home > 通信 >『アセンション館通信』第694号:実際には、何も起こってはいない



━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
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 ☆☆     ☆☆『アセンション館通信』2017/07/30(第694号)
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☆☆      ☆★ 【気刊】――「私は在る」に導かれ♪――
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇

このメルマガはアセンション館主人pariと称するあるパターンに
浮上している心象風景の報告です。

 苦痛から欲望が生まれ、苦痛のなかで欲望を満たそうとする。

 世界の根本原因は自己愛である。そのために私たちは快楽を探し
 求め、苦しみを避ける。自己愛を真我への愛に変えなさい。
 すると画面は変わってくる。(ニサルガダッタ)

内容は人畜無害、でも読む人は相当変わっていますね。現在857名
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◇◇ もくじ ◇◇

1.実際には、何も起こってはいない

2.編集後記
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■ 1.実際には、何も起こってはいない
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今日は比較的涼しいですね。

このところ蝶々が多いような気がして。

今も目の前を紋黄蝶がチロチロと飛んでいます。

あ、視界から消えた。

(*^_^*)

さて、またまた一週間が過ぎて、

楽しい“アセンション噺”ならぬ「私は在る」噺に、

お付き合いいただく今がやってまいりました。

『アセンション館通信』配達人の pari です。

自分という感覚ですけど……、

なんか空無の中で何かが何かに掴まろうとして

懸命に足掻いているような感じだと思いませんか。

何も無いんだから何にも掴まれるはずがないのに、

懸命に触手を伸ばして掴まろうとしているみたいな。

バカですよね。(*^_^*)

諦めが悪い。(^_-)

何もないから、

仮初の形を顕現させる現象を頼りにするんでしょうね。

でも、仮初の現象にうまいこと掴まったと思ったが最期、

その後が大変です。

行きはよいよい、帰りは怖い。

これだと思って掴まったものが

すべて片っ端から滅びていくんですから。

まわりに現れるものどんなものにも

手当たり次第に手を出して掴まるんですが、

いかんせん、すべてが頼り甲斐がない。

掴まったものがすべて例外なく

次から次と崩壊していく。

こうなるともう血相変えて頑張るしかない。

いやー、これはまったく悪い冗談!(*>_<*)

悪夢とはこのことです。

(*^_^*)

まあ、そんなこんなで疲れ果て、

こんなことをやっていてもキリがないと

いつはついに思いつくんでしょうね。

もし思いつくことになっていたらですが……。

昔……、

絶望的な夢のなかを彷徨っていた時代がありました。

生きていることの後ろめたさで、

夜と昼が逆になっていたんです。

といってもわたしは

あまりこの世的な人間ではないので、

夜の世界に入り浸っていたというような話じゃありません。

まあ、断るまでもないかもしれません。(^^;)

数少ない友人はいましたが、

夜中にその友人のところに

遊びに行くというわけにもいきませんでした。

(そのせいでしょうかねぇ。(-_-;)

 その後何度か夢のなかで
 
 彼の部屋を探して真夜中の街を彷徨ったりしたのは。)

つまり、生命力が最も旺盛な年齢で、

最も非生産的で最も非活動的な、

前途にいかなる展望もない日常を送っていたわけです。

その状況を自力でなんとか打開して、

新しい状況を切り開くという物語を展開するタイプの

バイオロボットではなかったのです。

そういう物語を展開するためには

他にたくさんのパターンが繰り出されているでしょう。

とにかく、まあ

そんな不毛な日常を送っていたわけです。

それまでの人生でやってきたことと言えば、

本を読むということしかありませんでした。

生きていることの後ろめたさを覆い隠すために、

ひたすらその不毛さの確認に生きているようなものでした。

ドストエフスキーやらカフカやら埴谷雄高やら

ときどき思い出したように宮沢賢治と、

あまり健康的でもなさそうな物語のなかで

彷徨するしか能がなかったのです。

どうですか、こういう状況に長く置かれたら

どんな型のバイオロボットからでもおそらく、

    <何故にすべては始まってしまったのか?>

などという呻き声が上がると思いませんか? (*^_^*)

いや、まあ、pariパターンは

そういう呻きを上げてみるために用意された

ひとつのバイオロボットだったということでしょう。

まあ、言葉はどうでもいいです。

とにかく、

日本という精神風土に生まれて、

pariパターンの場合、

自分の中から「私とは何か?」という

ストレートな疑問が発芽することはありませんでした。

自然に生まれてきたのは

いったい何のためにこんなものがあるのか?

