home > 通信 >『アセンション館通信』第685号号:すべては自分にその原因がある



━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
  ☆☆   ☆☆ 
 ☆☆     ☆☆『アセンション館通信』2017/05/28(第685号)
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☆☆      ☆★ 【気刊】――「私は在る」に導かれ♪――
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 ☆☆   ☆☆          https://www.ascensionkan.com/
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇

このメルマガはアセンション館主人pariと称するあるパターンに
浮上している心象風景の報告です。

 苦痛から欲望が生まれ、苦痛のなかで欲望を満たそうとする。

 世界の根本原因は自己愛である。そのために私たちは快楽を探し
 求め、苦しみを避ける。自己愛を真我への愛に変えなさい。
 すると画面は変わってくる。(ニサルガダッタ)

内容は人畜無害、でも読む人は相当変わっていますね。現在864名
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◇◇ もくじ ◇◇

1.すべては自分にその原因がある

2.いただいたお手紙から:Andreさん

3.編集後記
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■ 1.すべては自分にその原因がある
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この週末もすばらしく晴れましたね。

いま庭の南端には相変わらず

白いマーガレットが咲き乱れていますが、

その群れのなかの三本のピンクの芍薬は

そろそろ終わりそうです。

「しかもかくのごとくなりといへども、

 花は愛惜(あいじゃく)にちり、
 
 草は棄嫌(きけん)におふるのみなり」

なんか道元さんの言葉は音がかっこいいですよね。

(*^_^*)

さて、またまた一週間が過ぎて、

楽しい“アセンション噺”ならぬ「私は在る」噺に、

お付き合いいただく今がやってまいりました。

『アセンション館通信』配達人の pari です。

昔、何故にすべては始まってしまったのか、と考えていたとき、

一瞬【すべては自分にその原因がある】のではないか、

という思いが閃いたことがありました。

毎晩、深夜になってから

一人住まいの部屋から出て

夜の街に散歩に出かけていた頃のことです。

つまり、それは

単純な“感情論理”とでもいうべきものの

一瞬の飛躍と結論だったわけです。

というのも、それ以外の結論は、

とても納得できるものではないと思われたからです。

もしこの世界を自分が創造したというのなら、

それならわかるけど……。

もしそういうことだったというのなら。

という思いが浮上したのです。

しかし、そんなことをいささかも信じたわけではありません。

そんなことはありえないけれども、

それならわかる、と一瞬思っただけです。

しかし、一瞬のこの感情的飛躍、

この“感情論理”の量子的飛躍は、

なにかヒヤッとするような、

不思議な論理的可能性を感じさせたことも事実です。

この世界の原因が自分にあるなど、

もちろん、ありえない話です。

挫折に喘ぐ若者に理解できるような話ではない。

そんな荒唐無稽を信じられる若者などいるでしょうか?

ただ、追い詰められていただけです。

自分でもそれがわかっていたし、

それが事実でした。

ヒンドゥー教徒がいうところのイーシュワラ神、

創造の全体は多様多彩なパターンを分泌して

飽きることがありません。

pariパターンもそんな創造全体の微小部分でした。

まだ精神世界というようなものが流行りだす前のことで、

現象世界の全責任が自分にあるというような観念に

それまで出会ったことはありませんでした。

【すべては自分にその原因がある】のではないか、

というような観念が閃いたそれが最初でした。

その後もう一度、

【すべては自分にその原因がある】のではないか

という観念が近づいてきたことがありました。

Oshoがボディを離れて、

OSHOの本を書きたいと思っていた頃のことです。

本の全体がだいたいできあがって、

まあ、こんな感じかな、と思っていた頃、

あるとき、あるイメージが湧いてきたのです。

一瞬、自分でも、なにか途方もない真理が

降りてきたような気がしたものです。

それを形にしたのが1994年に刊行された

『21世紀への指導原理―OSHO』のなかの
http://p.tl/IDtx

「お伽話:大歓喜自在童子」(1)(2)(3)という挿話です。
https://www.ascensionkan.com/work/douji-1.html
https://www.ascensionkan.com/work/douji-2.html
https://www.ascensionkan.com/work/douji-3.html

