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━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
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 ☆☆     ☆☆『アセンション館通信』2017/11/26(第711号)
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☆☆      ☆★ 【気刊】――「私は在る」に導かれ♪――
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇

このメルマガはアセンション館主人pariと称するあるパターンに
浮上している心象風景の報告です。

 苦痛から欲望が生まれ、苦痛のなかで欲望を満たそうとする。

 世界の根本原因は自己愛である。そのために私たちは快楽を探し
 求め、苦しみを避ける。自己愛を真我への愛に変えなさい。
 すると画面は変わってくる。(ニサルガダッタ)

内容は人畜無害、でも読む人は相当変わっていますね。現在851名
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◇◇ もくじ ◇◇

1.海面の泡立ちがバカなわけでも

2.編集後記
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■ 1.海面の泡立ちがバカなわけでも
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今日は素晴らしい晴天です。

晴天だから素晴らしいってのも、

ちょっとあれですが。

(*^_^*)

さて、またまた一週間が過ぎて、

楽しい“アセンション噺”ならぬ「私は在る」噺に、

お付き合いいただく今がやってまいりました。

『アセンション館通信』配達人の pari です。

自分でも何やってんだろうと

思わないでもありません。

でもね、これ、

誰かがやっているわけでもないですしね。

この身体が息をしている間は

やり続けるのかもしれませんし、

そのうちやめるのかもしれませんし。

わかりません。

ただ、今はこういう思いが湧いてきています。

人間、いつもやってることしかできないんだなって。

今、pariパターンに起こっているのは、

湧いてくる想念をその時ふうにまとめることです。

だから、こんな文章は自然に出てきます。

つまり、想念という

意識の意味的・情緒的側面に表現を与えよう

というような機能が起こっているらしい。

それをpariパターンに欲望が起こっていると言えば、

そう言えないこともありません。

でも、それを起こしているpariという

欲望の主体が存在しているわけではありません。

そんなことは自明です。

ただ、そうなっているだけです。

そうなっている原因や理由を数え上げれば、

もちろん、好きなだけ見つかることでしょう。

でも、探さなければそんなものは現れないし、

現れたそれが真実だというわけでもない。

じゃ、何がそれを起こしているんだと言えば、

そんなものは何もないんですよね。

たとえば、

それを「興味」と名づけてみましょうか。

ある欲望とか、興味とかいった、

意識のコンテンツにフォーカスが合っているわけです。

それに意識エネルギーが流れていけば、

その欲望や興味が活性化して

いろいろな理屈や論理をもっともらしく捏ね上げる。

それも、もちろん、つかの間の意識のコンテンツです。

それ自体が存在しているわけではないので、

放っておけばそのうち消えていきます。

「ジャイアンツは永遠です」なんて言っても、

それはその瞬間、

そういう思いの火花が飛んだと言うだけで、

もちろん、ジャイアンツが永遠になるわけでもなく、

ジャイアンツなどという実体が存在するわけでもない。

まあ、そんなようなことです。

理屈はとても自在に浮上してきます。

誘引する興味のエネルギーに対応して、

まさにピッタリの想念が湧いてくる。

つまり、探求ということが

起こっているのです。

──────────────────
 探求者は消え去るが、探求は続く。
 探求は究極であり、永遠の実在だ。
 
 『私は在る』(p241)
──────────────────

さっき、

【人間、いつもやってることしかできないんだなって】

思いが湧いているという話をしました。

pariパターンには今、常時

ただただ静かになりたい

という思いが湧いていないわけです。

だからこうして、エネルギーが理屈の方に流れる。

誰が悪いわけでもない。

ただ、そういう状態が起こっているというだけです。

たとえば、意識の海を思えば、

pariパターンは海面の泡立ちの中にあって

必然的にそこで揺動しながら浮かんでいます。

その泡立ちの中に一瞬

ああ、下の海底の方に行きたいな、

なんて想念が湧くことがあったとしても、

ひたすらその想念にフォーカスが合う

ということが起こるわけでもありません。

だから、海面付近の大波小波の中で

押し流され泡立っているというわけです。

何も不思議はないし、

ちょうどいいことが起こっているだけです。

そしてpariパターンというものは

そういうものなのだという想念が湧いていたとしても、

そういう固執がいつまでも続くという保証もない。

そういうフォーカスの対象となる意識コンテンツが

自分であるわけではないということが自明になれば、

いつの間にか、

湧いてくる想念にはそれほど興味をそそられなくなる

ということが起こらないでもありません。

いずれにせよ、想念はただの想念、

一瞬の【見かけ】にすぎないわけです。

それが自分であるわけでもありません。

自分なんてものがもしあるとすれば、

それはその【見かけ】を見ている者、

永遠の気づき以外にあるはずもないわけです。

──────────────────
 しかし実際には、何も起こってはいない。
 太陽はいつもそこにあったし、夜もなかった。
 マインドが幻想の糸で果てしなく紡ぎだす
 「私は身体だ」という観念によって
 盲目になっていただけなのだ。
 
