━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
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☆☆ ☆☆『アセンション館通信』2017/07/23(第693号)
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☆☆ ☆★ 【気刊】――「私は在る」に導かれ♪――
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☆☆ ☆☆ https://www.ascensionkan.com/
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇
このメルマガはアセンション館主人pariと称するあるパターンに
浮上している心象風景の報告です。
苦痛から欲望が生まれ、苦痛のなかで欲望を満たそうとする。
世界の根本原因は自己愛である。そのために私たちは快楽を探し
求め、苦しみを避ける。自己愛を真我への愛に変えなさい。
すると画面は変わってくる。(ニサルガダッタ)
内容は人畜無害、でも読む人は相当変わっていますね。現在857名
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◇◇ もくじ ◇◇
1.ただ、あなたのマインドをそらしなさい
2.編集後記
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■ 1.ただ、あなたのマインドをそらしなさい
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すっかり夏になりましたね。
(*^_^*)
さて、またまた一週間が過ぎて、
楽しい“アセンション噺”ならぬ「私は在る」噺に、
お付き合いいただく今がやってまいりました。
『アセンション館通信』配達人の pari です。
人はなぜ考えるんでしょうね?
【見かけ】のなかで
自分と想像されるものが陥っている現状を
想像されるもっとましな状況に変えるために
人は考えるのかもしれません。
そんな状況が多いのかもしれませんね。
しかし、たとえば、
いまわたしがこの文章を書いている状況で言うなら、
自分が興味をもったテーマを
「考える」ことでもっと明確にしたいと
望む場合もあるのかもしれません。
もしそうだとすれば、
その思考内容を呼び出しているのは何なんでしょう?
「知りたい」というその願望、
その欲望でしょうか?
ところで、
その「知りたい」という欲望以外に、
その欲望の持ち主として
「わたし」という別の個人がいるわけでないことは、
このメルマガの読者は了解されていることと思います。
以前、セイラー・ボブさんの
以下のような応答を引用したことがあります。
https://www.ascensionkan.com/mm/vol419.html#1-1
ちょっと長めですけど再掲しますね。
──────────────────
質問者 この質問を取り上げていただけるかどうか、
不安なのですが。
ボブ
どのような質問ですか?
質問者 「私とは誰か?」です。
ボブ
ほう。
あなたはこれまでに自分が誰か、発見したことがありますか?
質問者 ありません。
ボブ
「私とは誰か?」を尋ねる代わりに、
「私とは誰か?」という質問をしているのは誰か、
「私とは誰か?」を尋ねているこの質問者は誰なのか、
と自分自身に尋ねてください。
質問者 う―ん。
ボブ
あなたはそこから何を理解しますか?
質問者 それは心、思考、ということですかね。
ボブ
なるほど。
心ないし思考が質問者というわけですね。
では、心ないし思考が、
その質問を尋ねている者は誰か、
と尋ねているわけですか?
心ないし思考が質問者である、と。
それでいいですか?
質問者 はい。
ボブ
さて、質問は何でしたっけ?
質問者 「私とは誰か?」です。
ボブ
それは何ですか?
質問者 一つの思考です。
ボブ
ええ、それは観念、思考ですね。
ということは、
質問者と質問はともに一つの観念で、
質問者イコール質問そのもの、ということになります。
それらの間に、何の違いもありません。
ですから、もし質問者がいなくなれば、
質問もありえないのです。
質問や質問者が存在しなければ、
そのときあなたはどうなりますか?
質問者 もし質問者がいなくなれば質問もありえない?
ボブ
質問も質問者も存在しないとき、あなたはどうなりますか?