まあ、哲学とは言えないので文学、

文学とも言えないのでお伽噺といったような代物です。

いま思うに、その内実はと言えば、

マインドの想像に映し出された

実在の遠い反響といったようなものでしょうか。

元々言葉にはならないものを

強引に言葉に写し取ったようなものですから、

そこでは大歓喜自在童子という自在無碍の化身が

自らを多数の顕現に明け渡すという物語が語られます。

とはいえ、実際は

大歓喜自在童子以外には誰もいないわけですから、

大歓喜自在童子がいろいろな目くらましのなかに

自らを封印するという物語でもあるわけです。

いわゆるサニヤシンになった当時は、

英語で語られたOshoの言葉から

Oshoの革命家的側面のみを多く伝えられていたので、

ヒンドゥー教の伝統的教えは具体的には何も知りませんでした。

ましてやサニヤシンになりたての頭には

1982年に発売された

『ラマナ・マハリシの教え』(山尾三省訳)は
http://tinyurl.com/2cs6x7y

まったくチンプンカンプンでわかりませんでした。

もちろん、文字面は読めるわけですが、

二度読む気にならなかったという意味です。

そして三度目の正直で、

【すべては自分にその原因がある】という

ヒンドゥー教の本体からの訪問を受けたのが、

2005年に友人ナンダンから貰い受けた

ニサルガダッタの『私は在る』です。

この本も、ある意味では

『ラマナ・マハリシの教え』と同じように

わからなかったにも関わらず、

すべての言葉が自分の“感情論理”に正中しました。

はじめて、自分が聞きたかった問いに

真正面から答えてくれる言葉に出会ったのです。

出会ったのですが……、(^^;)

あまりに容赦なくまともに答えてくれるものだから、

なんとも、誤魔化しようがなくなった。

なので、いまだにこうして、

誤魔化すにも誤魔化せない駄文を書いて、

油を売っているというわけです。

まあ、基本的に問題はないわけです。(^^;)

問題は、すべて

想像のなかでわたしがでっち上げたものですから。

わたしがその想像上の問題に執着しなければ、

わたし以外にわたしの問題を気にかける者など

本当は誰もいないのわけす。

でも世の中は、その想像上の問題を

互いに共有しあい、賞賛し合いましょう、

という暗黙の合意から成り立っている。

そして、なぜ世界はこんなに残酷なのかと

嘆きあうことから成り立っているわけです。

そこに、こんなことを言う人が出てきたら、

あなた、どう思います?(*^_^*)

──────────────────
 この残酷な世界が
 誰にとって現れるのかを見いだしなさい。
 そうすれば、
 なぜそのように残酷に現れるのかを知るだろう。
 あなたの質問は完全に正当なものだ。
 しかし、
 それが誰にとっての世界なのかをあなたが知るまでは、
 それに答えることはできないのだ。
 あるものの意味を見いだしたいのなら、
 あなたはつくり出した人に尋ねなければならない。
 だから言っているのだ。
 あなたが住んでいるこの世界を
 つくり出した人はあなたなのだ。
 あなただけがそれを変え、
 あるいはつくり変えることができるのだ。

 『私は在る』(p398)
──────────────────

(*@_@*)

> あなたが住んでいるこの世界を
> つくり出した人はあなたなのだ。

しかも自分の何処かが

実際はこれが本当のことだと知っているとしたら。

あとはただ、自分の執着だけです。(^^;)

だから、マハラジの言葉はとても単純ともいえます。

でも、もし、

このマハラジの言葉に納得がいかず、

こう反問したとします。

どうして私が世界をつくったなどと言えるのですか?

