home > 通信 >『アセンション館通信』第683号号:決意によってだ



━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
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 ☆☆     ☆☆『アセンション館通信』2017/05/14(第683号)
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☆☆      ☆★ 【気刊】――「私は在る」に導かれ♪――
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 ☆☆   ☆☆          https://www.ascensionkan.com/
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇

このメルマガはアセンション館主人pariと称するあるパターンに
浮上している心象風景の報告です。

 苦痛から欲望が生まれ、苦痛のなかで欲望を満たそうとする。

 世界の根本原因は自己愛である。そのために私たちは快楽を探し
 求め、苦しみを避ける。自己愛を真我への愛に変えなさい。
 すると画面は変わってくる。(ニサルガダッタ)

内容は人畜無害、でも読む人は相当変わっていますね。現在866名
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◇◇ もくじ ◇◇

1.海のひとつの波

2.いただいたお手紙から:KENさん

3.編集後記
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■ 1.海のひとつの波
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今日は朝からしっかり雨が降っています。

この季節、毎年庭の東端では

少しずつ鈴蘭の群れが広がっています。

雨の日はその白い鈴のような花が

たくさんの水滴をつけて膨れます。

顔を近づけると微かに香ります。

子供の頃から知っている香りだけど、

鼻を近づけるまでそれがどんな香りなのかを

言い当てることはできません。

そして、顔を近づけて

ああこの香りだったと納得するのです。

けっして言語化されることはない……。(-_-)

(*^_^*)

さて、またまた一週間が過ぎて、

楽しい“アセンション噺”ならぬ「私は在る」噺に、

お付き合いいただく今がやってまいりました。

『アセンション館通信』配達人の pari です。

分離幻想が解除された体験もない人間が

毎週こんなテーマで書いているんですから、

厚かましいと言えば厚かましいし、

健気と言えば健気です。(*^_^*)

でもこれだけ書き続けていると、

言葉というのはすべて

「物は言いよう」であるにすぎない、

ということがどうしてもわかってきます。

言葉だけならたいていのことは言えると

自分の体験として知っているわけです。(^_-)

こういう言葉を熱心に紡ぎ続けるということは、

言葉の無意味さを骨身にしみて知るためかもしれません。

まあ、pariパターンというのは

現象世界の中のそういう役回りなんでしょう。

今回871番さんからいただいた個人メールが

いかにも自分担当だという気がしたものですから、

ここでの話柄とさせていただくために、

ご本人のご了解をお願いしました。

なぜわたしが自分の担当だと感じたかは、

読んでいただけばご納得いただけるかもしれません。(^^;)

871番さんのご了解がいただけたので、

早速、ご紹介したいと思います。

【件名】:彷徨
──────────────────
 Pari様
 
 871番です。
 「I am that」「私は在る」の質問を取り上げて、
 お答え頂きありがとうございました。
 前回、前々回と多少柔らかめのセッション通信館となり、
 私としては眼を通しやすかったというのが感想です。
 
 その余勢を駆って2つご教授をお願いします。
 
 その一
 
 私が10代のころより思っていた事に関連してです。
 私のこれまで人生一番の強烈な叫びは
 「俺はもう二度と生まれたくないんだ」です。
 高1の時、ある人に向かって言った言葉です。
 (一番言ってはいけないその方には申し訳く思っています)
 何故、ビックバンは起きたのか?
 それさえなければ私は生まれることもなかったと
 その時真剣に私は考えていました。
 今では自分が原因であることは頭ではわかりますが、
 そのことも完全に消化できていません。
 あるものであることはそれ以外のものの経験をすることで
 しか理解できない。本来至福の私達はそれ以外のことを経験
 することで至福を理解できるのもわかります。
 しかし、自分は海の一つの波から除いて欲しかったと
 荒唐無稽なことを思ってきました。
 
