home > 通信 >『アセンション館通信』第684号号:魂が精神的な拠り所を捨て去り



━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
  ☆☆   ☆☆ 
 ☆☆     ☆☆『アセンション館通信』2017/05/21(第684号)
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☆☆      ☆★ 【気刊】――「私は在る」に導かれ♪――
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 ☆☆   ☆☆          https://www.ascensionkan.com/
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇

このメルマガはアセンション館主人pariと称するあるパターンに
浮上している心象風景の報告です。

 苦痛から欲望が生まれ、苦痛のなかで欲望を満たそうとする。

 世界の根本原因は自己愛である。そのために私たちは快楽を探し
 求め、苦しみを避ける。自己愛を真我への愛に変えなさい。
 すると画面は変わってくる。(ニサルガダッタ)

内容は人畜無害、でも読む人は相当変わっていますね。現在866名
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◇◇ もくじ ◇◇

1.魂が精神的な拠り所を捨て去り

2.いただいたお手紙から:KENさん

3.編集後記
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■ 1.魂が精神的な拠り所を捨て去り
━━━━━━━━━━━━━━━━━━

晴れましたね。

昔は梅雨の晴れ間を五月晴れと言ったのだそうですが、

今は五月の晴れ間を五月晴れだというのだそうです。

なら今日は立派な五月晴れですね。^^;

まあ、だいたい言葉というのはそのようなものです。

いま庭は白いマーガレットでいっぱいです。

(*^_^*)

さて、またまた一週間が過ぎて、

楽しい“アセンション噺”ならぬ「私は在る」噺に、

お付き合いいただく今がやってまいりました。

『アセンション館通信』配達人の pari です。

分離幻想が解除された体験もないこんな人間に

何かを聞いてくださる方もいるものですから、

ついつい調子に乗って書かせていただくことにします。

今回Andreさんという方からいただいた個人メールが

これもまたいかにも自分担当だという気がしたものですから、

ここでの話柄とさせていただくために、

ご本人のご了解をお願いしました。

Andreさんのご了解がいただけたので、

早速、ご紹介したいと思います。

【件名】:教えてください。
──────────────────
 ある人が山道を歩いていて、間違って穴に落っこちてしまった。
 自分ではどうしても上がることができないことが分かった。
 「助けてくれ!」と叫んでいると、一人の老人が若い供を連れて
 やってきた。 
 
 彼は穴の中で叫んでいる人に向かってこう言った。
 「何を騒いでいるんだね。
  君の見ているのは実在ではない。
  単なる幻想だよ。」 
 
 そのまま通り過ぎていこうとしている老人を引き留めていっしょ
 に歩いてきた若い人はこう言った。 
 
 「老師様、彼を助けてあげないのですか?
  彼はこのままだと死んでしまいますよ!」 
 
 老師は答えた。
 「君が助けてあげたかったら、助けてあげればいいじゃないか。
  ドンドンやんなさい。
  私は一つも助けるなと は言っていないよ。」
 
 マハラジも同じことを言っているように思えます。
 これと対照的なのは、イエスの「よきサマリア人」の話で、
 この人はその場で助けてあげただけでなく、
 後で介抱する費用まで面倒を見ます。
 この違いはこの世をどう見るかにかかっています。
 
 ヒンドゥー教も、仏教も、それに影響されている昨今のスピリチ
 ャルの人々の話も、基本的には、この世は幻想であり、実在は別
 のところにあるということ。
 基本、人生は苦であるから、我々は輪廻転生を繰り返して、この
 世に戻ってくるよりも、早くこの嘘の世界から解放されて二度と
 生まれ変わりたくないというのが共通点ですよね。 
 
 「苦痛と快楽に無関心でありなさい。」 
 
 なぜならこの世の苦痛と快楽 は実在ではないから。 
 
 「永遠に存在する「私は在る」のレベルに、あなたのすべての注意
  を払いなさい。すぐにあなたは平和と幸福があなたの本性である
  ことを悟るだろう。」
 
 マハラジの言うことに間違いはなさそうです。
 でも他の質問者といっしょに言いたい。
 「実際は難しい」。
 
 本題に入ります。 
 
 私自身、今、どんな状態なのかというと、正直に言って、この世
 のことが急に色あせて見えてきたのです。
 まさにこの世でおこることはみな幻想であり、嘘っぱちのように
 見えてしかたがなくなってきたのです。
 まさに虚無です。
 そうするとわたしもその情熱的な若者に「君が助けてあげたかっ
 たら、助けてあげればいいじゃないか。
 ドンドンやんなさい。
 私は一つも助け るなとは言っていないよ。」と言いそうです。
 マハラジの真意とは全く違うとしてもです。
 人生はリーラー(遊戯)。
 