質問者 なにもない、でしょうね。
ボブ
あなたは思考の持ち主、観念の担い手です。
質問者と質問を削除したとき、
そこにあるのは、あるがままの裸の意識です。
あなたは、
「私とは誰か?」を発見したのです。
何年も何年もその質問を
心の中で問い続けて行き詰まる代わりに、
質問者が質問そのものだということを理解してください。
人々は心以前の存在状態について語り、
そこに到達しようとして
あらゆる種類の奇妙なことをやります。
質問者は、質問それ自身に他ならないのです。
それらは互いに相殺し合います。
つまり、質問がなければ、質問者は存在しません。
質問や質問者がなくても、
私は消えたり、崩壊したりしません。
その瞬間、あなたは心以前に存在しており、
思考を超えているのです。
思考を超えていれば、あなたは思考以前にいるはずです。
それはそのくらいシンプルです。
『ただそれだけ』(p100-p103)
──────────────────
この問答は「私とは何か?」について、
とても明確な論理的解答を提供しています。
上の問答でボブさんはさらに、
質問も質問者も存在しないときあなたは何かと問い、
> あなたは思考の持ち主、観念の担い手です。
と自ら解答を与えています。
ここで言う「思考の持ち主」とか「観念の担い手」とは
もちろんそのような個人がいるという意味ではなく、
思考や観念がわくその空間とか、
思考や観念に気づいている者という意味でしょう。
ボブさんは同じものを
> 質問者と質問を削除したとき、
> そこにあるのは、あるがままの裸の意識です。
と言い換えています。
「あなた」とか「わたし」という言葉は、
このようないわゆるスピリチュアルな文脈では
どうしても個人を指したり、
ボブさんの言う「あるがままの裸の意識」、
つまり、真我とか実在を指したりして、
二重の意味で使われざるをえません。
こういう文章の読者にとっては
そのような使われ方と意味合いは半ば常識なので、
論理的に「私とは何か?」を理解することに
どれほどの意味があるかはわかりません。
しかし、
質問者とはその質問(想念)のことだという理解は
それが紛れもない事実だとわかるだけに、
無用な思考を大幅にショットカットできます。
というわけで、
「人はなぜ考えるのか?」を考察する上で、
知りたいというその欲望以外に、
思考者という実体が存在するわけではないことを
改めて確認しておきたいと思います。
逆に言うと、
考える“その人”は虚構概念ですが、
知りたいという欲望自体は実際に湧いています。
欲望が実際に湧いていることは事実です。
むろん、それに注目している夢のなかの事実ですが。
創造のエネルギーが
現象世界そのもののなかで再生産されていることは、
マハラジも言及しています。
覚者の言葉はあくまでもその瞬間の方便なので、
覚者の言葉を論理的証拠として挙げるのが
どれほど妥当な方法なのかはわかりませんが、
当面それ以外のこともできないので、
いつものとおりマハラジの言葉を引き合いに出します。
創造の責任者を糾弾しようとする質問者に、
マハラジはこう答えます。
──────────────────
質問者 画家は誰なのでしょうか?
誰がこの悲惨な、しかし賞賛すべき体験の
責任を取るのでしょうか?
画家は絵の中にいるのだ。
あなたは画家を絵から引き離し、
そして彼を探そうとする。
分割してはいけない。
偽りの質問をしてはいけない。
ものごとはありのままだ。
そして、
誰か特定の人に責任があるわけではない。
『私は在る』(p434)
──────────────────
ここでマハラジは、
> 画家は絵の中にいるのだ。
と明確に答えています。
現象世界は現象世界自体の中から
自動的に再生産され再創造されているのです。
しかし、ここでの「画家」は
実際は、行為者という意味での個人ではありません。
行為者という意味での個人は
誤解のなかで再利用され続けている
実際は存在しない虚構の概念であり、
敢えて言うなら、
人生というドラマを展開させ、
社会を機能させるための“ゲームの規則”です。
この「画家」、
つまり現象世界の創造者の実体は、
無知のなかで湧いている恐怖と欲望だと言えるでしょう。
あらゆる欲望と恐れは、
分離した個人が存在するという誤解のなかで
その個人の保護と状況改善の目的に沿って、
湧いてくるわけです。
そして、
欲望と恐れによって引き寄せられた思考に
観察者の意識エネルギーが注がれると
その思考は現実化するというわけです。
──────────────────
何であれ、
あなたが欲望と恐れとともに考えることは、
現実となってあなたの前に現れる。
『私は在る』(p361)
──────────────────
われわれが欲望と恐れとともに考えることが
次の画面となって現れるわけです。
では、その欲望と恐れはなぜ現れるのか?
そういうことを質問した方がいます。
──────────────────
質問者 欲望と恐れの原因とは何でしょうか?
マハラジ
明らかに、過去の苦痛と快楽の記憶だ。
そこには何も偉大な神秘があるわけではない。
同じ対象物に恐れと欲望が関係したときにだけ
葛藤(かっとう)が起こるのだ。
『私は在る』(p422)
──────────────────
なるほど。
たしかに、
偉大な神秘というわけでもなさそうです。
この問答で欲望の放棄を薦められた質問者は、
それは自然なものではないかと反問します。
マインドを自然現象とする語法からは、
もちろん、欲望や恐れは自然なものです。
ただ、マハラジの自然の意味に即して言えば、
これは自然なものではないようです。
──────────────────
質問者 なぜ、それほどまでにすべての欲望と恐れを
放棄することが強調されるのでしょうか?