私はそんなこと、知りもしないのに、と。
 
──────────────────
 あなたがあなた自身を知るとき、
 世界のなかであなたに知ることができないものは
 何ひとつなくなるのだ。
 あなた自身を身体と考えることで、
 あなたは世界を物質的なものの
 集合だと見なしてしまう。
 あなた自身を意識の中心として知るとき、
 世界はマインドの大海として現れる。
 実在の中のあるがままの自分自身を知るとき、
 あなたは世界をあなた自身として知るのだ。

 『私は在る』(p398)
──────────────────

> あなた自身を身体と考えることで、
> あなたは世界を物質的なものの
> 集合だと見なしてしまう。

たしかに、それは認めないわけにはいかない。

> あなた自身を意識の中心として知るとき、
> 世界はマインドの大海として現れる。

そういうことなのか。(-_-;)

> 実在の中のあるがままの自分自身を知るとき、
> あなたは世界をあなた自身として知るのだ。

(-||-)

でも、もちろん、あなたは、

こんな言葉はただのお題目だと聞くかもしれない。

そして、こんなふうに反問するかもしれません。

「あなたの言われることは非常にすばらしく聞こえます。
 しかし、私の質問に答えてはいません。
 どうして世界にはそれほどたくさんの不幸があるので
 しょうか?」

マハラジの回答はじつに端的です。

──────────────────
 もしあなたがただ観察者として超然として離れて在れば、
 苦しむことはないのだ。
 あなたは世界をショーとして見るだろう。
 実に、最高のショーだ。

 『私は在る』(p421)
──────────────────

これ、あなたにはどう聞こえますか?

たしかに、いわゆる“他人”のことだったら

このとおりではないでしょうか。

いわゆる“自分”のことの場合にだけ、

観察者として超然と離れていられないだけです。

だからこそ、

身体との自己同一化を解除する必要があるわけです。

わたしはもう、そんな幸運は望めないので、

諦めるしかないですが。(*^_^*)

諦めるくらいは、

無理にこちらからしなくても、

向こうから襲ってきてくれるので。(^_-)

この質問者の場合は、このマハラジの言葉を聞いて、

こんなふうに反応しました。

「何ということでしょう!
 このリーラ(神の戯れ)の理論は受け入れられません。
 苦しみはあまりにも深刻で、あまねく存在しているのです。
 不幸の悲惨な光景で楽しむなど何という倒錯でしょうか!
 何という残酷な神をあなたは差し出すのでしょう!」と。

マハラジは、その彼にこう答えます。
 
──────────────────
 不幸の原因は
 知覚する者と知覚されるものとの同一化にあるのだ。
 それから欲望が生まれ、
 欲望とともに盲目的行為、
 結果への無頓着が続くのだ。
 まわりを見まわしてみなさい。
 不幸は人間のつくり出したものだということを知るだろう。

 『私は在る』(p421)
──────────────────

> 不幸の原因は
> 知覚する者と知覚されるものとの同一化にあるのだ。

この【知覚する者と知覚されるものとの同一化】を

【無知】とか【無明】とかいうわけですよね。

要するに、

真我のなかで起こっている

ホログラムパターンが、

自前で存在しているという誤解が起こっているわけです。

> それから欲望が生まれ、
> 欲望とともに盲目的行為、
> 結果への無頓着が続くのだ。

このホログラムパターンの誤解が

欲望を生み、

やみくもな結果追求へと走り出すわけです。

> まわりを見まわしてみなさい。
> 不幸は人間のつくり出したものだということを知るだろう。

【不幸は人間のつくり出したもの】

これは、わかりますよねぇ。(-_-)

すべての価値、すべての意味は、

意識のなかにあるもの、

ホログラムのなかのあれこれのパターンを

比較考量することから想像されたものです。

しかし、ここでこの質問者は粘ってくれました。

もちろん、こんなマハラジの話に初めて出会ったら

誰だってそうすんなりとは納得できないはずです。

「もし人間が彼自身の不幸をつくり出しているのなら、
 私もあなたに賛成するでしょう。
 しかし、彼自身の愚行から他者まで苦しめるのです。
 夢見る人は個人的な悪夢のなかで、
 ほかでもない自分ひとりが苦しむだけです。
 しかし、他人の人生まで破壊するとは、
 いったいどんな類の夢でしょうか?」

これ、普通に言えば至極もっともな意見です。
 
こういう問に、マハラジはどう答えるのか?