 かといって、「永遠に存在する「私は在る」のレベル」を確信で
 きないのです。
 いや、そんな瞬間があったことも事実です。
 あったからこそ困ってしまう。
 逆に何も知らずに欲望、出世、成功に目をむいてひた走っていた
 ほうがよっぽどよかったかもしれない。
 でももう元に戻ることはけっしてできない。
 何かを垣間見てしまったから。
 
 道元は「現成公案」と言いました。
 我々はすでに悟っているというのに、なぜまた修行しなければな
 らないのか?
 それは悟るために修行するのではなく、修行が悟りを現成させて
 いるのだというのです。
 三木清は「人生論ノート」 の中で、この世が虚無であるからこ
 そ、我々は形成できるのだと言います。
 
 わかるような気がする。
 でもこのどうしようもない虚無感はなかなか払しょくできません。
 それともこれはデ・メロ師が言った「悟っても鬱」ということで
 しょうか。
 
 何かマハラジが言ったことを見落としている気がします。
 もし気が付いたら教えてほしいのですが。
──────────────────

Andreさん、ここでの話柄として取り上げることをご了解いただき、
ありがとうございました。m(_ _)m

もちろん、お教えすることなど何もないのですが、

わたしはこんな感じです、ということは言えるので

そんなことを書かせていただくのだろうと思っています。

> ある人が山道を歩いていて、間違って穴に落っこちてしまった。
> 自分ではどうしても上がることができないことが分かった。
> 「助けてくれ!」と叫んでいると、一人の老人が若い供を連れて
> やってきた。 
> 
> 彼は穴の中で叫んでいる人に向かってこう言った。
> 「何を騒いでいるんだね。
>  君の見ているのは実在ではない。
>  単なる幻想だよ。」 
> 
> そのまま通り過ぎていこうとしている老人を引き留めていっしょ
> に歩いてきた若い人はこう言った。 
> 
> 「老師様、彼を助けてあげないのですか?
>  彼はこのままだと死んでしまいますよ!」 
> 
> 老師は答えた。
> 「君が助けてあげたかったら、助けてあげればいいじゃないか。
>  ドンドンやんなさい。
>  私は一つも助けるなと は言っていないよ。」

これは、この方達が別に禅の修行者でなくても

ありそうな話ですよね。^^;

若い方は親切心と正義感に燃えていて、

現象世界にビビッドに向かい合っている。

年寄りは一般的にそれほど敏感にこの世に対応してはいないし。

自分にできることの限界も知っていれば、

その効果もあまり信じていない。

自然に起こることならいざ知らず、

あえて新たな行動などには向かいにくいですよね。

ましてやこの方は禅の老師なのでしょうから、

仮初の現象世界の中では、

起こることになることしか起こらないと、

あるいは何が起ころうともそれはどうしようもないのだと

知っているのかもしれません。

芭蕉の『野ざらし紀行』の句が思い出されますね。

──────────────────
 富士川のほとりを行に、三つ計なる捨子の、哀気に泣有。
 この川の早瀬にかけて、うき世の波をしのぐにたへず、
 露計の命待間と捨て置けむ。
 
 小萩がもとの秋の風、今宵や散るらん、明日や萎れんと、
 袂より喰物投げて通るに、
 
  猿を聞人捨子に秋の風いかに
 
 いかにぞや、汝父に悪まれたる歟(か)、母に疎まれたるか。
 父は汝を悪むにあらじ、母は汝を疎むにあらじ。
 唯これ天にして、汝が性の拙きを泣け。

 『野ざらし紀行』(↓サイトには現代語訳もあります)
 http://www.bashouan.com/Database/Kikou/Nozarashikikou_02.htm
──────────────────

> マハラジも同じことを言っているように思えます。

はい。

> これと対照的なのは、イエスの「よきサマリア人」の話で、
> この人はその場で助けてあげただけでなく、
> 後で介抱する費用まで面倒を見ます。
> この違いはこの世をどう見るかにかかっています。

まあ、そうも言えるのでしょうが、

気質もあれば、能力もあり、状況もあるでしょうし、

すべてが関連してもいるのでしょうね。

> ヒンドゥー教も、仏教も、それに影響されている昨今のスピリチ
> ャルの人々の話も、基本的には、この世は幻想であり、実在は別
> のところにあるということ。
> 基本、人生は苦であるから、我々は輪廻転生を繰り返して、この
> 世に戻ってくるよりも、早くこの嘘の世界から解放されて二度と
> 生まれ変わりたくないというのが共通点ですよね。 

さて、これはどうでしょう?