こんなものいらないではないか、という

現象世界に対する早すぎる後悔、絶望と、

疑問、不満、憤懣のようなものばかりでした。

もちろん、直近で具体的な記憶があるのは

自分のわずかの挫折の経験でしかありません。

でもわたしのエネルギーは

その自分のわずかの挫折を乗り越えようとする方向ではなく、

いったい何のためにこんなものがあるのか、

という理屈の方に自然に流れ出たわけです。

そして、その自分わずかの経験を

ドストエフスキーとかニーチェとか、

いろいろ聞きかじった妄想で膨らませていきました。

そこに何かが見つかるのかもしれないと思って。

もちろん、当時はそれをすべて

自分がやっていることだと思っていましたよ。

でも、いまとなってみれば、

何ひとつ自分の選択ではないことがわかります。

これはきわめて物理学的な話です。(*^_^*)

この「DNA」とこの「条件づけ」を組み合わせれば、

そのバイオロボットからどんな探求が生まれるのか、

そういった単純な問題です。

そして、それをリアルに探求するには

当人のアイデンティフィケーションというか、

当人の全面的な自己同化が絶対に必要なのです。

わかりますよね。

探求は真摯でなければならなりません。

その点、

pariパターンはよくやったと思います。

とっても真面目でしたもん。(^_-)

このごろ、時々思うことがあります。

自分が、たとえば、

植松聖さんみたいな役割でなくてホントによかった、

助かった、ということです。

だって、わたしが植松聖さんだったら、

植松聖さんをやらざるをえないわけですから。

不謹慎だと、誰かに叱られそうですが。

同じ夢の中の役回りにしても、

けっこう、大変な役回りの方もいるじゃないですか。

あなたは、殺人事件の加害者が

被害者やそのご家族の心情を理解できると思いますか?

もし殺してから被害者の気持ちがわかるのなら

どうして殺す前じゃいけないんでしょう?

あるいは、殺人事件が起こるのは

加害者が被害者やご家族の気持ちを

理解できるようになるためだなんて思えますか?

そんなこと、思えっこないでしょ。

一度起こってしまったことは、

どうやったって起こる前には戻せません。

だって、たとえ戻すことができたって、

起こった場面は起こったんですから。

イエスは、マリアとマルタの弟ラザロを

死後四日目に葬られた墓から蘇らせたそうです。

イエスが墓の前に立って、

「ラザロ、出てきなさい」と言うと、

死んだはずのラザロが布にまかれて出てきたのだとか。

これは信じがたい話ですが、

おそらく実際に起こったことなのでしょう。

なぜなら、

いくら『聖書』に書かれたからと言って、

単なる“作り話”だったら

何世紀にも亙って生き延びるエネルギーは維持できません。

これは現象世界がただの夢であることを

知っている次元からの介入でしょう。

つまり、死者ラザロを蘇らせたというよりは、

もともと死など存在しない、

何も起こっていない

という事実の暴露だったのでしょう。

……連想がただ流れていくだけなので、

特に何の意味もないのですが、

昔の不毛な時代を思い出したのは、

その頃に体験したある墜落のことでした。

それはいわゆる「自然落下」と言われるような

格好のいいものではありません。

突然始まった強烈な落下でした。

夢のなかで石組みの井戸の中を落下したのです。

まわりを筒状に囲む石組みが

飛ぶように上方に過ぎ去っていきます。

自分は懸命にその石を掴もうとするのですが、

どの石も助けの手を伸ばしてはくれない。

自分を取り巻いていたのはこれほどの悪意だったのかと、

今更ながらにまさに身も凍る思いでした。

顔面がビリビリするような猛烈な恐怖のなかで

「ワ」っと真綿で包むような微かな声が聞こえて

突然目が醒めました。

掛け布団の襟の部分にかけたあったバスタオルが

自分の首に巻きついていたのです。

完全な一人芝居の恐怖から覚めて

しばらく呆然としていました。

笑うことも泣くこともできない気持ちでした。

しばらくぶりに昔のことを思い出しました。

──────────────────
 マインドと世界はひとつだ。
 あなたが世界として考えているものは、
 あなた自身のマインドなのだということを
 理解しなさい。
 
 『私は在る』(p521)
──────────────────

まったくですね。

ところで、

覚者たちは時々それに加えてみんな一様に

【実際には、何も起こっていない】

という言い方をするのをご存知ですか?

