home > 通信 >『アセンション館通信』第687号:あなたに確信がないのは



━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
  ☆☆   ☆☆ 
 ☆☆     ☆☆『アセンション館通信』2017/06/11(第687号)
☆☆   ☆   ☆☆
☆☆      ☆★ 【気刊】――「私は在る」に導かれ♪――
-☆☆---------☆☆------------------------------------------
 ☆☆   ☆☆          https://www.ascensionkan.com/
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇

このメルマガはアセンション館主人pariと称するあるパターンに
浮上している心象風景の報告です。

 苦痛から欲望が生まれ、苦痛のなかで欲望を満たそうとする。

 世界の根本原因は自己愛である。そのために私たちは快楽を探し
 求め、苦しみを避ける。自己愛を真我への愛に変えなさい。
 すると画面は変わってくる。(ニサルガダッタ)

内容は人畜無害、でも読む人は相当変わっていますね。現在863名
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◇◇ もくじ ◇◇

1.あなたに確信がないのは

2.いただいたお手紙から:andreさん

3.編集後記
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■ 1.あなたに確信がないのは
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暑くなりましたね。

でも、「私は在る」。

(*^_^*)

さて、またまた一週間が過ぎて、

楽しい“アセンション噺”ならぬ「私は在る」噺に、

お付き合いいただく今がやってまいりました。

『アセンション館通信』配達人の pari です。

意識にのぼっているある気分があります。

この気分はすぐ自分になります。

はっきり自分を意識していな瞬間は。

わたしなどの場合は、

ほとんど四六時中、この気分が自分になっています。

そしてあたかも何か問題があるかのように、

一生懸命、何かを考えていたりする。

そのとき浮上している気分が

自分になっているわけです。

でも、気づかれている気分が

自分であることはありえない。

なぜなら、自分とは

その気分に気づいているものだから。

その気分に気づいているものは

その気分ではありえません。

その気分はその気分を表現する表現媒体であって、

その気分として現象することで手が一杯で

その気分に気づくことなどできません。

でもわたしの場合は、

そんなことを思い出すのは一週間にいちど、

このメルマガを書くために

コンピュータに向かう今だけなのです。(*^_^*)

そんな状態の自覚としては人間存在が

人様にこんな分不相応のメルマガなど書くのはやめて、

まずは四六時中それに気づくことからはじめてはどうか?

と、わたしなどでも思います。

そうかもしれません。

そういうことがまだ起こらないので

それが起こる準備にこんなものを書いているのか……。

いずれにしろ、自然現象だと思っています。

この自然現象という言葉は

とても便利な言葉ではあるけれど、

使いようによっては

苦しみを長引かせるほうに機能するかもしれません。

このメルマガで書いているすべてが

苦しみの表現です。

苦しみの表現という言葉がピンとこなければ、

分離感ゆえに起こっている分離感の表現ということです。

分離感とは、何かとして顕れているものが

自前で存在していると誤解することです。

でも、実際は、

何かとして顕れているものはすべて、

認識されることによって現象しています。

何者が認識しているのか?

それがわたしです。

わたししか実在していないわけですから。

真我と言ってもいいし、実在と言ってもいい。

実際は、存在するのはそれだけです。

現象しているものはすべて、

実在ゆえに知覚可能となった

【見かけ】のなかの様々なレベルの自己存在という誤解です。

無知が存在していないと言われるのはそのためです。

──────────────────
 無知も幻想も、
 けっしてあなたには起こらなかったのだ。
 あなたが無知と幻想をもつと見なす、
 その自己を見いだしなさい。
 そうすればあなたの質問は答えられるだろう。
 あなたはあたかも自己を知っているかのように話し、
 それが無知と幻想に揺り動かされているかのように見ている。
 だが実際には、あなたは自己を知らず、
 己の無知にも気づいていないのだ。
 気づきなさい。
 これがあなたを自己へと連れていくだろう。
 そうすればあなたは
 無知も妄想もなかったことを認識するだろう。
 それは、
 「光あるところ、いかにして闇あらん」
 という格言のようなものだ。
 どんなに日の光が強くとも、
 石の下には影ができるように、
 「私は身体だ」という意識の影のなかには、
 無知と幻想がかならず現れるのだ。
 