一般的に言う「スピリチュアリティ」というのは、

もっとずっと希望にあふれているのではないでしょうか。

「早くこの嘘の世界から解放されて二度と生まれ変わりたくない」

というのが「昨今のスピリチャルの人々」が持っている平均的観念

というふうには感じられないような。

むしろ、そいういうひねた方々のほうが例外的ではないでしょうか。

ま、それは横道ですが。(*^_^*)

> 「苦痛と快楽に無関心でありなさい。」 
> 
> なぜならこの世の苦痛と快楽 は実在ではないから。 
> 
> 「永遠に存在する「私は在る」のレベルに、あなたのすべての注意
>  を払いなさい。すぐにあなたは平和と幸福があなたの本性である
>  ことを悟るだろう。」
> 
> マハラジの言うことに間違いはなさそうです。

はい、わたしもAndreさんと同じくそう思っているほうです。

> でも他の質問者といっしょに言いたい。
> 「実際は難しい」。

はい、いろいろな細かい執着で、

われわれはこの世にしっかり絡みついているんですよね。

> 本題に入ります。 

はい。

> 私自身、今、どんな状態なのかというと、正直に言って、この世
> のことが急に色あせて見えてきたのです。

おお、いいじゃないですか。(^^)/

> まさにこの世でおこることはみな幻想であり、嘘っぱちのように
> 見えてしかたがなくなってきたのです。

わかります。

> まさに虚無です。

うーむ。

> そうするとわたしもその情熱的な若者に「君が助けてあげたかっ
> たら、助けてあげればいいじゃないか。
> ドンドンやんなさい。
> 私は一つも助け るなとは言っていないよ。」と言いそうです。

ええ。

> マハラジの真意とは全く違うとしてもです。

なるほど。

> 人生はリーラー(遊戯)。

はい。

> かといって、「永遠に存在する「私は在る」のレベル」を確信で
> きないのです。

そうですか。

わたしなら「永遠に存在する『私は在る』のレベル」は確信できるが、

そこに四六時中意識の焦点を合わせるだけの熟度がないとか

誠実さがない、という言い方をするかもしれません。

これは必ずしも自分に自由意志があると思っている

という意味ではなくです。

> いや、そんな瞬間があったことも事実です。
> あったからこそ困ってしまう。

そうなんですね。

> 逆に何も知らずに欲望、出世、成功に目をむいてひた走っていた
> ほうがよっぽどよかったかもしれない。

はい、もしそれができるなら。(*^_^*)

> でももう元に戻ることはけっしてできない。
> 何かを垣間見てしまったから。

ですよね。

> 道元は「現成公案」と言いました。
> 我々はすでに悟っているというのに、なぜまた修行しなければな
> らないのか?
> それは悟るために修行するのではなく、修行が悟りを現成させて
> いるのだというのです。

なるほど。

たしかに、そう言えそうですね。

もちろん、道元さんにわたしの同意など無用ですが。(^^;)

> 三木清は「人生論ノート」 の中で、この世が虚無であるからこ
> そ、我々は形成できるのだと言います。

そういう言い方もあるでしょうね。

> わかるような気がする。

ええ。

> でもこのどうしようもない虚無感はなかなか払しょくできません。

そういう【見かけ】の場面もあるんじゃないでしょうか。

> それともこれはデ・メロ師が言った「悟っても鬱」ということで
> しょうか。

おお、そういう言い方もあるんですか。

> 何かマハラジが言ったことを見落としている気がします。
> もし気が付いたら教えてほしいのですが。

Andreさんのおっしゃること、わかりました。

わたしも同類ですので、

とても同感できるところもありますが、

別のパターンでもあるので、

このあたりは違うなぁと感じるところも無論あります。

で、いまの自分の感じでは、

すべてアリなわけで、すべて自然現象だと思っています。

現に起こっていることを、

現に起こっている現象の担い手(登場人物)が

どうのこうの言っても、それはそれだけのことです。

ただ起こるべきことが起こっているだけだと思います。

まあ、人間の立場からすればメチャクチャな話ですが、

でも、そんな話を信じることになる出来事も起こるのです。

マハラジはどこかで、

自分がグルの言葉を信じたのは

自分が無教育だったからだと思う、

という意味のことを言っていたと思います。

では、マハラジはグルにどんなことを言われたのか?

ラメッシ・バルセカールは『意識は語る』のなかで

こんなことを言っています。

──────────────────
 マハラジは彼のグルが最初に、
 「すべては夢で、非個人的出来事で、
  あなたは全体が機能するための単なる道具にすぎず、
  独立した実体としてのどんなあなたもいない」
 と言ったのを聞いたとき、
 それを受け入れたと言いました。
 それについて何の疑問も持たなかったのです。
 こういうことは非常にまれにしか起こりません。
 私の場合、そういった受容性はありませんでした。

 『意識は語る』(p394) 
──────────────────

どうでしょうか?

