home > 通信 >『アセンション館通信』第712号:誰が苦しんでいるのか?



━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
  ☆☆   ☆☆ 
 ☆☆     ☆☆『アセンション館通信』2017/12/03(第712号)
☆☆   ☆   ☆☆
☆☆      ☆★ 【気刊】――「私は在る」に導かれ♪――
-☆☆---------☆☆------------------------------------------
 ☆☆   ☆☆          https://www.ascensionkan.com/
━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇

このメルマガはアセンション館主人pariと称するあるパターンに
浮上している心象風景の報告です。

 苦痛から欲望が生まれ、苦痛のなかで欲望を満たそうとする。

 世界の根本原因は自己愛である。そのために私たちは快楽を探し
 求め、苦しみを避ける。自己愛を真我への愛に変えなさい。
 すると画面は変わってくる。(ニサルガダッタ)

内容は人畜無害、でも読む人は相当変わっていますね。現在851名
------------------------------------------------------------
◇◇ もくじ ◇◇

1.誰が苦しんでいるのか?

2.編集後記
------------------------------------------------------------

━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■ 1.誰が苦しんでいるのか?
━━━━━━━━━━━━━━━━━━

今日の夢の表面は……、

朝方はすっかり曇天で覆われていたのに、

今になってちょっと日が出てきました。

(*^_^*)

さて、またまた一週間が過ぎて、

楽しい“アセンション噺”ならぬ「私は在る」噺に、

お付き合いいただく今がやってまいりました。

『アセンション館通信』配達人の pari です。

実際には、わたしは身体を持っていません。

それが事実です。

それは覚者方が語る事実でもあり、

嫌々ながらも誰もが認めざるをえない事実でもあります。

でも、体験をするには身体が必要です。

知覚される現象のなかで

環境と分離した主体としての自分がいなければ

体験など起こりえないわけですから。

知覚される現象のなかに

周りの環境から分離した主体としての自分がいて、

その自分が環境の中に自分と似た他者を発見する。

そうした舞台設定があって

はじめて物語としての体験が紡がれます。

そうやってこの今の状況があるわけです。

そういう物語、そしてその中の状況、

いわゆる現実とでも言いましょうか、

こういうものはすべて想像です。

でも、その想像で構築した現実のなかで、

身体を持ったわたしは苦しんでいる。

そして……、挙句の果てに、

その身体からの解放を望んだりするわけです。

わたしはたしかに苦しんでいます。

でも、その苦しんでいるわたしとは

いったい誰なのでしょうか?

いったい誰が苦しんでいるのか?

そう、この体験をしているわたしが苦しんでいる。

では、この体験をしているわたしとは誰か?

知覚される現象の中で

主体として振る舞える身体を持ったわたしです。

知覚される現象の中で

同じく知覚される身体を持ったわたしが、

身体からの解放を求めて苦しんでいる。

皮肉であろうがなかろうが、

これが紛れもない事実です。

でも実際は、わたしは

主体として振る舞える身体など持ってはいません。

身体に指示されたら、

腹が空いたと食物を口に運ぶかもしれませんが。

その上、

先々身体を維持できなくなる心配までして、

身が細るような思いを味わうかもしれない。

でもそれは、

ただ身体に命令されて窮地に陥っているだけで、

主体として振る舞える身体を持っている

とは言わないでしょう。

でも、こういうことの全体が、

わたしが願ったことそのもの、

わたしが想像したことそのものであるのも事実です。

わたしが体験することを願って、

わたしが体験するための身体を持って、

そして今そのことを体験している……。(-_-;)