 『私は在る』(p361-362)
──────────────────

> 無知も幻想も、
> けっしてあなたには起こらなかったのだ。

わたし自身はけっして

現象する自己存在という誤解に染まることはありません。

いかなる知覚対象にも自己同一化しないものがわたしですから。

自己存在という誤解に染まったとたん、

それはつかの間の現れ(=表現)として【見かけ】の一部になり、

つかの間の現れに気づいているものの座から落ちている。

> あなたが無知と幻想をもつと見なす、
> その自己を見いだしなさい。

知覚の対象と自己同一化していることに気づくしかない。

四六時中気づいているようになるしかない。

> そうすればあなたの質問は答えられるだろう。

少なくとも、

すべての現れがわたしではないことを知るだろう。

> あなたはあたかも自己を知っているかのように話し、
> それが無知と幻想に揺り動かされているかのように見ている。

それはつかの間の現れへの自己同一化でしかなく、

ただの【見かけ】の一部にすぎない。

> だが実際には、あなたは自己を知らず、
> 己の無知にも気づいていないのだ。

あなたはただ、【見かけ】の一部を自分と勘違いした

その無知に気づいていないだけなのだ。

> 気づきなさい。

いま浮かんでいる気分が

ただの知覚の対象物にすぎず

【見かけ】のなかのつかの間の現れにすぎないことを

知りなさい。

> これがあなたを自己へと連れていくだろう。

それをやりつづけるしかない。

> そうすればあなたは
> 無知も妄想もなかったことを認識するだろう。

そうすればあなたは、

どんなつかの間の現れにも自己同化しない位置が

存在することを知るだろう。

> それは、
> 「光あるところ、いかにして闇あらん」
> という格言のようなものだ。

いかなる光景も

夢の一部だと知っているのだから、

そこにどんな夢以外のものがありうるだろうか。

> どんなに日の光が強くとも、
> 石の下には影ができるように、
> 「私は身体だ」という意識の影のなかには、
> 無知と幻想がかならず現れるのだ。

現れのなかに自分がいるかぎり、

浮上する気分が自分だという誤解が起こるかぎり、

無知と幻想に自己同化するのは避けられない。

──────────────────
 ひとたびあなたが知覚可能、想像可能なものは
 あなた自身ではありえないと理解するならば、
 あなたはあなたの想像から自由になる。
 すべてを欲望から生まれた想像だと見ることは、
 真我の実現に必要不可欠なのだ。

 『私は在る』(p507)
──────────────────

> ひとたびあなたが知覚可能、想像可能なものは
> あなた自身ではありえないと理解するならば、
> あなたはあなたの想像から自由になる。

あなたはもう、

つかの間の現れのなかに苦闘の種を探す必要はないのだ。

> すべてを欲望から生まれた想像だと見ることは、
> 真我の実現に必要不可欠なのだ。

すべての現れは

欲望から生まれた想像でしかありえず、

けっして安らぎに至ることのない

【見かけ】のなかの一瞬の光景にすぎない。

──────────────────
 あなたが知覚可能、
 想像可能なものは何ひとつあなたではありえず、
 何であれ、意識の領域に現れるものは
 自己ではないとひとたび理解したなら、
 より深い自己実現への唯一の方法として、
 すべての自己同一化を断ち切ることだろう。
 否定することによって、文字どおりあなたは、
 まさにロケットのように進歩するのだ。
 あなたが身体のなかにもマインドのなかにも存在せず、
 しかもその両方に気づいていると知ることは、
 すでに自己知識なのだ。

 『私は在る』(p537)
──────────────────

> あなたが知覚可能、
> 想像可能なものは何ひとつあなたではありえず、
> 何であれ、意識の領域に現れるものは
> 自己ではないとひとたび理解したなら、

理解したと思っています。

それともまだ理解していないのか。(-_-)