こんな言葉を言われたとしたら、

果たして、まともな現代人が

それを受け容れられるものでしょうか?

もちろん、まともだったら受け容れられません。(*^_^*)

われわれ(つまりマインド)は

いわゆる“自分”に起こってくることを

ああだこうだといろいろ解釈しますよね。

精神活動とはすべてそういうものですから

それはそれで仕方がないと思います。

そしてわれわれはそういう“自分の”思いを

あたかもとても大切なことでもあるかのように重要視します。

まあ、事実、われわれにとっては重要なわけです。(*^_^*)

そうなっているわけでしょうね。(^_-)

だから、それはそれでいいのですが、

ただ、それだけでは収まらなくなる状況というのもあります。

これもまた、そうなっているわけでしょう。

だから圧倒的な確信に満ちた覚者たちの言葉は

マインドの厚い雲さえも貫通して

われわれのところに届くことがあります。

とはいえ、その届いてくる覚者たちの言葉というのが

よく聞いてみると、これがけっして同じではない。

似ているところもあるようだけれど、

それぞれ違うところがあるようでもある。

こうなると、選り取り見取りで、

いろいろ食指が動くわけです。

すべて自然現象だと思います。

気象という自然現象を対象とする「天気予報」の場合、

明日の天気だとか、○○地方の天気などを問題にします。

その「天気予報」は、

どこどこの低気圧の影響だとか、

その上の上層気流の温度だかが原因でこうこうだと言います。

もちろん、それでいいわけです。

気象学者でもないわれわれ一般人には

自分が関係する地域の明日の天気がわかればそれでいいわけですから。(^_-)

あまり細かい経緯がわかったところで仕方ありません。

でも、事実としては、太陽風の影響だって

そのほかいろいろな惑星の位置とか

それこそ上位次元の意図だって無関係のはずはないとも思われます。

でも、誰もがそんなことに興味をもつわけでもないし、

誰もがそんなすべての知識に煩わされる必要もない。

つまり、今の「天気予報」はこれでいいわけですよね。

われわれの必要に合っている。(*^_^*)

すべての娯楽、道徳、芸術、科学、哲学、宗教、政治、地政学……。

すべてはまあ、そんなようなものだと思います。

で、本屋の息子pariパターンの場合は、

こういうあまりにも膨大な情報に対する

ある種の客観的な視点というか評価基準というか

いわば何か統一理論みたいなものが欲しくなった

そういう時期があったわけです。

そういう気分の表現が

   <何故にすべては始まってしまったのか?>

だったというわけです。

この設問は、あらゆる回答を薙ぎ倒すという意味では

とても効率的でした。

だから、いかなる意味でも創造的になる必要がない。(*^_^*)

そして、お察しのとおり、

当然、メチャクチャに不毛な設問でした。

不毛で、不必要で……、

でも必要があったから配達されたんでしょうね。

そしたら、真面目に食いついた。

必要があったことの証拠だと思います。

そして忘れた頃にまた蘇ってきたりしました。

こういう問に答えがあると思ったから抱えていたわけでもありません。

ただ、なんとなく気分として残っていたわけです。

こんなあてどもないような問を抱えていたら

不可知論者にでもなりそうなものですが、

そんなふうにもならなかったようです。

まあ、そうなるカルマになっていなかった。

そして時代にめぐり合わせでOshoに出会って、

やがてマハラジの『私は在る』に出会ったわけです。

マハラジの言葉が自分にとてもヒットしたのは、

その言葉がわたしが求めていた意味で論理的だったからです。

マハラジは、なぜこんな世界があるのかについて、

わたしが納得せざるをえない理由をちゃんと説明してくれました。

マハラジの言葉を聞いて、

わたしはもう問をたらい回しする必要がなくなった。

というか、たらい回ししたくても、できなくなった。(*^_^*)

まあ、捕まったわけでしょうね。

ありがたいことです。(-||-)