 『私は在る』(p132)
──────────────────

【しかし実際には、何も起こってはいない。】

というこの言葉がいつも気になっていました。

pariパターンに起こったことは

これまで何度も言ったことがありますが、

  <何故にすべては始まってしまったのか?>

という疑問です。

何のためにこんなものがあるのか?

こんなものはまったく要らないではないか。

という、まあ、憤懣のようなものでした。(*^_^*)

あたかも、自分が犠牲者でもあるかのように。

でも、ちょっと考えてみてください。

  <何故にすべては始まってしまったのか?>

という問いに対する答えというのは

いったい、ありうるものでしょうか?

それはこれこれこういう理由があったからだ、

などという答えがありうると思いますか?

しかも、pariパターンが理論武装していたのは

『カラマーゾフの兄弟』の次兄イワンの観点です。

おねしょをして折檻された幼児が、

押し込められた便所の中で、

「神ちゃま」と助けを求めるとき、

その幼児の苦痛を正当化できるような神の法則が

あったとしても、

自分にはそんなものは受け入れられない、

というあのイワンの言葉です。

それは意識の進化のためだ、などという戯言を

いっさい受け付けないと

前もって宣言している意思表明とも言えるでしょう。

もしこんなものが、

意識の進化のために必要だと言うのなら、

じゃ、その意識の進化とやらは

いったい何のために必要なのか?

という質問の自動ループを引き起こすだけです。

それに、もしその意識の進化が必要だというなら

最初から進化していたらいいじゃないか、

その意識の進化のための途中の苦痛や苦悩は

いったい何のために必要なのか、ということになる。

というわけで、この

  <何故にすべては始まってしまったのか?>

という疑問は、結局は、

あなたはいったいなんの権限があって

自分がそんなことを訊いていると思っているのか?

そういうことを訊くあなたとはいったい誰なのか?

という疑問に逢着せざるをえないわけです。

こういう疑問が唯一納得できる回答、

もし、そういうものがありうるとしたら……。

わかります? (*^_^*)

それが、

【しかし実際には、何も起こってはいない。】

ということなのです。

あらゆる知覚対象は、

その「形」も「名前」も、

言い換えて、客観的現象も湧いてくる想念も、

すべては物理現象、つまりは物質です。

認識できるものはすべて死物です。

すべては単なる【見かけ】です。

しかし、そんなことを言っても

生きているわれわれは

実際に苦しむじゃないか?(?_?)

現に生きているものが苦しんでいるじゃないか?

苦痛と快楽を味わっているじゃないか?

という観点はありえます。

そういう思いがずっと抜けませんでした。

でも、その思いが指し示している

方向自体はわかっていました。

それは、

苦しんでいる者、快楽にひたっている者、

そういう者は実際は実体として存在していない

ということでした。

ただ、それに納得するまでに

必要な時間がかかったということです。

質問者というものは存在しない、

実際に起こっているのは質問だけだ、

ということはもう自明になっていました。

セーラー・ボブさんの

次の問答を知っていましたから。

──────────────────
 質問者 この質問を取り上げていただけるかどうか、
     不安なのですが。
 
 ボブ
 どのような質問ですか?
 
 質問者 「私とは誰か?」です。
 
 ボブ
 ほう。
 あなたはこれまでに自分が誰か、発見したことがありますか?
 
 質問者 ありません。
 
 ボブ
 「私とは誰か?」を尋ねる代わりに、「私とは誰か?」という質
 問をしているのは誰か、「私とは誰か?」を尋ねているこの質問
 者は誰なのか、と自分自身に尋ねてください。
 
 質問者 う―ん。
 
 ボブ
 あなたはそこから何を理解しますか?
 
 質問者 それは心、思考、ということですかね。
 
 ボブ
 なるほど。
 心ないし思考が質問者というわけですね。
 では、心ないし思考が、その質問を尋ねている者は誰か、と尋ね
 ているわけですか?
 心ないし思考が質問者である、と。
 それでいいですか?
 