 その二
 
 私かつてインドに行った際、印象に残っている話があります。
 その話の真偽のほどは分かりません。
 ある日本人が修行をし、ようやくグルより
 「お前は悟った」と言われました。
 本人嬉しくなりこれまでの日々を思い高揚し
 残された日々を過ごしました。
 日本に帰るという前の晩に突如ハッとしました。
 「俺は悟っていない」
 ということに本人はハタと気づいたのでした。
 「日本に帰ったらどうやって生活していこうか」
 と不安になったのでした。
 そんなことを悩むのであるから悟っている訳がない、
 と分かったのでした。
 大いに笑いました。
 
 「あるヨギの自叙伝」の中で、大師のお弟子さんが話す一節に
 「神様からの年金と国からの年金」と言葉がありました。
 
 瞑想をし、「私は在る」を読んでいる時と納税通知書の支払いと
 の間にギャップがあります。
 明日を思い、考えて蓄える托鉢僧のイメージが自分にはあります。
 悟りの話で大いに笑い、そして笑いながらその実それは自分であ
 るとわかりました。
 マハラジがその日常をやり過ごしての修行だったことに思いがい
 きます。
 pari様はどのような折り合いをつけて
 どんな日常の感覚を持っているのでしょうか。
 よろしければお教えください。
 ありがとうございました。       拝
 
 ※どうして871番かとのご質問ですが、
  メルマガのその日の登録配信数が871名だったからです。
──────────────────

> Pari様
> 
> 871番です。

871番さん、ご了承ありがとうございました。m(_ _)m

自分というのは本来存在しないのでしょうが、

その自分のために、

あるいは自分が存在しないことを納得していくために、

いただいたテーマで書くのがいいかと思いました。

だいたい、カルマというのは

ちょうどいいことしか起こらないんですよね。(^^;)

すべてが恩寵なのだと思えてきます。

> 「I am that」「私は在る」の質問を取り上げて、
> お答え頂きありがとうございました。

質問などいただけて、身に余ります。(-||-)

> 前回、前々回と多少柔らかめのセッション通信館となり、
> 私としては眼を通しやすかったというのが感想です。

セッションをしているつもりはないのですが、

結果的に、いつも偉そうなことを

書いているかもしれませんね。^^;;

> その余勢を駆って2つご教授をお願いします。

調子に乗ってなんでも喋りますので、どうぞ。

> その一
> 
> 私が10代のころより思っていた事に関連してです。
> 私のこれまで人生一番の強烈な叫びは
> 「俺はもう二度と生まれたくないんだ」です。

なるほど。

> 高1の時、ある人に向かって言った言葉です。
> (一番言ってはいけないその方には申し訳く思っています)

そういうもんですよねぇ。(-_-;)

でもその方の責任でないのも自明のことで……。

> 何故、ビックバンは起きたのか?
> それさえなければ私は生まれることもなかったと
> その時真剣に私は考えていました。

そういう思い方もあるんでしょうね。

わたしも、「何故にすべては始まってしまったのか」

などということを思いました。

すべて聞いた話か捏造された観念でしょうし、

端的に言うなら、まさに責任転嫁ですよね。

> 今では自分が原因であることは頭ではわかりますが、
> そのことも完全に消化できていません。

あ、そうですか。

それは、完璧に納得できますよ。

それは、871番さんが、

いまこの瞬間に自分を誰だと思っているか、

ということで如実にわかります。

もし、871番さんが、

いま自分を871番という人間だと思っているのなら、

それは、あなたが今この瞬間に

871番という人間に、

あるいはその人間が遭遇するであろう運命に、

興味を持っているからです。

あなた以外には、他の誰もあなたほどには

871番という人間に興味を持ってなどいません。

まあ、お母さんは子供を自分の延長と認識するので、

とても強い興味を子供に持つことはあるでしょうが。

871番さんという人間をリアルな現象にしているのは

あなたの871番さんに対する強い関心です。

あながた871番さんにまったく興味を失ったら、

871番などという人間は現象することすらできません。

ところで、わたしはいま

あなたと、871番さんを区別しました。

871番さんという言葉を、

あなたが対象として知覚できる現象の意味で、

また、あなたという言葉を、

その871番さんを知覚している当人の意味で使いました。

ところで、あなたはこのどちらでしょうか?