この表現についてはずっと、

わかるようなわからないような感じがありました。

わたしは信じやすい人間なので、

言われたらすぐに信じてしまう質なのですが、

それと同じくらい

極端に変わったことのほうを信じる面もあるのです。

そして信じてから、

しかしどうすればそんなことがありうるのだろう、(-_-;)

とウジウジと考えるのです。

たとえば、マハラジはこんなふうに言います。

──────────────────
 質問者 しかし、話しているのは、私ではなくあなたです。
 
 マハラジ
 それはあなたにとってそう見えるのだ。
 私が見るには、
 二つの「身体―精神」が象徴的な雑音を交換しているだけだ。
【実際には、何も起こっていない。】
 
 『私は在る』(p456)
──────────────────

こう聞くと、なんだか分かるような気がするし、

カッコイイ、とも思いますよね。

あるいはこんなふうです。

──────────────────
 いつのときも進歩はある。
 すべてが進歩に貢献しているのだ。
 しかし、これは無知の進歩だ。
 無知の輪はつねに広がりつづけていくかもしれない。
 それでも、
 それは相変わらず束縛のなかにとどまったままだ。
 やがてグル(師)が現れ、
 私たちに真我を探求するように教え励ます。
 そして成熟のときを迎え、
 その結果として永劫の無知の夜は、
 智慧の日の出とともに溶け去るのだ。
【しかし実際には、何も起こってはいない。】
 太陽はいつもそこにあったし、夜もなかった。
 マインドが幻想の糸で果てしなく紡ぎだす
 「私は身体だ」という観念によって
 盲目になっていただけなのだ。
 
 『私は在る』(p131-132)
──────────────────

……と。

あるいは、ラマナ・マハルシなら

こんな表現もあります。

──────────────────
 目覚めの状態のなかで起こっていることは何であれ、
 知る者だけに起こる。
 そしてその知る者自身が非実在であるため、
 実際は、
【いままで何も起こってはいなかったし、
 いまも何も起こってはいない。
 そしてこれからも、
 何も起こることはないのである。】
 
 『あるがままに』(p333) 
──────────────────

「その知る者自身が非実在であるため」……。

つまり、

われわれは存在していないということです。(*^_^*)

それはこんなふうにも

言い換えられるのかもしれません。

──────────────────
 実際には、
 世界と呼ばれているものはただの想念にすぎない。
 世界が消え去ったとき、
 つまり想念が存在しないとき、心は幸福を体験する。
 世界が現れると、不幸を味わうのである。
 
 『あるがままに』(p405)
──────────────────

まあ、世界も散々です。(^_-)

ついですから、セイラー・ボブさんにも

「何も起こっていない」宣伝戦に

参戦していただきましょう。

ここではボブさんをアメリカに招待した

ジェームスさんが色々問いただしています。

──────────────────
 ジェームズ それでも、すべてに何の意味もないのですね?
 
 ボブ
 どうしてそれがありえますか?
【何ひとつ起こっていないのですから!】[笑いながら]
 それは彼らが言うように、ただの戯れです。
 
 ジェームズ しかしそれは本当に直感に反しますね。
       何も起こっていない、
       でもあなたはアメリカに来ました。
       何も起こっていない、
       でも私たちはこの会話をしているわけです。
 
 ボブ
 いいですか、あなたは夜眠りについて、
 それから夢を見始めます。
 その夢のなかで行動しているその身体は、
 見るための目をもっていますか?
 それは聞くための耳を持っていますか?
 それは呼吸できますか?
 
 ジェームズ いいえ。
 
 ボブ
 目が覚めたら――フッ、何もありません。
【何ひとつ起こらなかったのです。】
 
 『Living Reality』(po82) 
──────────────────

(-_-;)

まあ、そうなんですけどねぇ。

実際にこうして

夢のなかで一喜一憂している身で

【実際には、何も起こっていない。】

という言葉をすんなりわかったふりもできません。

でもマハラジのそういう表現に触れて以来

なんとなく、実際はそうなんだろうな、

という感じもありました。

と同時に、

実際に苦しみが起こっているときに、

【実際には、何も起こっていない】とは

どう理解すればいいんだろう?

