home > 通信 >『アセンション館通信』第706号:静寂は経験ではありません



━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
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 ☆☆     ☆☆『アセンション館通信』2017/10/22(第706号)
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☆☆      ☆★ 【気刊】――「私は在る」に導かれ♪――
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇

このメルマガはアセンション館主人pariと称するあるパターンに
浮上している心象風景の報告です。

 苦痛から欲望が生まれ、苦痛のなかで欲望を満たそうとする。

 世界の根本原因は自己愛である。そのために私たちは快楽を探し
 求め、苦しみを避ける。自己愛を真我への愛に変えなさい。
 すると画面は変わってくる。(ニサルガダッタ)

内容は人畜無害、でも読む人は相当変わっていますね。現在850名
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◇◇ もくじ ◇◇

1.静寂は経験ではありません

2.編集後記
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■ 1.静寂は経験ではありません
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このところ眼前の光景が

雨に煙っていることが多いです。

ここから目の前に広がる世界は

上半分が空なんです。

下半分が緑で、上半分が空。

その上半分が雨の日だと灰色になります。

そして上下の境が天霧で滲むわけです。

まあ「色即是空」を絵にしたような。(^_-)

(*^_^*)

さて、またまた一週間が過ぎて、

楽しい“アセンション噺”ならぬ「私は在る」噺に、

お付き合いいただく今がやってまいりました。

『アセンション館通信』配達人の pari です。

おそらく、あなたもそうだと思いますが、

わたしもご多分に漏れず、

これまでいろいろスピリチュアル本を読みました。

といっても、

日本語の精神世界本は英語圏ほど多くないので

その意味では

英語圏の探求者よりずっと少ない数ですみましたが。

で、その結果わかったことは、

一冊一冊全部違うということでした。(*^_^*)

そんなのは当たり前すぎて、

その程度なら読まなくても分かりそうなものです。

でも実際は、

読んでみるまでわかりませんでした。

それも初めのうちは

そこに書かれている内容が

それぞれ違うということすらわかりませんでした。

表現は違うけれども、

おおよそ同じ精神世界について語られているのだと

勝手に想像していました。

でも、いくら融通がきかない生真面目人間でも、

そのうちわかってきます。

同じスピリチュアル本といっても

それぞれ目指しているところが違うわけです。

そもそも、

「目覚める」とか「気づく」とかいう

同じ言葉が使われていても

意味そのものが違っていたりするわけです。

──────────────────
 師や聖者や探求者たち
 彼らはみな違ったことを言う

 『Ashtavakra Gita』(p78) 
──────────────────

まったくもって、このとおりです。

となると、つまりは

自分に合う話を見つけるしかない。

すると、そのうちだんだん、

自分の好みがわかってきます。

そしていろいろ美味しそうな話の中で

本当のところが聞きたかったわけです。

いったい何のために

こんなもの(現象世界)があるのかのその理由が。

やがてこんな言葉が聞こえてきました。

──────────────────
 真我に到達するというようなことはない。
 もし真我が到達されるようなものなら、
 それは今ここにはなく、
 未来に獲得されるべき何かを意味する。
 新たに得られたものは、
 やがて失われるだろう。
 それゆえ、それは永遠のものではない。
 永遠のものでないなら、
 そのために努力する価値はない。
 だから私は、
 真我は到達されないと言うのだ。
 あなたは真我である。
 あなたはすでにそれなのである。
 
 『あるがままに』(p36) 
──────────────────

(@_@) ⌒★?

> もし真我が到達されるようなものなら、
> それは今ここにはなく、
> 未来に獲得されるべき何かを意味する。

これはまったくそのとおりです。

> 新たに得られたものは、
> やがて失われるだろう。

疑問の余地がありません。

> それゆえ、それは永遠のものではない。
> 永遠のものでないなら、
> そのために努力する価値はない。

納得せざるをえません。

> だから私は、
> 真我は到達されないと言うのだ。
> あなたは真我である。
> あなたはすでにそれなのである。

(-||-)

おそらく、ある種の人々にとっては

この言葉を聴くだけで

一巻の終わりなのです。

もうそれ以上に聞くべきこともなければ、

求めるものもないからです。

なぜなら、

自分が求めに求めてきたものとは、

まさにこの自分そのものだった、と

わかってしまったわけですから。

もうそれを聴いただけで、

何ひとつ求めるもののない

安心の中に落ちていくことでしょう。

でも、そんな人は例外中の例外です。

われわれはそういうわけにはいきません。(^_-)

とはいえ、そのわたしにも

話の要点は聞こえたわけです。

そしていったん、

こういう言葉がはっきり聞こえたら、

今度は、

「じゃ、自分はなんで

 心配したり不安になったりするのか?」

という疑問が自然に湧いて出てくる。

話の要点はわかった、

じゃ、

「自分がゴールそのものだった、

 もう求めるものなど何もない」
 
という安心が

自分に湧いてこないのはなぜなのか?

