━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
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☆☆ ☆☆『アセンション館通信』2018/01/21(第719号)
☆☆ ☆ ☆☆
☆☆ ☆★ 【気刊】――「私は在る」に導かれ♪――
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☆☆ ☆☆ https://www.ascensionkan.com/
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇
このメルマガはアセンション館主人pariと称するあるパターンに
浮上している心象風景の報告です。
苦痛から欲望が生まれ、苦痛のなかで欲望を満たそうとする。
世界の根本原因は自己愛である。そのために私たちは快楽を探し
求め、苦しみを避ける。自己愛を真我への愛に変えなさい。
すると画面は変わってくる。(ニサルガダッタ)
内容は人畜無害、でも読む人は相当変わっていますね。現在853名
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◇◇ もくじ ◇◇
1.苦しんでいるのは誰か?
2.いただいたお手紙から:andreさん
3.編集後記
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■ 1.苦しんでいるのは誰か?
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慌ただしくも平穏な日々を夢見ています。
PCが立ち上がらなくなったのです。
販売店に持っていくとハードディスクが不調で、
結局新しいのを入れてもらいました。
古いのも一応読めるので助かりましたが、
それでも環境を整えるのに色々あります。
一番手間取っているのは
Google日本語変換の単語登録した辞書が使えないことです。
いろいろググったりしたんですが、
必殺の情報にたどり着けません。
またF:ドライブとして存在している古いディスクに
「Googleドライブ」というのがあるのですが、
敷居が高くてそのディレクトリに入れない。
夢の中ではハマった分だけ色々あります。
(*^_^*)
さて、またまた一週間が過ぎて、
楽しい“アセンション噺”ならぬ「私は在る」噺に、
お付き合いいただく今がやってまいりました。
『アセンション館通信』配達人の pari です。
何が夢にハマっているんでしょうね。
一つの言い方では、
夢にハマったその当人はじつは存在しないわけです。
でも、こうして自分はハマっているのですから、
ハマっているのは自分だとも言えます。
ということは、
その自分は存在しないということなので、
まあ、話の辻褄は合っているわけです。(*^_^*)
ただ、ご存知のように、
こんな理屈をこねたところで
その夢から解放してもらえるわけでもありません。
実際は、現状で自由しか存在しないのですから。
すでに自由である以上、
自由に“成る”ということはできません。
──────────────────
マインドと自己同一化すること、
ただそれだけがあなたを幸福に、
あるいは不幸にするのだ。
マインドへの隷属に反抗しなさい。
あなたの束縛は
自分が創造したものだということを見なさい。
そして執着と反感への鎖を断ち切るのだ。
あなたがすでに自由であること、
そして自由とは苦しい努力によって
遠い未来に獲得される何かではなく、
永久にあなた自身のものとして
使われるためにそこにあることが明らかになるまでは、
自由という目的を心に保ちなさい。
解放とは獲得ではなく勇気の問題だ。
あなたがすでに自由であると信じ、
それにしたがって行為する勇気だ。
『私は在る』(p538)
──────────────────
やっとこんな言葉が
本当に聞こえてきはじめました。
> あなたの束縛は
> 自分が創造したものだということを見なさい。
このことは間違いないと確信しています。
> そして執着と反感への鎖を断ち切るのだ。
これができていないだけ。
でも、それができないということは、
まだ腑に落ちていないということなのか……。
まだ自分が創造した束縛を
夢の中でなんとか排除したいと思っているようです。
> あなたがすでに自由であること、
> そして自由とは苦しい努力によって
> 遠い未来に獲得される何かではなく、
> 永久にあなた自身のものとして
> 使われるためにそこにあることが明らかになるまでは、
> 自由という目的を心に保ちなさい。
まだこのことに専念できていないのでしょうか。
> 解放とは獲得ではなく勇気の問題だ。
マハラジはこれを「勇気の問題」と言ったのですね。
> あなたがすでに自由であると信じ、
> それにしたがって行為する勇気だ。
この勇気に収斂するだけの理解に至っていないのか。(-_-)
この理解に至っていないのは誰なんでしょう?
一つの言い方でそれが
“わたし”とか“自分”であることは間違いありません。
でも、“自分”となるともう手の施しようがない。
ではそのような表現とは異なる
もっと定義的な表現ではそれは何なんでしょう?
たとえば、肉体的な痛みや
精神的な心配や恐怖を味わっている当人とは
いったい誰のことなのか?