> より深い自己実現への唯一の方法として、
> すべての自己同一化を断ち切ることだろう。

すべての自己同一化を断ち切ることに邁進していないのなら

要は、それだけの理解だったということか。

> 否定することによって、文字どおりあなたは、
> まさにロケットのように進歩するのだ。

ロケットのように進歩していない以上、

まだ理解していないのかもしれません。

> あなたが身体のなかにもマインドのなかにも存在せず、
> しかもその両方に気づいていると知ることは、
> すでに自己知識なのだ。

はい。

その自己知識はあるのに、

それがまだ生きられていないのか……。

──────────────────
 あなたに確信がないのは、
 体験にばかり注意を払って、
 けっして自分自身に注意を払わなかったからだ。
 すべての体験を超え、
 あなた自身に興味をもちなさい。
 あなた自身とともに在りなさい。
 あなた自身を愛しなさい。
 究極の安全は自己知識のなかにだけ見いだすことができる。
 重要なのは誠実さだ。
 自分自身に正直でありなさい。
 そうすれば、何もあなたを裏切ることはない。
 美徳や力は、子どもが遊ぶための
 ただのおもちゃのコインにすぎない。
 世界のなかでは、それらは有用だ。
 だが、あなたをそれから連れだしはしない。
 その彼方へと行くには不動の油断のなさ、
 平静な注意力が必要だ。

 『私は在る』(p235)
──────────────────

> あなたに確信がないのは、
> 体験にばかり注意を払って、
> けっして自分自身に注意を払わなかったからだ。

おっしゃるとおりです。(-_-;)

> すべての体験を超え、
> あなた自身に興味をもちなさい。

ああ、それが足りないのです。

> あなた自身とともに在りなさい。
> あなた自身を愛しなさい。

それが決定的に足りないのです。

> 究極の安全は自己知識のなかにだけ見いだすことができる。

わかります。

> 重要なのは誠実さだ。

【誠実さ】……。

> 自分自身に正直でありなさい。

真我である自分に誠実であること。

> そうすれば、何もあなたを裏切ることはない。

(-||-)

> 美徳や力は、子どもが遊ぶための
> ただのおもちゃのコインにすぎない。

はい。

> 世界のなかでは、それらは有用だ。

わかります。

> だが、あなたをそれから連れだしはしない。

間違いなく。

> その彼方へと行くには不動の油断のなさ、
> 平静な注意力が必要だ。

【不動の油断のなさ】【平静な注意力】、

どちらも決定的に足りません。(*-_-*)

──────────────────
 誠実さとは、努力の結果を熱望することではない。
 それは偽り、非本質的、
 個人的なものから興味をそらし、
 内なる移行をすることの表現なのだ。

 『私は在る』(p474)
──────────────────

> 誠実さとは、努力の結果を熱望することではない。

はい。

> それは偽り、非本質的、
> 個人的なものから興味をそらし、
> 内なる移行をすることの表現なのだ。

【見かけ】の目くらましのなかの、

非本質的、個人的なものものから興味をそらし、

内なる移行をすること……。

すべての現れがつかの間の光景にすぎない以上

それにどれ程のエネルギーを注いだところで。(-_-)

(-||-)

──────────────────
 あなたは在る。
 ほかのすべては現れにすぎない。
 
 『私は在る』(p421) 
──────────────────

(-||-)

──────────────────
 永久的なもの、それはあなた自身の存在である。
 真我として在りなさい。
 それが至福である。
 あなたはいつもそれなのである。
 
 『あるがままに』(p58) 
──────────────────

……。(-_-)

ありがとうございました。<(_ _)>

(-||-)

今日はこんなところで。

……。

m(_ _)m


       ………○…………○…………○………


『私は在る』の「目次」はここ↓に置いてあります。
https://www.ascensionkan.com/books/I_AM_THAT-index.html

ときどき「ニサルガ辞書」で遊んでみてください。
https://www.ascensionkan.com/ndic/

新しい「ラマナ・マハルシ辞書」はここです。
https://www.ascensionkan.com/rdic/

おこがましくも『アセ通』既刊号はすべてここに置いてあります。
https://www.ascensionkan.com/mm/


       ………○…………○…………○………


▼『アセ通』への「私は在る」関連ご意見投稿フォーム:
http://www.formzu.net/fgen.ex?ID=P48750702
というのを作らせていただきました。(^^;)

「私は在る」に関するご意見・ご感想・シェアリング、または単な
るメールなど、ご自由にお書きいただければと思います。


       ………○…………○…………○………



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■ 2.いただいたお手紙から:andreさん
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▼『アセ通』への「私は在る」関連ご意見投稿フォーム:
http://www.formzu.net/fgen.ex?ID=P48750702
というのを作らせていただきました。(^^;)