> 三木清は「人生論ノート」の中で、この世が虚無であるからこ
> そ、我々は形成できるのだと言います。

Andreさんは、ずいぶん古い本も読むのですね。

昔は、本屋というのはああいう暗い色の本が多かったですが、

いまでは、ずいぶんカラフルになりましたね。

どんどん場面も変わっていきます。

> わかるような気がする。

もちろん、言葉の意味はわかるわけですが、

ただその言葉に共振するかどうか、

あるいは共振したいかどうかではないでしょうか。

【この世が虚無であるからこそ、我々は形成できる】

という言葉に、

もしAndreさんが共振したいのなら、

それに苦情を言う人は誰もいないと思います。

そして三木清の『人生論ノート』を読んだからというわけではなく、

自分でそう思い立って大いに活動の場を広げている方々も

たくさんいらっしゃるのではないでしょうか。

もちろん【見かけ】の上で、現象の中で。

> でもこのどうしようもない虚無感はなかなか払しょくできません。

それでいいのではないでしょうか。

それがAndreさんに提供されている今の場面ですよね。

おそらく、今がその時節だからでしょう。

それを歓迎して、などとえらそうな言い方はしませんが、

ことさら逃げる必要もないと思います。

虚無感というのは払拭しなければならないものですか?

世の中の多くのスピリチュアリティは、

虚無感を払拭する方法を教えてくれるかもしれません。

でも、もちろん、マハラジはそんなことはしないでしょう。

Andreさんのために喜んでくれるかもしれません。

──────────────────
 心が虚ろで離れていくことは、
 誰でも、いつのときでもあるものだ。
 それはもっとも望まれる瞬間なのだ。
 なぜなら、
 それは魂が精神的な拠(より)り所を捨て去り、
 遠くへと航海をはじめたことを意味するからだ。
 古かったものが終わりを告げ、
 新たなるものがまだ訪れていないとき――これが無執着だ。
 もしあなたが恐れるならば、
 この状態は悲痛なものとなるだろう。
 しかし、本当に何も恐れることはないのだ。
 教えを思い出しなさい。
 何であれ、あなたがであうものを超えていきなさい、
 ということを。

 『私は在る』(p268)
──────────────────

たぶん、Andreさんには、これを見せてやってくれ、

とマハラジが言っているのかもしれません。(^^;)

> 心が虚ろで離れていくことは、
> 誰でも、いつのときでもあるものだ。
> それはもっとも望まれる瞬間なのだ。

ほら、とてもいいことみたいじゃないですか。(^_-)

> なぜなら、
> それは魂が精神的な拠(より)り所を捨て去り、
> 遠くへと航海をはじめたことを意味するからだ。

おお……。(^^)/

> 古かったものが終わりを告げ、
> 新たなるものがまだ訪れていないとき――これが無執着だ。

じっくり、虚無感に浸っていればいいみたいですね。

無用になったら、勝手に消えていくでしょう。

> もしあなたが恐れるならば、
> この状態は悲痛なものとなるだろう。

心配したらもっと惨めになるみたいです。(^_-)

> しかし、本当に何も恐れることはないのだ。
> 教えを思い出しなさい。
> 何であれ、あなたがであうものを超えていきなさい、
> ということを。

ま、現象や体験はすべて、

あまり気にする必要はないみたいですよ。

もちろん、ニサルガヨーガでは、ということですが。

現象や体験はすべて、

実在に覆いかぶされた目くらましの煙幕のようなもの。

好きなだけ気にして、好きなだけ愉しめばいいらしい。

そして注目しているかぎり、

その煙幕はいくらでも次の場面を展開して見せてくれる。

あらゆる気分はすべてゴミだと思いますが、

ただそのゴミは、ゴミでないものが知覚しているのです。

なぜなら、鏡を取り巻く煙幕は

けっしてその煙幕を映し出すことはできないからです。

ははは、えらそうに。(*^_^*)

ただ、今あるものと別なものを求めるのは、

マインドが目先を変えるために使う常套手段ですよね。

マハラジ本人に話してもらいましょう。

──────────────────
 苦しみはすべての喜びの背景にある。
 苦しむがゆえにあなたはそれを欲しがる。
 だが、喜びの追求自体が苦しみの原因なのだ。
 それは悪循環だ。

 『私は在る』(p41)
──────────────────

このきわめて論理的な陳述は、

おそらくなかなかまともに聞いてもらえない言葉だと思います。

でも、ちょっと感じてみてください。

> 苦しみはすべての喜びの背景にある。

この言葉を受け入れるのは想像するより難しいです。

でも、マハラジがいつも言うように、

苦しんでいるということ以外に喜びを求める理由があるでしょうか?