というわけです。

その理由についても、

もちろん、それぞれの覚者の

いろいろな表現があります。

たとえば、ニサルガダッタなら

こんなふうに言うかもしれません。

それはあなたがそんな安心を

本心では求めていないからだと。

──────────────────
 解放への道には何も立ちはだかっていない。
 そしそしてそれは今ここで起こることができる。
 だが、あなたはほかのことにもっと興味がある。
 そしてあなたはその興味と闘うことはできないのだ。
 あなたはそれとともに行き、それを見抜き、
 それが単に判断と賞賛の誤りであることを、
 それ自体が自ら暴くのを見守らなければならないのだ。
 
 『私は在る』(p475)
──────────────────

(-_-;)

要するに、

現象世界に注意を注ぎつづけるかぎり、

安心は得られないということでしょう。

現象世界に注意を注ぐことは、

現象世界が自分の外側に

自前で存在しているという誤解、

つまり無知によって起こっています。

しかし、

これが無知だと本心で確信することは

そう簡単に起こることではありません。

現象世界というものが

自分の内面の投影だというような話は、

このメルマガを読んでくださっている方は

おそらくどこかで聞いたことがあるでしょう。

でも、そういう話は

お話としては理解できても、

そう聞いたからといって直ちに

現象世界への興味が消えるものでもありません。

自分がじつは神であり

神である自分が興味を持ったがゆえに

現象世界が顕現しているのだといった話を

ただちに信じられるでしょうか?

いや、そう簡単には信じられない。(-_-;)

つまり、われわれは

現象世界の実在は信じられるのに、

真我しか実在していないということは

信じられない状況にいるわけです。

──────────────────
 あなたはまったく
 想像に夢中にさせられてしまったため、
 どれほど実在から遠く離れてさまよい歩いたのかさえ
 わからなくなってしまったのだ。
 
 『私は在る』(p306-307)
──────────────────

それでもなお、

悪夢のなかで苦しみ続けるのはつらいので、

なんとかその状況からの脱出したいと

真我の実現の方法を求めるわけです。

でも、マハルシは

解脱(ムクティ)のための方法など

存在しないと言います。

──────────────────
 マハルシ
 ムクティという言葉は非常に魅惑的だ。
 人はなぜ探求するのだろうか?
 そこに束縛があると信じるために
 解脱を探し求めるのである。
 だが事実は、
 そこに束縛はなく、ただ解脱だけがある。
 なぜそれを解脱と名づけておいて、
 それから探しに出かけるのだろうか?
 
 質問者 本当です。しかし、私たちは無知なのです。
 
 マハルシ
 ただ無知を取り除きなさい。
 するべきことはそれだけだ。
 ムクティに関する疑問はどれも認めがたい。
 ムクティが束縛からの解放を意味しているため、
 それは束縛の存在も暗示している。
 だが束縛は存在せず、
 それゆえムクティもまたありえないのである。
  
 『あるがままに』(p37-38)
──────────────────

> そこに束縛があると信じるために
> 解脱を探し求めるのである。

たしかに。

> だが事実は、
> そこに束縛はなく、ただ解脱だけがある。

(-_-)

われわれは

真我の実現の方法を求めているのに、

マハルシは

そんなものはないと言うのです。

なぜなら、実際は

真我の実現だけが実在しているのだから、と。

これはどういうことでしょうか?

マハルシはけっして

シニカルな言い方をしない方です。

でもこれは、

ちょっとシニカルスパイスを効かせるなら、

あなたは本当に

それしか実在しない真我の実現のほうに

興味があるのだろうか?

それとも本当は、

見かけの騒音のほうにもっと興味を持っているのでは?

という意味なのかもしれません。

しかし、それでもどうしても

真我の実現の方法を知りたいという人々に向けて、

「私という想念」に意識を集中させる

真我探求の方法を授けたのでしょう。

そして、マハラジはグルから教わった

「私は在る」という感覚に集中する方法を

教えたわけでしょう。

もしかしたら両方とも、

湧いてくる想念を無視する方法かもしれません。

様々な技法があり、

その技法に向く人たちがいるように、

マハルシやマハラジの技法にも

それにピッタリの探求者たちがいることでしょう。

でも、

どうも自分にはその集中力が欠けているらしい。

このどちらの方法にも引っかからない

箸にも棒にもかからない自分には

見込みはないと思っていました。

でも、集中しきれない

わたしのようなタイプにも

意外な可能性を感じさせてくれたのが

ヒロさんの訳されたネイサン・ギルの

『すでに目覚めている』でした。
http://goo.gl/rx9Q8W

たとえば、こんな言葉があります。

──────────────────
 「私」がないとき、静寂があります。
 「私」が再び現れて、
 静寂をひとつの経験として自分のものにします。
 実際に起こっているのは、
 経験しているということ、
 知っているということ、
 見ているということだけで、
 それが「静寂」なんですが、
 同時に生という劇の中の一場面として
 「私」という現れも起こっています。