「私は在る」に関するご意見・ご感想・シェアリング、または単な
るメールなど、ご自由にお書きいただければと思います。


       ………○…………○…………○………

今回も、andreさんからご投稿をいただきました。

さっそく、ご紹介します。

【件名】:我々は電気釜と同じか?
──────────────────
 もうここらへんで、おとなしくしていようかと思ったのですが、
 Pariさんのお返事が刺激的でまた書いてしまいました。
 
 Pariさんの言葉を読んだら、老子の「無為自然」のことを言って
 いるのではないかと思いました。 違っていたら教えてくださ
 い。(その方が興味深い。)
 
 道は常に無為にして、而も為さざる無し。
  (道はいつでも何事も為さないでいて、しかもすべてのことを
 為している。)
 
 蜂屋という大学の先生の解説では、
 >「作為的なことはなにもしていないのに、すべてを為してい
 る」とは、どういう状態か。天地を例にして考えてみると、天や
 地は意思をもたないから常に「無為」の状態といえますが、無為
 でありながらも、その働きは常にこの世界全体に行きわたってい
 ます。季節はめぐり、太陽は大地を照らし、雲は雨を降らし、大
 地の上では植物や虫や動物がそれらの恩恵を受けて育っていく。
 つまり「なにかをしようとわざわざ考えずとも、天地はすべての
 ことを為している」ということになるわけです。
 
 電気釜は思考を整理する上で、とてもいい譬えですね。
 
 電気釜は意思を持ちません。 だから「無為」かと言えば、明ら
 かに電気釜の設計者の意思が反映されています。 電気釜には目
 的があります。 簡単においしいご飯を炊ける道具という目的で
 す。 ロボットというのも、何らかの目的によって人間に作られ
 たものです。 ロボットも電気釜も役に立たなくなったら廃棄さ
 れます。 道具として電気釜やロボットに自我がないという点で
 は「無為」でしょう。  一方、バイオロボットである我々には
 電気釜と同じように目的があるでしょうか。 「真我の実現」が
 その目的なんでしょうか。
 
 我々にも電気釜と同じく、設計者がいてなんらかの意思が反映さ
 れているのでしょうか。 そしてこの本来の意思が、「自然」で
 あり、我々が個々に存在するという幻想がこの「自然」に余計な
 意思の上塗りをするから「不自然」になるのでしょうか。
 
 それでは前述の天や地はどうでしょうか。 天や地にも目的があ
 るのでしょうか。  天地に目的があるなんてあんまり聞いたこ
 とがありません。 もし天や地は我々を生かすためにある、それ
 が目的だ、と言ったら、本末転倒してしまいます。 我々は天や
 地と離れて生きることはできず、想像することもできない。 天
 や地も我々が認識しなければ存在しない。 かといって、天や地
 には合目的性があっても、我々のためにあるわけではない。 天
 も地も我々もたった一つです。 目的は設定しづらい。 マハラ
 ジに言わせれば、天も地も我々も実在ではないのですから、幻想
 が起こった原因を話すことはあっても目的は話しません。
 
 我々にも電気釜と同じく、設計者がいてなんらかの意思が反映さ
 れているのか。 反映されているのなら目的があるのであり、
 我々が天や地といっしょなら目的はなさそうだ。
 
 なぜこんな質問が出てくるのかというと
 道は常に無為にして、而も為さざる無し。
 「なにかをしようとわざわざ考えずとも、天地はすべてのことを
 為している」
 という文章の背後には明らかになんらかの意思が見えるからで
 す。 「無為自然。 物事はおこるべくして、おこっている。お
 前たちも、あるがままに、すべてお任せすること、それが一番う
 まくいくのだよ」というものです。 ここにすでにある種の価値
 観と信仰さえもが確認できます。 そうでなければ、「道は常に
 無為だ。」 だけで終わるはずです。
 