> 苦しむがゆえにあなたはそれを欲しがる。

このことをいちど事実として感じてみてください。

苦しいからこそ、

今ある画面と別の画面を求めてしまうのだということを。

でも、他の画面を求めてもじつは解決にはならない。

> だが、喜びの追求自体が苦しみの原因なのだ。

というわけだからです。

> それは悪循環だ。

なんですよね。(/_;)

結局、マハラジが教えてくれることはいつも同じです。

──────────────────
 精神的レベルのなかに真我を探し求めるのは不毛なことだ。
 探求をやめなさい。
 そして見なさい。
 それは今ここに在る。
 あなたも承知のように、それは「私は在る」なのだ。
 あなたがすべきことは、
 自分自身を意識の領域内に在るものと見なすことをやめることだけだ。

 『私は在る』(p166)
──────────────────

煎じ詰めれば、これだけです。

> 精神的レベルのなかに真我を探し求めるのは不毛なことだ。

まわりの煙幕の中に自分に都合のいい

もっと気持ちのいい画面を求めるのはやめなさい。

> 探求をやめなさい。
> そして見なさい。
> それは今ここに在る。

(-_-;)

> あなたも承知のように、それは「私は在る」なのだ。

自分が存在の根拠そのものであることで満足しなさいと。(-||-)

でも、Andreさんはこうおっしゃる。

> でも他の質問者といっしょに言いたい。
> 「実際は難しい」。

と。

わかります。

わかりますが、正直とも言えない。

わたし自身があまり正直でないのでよくわかります。(*^_^*)

自分自身が存在の根拠であることに満足できないのは、

難しいからではありません。

われわれが現象世界のほうにより興味を持っているからです。

あるいはこの現象世界から切り離されるのが恐ろしいからです。

この恐ろしいということ自体は、

意識の中にしか居所のない“自分”としては

無理のないことだと思います。

だから、この世界に対する執着にひとつひとつ気づき

そのフックを外していくしかないわけです。

そしてあらゆる瞬間に現象に気を取られている状態から、

その現象を成立させている「私は在る」に

つまり存在感覚そのものに戻るしかできることはないわけです。

もちろん、それが起こることになっているならですが。(^_-)

Andreさんは、

> かといって、「永遠に存在する「私は在る」のレベル」を確信で
> きないのです。

とおっしゃっています。

これは、どういう意味でしょうか?

本当にそういうレベルが在るかどうかが確信できない、

という意味ですか? (?_?)

Andreさんは、自分が存在することに確信がないのでしょうか?

でも、Andreさんは、「自分は存在しない」とは言えませんよね。

もしそう言えば、そのこと自体が

そう言った者の存在を証明するでしょうから。

Andreさんが自分の存在に確信がないのでないかぎり、

「私は在る」のレベルが存在することは間違いありません。

もしかして、そのレベルが「永遠に存在する」ことに確信がない

という意味ですか?

もしその意味だとしたら、

それは「存在する」ということと「意識する」ということを

混同しているからではないでしょうか。

たとえば、われわれが眠っていて夢を見るとき、

もし夢を見ている最中に起こされたら、

いろいろな場面を体験しているのだと思います。

でも、通常は夢の内容などはほとんど覚えていなくて、

朝寝起きの夢の最後の断片を少し覚えている程度です。

それも、その場で記録でもしないかぎり

すぐに忘れてしまいます。

つまり、顕在意識は夢の内容などほとんど覚えていません。

でも、われわれは眠っていた間にも

自分が存在していたことを疑いません。

常在している実体がある瞬間、夢となり、

別の瞬間には空白であったとしても、

それはただ意識の内容としてそうであっただけで、

その空白の瞬間にも、

次の瞬間には夢として現れるものが存在していたことを

疑わないのではないでしょうか?

「永遠に存在する『私は在る』のレベル」とは、

その程度の意味でいいのではないかと思います。

つまり、何が言いたいかというと、

「永遠に存在する『私は在る』のレベル」に

確信が持てないからといって、

自分はダメだとかまだまだだなどと言う必要は

まったくないのでは、というだけです。(^^;)

そんなことはどうでもよくて、

自分が現象の方にのみ関心を持っていて、

そこで捏造されたか配給された観念のなかで苦しんでいること、

そして同時にその現象という夢の中で出口を探していること、

にも関わらず、その意識の場面のなかに

自分のダメさ加減の根拠まで探していることのほうが

よほど問題なのでは? (*^_^*)

まあ、勝手なことを言ってますが

> 精神的レベルのなかに真我を探し求めるのは不毛なことだ。

とマハラジがおっしゃってますから、

これ以上精神的レベルのなかにいろいろ求めるのは

やめてもいいのかもしれませんね。

> それともこれはデ・メロ師が言った「悟っても鬱」ということで
> しょうか。

デ・メロ師が言った「悟っても鬱」に関して

わたしは何も知らないのでコメントを遠慮します。

ただ、それが文字通りの鬱の意味なら、

そういうのも「悟っても」というのですか? (*^_^*)

