判別のつかないところがあります。

昔アセンションを真面目に考えていたころは、

それ自体流動的に変化していく世界のなかで

自分もまた何らかの方向に向かって

移動しているかのようなイメージを持っていました。

今そういうイメージを持っているでしょうか? (-_-)

自分の前に展開する風景が変わるだけ……。

と言えば、ちょっとカッコつけすぎですね。(^^;)

ただこうは言えます。

世の中の新しい話題や動きに反応はするんですが、

それはたんに癖でそうしているだけで、

自分が見ている夢の話だという思いは避けられません。

だからこれからどうなるかというような話は

あまり自分には関係がないような。(*^_^*)

歳を取ってくると人間勝手なものですね。

そしていつも基本的に戻ってくるところは、

──────────────────
 関心をもっているのはあなたなのだ!
 そして、その絵があなたの真実、
 愛、美の感覚と衝突するかぎり、
 あなたはそれに関心をもちつづけるだろう。
 
 『私は在る』(p488) 
──────────────────

というマハラジの言葉です。

いちどこういう言葉を聴いてしまうと、

その不思議な真実感が拭えずに、

どういう意味なのかと追求せずにいられません。

そしてその感じがおおよそ見当がついてくると、

もう聴がなかった元には戻れませんね。

もしわたしが何かを気にしているのなら、

それはわたしがそれをリアルだと信じているからです。

そして、それがリアルだと思えるのは

わたしが興味をもってそれに注目し、

それにエネルギーを与えて実体化しているからです。

この感じは今となってはもう取り外せません。(^^;)

もう何度も書きましたが、わたしの場合は、

   <何故にすべては始まってしまったのか?>

という疑問に取り憑かれたのでした。

二十代の最初のころです。

なんのためにこんなものがあるのか?

こんなもの要らないじゃないか?

いま自分は、こんなものは要らない、と思っている。

もしいつの日か、

こんな瞬間があったことの意味が明かされることがあって、

そのとき自分はそれに完全に納得するのかもしれない。

しかし、だからといって、

その納得が今のこの瞬間をなかったことにできるだろうか?

未来のいつかに現れる理解が、

過去のこの瞬間の意味を覆したり贖ったりできるだろうか?

いや、それはありえない。

そんなことは、今のこの瞬間が許さない。

今のこの瞬間の意味とは、

今のこの瞬間が支えるもの以外にあるはずがないではないか。

ま、そんなふうに思ったのでした。

ただドストエフスキーを読みすぎただけかもしれません。

それから【見かけ】の上での探求が始まりました。

Oshoは「生とは解くべき問題ではない。

    生きるべき神秘だ」

とわたしに教えてくれたわけです。

それから、わたしの夢のなかでも、

古神道系のムーブメントにはまったり、

「お金の仕組み」に人並な関心を持ったり、

それなりに動き回ろうとした時期がありました。

でもその道まっしぐらというふうにはなりませんでした。

ひたすら創造性の道を邁進することにもならなかった。

かと言ってOshoが意図したもう一つの意味での

内面の神秘に沈潜していくことにもなりませんでした。

わたしが見る夢はそういう展開になっていなかった。

わたしの夢では、EOさんに出会い、

マハラジの『私は在る』に出会うことが起こりました。

いろんな言い方がありますが、

要するに、そうなることになっていたのでしょう。

Oshoはスピリチュアルショップのデパートみたいな人で、

創造性に精を出したい人にはその道を

ひたすら沈黙に向かいたい人にはその道を

それぞれ薦めるようなタイプの方です。

西郷隆盛は西南戦争で

自分を担ぎ上げる人たちに自分の身体を預けますが、

Oshoも自分が集めてその気にさせた西洋人たちに

自分の身体も言葉も預けたのかもしれません。

Oshoは「わたしはlife affirmativeだ」と言います。

life affirmativeとは、

わたしは生肯定者だという意味でしょうから、

ラマナやマハラジとはある意味正反対ということにもなります。

ただ、またある意味では、

それはウェスタンに向けた英語の講話の話だとも言えます。

Oshoが、ヒンドゥー語の講話でも

同じように語っていたとも思えないからです。(*^_^*)

ただ、いずれにせよ、Oshoはああいう人ですから、

ロウソクの両端から火をつけるような

自分と同じようなトータルで強烈な生き方を薦めます。

愛と創造性の道を強烈に生きるか、

さもなくば強烈な瞑想の道を薦めるわけです。

そのどちらもわたしにはぴったりではなかったようです。

この大宇宙に

何かをできるような人は一人もいないという意味では、

覚者もまた個人としての存在などもってはいません。

ただひとつのOnenessが無境界性として在るだけで

そこに仮初の【見かけ】が現れるだけで、

どこにも何も起こっていないわけです。

でもこうして現状として

わたしの前にはまだ世界が現象しているのも事実です。

明らかに、

> 関心をもっているのはあなたなのだ!