 マハラジはどうかというと、「わたしは在る」が絶対の真実であ
 り、実在である。 マハラジも我々をロボットと言っている箇所
 が確かにあります。 自我は幻想にすぎない。自由意志なぞな
 い。 真我に任せよ。  マハラジも老子も「わたしは在る」=
 「道」=「神」=「無」に絶対の信頼を置いている。 絶対の安
 らぎを見出している。 なぜそんなに信頼できるのか? 彼らは
 言うでしょう。 これは信仰ではなく、真実だ。 ア・プリオリ
 なものだ。 ところが、私にもたぶん、質問者のほとんどもわか
 らないのです。 ナゼ?? 質問者もわたしもマハラジの住んで
 いる「無」という世界の何がいいのかわからない。 こういうの
 を涅槃というのなら、涅槃は実につまらない。 要するに「虚
 無」と「無」の違いがわからない。 我々のイメージできるとし
 たら、その「無」は最近の宇宙物理学が説明するところの、ビッ
 グバン以前の状態。 あらゆる可能性が詰まった「無」です。
 でもそれと今、ここにいる我々の何が関係しているの?
 
 そこで、気になる言葉がもう一つ出てきます。 それは「愛」と
 いう言葉。 この「愛」という言葉はスピリチュアルにも、既成
 の宗教にも滅多やたらに出てくるのですが、なんと最もクールな
 マハラジにも唐突に出てくるわけです。
 
 「わたしは在る」=「無」からすべての現象が発生している。
 そして、どうもその発生のエネルギーが「愛」のようなのです。
  またマハラジは「一つにまとめる力」=「生命」というように
 も使っています。 そしてなんと、悪名高き「同一化」というの
 も一つの「愛」のエネルギーによっておこっているように取れる
 箇所があります。
 
 我々は「愛」を感じるとき、安らぎを覚えます。 欲望や恐れが
 ないとき、我々は「愛」を感じます。 つまりマハラジも老子も
 「わたしは在る」=「道」=「神」=「無」に絶対の信頼を置い
 ているのはこの「愛」を圧倒的に感じているからです。 きっと。
 
 わたしの疑問は前述したものから変わっていません。 そもそも
 わたしの疑問は下記のように始まりました。
 「私自身、今、どんな状態なのかというと、正直に言って、 こ
 の世のことが急に色あせて見えてきたのです。 まさにこの世で
 おこることはみな幻想であり、 嘘っぱちのように見えてしかた
 がなくなってきたのです。 まさに虚無です。……」 どうしたら
 この「虚無」が芳醇な「無」に変わるのか? どうしたら「愛」
 に包まれるのか。 それがわからないのです。 わかるものでは
 ないと言われればそれまでですが。
──────────────────

Andreさん、ご投稿ありがとうございます。m(_ _)m

> もうここらへんで、おとなしくしていようかと思ったのですが、
> Pariさんのお返事が刺激的でまた書いてしまいました。

はい。

刺激が投入されると想念は玉突き現象で自己増殖しますよね。

つまり、pariパターンは今のところ、

想念の自己増殖手段としてしか機能していないのでしょう。

> Pariさんの言葉を読んだら、老子の「無為自然」のことを言って
> いるのではないかと思いました。 違っていたら教えてくださ
> い。(その方が興味深い。)

知らないのに勝手なことを言うのも問題ですが、(*^_^*)

無為自然というのは、

意識構造体の内部力学の話なのかもしれません。

> 道は常に無為にして、而も為さざる無し。
>  (道はいつでも何事も為さないでいて、しかもすべてのことを
> 為している。)
> 
> 蜂屋という大学の先生の解説では、
> >「作為的なことはなにもしていないのに、すべてを為してい
> る」とは、どういう状態か。天地を例にして考えてみると、天や
> 地は意思をもたないから常に「無為」の状態といえますが、無為
> でありながらも、その働きは常にこの世界全体に行きわたってい
> ます。季節はめぐり、太陽は大地を照らし、雲は雨を降らし、大
> 地の上では植物や虫や動物がそれらの恩恵を受けて育っていく。
> つまり「なにかをしようとわざわざ考えずとも、天地はすべての
> ことを為している」ということになるわけです。
> 
> 電気釜は思考を整理する上で、とてもいい譬えですね。

前回も書いたように、

これはラメッシ・バルセカールが使った比喩です。

> 電気釜は意思を持ちません。 だから「無為」かと言えば、明ら
> かに電気釜の設計者の意思が反映されています。 電気釜には目
> 的があります。 簡単においしいご飯を炊ける道具という目的で
> す。 ロボットというのも、何らかの目的によって人間に作られ
> たものです。 ロボットも電気釜も役に立たなくなったら廃棄さ
> れます。 道具として電気釜やロボットに自我がないという点で
> は「無為」でしょう。  一方、バイオロボットである我々には
> 電気釜と同じように目的があるでしょうか。 「真我の実現」が
> その目的なんでしょうか。

目的というのは意識の中にある観念です。

誤解から生まれた自我の想像のなかで捏造された観念です。

実在とはまったく無関係のものだと思います。

ただ、観念と付き合ったときには、

ラマナ・マハルシもこんなふうに言ってはいますが。

──────────────────
 質問者 創造の目的とは何でしょうか?
 