> 何かマハラジが言ったことを見落としている気がします。
> もし気が付いたら教えてほしいのですが。

それと今ちょっと思ったのですが、

もしかして、Andreさんは

自分が気づいていると思っていらっしゃるかもしれない、

と思いました。

たしかに、Andreさんは気づいているのですが、

でもそれは、肉体精神機構としてのAndreさんが

気づきを所有しているということではありません。

永遠の常在である気づきのなかに

Andreさんの自分という想念が浮上しているのです。

ですから、ある意味では、

Andreさんは別に「永遠の『私は在る』のレベル」の

存在などは心配しなくてもいいということでもあります。

Andreさんのお手紙を拝見して、

そんなことを思いました。

われわれは何かといっては心配を紡いで

現象世界への執着の妥当性を証明するのが上手ですから、

お互い、【見かけ】のことは

適当にあしらえるようになるといいですね。

Andreさん、

ご質問などいただき、ありがとうございました。

(-||-)

──────────────────
 あなたは在る。
 ほかのすべては現れにすぎない。
 
 『私は在る』(p421) 
──────────────────

(-||-)

──────────────────
 永久的なもの、それはあなた自身の存在である。
 真我として在りなさい。
 それが至福である。
 あなたはいつもそれなのである。
 
 『あるがままに』(p58) 
──────────────────

……。(-_-)

ありがとうございました。<(_ _)>

(-||-)

今日はこんなところで。

……。

m(_ _)m


       ………○…………○…………○………


『私は在る』の「目次」はここ↓に置いてあります。
https://www.ascensionkan.com/books/I_AM_THAT-index.html

ときどき「ニサルガ辞書」で遊んでみてください。
https://www.ascensionkan.com/ndic/

新しい「ラマナ・マハルシ辞書」はここです。
https://www.ascensionkan.com/rdic/

おこがましくも『アセ通』既刊号はすべてここに置いてあります。
https://www.ascensionkan.com/mm/


       ………○…………○…………○………


▼『アセ通』への「私は在る」関連ご意見投稿フォーム:
http://www.formzu.net/fgen.ex?ID=P48750702
というのを作らせていただきました。(^^;)

「私は在る」に関するご意見・ご感想・シェアリング、または単な
るメールなど、ご自由にお書きいただければと思います。


       ………○…………○…………○………



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■ 2.いただいたお手紙から:KENさん
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▼『アセ通』への「私は在る」関連ご意見投稿フォーム:
http://www.formzu.net/fgen.ex?ID=P48750702
というのを作らせていただきました。(^^;)

「私は在る」に関するご意見・ご感想・シェアリング、または単な
るメールなど、ご自由にお書きいただければと思います。


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今回も、KENさんからご投稿をいただきました。

さっそく、ご紹介します。

【件名】:
──────────────────
 pariさんお疲れ様です。
 KENです。
 
 続けてですが、気づいたことをお話ししたいと思います。
 
 急にお願いしてもう一度その方に合っていただきました。
 話の中の質問で、目覚め、夢見、意識のない眠り、この中でも
 聖者といわれるものは、全てに気づいていると言われますが、
 あなたも完全な眠りにおいても気づいているのですか?
 
 こんな、質問をしました。
 その方の、返答は、正直言葉では、無理なものだが、しいてい
 うなら、完全なる眠りの状態が本当の私だと言われました。
 
 そこで、はっと気づいたのです。
 この方が言われているが本当ならなんと、いままで無駄なこと
 をしてきたのか。
 
 瞑想、思考観察、禁欲、食事制限、マインドフルネス、いい人
 でならなければいけない、頑張ればきっと、
 
 いつか、悟れる自分がいる。
 
 努力すれば、いつかは悟れる、マハルシやマハルジになれる
 
 一生なれないと気づきました。
 
 今まで、何百冊の本や動画を見てきて、理解していたつもりで
 したが、完全に的外れでした。
 
 いつか、全体性を感じる私がいると、思っていました。
 だから、マハラジの言葉も理解出来ていませんでした。
 
 目覚め、夢見、これを感じているのは、あきらかに個人として
 の私ですよね、完全なる眠りは、個人としての私がいない
 
 マハルシの、私とは誰かが悟りに一番の近道と言われるのも
 なっとくです。
 ショートカットですね。
 
 pariさんは、当然わかっておられると思いますが、何年も探
 求してきた者にとっては、凄い発見です。
 
 これだけでも、マインドの影響は半減します。
 
 あとは、マハラジがいう
 先週のアッセンション通信館のなかの
 
 > 世界は無数の輪(リング)でできている。
 > それに引っかける鉤(フック)はみなあなたのものだ。
 > あなたの鉤をまっすぐにしなさい。
 > そうすれば何もあなたを捕らえることはできないだろう。
 > あなたの耽溺を放棄しなさい。
 > ほかに何も放棄するものはない。
 > 常習的な利欲心、結果を探し求める習慣を止めなさい。
 > そうすれば自由の世界はあなたのものだ。
 > 
 > 『私は在る』(p259)
 