という事実を認めざるをえません。

ただわたしは、この「関心をもっているのはあなた」の

その「あなた」とは誰のことかを思いあぐねていたのです。

でも、あなたはあなたです。

それはつまり、マハラジの言葉を聴いているわたしのことです。

それはわたしのフォーカス、

興味関心のことだと言ってもいいのです。

──────────────────
 解放への道には何も立ちはだかっていない。
 そしてそれは今ここで起こることができる。
 だが、あなたはほかのことにもっと興味がある。
 そしてあなたはその興味と闘うことはできないのだ。
 あなたはそれとともに行き、それを見抜き、
 それが単に判断と賞賛の誤りであることを、
 それ自体が自ら暴くのを見守らなければならないのだ。
 
 『私は在る』(p475)
──────────────────

いまのわたしにとって、

マハラジのメッセージのエッセンスとはこのことです。

まだ現象世界としての【見かけ】の方に興味があるわたしは、

こうしてよしなしごとを書いてそれに対応しています。

でも、わたしがその夢に何の関心ももたなくなれば、

その夢は夢として現れることもできないわけです。

実在しているのはその夢の方ではなく、

それに注意を向け、知覚しているわたしなのですから。

マハラジの数々の印象深い言葉のなかで、

以下の言葉も、とても好きな言葉です。

──────────────────
 私が教える道は、
 理解を通して至る太古からのシンプルな解放の道だ。
 あなたのマインドを理解しなさい。
 そうすればマインドは
 あなたをつかんでいる手をぱっと放すだろう。
 マインドとは誤解するものだ。
 誤解がその本性そのものなのだ。
 正しい理解が唯一の治療法だ。
 あなたがそれをどう呼ぼうとも。
 理解の道はもっとも原初の、
 そして最新の治療法なのだ。
 なぜなら、
 それはマインドをあるがままに扱うからだ。
 
 『私は在る』(p540)
──────────────────

> 私が教える道は、
> 理解を通して至る太古からのシンプルな解放の道だ。

【理解を通して至る太古からのシンプルな解放の道】……。

これには震えます。

わたしはやっと求めていたものに出会えたのです。

> あなたのマインドを理解しなさい。
> そうすればマインドは
> あなたをつかんでいる手をぱっと放すだろう。

マインドを理解するとは、どういうことなのか?