 マハルシ
 それはこの質問をもたらすことにある。
 この質問を調べなさい。
 そしてついには至高なるもの、
 あるいはすべての源の内にとどまりなさい。
 調べ入ることはそれ自体を真我探究のなかに溶かし去り、
 真我探究は
 真我ではないものすべてがぬぐい去られてはじめて終焉する。
 そして真我はその純粋性と輝きのなかで実現されるのである。
 
 『あるがままに』(p321) 
 http://tinyurl.com/2aar6zj
──────────────────

> 我々にも電気釜と同じく、設計者がいてなんらかの意思が反映さ
> れているのでしょうか。 そしてこの本来の意思が、「自然」で
> あり、我々が個々に存在するという幻想がこの「自然」に余計な
> 意思の上塗りをするから「不自然」になるのでしょうか。

わたしにも経験があります。

ただこういう論議は神学の一種で、

責任転嫁による想像が

新たな切り口の責任転嫁を呼び出すだけです。

誰も責任を取る必要が無いので、

どんなことを言ってもかまわないのですが、

だからといって、どうなるものでもありません。

> それでは前述の天や地はどうでしょうか。 天や地にも目的があ
> るのでしょうか。  天地に目的があるなんてあんまり聞いたこ
> とがありません。 もし天や地は我々を生かすためにある、それ
> が目的だ、と言ったら、本末転倒してしまいます。 我々は天や
> 地と離れて生きることはできず、想像することもできない。 天
> や地も我々が認識しなければ存在しない。 かといって、天や地
> には合目的性があっても、我々のためにあるわけではない。 天
> も地も我々もたった一つです。 目的は設定しづらい。 マハラ
> ジに言わせれば、天も地も我々も実在ではないのですから、幻想
> が起こった原因を話すことはあっても目的は話しません。
> 
> 我々にも電気釜と同じく、設計者がいてなんらかの意思が反映さ
> れているのか。 反映されているのなら目的があるのであり、
> 我々が天や地といっしょなら目的はなさそうだ。

(*^_^*)

> なぜこんな質問が出てくるのかというと
> 道は常に無為にして、而も為さざる無し。
> 「なにかをしようとわざわざ考えずとも、天地はすべてのことを
> 為している」
> という文章の背後には明らかになんらかの意思が見えるからで
> す。 「無為自然。 物事はおこるべくして、おこっている。お
> 前たちも、あるがままに、すべてお任せすること、それが一番う
> まくいくのだよ」というものです。 ここにすでにある種の価値
> 観と信仰さえもが確認できます。 そうでなければ、「道は常に
> 無為だ。」 だけで終わるはずです。

ええ、すべてはただあるがままにある。

> マハラジはどうかというと、「わたしは在る」が絶対の真実であ
> り、実在である。 マハラジも我々をロボットと言っている箇所
> が確かにあります。 自我は幻想にすぎない。自由意志なぞな
> い。 真我に任せよ。  マハラジも老子も「わたしは在る」=
> 「道」=「神」=「無」に絶対の信頼を置いている。 絶対の安
> らぎを見出している。 なぜそんなに信頼できるのか? 彼らは
> 言うでしょう。 これは信仰ではなく、真実だ。 ア・プリオリ
> なものだ。 ところが、私にもたぶん、質問者のほとんどもわか
> らないのです。 ナゼ?? 質問者もわたしもマハラジの住んで
> いる「無」という世界の何がいいのかわからない。 こういうの
> を涅槃というのなら、涅槃は実につまらない。 要するに「虚
> 無」と「無」の違いがわからない。 我々のイメージできるとし
> たら、その「無」は最近の宇宙物理学が説明するところの、ビッ
> グバン以前の状態。 あらゆる可能性が詰まった「無」です。
> でもそれと今、ここにいる我々の何が関係しているの?