あなたは、871番さんを知覚している当人ですか?

それとも871番さんという知覚の対象物でしょうか?

もしあなたが、自分は

871番という人間を知覚している当人だと自認するなら、

871番という人間を現実にしているのが

あなたの関心であることは自明ではないでしょうか?

いや自分は現象にも871番にも関心などないのに、

871番という人間として誕生させられたことに

異議を唱えているのだと言うなら、

その異議を唱えることこそがあなたの興味であり

いわば人間に典型的な責任転嫁なのです。(*^_^*)

もしその興味や関心すらあなたではないと言うのなら、

あなたが悩んだり、

文句を言ったりする理由が何かあるでしょうか?

またもし、あなたが、自分は

871番を知覚している当人であると同時に、

871番という人間でもある、というなら

知覚の対象物を知覚する当人と混同している

その誤解(無知)こそが

あなたが871番という人間として

誕生してこなければならない原因です。

ここのところ別に

「871番」と書かなければならない理由もなくて、

「pari」と書いても同じなのです。(*^_^*)

あらゆる現象というものが

すべてつかの間の【見かけ】にすぎず

実際は、どんな存在も持っていないことが自明なら、

現象のなかに何が生まれようと、

現象世界のなかで誰がどうであろうと、

それはすべてただの【見かけ】です。

いちいち、気にするほどのことではないのです。

要するに、マハラジがいつも言うように、

──────────────────
 関心をもっているのはあなたなのだ!
 
 『私は在る』(p488)
──────────────────

というわけです。(*^_^*)

あなたは少なくとも、

自分の関心が自分であることを認めるところから、

始めなければならないというわけです。


> あるものであることはそれ以外のものの経験をすることで
> しか理解できない。本来至福の私達はそれ以外のことを経験
> することで至福を理解できるのもわかります。

はい。

> しかし、自分は海の一つの波から除いて欲しかったと
> 荒唐無稽なことを思ってきました。

あはは。(*^_^*)

それはアイディアとしてはひとつの思いつきですが、

土台無理な話です。

なぜなら、

“海の一つの波”が気づきを所有しているわけではなく、

ひとつしかない“海という気づき”の中に

“一つの波”が現れているにすぎないからです。

871番さんは、自分は人間だと言い張るために、

871番という人間が気づいているかのように言いますが、

そうではありません。

気づきのなかに871番という人間が現象しているのです。

じゃ、その気づきが邪魔なんだ、とおっしゃいますか? (^^;)

あなたこそが、その気づきであることは、

もうおわかりですね。

あなたこそが気づきという永遠の常在なのですから

あなたが消えることはありえません。

ただそれを自覚していないだけなのです。

そしてあなたが実在を分け与えている

現象世界の方に文句を言っているというわけです。

どうやっても自分から逃れることはできません。

ただ、ここで「自分」と言ったときに、

われわれ人間は一瞬一瞬の使い分けをします。

それこそ融通無碍に自分の位置を移します。

あるときは一瞬わいたつかの間の想いに

自分のすべてがあるかのように自認したかと思えば

次の瞬間にはあらゆることに興味を失い、

自分はどんなことにも興味はない、

などと吹聴したりもするのです。

マハラジは、こんなことも言っています。

──────────────────
 もっとも難しいのが知的な人びとだ。
 彼らは多くを語るばかりで誠実ではないからだ。
 
 『私は在る』(p307)
──────────────────

(>_<)

おそらく、pariパターンなども

この知的な人びとの部類でしょう。

こんなにも長くこの手の話に興味を持ちながら、

あまりにも多くの自分を使い分けして、

いまだに飽きることがないようです。(^^;)