それらは自然なものではないのでしょうか?
それらは自然なものではない。
完全にマインドによって作られたものだ。
あなたに必要なものは何もないということを知るために、
すべてを放棄しなければならないのだ。
あなたが必要とするものは非実在であり、
あなたの努力は無意味だ。
あなたは所有物があなたを守ると想像している。
実際は、それらがあなたを傷つきやすくするのだ。
『私は在る』(p356)
──────────────────
この言葉の表面的な意味は
理解可能なことでした。
だから
> あなたが必要とするものは非実在であり、
> あなたの努力は無意味だ。
という断定に感動したことさえあります。
ただ、これまでpariパターンは
これらの言葉に本当に共振したいとは思いませんでした。
もうちょっと、待って!
そう言いたかった。
しかし今や、
そう言うだけの時間はもう残されていないようだ
と思うようになりました。(-_-;)
ならば、その道に従うしかない。
──────────────────
質問者 どのようにして無欲を訓練すればいいのでしょう?
マハラジ
訓練の必要はない。
放棄という行為さえ必要ない。
ただ、あなたのマインドをそらしなさい。
それだけだ。
欲望とは単にある想念にマインドを固定させることだ。
それに注意を払わないことで、
その常道にはまる習慣を捨て去りなさい。
『私は在る』(p356)
──────────────────
(-_-;)
これがマハラジが伝えたい方法です。
> 放棄という行為さえ必要ない。
> ただ、あなたのマインドをそらしなさい。
> それだけだ。
ただ欲望からマインドをそらすだけ。
こんなことができるものだろうか?(-_-;)
> 欲望とは単にある想念にマインドを固定させることだ。
なるほどそうだったのかと思います。
たしかにわかるような気もします。
ただ……、
> それに注意を払わないことで、
> その常道にはまる習慣を捨て去りなさい。
こんなことができるものでしょうか。
この質問者も思わずこう訊きます。
──────────────────
質問者 それだけですか?
マハラジ
そうだ。
それだけだ。
欲望や恐れが何であれ、
それにとどまっていてはならない。
自分で試みてみなさい。
ときおり、あなたは忘れてしまうかもしれない。
だが、それは問題ではない。
すべての欲望と恐れを追い払うまで、
すべての反応が自動的になるまで試みることだ。
『私は在る』(p356)
──────────────────
> それだけだ。
それだけなのか。(-_-;)
> 欲望や恐れが何であれ、
> それにとどまっていてはならない。
それが何であれ、
欲望や恐れの言うことを聴いていてはならない。
まるで不良の仲間に入ろうとする子供に
親が語りかけるような雰囲気です。
やつらを無視するんだ、
仲間になってもお前にいいことは何もないと。
> 自分で試みてみなさい。
欲望や恐れはただ無視してもいいのか。(-_-;)
> ときおり、あなたは忘れてしまうかもしれない。
いかにも忘れそうです。
> だが、それは問題ではない。
> すべての欲望と恐れを追い払うまで、
> すべての反応が自動的になるまで試みることだ。
【すべての反応が自動的になるまで】
欲望と恐れを追い払いつづける……。
そんなことができるものだろうか。
> 自分で試みてみなさい。
(-||-)
──────────────────
あなたは在る。
ほかのすべては現れにすぎない。
『私は在る』(p421)
──────────────────
(-||-)
──────────────────
永久的なもの、それはあなた自身の存在である。
真我として在りなさい。
それが至福である。
あなたはいつもそれなのである。
『あるがままに』(p58)
──────────────────
……。(-_-)
ありがとうございました。<(_ _)>
(-||-)
今日はこんなところで。
……。
m(_ _)m
………○…………○…………○………
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■ 2.編集後記:
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しなければならないことだけをして、
本当に欲望や恐れに注目しなくていいのであれば、
だんだん楽になるような気もするけど。
ほとんど何もしなくても、
すぐに一日が経ってしまうからなぁ。
夕方になってやっと涼しくなってきました。
今日もいい日でした。
<(_ _)>
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■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
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