こういうことは、

すべて自然現象として起こっています。

誰かが何かを起こしているわけではないのです。

もし、andreさんに、

現象世界の人生に対する何の疑問も起こっていないなら、

マハラジや老子や仏陀の言葉に

いかなる興味も起こらなかったでしょう。

他にもっと面白いことがたくさんあるのに、

じつにつまらない涅槃に

興味を持つ理由などないからです。

しかし、andreさんが

こうやって何かを書かずにはおられないのは、

じつにつまらないと思われる仏陀の涅槃に、

andreさんが知っている他のもっと面白いこと以上の

何かがあるのかもしれないと感じるからでしょう。

また、andreさんはその疑問を自分が考えている

と思っているかもしれません。

だから、ある意味で熱中もできるわけでしょう。

その自分に湧いている思いが

外部のスイッチを押されて入ってくる

電気釜の熱のようなものだとはっきりわかったら、

それに興味を持たなくなるかもしれません。

──────────────────
 結局、あなたの法則ではなく、
 それ自体の法則に従って去来する想念を離れて、
 マインドというものは存在しないのだ。
 ただあなたが興味を持つために、
 マインドに支配されてしまうのだ。

 『私は在る』(p366)
──────────────────

> そこで、気になる言葉がもう一つ出てきます。 それは「愛」と
> いう言葉。 この「愛」という言葉はスピリチュアルにも、既成
> の宗教にも滅多やたらに出てくるのですが、なんと最もクールな
> マハラジにも唐突に出てくるわけです。

その感じ、よくわかります。(*^_^*)

愛が苦手のpariパターンもそう思いましたから。

> 「わたしは在る」=「無」からすべての現象が発生している。
> そして、どうもその発生のエネルギーが「愛」のようなのです。

こういう意味のことですか?

──────────────────
 未知への愛、
 それが私を存在のなかへと連れ出したのだ。
 在ることのなかに平和を探すことが、
 成ることの本性そのものであるように、
 成ることのなかに冒険を見いだすことが、
 在ることの本性そのものなのだ。
 この在ることと成ることの交替は不可避だ。
 だが、私の住処(すみか)はその彼方にあるのだ。

 『私は在る』(p435)
──────────────────

それともこんなニュアンスの意味ですか?

──────────────────
 在ること、名前と形とともに存在することは
 苦痛に満ちたものだ。
 それでも私はそれを愛している。
 
 存在のなかにはすべてが含まれている。
 私の本性そのものが愛なのだ。
 苦痛に満ちたものでさえ、愛すべきものだ。

 『私は在る』(p435)
──────────────────

>  またマハラジは「一つにまとめる力」=「生命」というように
> も使っています。

この意味合い↓のことですか?

──────────────────
 物質的世界(マハーダカーシュ)と
 霊的世界(パラマカーシュ)がある。
 その間に宇宙的マインド(チダカーシュ)と
 宇宙のハート(プレマカーシュ)と呼ばれるものがある。
 その二つをひとつにするのは愛の智慧なのだ。

 『私は在る』(p91)
──────────────────

> そしてなんと、悪名高き「同一化」というの
> も一つの「愛」のエネルギーによっておこっているように取れる
> 箇所があります。

この意味合い↓のことですか?

──────────────────
 すべての偽りの自己同一化が捨て去られたとき、
 すべてを包容する愛が残る。
 あなたに関する考えをすべてぬぐい去りなさい。
 あなたが神だという考えさえも捨て去りなさい。
 いかなる自己定義も正当ではない。

 『私は在る』(p213)
──────────────────

> 我々は「愛」を感じるとき、安らぎを覚えます。 欲望や恐れが
> ないとき、我々は「愛」を感じます。 つまりマハラジも老子も
> 「わたしは在る」=「道」=「神」=「無」に絶対の信頼を置い
> ているのはこの「愛」を圧倒的に感じているからです。 きっと。