 つまり静寂は経験ではありません。
 そして、
 どんなことも経験ではありません。
 経験するということが起こっているだけで
 ──経験している人は、そこにはいません──
 単純に「今あるもの」なんです。
 「私」という現れも、
 今この瞬間に起こっている形としてそこに含まれています。
 
 『すでに目覚めている』(p128)
──────────────────

これ、どうですか?(@_@)

> 「私」がないとき、静寂があります。

ここでは静寂の意味が通常とは違います。

静寂とは静けさの体験の意味ではなく、

「私」という思いが湧いていないときが

静寂だというわけです。

> 「私」が再び現れて、
> 静寂をひとつの経験として自分のものにします。

現れるのは体験としての静寂の瞬間ではなく、

静寂の中に「私」という想念が現れて、

静寂をひとつの自分の経験にしてしまうのだと。

> 実際に起こっているのは、
> 経験しているということ、
> 知っているということ、
> 見ているということだけで、
> それが「静寂」なんですが、
> 同時に生という劇の中の一場面として
> 「私」という現れも起こっています。

実際に起こっているのは、

今起こっているこの

経験しているということ、

知っているということ、

見ているというこの静寂の機能面と、

同時にその内容としての生の劇があるだけだと。

そしてその生という劇の中の一場面として

「私」という現れも起こっているのだというのです。

ネイサン・ギルにとっては

「私」という現れは

そのような生という劇の中の一場面、

生という劇の中に浮上する

ひとつの想念にすぎないわけです。

> つまり静寂は経験ではありません。

つまり静寂というのは

生の劇の中の一場面である

「私」が経験として所有できるものではない。

起こっていることすべての背景に在るものだから

体験としての静寂に執着する必要など

まったくないというわけです。

> そして、
> どんなことも経験ではありません。

つまり、

起こっているどんなことも「私」の経験ではないと。

> 経験するということが起こっているだけで
> ──経験している人は、そこにはいません──
> 単純に「今あるもの」なんです。

これ、すごくないですか!(@_@) ⌒★?

しかも、じつに明瞭じゃないですか。

> 「私」という現れも、
> 今この瞬間に起こっている形としてそこに含まれています。

そういうことなんですよ。

「私」という現れも、

今この瞬間に起こっているひとつの内容なのです。

良くも悪くもない。

起こっているひとつの風景です。

「私」がひとつの風景であることが忘れられて

それがフィルターの役割を果たし始めると

他のすべての風景が

「私」の所有物のようにみえるだけだと。

これは、了解可能な概念だと思います。

それから、こんな言葉もあります。

──────────────────
 Q そうなっていると、
  自分は人間であって、
  分離して存在しながら壁を見ているんだ
  という感じになりますね。

 A ええ。

 Q あなたにもそういう経験があるんですか?

 A 見かけ上は今でもそうなっています。
  そういう分離の感覚
  ──自分は壁を見ているひとりの人間だという感覚──
  は機能的なものです。
  劇の中で、
  劇の一部として機能を果たしているんです。
  見かけ上の距離や分離がなかったら、
  劇はうまくいかないでしょうから。

 Q なるほど。
  ということは自分を鏡という感覚があっても
  まったくかまわないというわけですか?

 A 当然です。
  全然かまいませんよ!

 Q その点が変わらないとしても、
  自分本当は一体性なんだということが認識できていない
  という意味ではないんですね。

 A この登場人物しても現れは今でも起こっていますが、
  それが自分のすべてではないということが分かっているんです。
  僕たちは人間であるだけではなくて、
  人間にこうして気づいているということでもあります。
  気づきであり、気づきの内容でもあるんです。
  一体性とは一切のすべてです。
  見かけ上の分離も一体性です。
  何かが変わらないといけないということはありません。
  たった今すでに気づきがあって、
  今この瞬間にも内容を見ています。
  
 Q ええ、
  でもそれは気づきだということに気づいていないって
  ことですことですね。

 A まあ自分の本質、
  気づきとその内容というふたつの側面を持った
  一体性のことを繰り返し思い出すというのが、
  劇の中で起こっている
  この会話の「ポイント」であるように見えますね。
  気づくということが起こって、
  気づかれているものがあります。

 『すでに目覚めている』(p114-116)
──────────────────

(-||-)

なんだか、

とても気が楽になったのです。

──────────────────
 あなたは在る。
 ほかのすべては現れにすぎない。
 
 『私は在る』(p421) 
──────────────────

(-||-)

──────────────────
 永久的なもの、それはあなた自身の存在である。
 真我として在りなさい。
 それが至福である。
 あなたはいつもそれなのである。
 
 『あるがままに』(p58) 
──────────────────

……。(-_-)

ありがとうございました。<(_ _)>

(-||-)

今日はこんなところで。

……。

m(_ _)m


       ………○…………○…………○………


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■ 2.編集後記:
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ネイサン・ギルの

「見抜かれているんです」

という言葉の意味が浸透してくるようです。

「静寂というのは体験ではない」

すばらしいですね。

(-||-)

今日は思いがけずずいぶん書きました。

おやすみなさい。

<(_ _)>


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■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
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