しかし、pariパターンに何かができるとも思えません。

心身構造体としてのpariパターンは

現象構造体の一部として機能せざるをえないでしょうし、

所定の運命を生きなければならないのかもしれません。

しかし、マハラジの言い方に従えば

配給される想念を受け取らないことはできるわけです。

ラマナ・マハルシの言い方に従うなら、

われわれにある唯一の自由は

真我を実現する自由だそうですから。

──────────────────
 人が手にできる唯一の自由とは、
 努力をしてジニャーニを得ることである。
 それが彼と身体との同一化を断ち切る。
 身体はプラーラブダによって宿命づけられた、
 避けることのできない行為を通り抜けていくだろう。
 人は身体と彼自身を同一視し、
 その身体の行為の報いに執着するか、
 あるいはそれから離れ、
 身体の活動の単なる目撃者となるか、
 という選択の自由だけをもっているのである。
 
 『あるがままに』(p389)
──────────────────

(-||-)

自分という言葉は

身体や一瞬の想念に貼りついた状態から、

すべての【見かけ】をただ映しているところまで、

多様な層をかいくぐって使える言葉ですよね。

何を自分とするか、

これは自分が決めるしかない。

思い込みのなかでそれを他の誰かのせいにしても、

実在である自分が消滅することなど

とうていできない相談だろうと思います。


> その二
> 
> 私かつてインドに行った際、印象に残っている話があります。
> その話の真偽のほどは分かりません。
> ある日本人が修行をし、ようやくグルより
> 「お前は悟った」と言われました。
> 本人嬉しくなりこれまでの日々を思い高揚し
> 残された日々を過ごしました。
> 日本に帰るという前の晩に突如ハッとしました。
> 「俺は悟っていない」
> ということに本人はハタと気づいたのでした。
> 「日本に帰ったらどうやって生活していこうか」
> と不安になったのでした。
> そんなことを悩むのであるから悟っている訳がない、
> と分かったのでした。
> 大いに笑いました。

なるほど。

わたしは悟るほど修行したこともありませんし、

分離幻想が解除された体験もありません。

でも、悟った個人というものが存在するわけではなく、

気づいているこれ自体はひとつしかないので、

マハラジもわたしも同じものだと思っています。

その意味では、マハラジもわたしもないわけですが。(^^;)

でも、汚れに焦点を合わせ続けているわたしと

純粋な気づきに焦点が合ったマハラジとは

自覚がまったく違います。

わたしというのは自分想念ですから、

その自分想念が自分を真我と同定することなどありえません。

そもそも、自分という想念に

そんな能力ははじめから備わっていません。

自分想念にできるのは

次の責任転嫁想念を呼び出すことくらいでしょう。

湧いてくるそれらの想念を何かが映し出している。

映し出され、認知された自分想念が

自前で存在していると誤解しているだけです。

その自分想念は基本的に汚れの方にしか興味がないのです。

自分が生きられるのは汚れの中だけですから……。

> 「あるヨギの自叙伝」の中で、大師のお弟子さんが話す一節に
> 「神様からの年金と国からの年金」と言葉がありました。
> 
> 瞑想をし、「私は在る」を読んでいる時と納税通知書の支払いと
> の間にギャップがあります。
> 明日を思い、考えて蓄える托鉢僧のイメージが自分にはあります。

なるほど。

pariパターンの場合は、

「明日を思い、考えて蓄える」知恵が

足りなかったかもしれません。(*-_-*)

いえ、ただの一瞬の想念です。(*^_^*)

> 悟りの話で大いに笑い、そして笑いながらその実それは自分であ
> るとわかりました。

ですよね。

> マハラジがその日常をやり過ごしての修行だったことに思いがい
> きます。

マハラジの場合は、

自分で何も意図することなく、

ただ自然に深まっていったみたいですね。

> pari様はどのような折り合いをつけて
> どんな日常の感覚を持っているのでしょうか。
> よろしければお教えください。

そうですねぇ。(-_-)