そうなんでしょうね。

> わたしの疑問は前述したものから変わっていません。 

はい。

> そもそもわたしの疑問は下記のように始まりました。
> 「私自身、今、どんな状態なのかというと、正直に言って、 こ
> の世のことが急に色あせて見えてきたのです。 まさにこの世で
> おこることはみな幻想であり、 嘘っぱちのように見えてしかた
> がなくなってきたのです。 まさに虚無です。……」 どうしたら
> この「虚無」が芳醇な「無」に変わるのか? どうしたら「愛」
> に包まれるのか。 それがわからないのです。 

andreさんのおっしゃる意味はわかります。

ただ、ここになかなか微妙な点があるのも事実です。

それは

【どうしたらこの「虚無」が芳醇な「無」に変わるのか?】

と表現されている部分です。

andreさんはこれまで、現象世界の美を求めてこられて、

いまそれが【みな幻想であり、 嘘っぱち】に見えてきて、

虚無を感じていらっしゃるという。

そこで、その現象世界が

【「虚無」】から【芳醇な「無」に】変わることを

願っておられるように見えます。

あたかも、現象世界が

「虚無」から芳醇な「無」に変わることがあるかのように。

そのようなことも可能なのかもしれませんし、

そういうことが可能であるかのように

教えるグルの方もいそうです。

でも、マハラジはそのタイプのグルではなさそうです。

マハラジは、andreさんのその【「虚無」】こそ、

「それはもっとも望まれる瞬間なのだ」

と評価するような方です。

やっと求めるべき方向が浮上しつつあるではないかと。

でも、andreさんが望んでいることが、

現象世界が「虚無」から芳醇な「無」に変わることなら、

マハラジはおそらく、

──────────────────
 解放への道には何も立ちはだかっていない。
 そしそしてそれは今ここで起こることができる。
 だが、あなたはほかのことにもっと興味がある。
 そしてあなたはその興味と闘うことはできないのだ。
 あなたはそれとともに行き、
 それを見抜き、
 それが単に判断と賞賛の誤りであることを、
 それ自体が自ら暴くのを見守らなければならないのだ。

 『私は在る』(p475)
──────────────────

とおっしゃるのではないでしょうか。

> わかるものではないと言われればそれまでですが。

pariパターンはこの十年来マハラジの言葉を写経し、

何度も何度もこうして引用してきました。

なので、言葉でだけは

マハラジならこんなふうに答えるかも

という表現を拾ってくることができます。

だから文面だけ見ると、

一見、andreさんよりpariパターンのほうが

わかっているように見えるかもしれません。

でも、現象世界への関心が残っているという意味では、

andreさんもpariパターンもまったく変わりません。

マハラジならきっと、

こう言ってくださることでしょう。

──────────────────
 あなたに確信がないのは、
 体験にばかり注意を払って、
 けっして自分自身に注意を払わなかったからだ。
 すべての体験を超え、
 あなた自身に興味をもちなさい。
 あなた自身とともに在りなさい。
 あなた自身を愛しなさい。
 究極の安全は自己知識のなかにだけ見いだすことができる。
 重要なのは誠実さだ。
 自分自身に正直でありなさい。
 そうすれば、何もあなたを裏切ることはない。
 美徳や力は、
 子どもが遊ぶためのただのおもちゃのコインにすぎない。
 世界のなかでは、それらは有用だ。
 だが、あなたをそれから連れだしはしない。
 その彼方へと行くには不動の油断のなさ、
 平静な注意力が必要だ。

 『私は在る』(p235)
──────────────────

(-||-)

マハラジの教えに関するかぎり、

それしか道は無いのだと思っています。

覚者たちは色々なことを言います。

それぞれの覚者から

自分に都合のいいところだけを見繕って集めても

観念が相殺しあい乱反射する

役に立つだけだろうと思います。

言葉というのはすべて観念であり、

どんな覚者の言葉も観念にすぎないからです。

自分に感度がありそうなグルの言葉に

とことん従うしか方法はないだろうと思っています。

andreさん、ご投稿ありがとうございました。

m(_ _)m

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■ 3.編集後記:
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なんとなく自然な形で

押し流されるように流されています。

こわばりながらギブアップしていっている感じもあります。

それはそれで、それしかないのでしょうし、

他に仕方もないし、それでいいのかなと思っています。

なんのことやらわかりませんが、(*^_^*)

まあ、いいのではないでしょうか。

今日は昏くなりました。

おやすみなさい。

<(_ _)>


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