 フックを真っ直ぐにするだけです。
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KENさん、今回もご投稿ありがとうございます。

> pariさんお疲れ様です。
> KENです。
> 
> 続けてですが、気づいたことをお話ししたいと思います。

ありがとうございます。

> 急にお願いしてもう一度その方に合っていただきました。

おー、それはよかったですね。

> 話の中の質問で、目覚め、夢見、意識のない眠り、この中でも
> 聖者といわれるものは、全てに気づいていると言われますが、
> あなたも完全な眠りにおいても気づいているのですか?
> 
> こんな、質問をしました。

はい。

> その方の、返答は、正直言葉では、無理なものだが、しいてい
> うなら、完全なる眠りの状態が本当の私だと言われました。

そうでしたか。

そう伺ってホッとしますね。(^^;)

それならわれわれは全員、

毎晩悟っているわけですから。

> そこで、はっと気づいたのです。
> この方が言われているが本当ならなんと、いままで無駄なこと
> をしてきたのか。
> 
> 瞑想、思考観察、禁欲、食事制限、マインドフルネス、いい人
> でならなければいけない、頑張ればきっと、
> 
> いつか、悟れる自分がいる。
> 
> 努力すれば、いつかは悟れる、マハルシやマハルジになれる
> 
> 一生なれないと気づきました。

なるほど。

> 今まで、何百冊の本や動画を見てきて、理解していたつもりで
> したが、完全に的外れでした。
> 
> いつか、全体性を感じる私がいると、思っていました。
> だから、マハラジの言葉も理解出来ていませんでした。

そうでしたか。

> 目覚め、夢見、これを感じているのは、あきらかに個人として
> の私ですよね、完全なる眠りは、個人としての私がいない

ええ、その「個人としての私」が感じていると思って状態を

「夢を見ている」というのでしょうね。

それはただ、そういう【見かけ】

実在を覆っているそういう場面だということでしょうね。

> マハルシの、私とは誰かが悟りに一番の近道と言われるのも
> なっとくです。
> ショートカットですね。

一見、知的な問と思われる手法から出発して

まっすぐ私という想念の息の根を止めるところまでいくのでしょうか。

ま、こんなことを言葉で言ってみても。(*-_-*)

> pariさんは、当然わかっておられると思いますが、何年も探
> 求してきた者にとっては、凄い発見です。

よかったですね。

悟るというのは自分というのは存在しないと知ることですものね。

> これだけでも、マインドの影響は半減します。

ずいぶん荷物をおろしたんですね。

誤解の余地を完全に皆無にしておくために、

マハラジからの言葉も添えておきますね。

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 存在の静かな状態が至福なのだ。
 乱された状態が世界として現れる。
 非二元性のなかには至福がある。
 二元性のなかには体験がある。
 来ては去っていくのは苦痛と快楽の二元性の世界だ。
 至福とは知られるものではない。
 人はつねに至福なのだ。
 しかし、けっして至福に満ちているのではない。
 至福とはひとつの属性ではないのだ。(p124-125)

 『私は在る』(p421)
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(-||-)

> あとは、マハラジがいう
> 先週のアッセンション通信館のなかの
> 
> > 世界は無数の輪(リング)でできている。
> > それに引っかける鉤(フック)はみなあなたのものだ。
> > あなたの鉤をまっすぐにしなさい。
> > そうすれば何もあなたを捕らえることはできないだろう。
> > あなたの耽溺を放棄しなさい。
> > ほかに何も放棄するものはない。
> > 常習的な利欲心、結果を探し求める習慣を止めなさい。
> > そうすれば自由の世界はあなたのものだ。
> > 
> > 『私は在る』(p259)
> 
> フックを真っ直ぐにするだけです。

はい、お互いに自分の執着に気づいていきましょう。

よかったら、また夢のなかで、

ときどき投稿などしてください。(^人^)

m(_ _)m

       ………○…………○…………○………


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■ 3.編集後記:
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じつは、自分のコンピュータが起動できなくなって、

いま連れ合いのコンピュータを借りて書いています。

いろいろなデータが自分のディスクに入っているので、

キーボードも違うし、勝手も違うで、

ずいぶん時間がかかってしまいました。

明日は、修理に持っていくつもりですが、

直ってくれればいいがと願っています。

晩くなりました。

おやすみなさい。

<(_ _)>


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■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
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