ところが実際は、わたしは今も、

記憶の中にある過去でも、

想像の中にある未来にも、

実際は、自分の身体など持ってはいないのです。

現象世界の【見かけ】は

現象世界固有の内部構造に規定されていて、

それは知覚しているわたしが

介入できるようなものではないからです。

知覚された現象世界の中に

自分の身体を持っていると思うことを、

夢を見ていると言うのでしょう。

なぜなら、

知覚された現象世界の中に

自分の身体を持っているのなら、

その人は知覚された現象世界の中にいなければならない。

これは映画に喩えるなら、

映画の中の登場人物の立場です。

映画の中の登場人物は、

その映画のシナリオで規定された

物語の構成要素にすぎない。

その登場人物は物語の中にいて、

その物語を楽しむことなどできません。

その映画のシナリオのとおりに

たとえば、苦しむ役を演じるしかない。

映画を楽しむのは映画を見ている観客です。

──────────────────
 それは映画のようなものだ。
 スクリーン上には光があり、
 その上を去来する影が、
 何かのドラマが演じられているような印象を
 観客に与えるのである。
 もし映画のなかで、
 観客もまたドラマの一部として
 スクリーン上に見られたとしたら、
 見る者と見られるものが
 ともにスクリーン上にあることになる。
 それをあなた自身に当てはめてみなさい。

 『あるがままに』(p50)
──────────────────

> もし映画のなかで、
> 観客もまたドラマの一部として
> スクリーン上に見られたとしたら、
> 見る者と見られるものが
> ともにスクリーン上にあることになる。

わたしの状態がまさにこれであることは、

紛れもない事実です。

わたしは現象世界という物語の舞台を眺めながら、

同時にそこに登場人物として

身体を持って登場しているわけです。

考えようによっては

とても恵まれた奇跡的なポジションとも言えますが、

同じく考えようによっては

とても悲惨な監獄のようなポジションとも言える。

映画の観客の立場に立つのか、

それとも映画の登場人物の立場に立つのかで、

状況はまったく変わってきます。

映画の観客の立場に立つなら、

これはこの上もなく完璧な娯楽です。

しかし、もし映画の登場人物の立場に立つなら

これはかなり悲惨なことにもなりかねない。

必ず最後には死ぬ運命の身体を根拠に、

何とかして生き延びるための闘いの生涯を

最後まで強制されているようなものですから。

結局は、あなたはいったい

自分を誰だと見なしているのか?

ということです。

幸福になることを求めているという

わたしとはいったい誰なのか? (-_-;)

幸福になることを求めているというなら、

それは今のままでは

自分は幸福ではないということでしょう。

だからこそ、

身体からの解放を求めたりするのでしょうから。

だが、残念ながらというか、

ありがたいことにというか、

わたしは知覚可能な現象世界の中に

自分の身体など持ってはいません。

なぜなら、

わたしはこの身体を知覚しているからです。

わたしはこの身体なのか、

それともこの身体を知覚している者なのかといえば、

これは迷いようがありません。

しかし同時に、

この身体の二歳から三歳あたりの何処かで、

わたしはこの身体が自分だと納得したわけです。

そうでなければ、少なくとも

そのように周りから説得されたわけです。

では、この身体が自分だと納得したという

そのわたしとはいったい誰なのか?

もし、転生などという観念を信じるなら、

それは体験すること求めて

転生したかったその自分ということになる。

もしそうなら、今のこの状況こそが

その自分の願いがかなった状態です。(^_-)

もし、そういう自分がいるとするなら、

その自分とは

体験を求めたその欲望そのものだということになる。

ところで、その欲望そのものは

その欲望を知覚できるものでしょうか?

いや、それは無理でしょう。

欲望とは欲望を表現するための表現媒体です。

それは欲望するという物質状態であって、

それが欲望に気づくことはできません。

要するに、

もし魂という実体が存在するとすれば、

それは欲望でなければならないが、

欲望は物質状態であって、

その欲望に気づいているものが存在しなければ、

現象できないものだということです。

欲望自体はたんなるモノです。

知覚の対象である現象の中には、

どんな自律的実体も存在していない。

ただ、それでも

今この瞬間に想念は湧いてきます。

今この瞬間に湧いている想念が

どう眺められているのか?

それだけが、リアルな話です。

今この瞬間に湧いてくる想念はあります。

でも、それは見られているから

現れることができる。

それを見ているのは誰か?

