━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
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☆☆ ☆☆『アセンション館通信』2018/01/14(第718号)
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☆☆ ☆★ 【気刊】――「私は在る」に導かれ♪――
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇
このメルマガはアセンション館主人pariと称するあるパターンに
浮上している心象風景の報告です。
苦痛から欲望が生まれ、苦痛のなかで欲望を満たそうとする。
世界の根本原因は自己愛である。そのために私たちは快楽を探し
求め、苦しみを避ける。自己愛を真我への愛に変えなさい。
すると画面は変わってくる。(ニサルガダッタ)
内容は人畜無害、でも読む人は相当変わっていますね。現在853名
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◇◇ もくじ ◇◇
1.まるで冗談のようにすべては完璧
2.編集後記
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■ 1.まるで冗談のようにすべては完璧
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慌ただしくも平穏な日々がつづいています。
夢のなかで。
(*^_^*)
さて、またまた一週間が過ぎて、
楽しい“アセンション噺”ならぬ「私は在る」噺に、
お付き合いいただく今がやってまいりました。
『アセンション館通信』配達人の pari です。
相変わらず三ヶ月に一度
東京の虎の門病院に通っています。
先日は我ながら珍しい(というか愚かしいというのか(^_-))
体験をしました。
毎回出かけるときにはおまじないみたいに
何かしら小さな本を持っていきます。
先日持っていったのは『本の中の世界』という
湯川秀樹さんの古い岩波新書でした。
どういうわけか、吸い込まれるように
文字どおり『本の中の世界』に入りました。
診療が終わってケルンでお昼を食べて、
また帰りの地下鉄に乗りました。
ところが表参道で乗り換えるはずが、
気がついたら終点の渋谷でした。
そこでホームをウロウロしたのですが、
あそこは外に出なきゃ乗り換えができないんですよね。
昔は渋谷の住人だったのですが、
今となってはすっかりお上りさんです。
ホームの外に出てもどうにも入り口がわからない。
前にもそんなことがあって、
そのときは井の頭線に乗って帰りました。
まあ、乗越の常習犯みたいなところはあります。
あまり地上世界との接触面がよくない。(*^_^*) \←……
で、まあ、先日は表参道への折り返し方を
メトロの駅員さんに聞いてみました。
そしたら、親切に二種類の紙切れをくれて、
表参道までの運賃をタダにしてくれました。
千代田線から小田急に乗り入れで帰るつもりです。
ところがですねぇ…… (-_-)
あいにく
湯川秀樹さんの『本の中の世界』にハマっていたのです。
なんと、気がついたら終点の小田原についていた。(-_-;)
こんなことがあるものかと思いながら、
小田原で急行の新宿行きに乗り換えました。
一つ目二つ目の駅を確認しながら、
またちょっと『本の中の世界』に入りました。
最後の「短い自叙伝──ある物理学者の宿命──」
というのがめちゃ面白かった。
電車が停車したので、
ちょっと今どのあたりかなと思って
電車の窓の外を見たのです。
すると新百合ヶ丘という看板が目に入りました。
新百合ヶ丘方面という意味なのかな
と思っているうちに電車のドアは閉まりました。
さすがにちょっと気にしながら窓の外を気にしていると
次に停まったのは百合ケ丘でした。(*_*) ⌒★?
さすがにこれは降りざるをえない。
まあ、そんなわけで、
『本の中の世界』という異次元に飛んでいて
小田急線を二往復した感じです。
ま、pariパターンというのはそんな夢です。
これでいいんですよね。(*^_^*)
これでちゃんとpariパターンも
宇宙の夢の道具としての役割は果たしている。
pariパターンという問いの夢は
いつもある時期の問いを意識しています。
ある通学路の坂道を降りているときのことでした。
自分はこの人生が
まったくの無駄であることを知っている。
いつかしらこの自分が悟って
この無駄に意味があることがわかったとして、
その悟りは今のこの瞬間を保障できるだろうか?
この瞬間の不毛性を変容できるだろうか?
そんなことできるわけがない。
未来の悟った自分がそのすべての不毛の意味を
解き明かしたとしても、
今の自分がそれを許さないだろう(-_-;)、と。
元気でしたよね。(*^_^*)
その瞬間はいかにもエネルギッシュで
未熟だったかもしれませんが、
それはそれで完全に完璧で
そして無意味だったのです。
今のこの瞬間が完全に完璧で、
そして無意味なように。(^_-)
あの瞬間もこの今の夢に貢献しています。
今のこの瞬間が今の夢に貢献しているのと
まったく同等に。
それは
こんな今のpariパターンの思いを聞けば
当時の彼が納得するだろうという意味ではありません。
納得などするはずもありません。
当時の彼にまったく意味は通じないでしょう。
彼の夢の世界への貢献は
そんなものは絶対に受け入れられないという
その独自性であることなのですから。
今現象しているこの瞬間……、
これは如何ともしがたいほどに完璧です。
現象世界というこの夢は、
登場人物たちの幸福を実現するために
現象しているわけじゃない。(*^_^*)
その逆に、
この現象世界という夢を実現するために、
その夢の構成部品として、
われわれ登場人物は現象しているのです。
とはいえ、
われわれという登場人物が存在するわけでもない。
登場人物は
知覚されてはじめて現象できるのです。
「知る者」と「知られるもの」の存在が
現象世界という夢の基盤です。
「知る者」は、
「知られるもの」とペアを組むことで、
現象世界という二元性の一翼を担って
「知られるもの」の仲間になる。
だから多様な自己同化レベルで
現象世界の一部となって現象する。
つまり「知る者」とは、
一種の虚構概念なのです。
たとえば、昔pariパターンは
「自分はこの人生が
まったくの無駄であることを知っている。
いつかしらこの自分が悟って
この無駄に意味があることがわかったとして、
その悟りは今のこの瞬間を保障できるだろうか?