──────────────────
 解説は数多く、矛盾しあっている。
 実在はシンプルだ。
 すべてはひとつなのだ。
 調和が永遠の法則であり、
 誰も苦しむように強いられてはいない。
 ただあなたが解説し、
 説明しようと試みるとき、
 言葉はあなたを失望させるのだ。

 『私は在る』(p399)
──────────────────

【すべてはひとつなのだ】

ああ……。(-_-)

> 解説は数多く、矛盾しあっている。

たしかに。

> 実在はシンプルだ。

(*-_-*)

> すべてはひとつなのだ。

そうか……。(-_-)

> 調和が永遠の法則であり、
> 誰も苦しむように強いられてはいない。

わかりました。

> ただあなたが解説し、
> 説明しようと試みるとき、
> 言葉はあなたを失望させるのだ。

おっしゃるとおりです。

(-||-)

ところで、この質問者は

たまたま飛び入りでマハラジの前にいるわけではなさそうです。

なぜなら、続いてこんなふうに反問しているからです。

「一度、マハートマ・ガンディーが、
 『真我は非暴力の法則(アヒンサー)に縛られてはいない。
  真我はその表現に、
  それを正すために苦しみを負わせる自由をもっている』
 と私に言ったのを覚えています」

もしかして、この質問者は

テープを翻訳して『私は在る』を編集した

モーリス・フリードマンその人ではないでしょうか。

マハラジはこの質問に次のように答えます。

──────────────────
 二元性のレベルにおいてはそうかもしれない。
 だが、実在のなかには、それ自体は暗いが、
 すべてを輝かす源があるだけだ。
 知覚されないが、
 それは知覚を引き起こす原因であり、
 感じられないが、感覚をひき起こす原因だ。
 非存在でありながら、それは存在に感情を与える。
 それは動きの不動なる背景なのだ。
 ひとたびあなたがそこに在るなら、
 どこにいようと我が家のように感じることだろう。

 『私は在る』(p399)
──────────────────

こういう話、マハラジからなら

安心して聞くことができます。

以下の問は、おそらくモーリス・フリードマンが

われわれのために聞いてくれたのでしょう。

──────────────────
 質問者 もし私がそれであるのならば、
     私が生まれてきた原因は何なのでしょうか?
 
 マハラジ
 過去において満たされなかった欲望が
 エネルギーをふさぎ止め、
 それが個人として現れる。
 その蓄積されたエネルギーが使い果たされたとき、
 個人は死ぬのだ。
 満たされなかった欲望は
 次の誕生のなかへと運ばれていく。
 身体との自己同一化は、
 つねに新しい欲望をつくりつづけ、
 その束縛の構造が明確に理解されるまで、
 それに終わりはないのだ。
 解放をもたらすのは明晰性だ。
 なぜなら、
 その原因と結果が明確に理解されるまで、
 欲望を放棄することはできないからだ。
 それは死ぬ。
 そして永遠に死ぬのだ。
 だが、その記憶は残る。
 そしてそれらの欲望と恐れも。
 それらが新しい個人にエネルギーを供給するのだ。
 実在は、それにはまったく関わらない。
 だが、それに光を与えることでそれを可能にするのだ。

 『私は在る』(p399)
──────────────────

(-||-)

> 質問者 もし私がそれであるのならば、
>     私が生まれてきた原因は何なのでしょうか?

はい。

> マハラジ
> 過去において満たされなかった欲望が
> エネルギーをふさぎ止め、
> それが個人として現れる。

過去に満たされなかった欲望が個人として現れる。

> その蓄積されたエネルギーが使い果たされたとき、
> 個人は死ぬのだ。

そのエネルギーが使い果たされたら個人は死ぬ。

> 満たされなかった欲望は
> 次の誕生のなかへと運ばれていく。

不満足な欲望は次の誕生に流れ込む。

> 身体との自己同一化は、
> つねに新しい欲望をつくりつづけ、
> その束縛の構造が明確に理解されるまで、
> それに終わりはないのだ。

束縛の構造が明確に理解されるまで、

身体との自己同一化は

つねに新しい欲望をつくりつづける。

その欲望に自己同化しつづけるかぎり

その欲望は新たな欲望を再生産しつづける。

> 解放をもたらすのは明晰性だ。

【解放をもたらすのは明晰性だ】

> なぜなら、
> その原因と結果が明確に理解されるまで、
> 欲望を放棄することはできないからだ。

【その原因と結果が明確に理解されるまで】

> それは死ぬ。
> そして永遠に死ぬのだ。

その原因と結果が明確に理解されたら、

欲望との自己同化は永遠に死ぬ……の意味か?