もちろん、あなたです。

つまり、わたしです。

あなたやわたしが、

もし「自分」という言葉で、

身体や経歴などを指しているのなら、

あなたの自分とわたしの自分は

もちろん、異なります。

でももし、

あなたやわたしが、

「自分」という言葉で、

自分はいるという存在感の根拠を指しているのなら、

その「自分」はまったく同じものです。

たったひとつの気づきしか在りませんから。

たったひとつしかないその不動の気づきが、

物質によって構成された現象世界を、

すべての【見かけ】が起こることを可能にしている。

この気づきだけが

「自分が存在する」ことを知っている

たったひとつの存在です。

これは永遠に気づいていて眠らない。

気づいているということは

仕事でもないし努力でもないからです。

でもその気づきが、

どういうわけかはわからないけれど、

「リーラ(神の隠れん坊)」とかいう

娯楽だかイタズラだかをしているのだという。

これは自分が自分にかける魔法だから、

自分以外にこの魔法にかかる者はいないし、

自分はこの魔法には絶対かからない。

でも、魔法にかかったという

誤解は起こる可能性があるらしい。

それは現象という【見かけ】のなかで起こる。

死物である物質が構成するさまざまな想念が、

自前で存在していると誤解したとき、

そしてその誤解が記憶され、参照され

新たな想像を引き起こすとき

それが起こるのだという。

その時苦しみが現象する。

その誤解状態のなかで、

その夢のなかで、

それが起こるのだと。

気づいている者が忘れられたとき、

それが起こるのだと。

──────────────────
 至高の真我から見れば、
 この蜃気楼のような世界のなかで
 生を授かるという幻想は、
 「私」と身体との同一化という
 利己的な無知以外の何ものでもない。
 真我を忘れはてた者たちは、
 生まれては死に、
 死んでは再び生まれることだろう。
 だが、至高の実在を実現して心が死にはてた者は、
 生死を超えた実在のなかだけにとどまる。
 真我を忘れて身体を真我と想いなし、
 果てしなく誕生を繰り理し、
 そしてついに真我を知って真我に成るということは、
 世界中を放浪した夢から覚めるようなものだ。
 
 『あるがままに』(p336-337)
──────────────────

(-_-)

(-||-)

──────────────────
 あなたは在る。
 ほかのすべては現れにすぎない。
 
 『私は在る』(p421) 
──────────────────

(-||-)

──────────────────
 永久的なもの、それはあなた自身の存在である。
 真我として在りなさい。
 それが至福である。
 あなたはいつもそれなのである。
 
 『あるがままに』(p58) 
──────────────────

……。(-_-)

ありがとうございました。<(_ _)>

(-||-)

今日はこんなところで。

……。

m(_ _)m


       ………○…………○…………○………


『私は在る』の「目次」はここ↓に置いてあります。
https://www.ascensionkan.com/books/I_AM_THAT-index.html

ときどき「ニサルガ辞書」で遊んでみてください。
https://www.ascensionkan.com/ndic/

新しい「ラマナ・マハルシ辞書」はここです。
https://www.ascensionkan.com/rdic/

おこがましくも『アセ通』既刊号はすべてここに置いてあります。
https://www.ascensionkan.com/mm/


       ………○…………○…………○………


▼『アセ通』への「私は在る」関連ご意見投稿フォーム:
http://www.formzu.net/fgen.ex?ID=P48750702
というのを作らせていただきました。(^^;)

「私は在る」に関するご意見・ご感想・シェアリング、または単な
るメールなど、ご自由にお書きいただければと思います。


       ………○…………○…………○………


▼『アセ通』への「私は在る」関連ご意見投稿フォーム:
http://www.formzu.net/fgen.ex?ID=P48750702
というのを作らせていただきました。(^^;)

「私は在る」に関するご意見・ご感想・シェアリング、または単な
るメールなど、ご自由にお書きいただければと思います。


       ………○…………○…………○………


▼『アセンション館通信』への情報ご投稿フォーム
http://www.formzu.net/fgen.ex?ID=P87119518


       ………○…………○…………○………


━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■ 2.編集後記:
━━━━━━━━━━━━━━━━━━

今日はまだまだ明るいですが、

夕闇が迫ってきました。

<(_ _)>


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
  → メール: pariアットマークjk2.so-net.ne.jp
------------------------------------------------------------
このメールマガジンは二つの配信スタンド
「まぐまぐ」は:http://www.mag2.com/m/0000126287.html
「melma」は  :http://www.melma.com/backnumber_110091/
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
Copyleft(C)2017 paritosho
------------------------------------------------------------