 質問者 はい。
 
 ボブ
 さて、質問は何でしたっけ?
 
 質問者 「私とは誰か?」です。
 
 ボブ
 それは何ですか?
 
 質問者 一つの思考です。
 
 ボブ
 ええ、それは観念、思考ですね。
 ということは、質問者と質問はともに一つの観念で、質問者イコ
 ール質問そのもの、ということになります。
 それらの間に、何の違いもありません。
 ですから、もし質問者がいなくなれば、質問もありえないのです。
 質問や質問者が存在しなければ、そのときあなたはどうなります
 か?
 
 質問者 もし質問者がいなくなれば質問もありえない?
 
 ボブ
 質問も質問者も存在しないとき、あなたはどうなりますか?
 
 質問者 なにもない、でしょうね。
 
 ボブ
 あなたは思考の持ち主、観念の担い手です。
 質問者と質問を削除したとき、そこにあるのは、あるがままの裸
 の意識です。
 あなたは、「私とは誰か?」を発見したのです。
 
 『ただそれだけ』(p102-p103)
──────────────────

(-||-)

ボブさんのこの問答は秀逸ですね。

> ということは、質問者と質問はともに一つの観念で、
> 質問者イコール質問そのもの、ということになります。
> それらの間に、何の違いもありません。

質問者イコール質問そのもの……。

質問者とは質問のことです。

質問とは、

何かを問おうとするその質問のエネルギー、

つまりは、ある物理現象です。

それがいかに微細なものであれ、

それは物質です。

つまり、質問とは

問いのエネルギーという物理現象に

気づきがフォーカスしているということです。

その質問に気づいていることです。

苦しむ者も同じです。

苦しむ者とは

苦しみを表現する物理現象に

気づきがフォーカスしているということです。

気づきが苦しみという物理現象に

興味を持っているのです。

苦しみという物理現象とは

ある状態にある物質のことです。

苦しみそれ自体は物質の状態です。

それは死物であり、

それ自体は何も感じることなどありません。

しかし、

気づきがその状態に興味を持ち

その状態にフォーカスして

その状態を感じようとするなら

その状態に気づきが自己同化するしかない。

そのとき、

ある体験内実が起こります。

そしてもし、

その体験内実に「苦しみ」というラベルを貼り

それを避けるべきものとする観念が生じるなら、

その次からは苦しみを回避しようとする

自動過程が起動することになる。

同じように、

気づきがある状態に興味を持もって

その状態に気づきが自己同化して、

ある体験内実が起こったとして、

もしその体験内実に「快楽」というラベルを貼り

それを好ましいものとする観念が生じるなら、

その次からは快楽を追求しようとする

自動過程が起こることになる。

これが欲望であり欲動推進です。

なんのことはない、

気づきがある【見かけ】に興味を持って

ある物質状態に自己同化しただけなのです。

現象世界の内部構造がどうなっているかなど

そういう細かいことはもちろんわかりません。

どこまでわかったところで、

要するに、つかの間のある解釈にすぎません。

無限の上昇階段をどれほど上っても

上に進むことなどできないし、

無限の下降階段をどれほど降りても

下に進むことなどできないようなものです。

そんなことをしなくても、

つねに「いま、ここ」が起こっていることに

間違いないわけです。

でも、そうではあっても、

上に向かって

階段を昇るときには昇らざるをえないし、

下に向かって

階段を降りるときには降りざるをえません。

それを前に推し進められるような

誰も存在していないのですから。

現象世界の全体が

全体の都合でやっているだけのこと。

これ以上もなければ、

これ以下もありえないわけです。

その永遠の今のなかで、

意識の海の海底に向かいたくなれば、

それが起こるしかないわけです。

別に、海面の泡立ちがバカなわけでも、

海底の静寂がエライわけでもない。

すべては自然現象、

すべてがいまこのままで、

あるがままなのだと思います。

(-_-)

──────────────────
 あなたは在る。
 ほかのすべては現れにすぎない。
 
 『私は在る』(p421) 
──────────────────

(-||-)

──────────────────
 永久的なもの、それはあなた自身の存在である。
 真我として在りなさい。
 それが至福である。
 あなたはいつもそれなのである。
 
 『あるがままに』(p58) 
──────────────────

……。(-_-)

ありがとうございました。<(_ _)>

(-||-)

今日はこんなところで。

……。

m(_ _)m


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■ 2.編集後記:
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今日はまた温かい日ですね。

まだまだ明るいようです。

<(_ _)>


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■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
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