という感じも消えませんでした。

そして、あるときこんな理解が来ました。

そうか、実際には、

【苦しみを経験している者は存在しない】んだ!(@_@)

と。

なぜか?

なぜなら、

苦しみも、苦しみを経験している者も

両方とも死物だからです。

両方ともモノなんです。

苦しみも、苦しみを経験している者も

両方とも物質なんです。

そこにはいかなる生命も宿っていない。

ただ、あたかもそれが現実であるかのように

われわれがそれに生命を吹き込んで、

それを現実化しているだけなんです。

それが「自己同化」という魔術であり、

それが、

──────────────────
 関心をもっているのはあなたなのだ!
 
 『私は在る』(p488)
──────────────────

という言葉の意味です。

なぜそう言えるのか?

ニューエイジのスピリチュアル情報で、

たとえば、バシャールなどが、

「あなた方の世界で

 素粒子と呼ばれているものは意識です」

と言うのを聞いたことがありますか?

素粒子はどこの世界でも間違いなく物質でしょう。

素粒子は物質の最小構成単位であり、

意識のコンテンツの構成要素です。

つまり、現象世界を顕現するための

表現媒体の最小構成要素だということです。

敢えてどこまでも識別するなら、

これは、モノです。

素粒子が構成要素となって表現する

諸々の物質現象や精神現象はありますが、

それはどこまでも表現媒体であって、

たとえば、“苦しむ素粒子”というが実体が

存在するわけではないのです。

なぜなら、

物質はあくまでも死物だからです。

だから、マハラジはこう言うのです。

──────────────────
 あなたが世界を意識しているという確信が世界なのだ。
 あなたが知覚している世界は意識でできている。
 あなたが物質と呼ぶものは意識そのものなのだ。
 あなたは、そのなかで世界が動く空間(アーカーシュ)だ。
 あなたは永遠に続く時間だ。
 あなたはそれに生命を与える愛なのだ。
 
 『私は在る』(p304)
──────────────────

ね、今度は理解できるでしょ。

それらの意識のコンテンツ、知覚可能な対象物に

自己同化した状態こそが「知る者」です。

だからラマナはこう言っているわけです。

> 目覚めの状態のなかで起こっていることは何であれ、
> 知る者だけに起こる。
> そしてその知る者自身が非実在であるため、
> 実際は、
> いままで何も起こってはいなかったし、
> いまも何も起こってはいない。
> そしてこれからも、
> 何も起こることはないのである。

今度は理解できますよね。

われわれはもちろん、

自分は存在することをを知っています。

それがそのまま「知る者」の実在の根拠になるわけです。

でも、われわれというこの「知る者」は、

実際は、肉体という物質現象や、

思考や感情といった精神(=物質)現象に

何らかの程度において自己同化しているのです。

誰が? (?_?)

われわれがです。(*^_^*)

じゃ、そのわれわれって誰よ? (?_?)

それを決めるのがあなたです。(*^_^*)

だから、

> あなたが世界を意識しているという確信が世界なのだ。

ということになるわけです。

そういう具合になっているんですよ。

全部、自分に返ってくるんです。

まあ、文句は言えないようになっている。

(*^_^*)

──────────────────
 あなたは在る。
 ほかのすべては現れにすぎない。
 
 『私は在る』(p421) 
──────────────────

(-||-)

──────────────────
 永久的なもの、それはあなた自身の存在である。
 真我として在りなさい。
 それが至福である。
 あなたはいつもそれなのである。
 
 『あるがままに』(p58) 
──────────────────

……。(-_-)

ありがとうございました。<(_ _)>

(-||-)

今日はこんなところで。

……。

m(_ _)m


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■ 2.編集後記:
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飽きずにこんなことやってるなぁ

とも思うけれど。

でも、そうしたいわけだよなぁ、(-_-)

とも思えてきて。

まあ、こんなふうに一日飽きずに書いています。

すぐに一日が経ってしまうからなぁ。

今日は雨も降って涼しくなりました。

今日も晩くなりました。

おやすみなさい。

<(_ _)>


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■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
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