> マインドとは誤解するものだ。
> 誤解がその本性そのものなのだ。

この場合のマインドとは

現象がそれ自体で存在しているという誤解のことです。

それは古来「無知」として語られてきたものです。

そして「無知」とは本来存在してはいないのです。

ただ存在しているようにみえるだけで。

実際に存在しているのはそれを現象させているわたしです。

仮初の現象の背後に在る常在としての気づきの空間です。

そして仮初めの【見かけ】を構成するマインドは

一瞬一瞬、仮初の自分に都合のいい誤解なら

いくらでもいくらでもするつもりがあるのです。

> 正しい理解が唯一の治療法だ。

仮初の意識の内容物が自前で存在していると誤解するなら

現象世界という夢は誤解の一大集積場であり

誤解の玉突きの乱反射場とも言えるでしょう。

それぞれの誤解の相対的正しさなどを問題にしても

宇宙が解消して透明に戻るわけではないからです。

> あなたがそれをどう呼ぼうとも。
> 理解の道はもっとも原初の、
> そして最新の治療法なのだ。

マインドを理解する道こそが、

もっとも原初の、そして最新の治療法であるという

この道こそが自分の道だと思いました。

> なぜなら、
> それはマインドをあるがままに扱うからだ。

要するに、マインドとはわたしではないということです。

和田重正先生の30日日めくりにも、

─────────────
 気分に操られるな
 
 気分は自分ではない

 自分は気分の外にある
─────────────

という言葉があります。

わたしは気分に気づいている者

気分を映し出している鏡です。

気分はわたしなしに存在することはできない。

気分は気分に気づくことはできないわけですから。

もうひとつ、

マハラジから聴いた強烈な言葉はこれです。

──────────────────
 責任を転嫁することは人間の特徴的なゲームなのだ。
 
 『私は在る』(p394)
──────────────────

何かを何かのせいにすること。

あるいは、

何かを自分以外の何かのせいにすること。

あたかも自分以外の何かが実在するかのように。

──────────────────
 神も宇宙もあなたのもとへやってきて、
 彼らがあなたを創造したと伝えはしなかった。
 因果関係の概念に取りつかれたマインドが創造を発明し、
 そして「創造者は誰なのか?」と不思議がるのだ。
 マインド自体が創造者だ。
 これさえもまた完全な真実ではない。
 なぜなら創造されたものと創造者はひとつだからだ。
 マインドと世界はひとつだ。
 あなたが世界として考えているものは、
 あなた自身のマインドなのだということを理解しなさい。
 
 『私は在る』(p521)
──────────────────

この自明とも思われた一連の言葉は

少しずつ少しずつその意味を明かしてくれました。

> 神も宇宙もあなたのもとへやってきて、
> 彼らがあなたを創造したと伝えはしなかった。

ここではじめて、

  <何故にすべては始まってしまったのか?>

という問に対する正面からの解答に出会ったわけです。

> 因果関係の概念に取りつかれたマインドが創造を発明し、
> そして「創造者は誰なのか?」と不思議がるのだ。

こういうことだった。(*-_-*)

この完璧な論理性には納得せざるをえませんでした。

わたしの問はただの責任転嫁にすぎなかったのです。

> マインド自体が創造者だ。

わたしが注意を払わずに、

マインドが勝手に現象できるわけはなかったのです。

> これさえもまた完全な真実ではない。
> なぜなら創造されたものと創造者はひとつだからだ。

わたしが注意を向けるからマインドが現象するだけでなく、

わたしが注意を向けたその意識のコンテンツが現象しているのです。

> マインドと世界はひとつだ。

わたしが注意を向けたその意識の内容物こそがわたしの世界です。

> あなたが世界として考えているものは、
> あなた自身のマインドなのだということを理解しなさい。

わたしが世界として考えているものは、

わたしが注意を払っている意識のコンテンツ、

わたしが注意を払っている【見かけ】であり、

外界と内面であり、形と想念であり、

形態と意味であるのは自明です。

なぜなら、わたしが注意を向けずに

それらの【見かけ】=外界と内面=形と想念=形態と意味

が現象できないのは明らかですから。

まさに、

> 関心をもっているのはあなたなのだ!

以外のなにものでもありません。

このマハラジが言う言葉の意味が伝わった人には、

言うべきどんな弁解もありえないでしょう。

まさに、間違いなく、

わたしが関心を持っているからこそ

わたしの世界は現象しているのです。

別にそれで何も悪いわけではないけれど、

その責任を、世界のなかの他人や神様や、

あるいは創造そのものの責任にするのは、

一瞬一瞬、ただ自分の絶対的パワーから目を背ける以外の

どんな意味も持ちえないでしょう。

二十歳のころのわたしが取り憑かれただけでなく、

> 責任を転嫁することは人間の特徴的なゲーム

だったわけです。

というか、この責任転嫁というゲームこそが、

世界なのだとも言えるかもしれません。

つづいて、マハラジは言います。

> そして、その絵があなたの真実、
> 愛、美の感覚と衝突するかぎり、
> あなたはそれに関心をもちつづけるだろう。

と。

つまり、こういうことです。

世界に注意を向けつづけるかぎり、

その世界という責任転嫁のゲームは、

みずから消えていくことはありえないのです。

それは、わたしの真実、愛、美の感覚と衝突するために、

わたしはそれに関心をもちつづけることになるからです。

(*-_-*)

そして、なぜそんな理不尽なことが起こるのかと、

その理由を知りたがるマインドにも、

マハラジはちゃんと観念的理由を提供してくれています。

──────────────────
 何にもまして、私たちは意識しつづけていたい。
 あらゆる苦しみや屈辱を耐えてでも、
 意識しつづけることを望むのだ。
 この体験への欲望に逆らって、
 顕現すべてを手放さないかぎり、
 解放はありえない。
 私たちは罠にはまったままなのだ。
 
 『私は在る』(p346)
──────────────────

> 何にもまして、私たちは意識しつづけていたい。

(>_<)