> だが、その記憶は残る。

ほお。

> そしてそれらの欲望と恐れも。

欲望と恐れは現象構造体の部品なのだろう。

> それらが新しい個人にエネルギーを供給するのだ。

そうか、テレビ番組は放映されつづける。

それに興味を持つ新しい個人も生まれつづける。

> 実在は、それにはまったく関わらない。

そうか。

> だが、それに光を与えることでそれを可能にするのだ。

わかりました。

(-||-)

──────────────────
 あなたは在る。
 ほかのすべては現れにすぎない。
 
 『私は在る』(p421) 
──────────────────

(-||-)

──────────────────
 永久的なもの、それはあなた自身の存在である。
 真我として在りなさい。
 それが至福である。
 あなたはいつもそれなのである。
 
 『あるがままに』(p58) 
──────────────────

……。(-_-)

ありがとうございました。<(_ _)>

(-||-)

今日はこんなところで。

……。

m(_ _)m


       ………○…………○…………○………


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るメールなど、ご自由にお書きいただければと思います。


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■ 2.いただいたお手紙から:Andreさん
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というのを作らせていただきました。(^^;)

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るメールなど、ご自由にお書きいただければと思います。


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今回、Andreさんから個人メールのお礼をいただきました。

ここに掲載する許可を得ましたので、

さっそく、ご紹介します。

【件名】:ありがとうございました。
──────────────────
 ありがとうございました。
 予想していた以上のアドヴァイスをいただきました。
 いただいたお手紙はこれから何度も読んでみますが、
 すぐにお礼が言いたくてメールを差し上げました。 
 
 それにしてもマハラジはなんて優しいのでしょう。
 読んでいた一瞬、 マハラジとPariさんとわたしが時空を超えて
 繋がったような気 がしました。
 ホントにちょっとウルッと来ましたよ。
 
 実はわたしは絵を描いています。
 
 絵描きにとって、目の前の自然、一輪の花の美しさ、
 この北の春の狂おしいほどの美しさが、幻想だ、実在ではない、
 と言われたら、そしてその儚さが虚無に見えてきたら、
 これは実に問題なのです。  
 
 エックハルト・トールは「ニューアース」 の冒頭にこう書いて
 います。
 
 「花に美を見出すことを通じて、人類はほんの束の間であれ、
  自分の最も内なる存在の核心にある美や本質に目覚めるのでは
  ないか。
  美というものの最初の認識は人類の意識の進化にとって最も重
  要な出来事の一つだった。」

 わたしは「この世界はホンモノだ!! 世界は美しい!」
 と言いたかったのです。 
 
 > 自分自身が存在の根拠であることに満足できないのは、 
 > 難しいからではありません。
 > われわれが現象世界のほうにより興味を持っているからです。
 > あるいはこの現象世界から切り離されるのが恐ろしいからです。

 まったくその通り。
 今まで徹底的に現象世界に美を求めてきたのですから。
 それが生きがいだったのですから。
 ですから幻想世界に束の間に現象する「美」が
 「自分の最も内なる存在の核心=(つまり「わたしは在る」) に
 よって虚無というスクリーンに映し出していると言ってはいけな
 いのでしょうか?
 プラトンの洞窟の譬えのように我々は影しか見えていなくても、
 影は必ず実在を映し出しているのです。
──────────────────

Andreさん、掲載にご許可いただき、

ありがとうございました。m(_ _)m

> ありがとうございました。
> 予想していた以上のアドヴァイスをいただきました。
> いただいたお手紙はこれから何度も読んでみますが、
> すぐにお礼が言いたくてメールを差し上げました。 

お役に立てたのなら嬉しいです。
> 
> それにしてもマハラジはなんて優しいのでしょう。
> 読んでいた一瞬、 マハラジとPariさんとわたしが時空を超えて
> 繋がったような気 がしました。
> ホントにちょっとウルッと来ましたよ。