まあ、わたしの日常は、

ほぼ生活のための仕事ばかりです。(*^_^*)

若いころからもう少し知恵があれば、

老後のことなどもっと考えていたのでしょうけど、

どうやらそういうカルマではなかったみたいで……。

お金はほしいのに、

実際に「出」と「入り」すら明確に把握しないまま

人生を過ごしてきてしまいました。

だから、お金に焦点を合わせれば不安は湧きます。^^;

これは夢だと思っていますが、

でも、夢だと言ってみても、

夢を見る自分がいると思っている以上、

その自分はその夢のなかで迫られる状況を

生きなければならないわけです。

でも実際は、違うのです。

自分想念に夢を見る能力などありません。

そこには次々と湧いてくる画面が

自前で存在しているかのような

誤解(無知)が湧いているのです。

そして、その誤解の基底こそが

わたし(自分想念)だというわけです。

そして実質的に夢を駆動しているのは

目まぐるしく画面が入れ替わる現象世界への

興味というエネルギーなのです。

だから、

わたしがこの世の動きに興味がある以上、

この世の動きにつきあうしかないと思います。

マハラジは教えてくださいます。

──────────────────
 解放への道には何も立ちはだかっていない。
 そしそしてそれは今ここで起こることができる。
 だが、
 あなたはほかのことにもっと興味がある。
 そしてあなたは
 その興味と闘うことはできないのだ。
 あなたはそれとともに行き、
 それを見抜き、
 それが単に判断と賞賛の誤りであることを、
 それ自体が自ら暴くのを見守らなければならないのだ。
 
 『私は在る』(p475)
──────────────────

(-||-)

だから、夢のなかの物語を、

先の展開がどうなるかを知らずに、

その登場人物として生きていくより仕方ありません。

そのように起こってくることが、

夢のなかの登場人物にとっての

恩寵なのだと思っています。

これは、負け惜しみでもありますが、

わたしのようなパターンにとって

現象が意味を失うための

ひとつの道筋でもあるだろうと思います。

そうして、そのように夢を生きながら、

その瞬間の、自分の執着のありように

少しずつ気づいていくしかないと思っています。

──────────────────
 世界は無数の輪(リング)でできている。
 それに引っかける鉤(フック)はみなあなたのものだ。
 あなたの鉤をまっすぐにしなさい。
 そうすれば何もあなたを捕らえることはできないだろう。
 あなたの耽溺を放棄しなさい。
 ほかに何も放棄するものはない。
 常習的な利欲心、結果を探し求める習慣を止めなさい。
 そうすれば自由の世界はあなたのものだ。
 
 『私は在る』(p259)
──────────────────

頭の中でときどきフックを伸ばしています。

> 常習的な利欲心、結果を探し求める習慣

これはなかなか手放せませんが。(^_-)

> ※どうして871番かとのご質問ですが、
>  メルマガのその日の登録配信数が871名だったからです。

ああ、そういう意味でしたか。

よくわかりました。(*^_^*)

871番さん、

ご質問いただき、ありがとうございました。

(-||-)

──────────────────
 あなたは在る。
 ほかのすべては現れにすぎない。
 
 『私は在る』(p421) 
──────────────────

(-||-)

──────────────────
 永久的なもの、それはあなた自身の存在である。
 真我として在りなさい。
 それが至福である。
 あなたはいつもそれなのである。
 
 『あるがままに』(p58) 
──────────────────

……。(-_-)

ありがとうございました。<(_ _)>

(-||-)