これほどあけすけな論理的言葉を、

マハラジ以外の誰かが言ってくれるとは考えられません。

まさに、そういうことだったのかと、

目からウロコとはこのことでした。

これこそが虚構の存在に依拠するがゆえに、

虚構の恐怖に基づかなければならないエゴの本音です。

意識のなかに根拠を持つエゴの命がかかっているからです。

> あらゆる苦しみや屈辱を耐えてでも、
> 意識しつづけることを望むのだ。

エゴだって死にたくはないわけです。

> この体験への欲望に逆らって、
> 顕現すべてを手放さないかぎり、
> 解放はありえない。

覚者がこうおっしゃっている。

> 私たちは罠にはまったままなのだ。

ま、そういうわけです。

マハラジは、それぞれの質問者に対して

時宜に応じた観念的回答を与えています。

別の質問者にはマハラジはこういう言葉で語っています。

──────────────────
 私たちは多様性を、
 苦痛と快楽の劇を愛している。
 私たちは対比によって魅せられているのだ。
 このために対立するものと、
 それらの表面上の分裂を必要としている。
 しばらくの間それらを楽しみ、
 それから退屈して、
 純粋な存在の平和と沈黙を切望するのだ。
 
 『私は在る』(p434)
──────────────────

ドストエフスキーが悟らなかったのは、

間違いなく、彼が対比によって魅せられていて、

苦痛と快楽の劇をポリフォニーとして描くことに

執着したからでしょう。

もしもドストエフスキーという個人が存在していたのなら、

という話ですが。

だから、わたしを含めて誰もが、

自ら望んでこの好き放題に文句を言うという

責任転嫁のゲームを遊んでいるのです。

自ら望んでとか……好き放題に文句を言うとか、

そういうことをする自分がいるのかいないのかは、

ある意味ではとても微妙な、

そして別の意味ではとても明らかな事柄です。

なぜなら、それはある意味、自己認識の問題、

自己アイデンティティーの問題だからです。

あなたにとって、あなたとは誰ですか?

わたしにとって、わたしとは誰なのか? (-_-;)

それだけが、決定的な要因なのです。

たとえば、わたしが文句を言っているとき、

それを言っているのは、わたしでしょうか?

それともわたしは言わされているのでしょうか?

あるいは、わたしが喜んでいるとき、

喜んでいるのは、わたしでしょうか?

それともわたしは喜ばされているのでしょうか?

もしこれが、

人間が作った人間型ロボットのパフォーマンスなら、

そもそもロボットにこういう問題は起こりません。

ロボット自身が喜んでいるわけではなく、

ただ喜ぶパフォーマンスをさせられているだけなのは、

ロボットの作成者人間にとっては自明であり、

部品の集合体であるロボットの側には、

はじめからどんな問題も存在していないからです。

しかし、

自分は神の創造物だと信じる人間の場合は

問題が起こる可能性があります。

その人間は自分が存在していることを否定しない。

にもかかわらず、

腹を立てるときにも、喜んでいるときにも、

自分は神が作ったロボットだから

すべては神が意図するように起こるのだと

四六時中、覚えているわけにはいかないからです。

なぜなら、人間は神の創造物であるとは

たんに一瞬浮上して思いついた観念にすぎず、

自分の都合次第では、

そんな観念は自由に無視することができるし、

実際に無視するからです。

だとすれば、

瞬間瞬間に、その観念を選択しているのは

自分だということになります。

その自分とは、神が作ったロボットでしょうか?

快楽を追求し、快楽を楽しむのは

ロボットが神にそのように強制されているからでしょうか?

意識のコンテンツが自前で存在しているという「無知」は

一瞬一瞬、浮上してきます。

しかもその自己同化の位置は、一瞬一瞬、自在に移動します。

【見かけ】(現象する外界と内面)と自分との距離は

自分の都合に合わせて一瞬一瞬、自由自在に変化するのです。

快楽を追求し、楽しむときには対象そのものに成り切り、

評判の中で非難されるときは、

いやそれは違うと、否定したりします。

でも実際は、あらゆる瞬間に、寸分の狂いもなく、

本人が同定している自分に応じた恩寵が起こってます。

これは、否定しようがありません。

いつの瞬間にも、「私は在る」からです。

そして知ってか知らずか、あらゆる瞬間に、

わたしは自在に自らのアイデンティティーを変更しているのです。

──────────────────
 そこに探求すべき第二の、
 あるいは高次の自己というものはない。
 あなたが最高位の自己なのだ。
 ただ、あなた自身に関する偽りの観念を捨て去りなさい。
 あなたは身体、そしてその欲望と恐れではなく、
 またマインドとその幻想的な観念でもなく、
 社会があなたに演じるように強要した
 個人としての役柄でもないと、
 信念と理性があなたに告げているのだ。
 偽物を捨て去りなさい。
 