(^^)/

> 実はわたしは絵を描いています。

画家の方だったんですね。(@_@)

じつはわたしも子供のころ絵が好きで

画家になりたいと思っていた時期がありました。

> 絵描きにとって、目の前の自然、一輪の花の美しさ、
> この北の春の狂おしいほどの美しさが、幻想だ、実在ではない、
> と言われたら、そしてその儚さが虚無に見えてきたら、
> これは実に問題なのです。

それはわかります。

> エックハルト・トールは「ニューアース」 の冒頭にこう書いて
> います。
> 
> 「花に美を見出すことを通じて、人類はほんの束の間であれ、
>  自分の最も内なる存在の核心にある美や本質に目覚めるのでは
>  ないか。
>  美というものの最初の認識は人類の意識の進化にとって最も重
>  要な出来事の一つだった。」

エックハルト・トールという方は

こういうポジティブなイメージで話しをする方ですよね。

> わたしは「この世界はホンモノだ!! 世界は美しい!」
> と言いたかったのです。 

画家の方なら、当然ですよね。

> > 自分自身が存在の根拠であることに満足できないのは、 
> > 難しいからではありません。
> > われわれが現象世界のほうにより興味を持っているからです。
> > あるいはこの現象世界から切り離されるのが恐ろしいからです。
> まったくその通り。
> 今まで徹底的に現象世界に美を求めてきたのですから。
> それが生きがいだったのですから。

はい。

> ですから幻想世界に束の間に現象する「美」が
> 「自分の最も内なる存在の核心=(つまり「わたしは在る」) に
> よって虚無というスクリーンに映し出していると言ってはいけな
> いのでしょうか?

そういう表現の仕方もあるでしょうね。

いいとかいけないとか、そういうことはいっさいなくて、

ただこうして森羅万象があるなかに、

その一部としてわれわれ登場人物も現象しているわけでしょうね。

起こることはすべて自然現象として起こっていると思います。

> プラトンの洞窟の譬えのように我々は影しか見えていなくても、
> 影は必ず実在を映し出しているのです。

こんなマハラジの言葉があります。

──────────────────
 「何も私ではない」が第一段階だ。
 「すべてが私だ」がつぎの段階だ。
 そのどちらも「そこに世界が存在する」
 という観念にかかっている。
 この観念もまた放棄されたとき、
 あなたはあるがままの
 非二元性のあなたとして残る。
 今ここで、あなたはそれなのだ。
 だが、あなたの視野は
 自己に関する偽りの観念によって
 妨げられているのだ。
 
 『私は在る』(p537)
──────────────────

これは、かならずしも

誰もがたどるプロセスではなさそうですが、

わたしにはとても納得のいく三段階です。

まあ、わたしの場合は

第一段階が知的に理解できている

というのが実際の状況です。(^^;)

Andreさんが画家だということで思い出しましたが、

「resonanz360.com」のヒロさんが訳された

『わかっちゃった人たち』(http://p.tl/fDrs)

という本があります。

この本の「第4章 まったくの自由、まったくの無秩序」は

分離幻想が解除された画家のインタビューです。

Andreさんがお読みになると、もしかしたら、

なにかヒントになることがあるかもしれませんね。

画家の方が現象世界の美を求めるとしたら、

わたしのような哲学頭は

現象世界にいわば意味とか真理を求めたわけです。

まあ、そういう意味では、

わたしにとっては、

現象世界構造体はすべて自然現象になったということです。

Andreさん、気が向いたら、

よろしければ今度はつぎのフォームから
http://www.formzu.net/fgen.ex?ID=P48750702

ご投稿いただけたらうれしいです。

ありがとうございました。

m(_ _)m

       ………○…………○…………○………


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http://www.formzu.net/fgen.ex?ID=P87119518


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■ 3.編集後記:
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コンピュータが直りました。

ただ成り行きに押しまくられて生きていますが、

ということは抵抗している者がいるという

幻想があるということですね。(*^_^*)

今日も晩くなりました。

おやすみなさい。

<(_ _)>


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■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
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