今日はこんなところで。

……。

m(_ _)m


       ………○…………○…………○………


『私は在る』の「目次」はここ↓に置いてあります。
https://www.ascensionkan.com/books/I_AM_THAT-index.html

ときどき「ニサルガ辞書」で遊んでみてください。
https://www.ascensionkan.com/ndic/

新しい「ラマナ・マハルシ辞書」はここです。
https://www.ascensionkan.com/rdic/

おこがましくも『アセ通』既刊号はすべてここに置いてあります。
https://www.ascensionkan.com/mm/


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▼『アセ通』への「私は在る」関連ご意見投稿フォーム:
http://www.formzu.net/fgen.ex?ID=P48750702
というのを作らせていただきました。(^^;)

「私は在る」に関するご意見・ご感想・シェアリング、または単な
るメールなど、ご自由にお書きいただければと思います。


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■ 2.いただいたお手紙から:KENさん
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▼『アセ通』への「私は在る」関連ご意見投稿フォーム:
http://www.formzu.net/fgen.ex?ID=P48750702
というのを作らせていただきました。(^^;)

「私は在る」に関するご意見・ご感想・シェアリング、または単な
るメールなど、ご自由にお書きいただければと思います。


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今回、KENさんからご投稿をいただきました。

さっそく、ご紹介します。

【件名】: 
──────────────────
 pariさんこんにちはKENです。
 先週のメルマガに
 
 > 質問者 どのようにして個人は取り除かれるのでしょうか?
 > 
 > マハラジ
 > 決意によってだ。
 > それは取り除かなければならないものだということを
 > 理解しなさい。
 > そしてそれが去ることを願いなさい――
 > もしあなたが真剣ならば、それは去るだろう。
 > 誰でもいいが、誰かがあなたに、
 > あなたは「身体―精神」ではなく、
 > 純粋な意識だと告げるだろう。
 > それを可能性として受け入れなさい。
 > そして真剣に調べてみなさい。
 > あなたは、空間と時間に拘束された
 > 個人ではないと発見するかもしれない。
 > それがどれほどの違いをもたらすことか、
 > 考えてみるがいい!

 というマハラジの言葉がありました。
 
 私は実在する人物と会う機会があり会いに行ってきました。
 > あなたは「身体―精神」ではなく、
 > 純粋な意識だと告げるだろう。
 マハラジと同じ言葉を
 実際に存在する人物に、同じ言葉を告げられました。
 あなたと私は全く同じものなのですよと、
 あなたに対してすることは何もない
 ましてや、私が悟りを与えることはできないんです。
 私はそれを言いたくない。
 すべて観念になるから。
 あなたが本当の自分を知識としてしかわからないといいますが
 それが恩寵なんじゃないですか。
 それがあることを知ったというととが。
 悟りというのは恩寵がなければ厳しいといわれれますが、
 それでもそれを思う、愛する気持ちがあれば可能かもしれない
 といわれました。
 
 私がうまく文章にできませんが
 マハラジと同じことを語っておられると思います。
 
 その方と過ごした3時間は空間でした。
 すべての非二元の本も売り、
 ブログ関係も、その方とpaiさんのメルマガ以外
 見ないようにしています。
 
 悟りを求めている人すべてに恩寵がありますように。
──────────────────

KENさん、ご投稿ありがとうございます。

真我を実現している方と会われたんですね。

おめでとうございます。

そういうふうに状況が煮詰まっていくんでしょうね。

このメルマガも残していただいたそうで

ありがとうございます。

よかったら、また夢のなかで、

ときどき投稿などしてください。(^人^)

m(_ _)m


       ………○…………○…………○………


▼『アセンション館通信』への情報ご投稿フォーム
http://www.formzu.net/fgen.ex?ID=P87119518


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■ 3.編集後記:
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今日はもう雨もやんで

山の斜面に白い霧がかかっています。

今の瞬間、

空一面の雲がピンク色に染めあげられています。

ちょっとゾクッとするような空です。

なんか不思議……。

<(_ _)>


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■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
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  → メール: pariアットマークjk2.so-net.ne.jp
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