 『私は在る』(p536)
──────────────────

> そこに探求すべき第二の、
> あるいは高次の自己というものはない。
> あなたが最高位の自己なのだ。

この言葉を初めて聴いたときは、驚きでした。(-_-)

それまでは、

多次元世界とかハイヤーセルフとか、

聞かされた話に入れ込んでいましたから。

アセンションの広告塔になろうとしたくらいです。(*^_^*)

そういう世界を別に否定はしません。

そういうものもあるでしょう。

でもそういうものはすべて、

わたしが対象として知覚できる意識の内容物です。

意識のコンテンツからなる現象世界は

一瞬一瞬、バランスされ、中和されるしかありません。

トニー・パーソンズは次のように言っています。

──────────────────
 一人の個人として存在しながら
 人生を切り抜けていくという、
 見かけ上の経験に閉じ込められたままでいるかぎり、
 私たちは夢を見ている状態で生きている。
 
 その夢見の状態においては、
 何をしようとすべては見かけの上で
 相対の法則に支配されていて、
 その法則により、
 いわゆる肯定的行為は
 それと釣り合う正反対の行為によって
 寸分の狂いもなく相殺される。
 
 したがって、
 人生をうまくいかせたい、
 完壁を目指したい、
 個人として解放されたい
 といった動機でなされる個々の試みは、
 そのすべてが中和されることになる。
 
 『オープン・シークレット』(p1)
──────────────────

多次元宇宙もすべてこのとおりの世界です。

現象宇宙ということ自体が、

それ以外ではありえないことの証なのです。

わたしのなかには、

心乱れて、戸惑い、恐怖し、心配する自分とともに、

その背後に、すべてに気づき、映し出している自分がいます。

自分とはいわばその総体です。

いちばん背後にいる自分は、

もっとも目立たず、けっして意識されることはありません。

なぜなら、それはけっして気づきの対象にはならないからです

そしてどの瞬間にも「私は在る」のです。

しかし、わたしと自認するわたしが

現象世界に興味をもっているかぎり、

いちばん背後にいる自分が、

自らしゃしゃり出てくることはありません。

いちばん背後にいる自分が

自分の非在を恐れることはありえないからです。

ほかには何も存在していないのですから。

現象のなかで自在に自分の位置を移動させている自分が

それに飽きるときはいつかくるのでしょうか?

マハラジはその道筋を次のように描いています。

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 存在の法則によって源へと戻る道を見いだしたとき、
 彼はすべてを放棄する。
 なぜなら、
 世界への興味はもはやなくなっているからだ。
 彼は何も欲しない。
 他者からも、彼自身からも。
 彼はすべてに対して死に、すべてとなる。
 何も望まず、何もしない。
 これが真の創造だ!
 自分のハートのなかで
 宇宙が現れては消え去るのを見ることは驚きだ。
 
 『私は在る』(p157)
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(-||-)

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 至高の見地から見れば、世界に原因はない。
 
 すべては原因なくして起こる。
 世界には何の原因もない。
 
 『私は在る』(p59)
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(-||-)

kichiさん、つい懐かしくて調子に乗って、

いろいろ演説させていただきました。

もし分不相応なことを喋ったと反動が起こるようなら、

それもまた自然現象として起こることでしょう。

別に問題ありません。

お陰さまで、楽しかったです。

ありがとうございました。m(_ _)m

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 あなたは在る。
 ほかのすべては現れにすぎない。
 
 『私は在る』(p421) 
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(-||-)

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 永久的なもの、それはあなた自身の存在である。
 真我として在りなさい。
 それが至福である。
 あなたはいつもそれなのである。
 
 『あるがままに』(p58) 
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……。(-_-)

ありがとうございました。<(_ _)>

(-||-)

今日はこんなところで。

……。

m(_ _)m


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■ 2.編集後記:
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kichiさんからの懐かしい誘い水で

ずいぶんおしゃべりしました。

起こることは自然現象だと思っています。

今日も晩くなりました。

おやすみなさい。

<(_ _)>


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■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
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