この瞬間の不毛性を変容できるだろうか?」
と考えたそうです。
まず、冒頭の
「自分はこの人生が
まったくの無駄であることを知っている」
の「自分」ですが、
もちろん、
このような想念の所有者としての
「自分」という固有の人物が、
この想念とは別個に存在するというわけではありません。
この「自分」とはまさに
この人生がまったくの無駄であると信じる
その想念そのもののことです。
このつかの間の想念を
その時現象している身体と関連づけて、
勝手に「自分」という観念として
前提しているだけです。
この「自分」のなかには、
その時現象している想念や形態への自己同化が
色濃く反映されているわけです。
では、何がその想念や形態に自己同化しているのか?
もちろん、
その想念や形態に気づいている者、
つまり、いまこの記憶を思い起こし、
いまこのPC画面の文字を目の背後から見ている者です。
この記憶の物語への興味がつづくあいだは、
これらの物語が繰り返し再生され、
その「自分」の存在が再確認される……。
そして現象世界のなかに
自分は現れつづけるわけです。
──────────────────
もし映画のなかで、
観客もまたドラマの一部として
スクリーン上に見られたとしたら、
見る者と見られるものが
ともにスクリーン上にあることになる。
それをあなた自身に当てはめてみなさい。
『あるがままに』(p50)
──────────────────
そして過去の記憶の物語への興味が尽きないうちに、
新たな刺激と新たな物語の種が仕込まれるのでしょう。
そして「自分」が再確認される……。
ではもし、
新たな刺激とその体験への興味が尽きれば……、
「知る者」から「知られるもの」への
エネルギーの流れが止まるのでしょうか。
──────────────────
目覚めの状態のなかで起こっていることは何であれ、
知る者だけに起こる。
そしてその知る者自身が非実在であるため、
実際は、いままで何も起こってはいなかったし、
いまも何も起こってはいない。
そしてこれからも、
何も起こることはないのである。
『あるがままに』(p333)
──────────────────
> 目覚めの状態のなかで起こっていることは何であれ、
> 知る者だけに起こる。
これはまったく否定できません。
> そしてその知る者自身が非実在であるため、
この“知る者”が、
現象中の想念や形態が独立して存在しているという
誤解によって捏造された虚構概念であることは
理解できます。
ただその知的理解が
生活のあらゆる場面での指針になるかどうか……。
なかなか微妙なところです。(^^;)
セイラー・ボブさんの場合、
このあたりの曖昧さがないですが。
現象世界の想念や形態に
意識エネルギーが流れることがなければ、
この理解に定着して
揺らぐことはないでしょうね。
> 実際は、いままで何も起こってはいなかったし、
> いまも何も起こってはいない。
すべては想像の中にしかない。
> そしてこれからも、
> 何も起こることはないのである。
というわけです。
──────────────────
そして成熟のときを迎え、
その結果として永劫の無知の夜は、
智慧の日の出とともに溶け去るのだ。
しかし実際には、何も起こってはいない。
太陽はいつもそこにあったし、夜もなかった。
マインドが幻想の糸で果てしなく紡ぎだす
「私は身体だ」という観念によって
盲目になっていただけなのだ。
『私は在る』(p131-132)
──────────────────
> しかし実際には、何も起こってはいない。
(-_-)
> 太陽はいつもそこにあったし、夜もなかった。
すべてを見ていたのも、
見られたすべてもいつも真我だった。
> マインドが幻想の糸で果てしなく紡ぎだす
> 「私は身体だ」という観念によって
> 盲目になっていただけなのだ。
(-||-)
──────────────────
あなたは在る。
ほかのすべては現れにすぎない。
『私は在る』(p421)
──────────────────
(-||-)
──────────────────
永久的なもの、それはあなた自身の存在である。
真我として在りなさい。
それが至福である。
あなたはいつもそれなのである。
『あるがままに』(p58)
──────────────────
……。(-_-)
ありがとうございました。<(_ _)>
(-||-)
今日はこんなところで。
……。
m(_ _)m
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■ 2.編集後記:
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まるで冗談のように
いつもすべては完璧だったし、
まったく何も問題はありませんでした。
ただ、いろいろ問題があると思っていただけです。(^^;)
そして、それで良かったわけです。
それがそうあることが
完璧を支えているのだから。
<(_ _)>
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■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
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