純粋な肉体的痛みを味わっているのは
まずは肉体でしょう。
それはある意味ではどうしようもないことです。
しかし肉体的痛みと精神的苦痛は少し異なります。
まず、肉体的な痛みや精神的苦痛を恐れる
心配とか不安といったものは
精神的苦痛の範疇に入るものでしょう。
ところで、
死に対する恐れというのは、
肉体的苦痛に対する恐れに似ているようでいて、
おそらくそれと同じではない。
死に対する恐れには、
たぶん死に至る肉体的苦痛を恐れる感情と
自分の消滅に対する恐れの感情が混在していて、
それ自体は混乱した感情だろうと思います。
だから、自分の消滅自体は
(心配する自分がいないというだけのことなのだから)
望ましい事態なのだと理解している者には
死そのものはまず恐れの対象にならない。
死に至る過程での肉体的苦痛を
いくぶん恐れるだけのはずです。
でもかつて存在した夢の中で
これまで死ぬことに失敗した個人はいないのだから、
それもさほど恐れるほどのこともない。
いくぶんの肉体的苦痛を通って死んでいくだけです。
ということになると、
死に対する恐れというのは、
単に生きたいという欲望が
死を受け容れられないというだけのことだろうと思います。
死を受け容れられないという欲望は、
そのような欲望なのだから、
それはそれでいいのではないでしょうか。
純粋に肉体的な苦痛というのは、
“できることは何もない”という体験なのだと思います。
良くも悪くも、これはこれで仕方がない。
耐えるしかない、ということだと思います。
とすると、問題は、
大部分の人間の苦しみを包含する精神的苦痛です。
これは回避できるか、避けられるのかと言えば、
いったい誰がそれを避けたがっているのか?
という話になります。
苦しみを避けたがっている者が、
おそらく苦しむ本人でしょう。
身も蓋もない言い方をすれば
それが“自分”であるわけですが、
ここではその“自分”を
もう少し説明的に叙述しようという話です。
その“自分”はどこにいるのでしょう?
まず、われわれ誰もが理解できる
“苦しみ”というのものがあります。
純粋な肉体的苦痛についてはすでに言及しました。
つまりここで言う“苦しみ”とは、
精神的苦痛の範疇に入るすべてです。
これは言うなれば、
“苦しみ”を避けようとする傾向性すべてです。
それは“苦痛や不遇を避けようとする感情”でしょう。
この感情に、苦痛や不遇を避ける能力が
あるのかどうかはわかりません。
でもとにかく、
われわれを行動に向かわせるわけです。
で、ここで「われわれ」と言っているのは
“苦痛や不遇を避けようとする感情”に
自己同一化した何かです。
“苦痛や不遇を避けようとする感情”が
何らかの意味で物質であることに
異論を挟む人はいないでしょう。
肉体が粗大な物質であるように、
想念や思考や感情と言ったものもまた、
何らかの意味での(微細な)物質であることは確かです。
ここでの状況を再整理すると、
問題は、「われわれ」という、
“苦痛や不遇を避けようとする感情”に
自己同一化した何かはどこにいるのか?
ということです。
一見すると、「われわれ」は
“苦痛や不遇を避けようとする感情”とは
別個に存在するかのようです。
ところで、
「われわれ」が
“苦痛や不遇を避けようとする感情”に
気づいているのも確かです。
だから苦痛や不遇を避けようとしているわけですから。
しかし、一方では
“苦痛や不遇を避けようとする感情”が
“苦痛や不遇を避けようとする感情”に
気づけるはずはありません。
その意味では、「われわれ」は
“苦痛や不遇を避けようとする感情”ではありません。
それに気づいている者です。
ここが誤解の起こりやすいところです。
「われわれ」というのは、
いったいどこにいるのか?
ここにまた、あのマハルシの言葉が響きます。
──────────────────
もし映画のなかで、
観客もまたドラマの一部として
スクリーン上に見られたとしたら、
見る者と見られるものが
ともにスクリーン上にあることになる。
それをあなた自身に当てはめてみなさい。
あなたはスクリーンだ。
真我が自我をつくり出した。
そして自我とはあなたが尋ねている世界や、
植物や、樹木として現れた想念の総体なのである。
実際には、
それらはみな真我以外の何ものでもない。
もしあなたが真我を見るなら、
いつでもどこでもすべてが真我として現れるだろう。
真我以外の何ものも存在しないのである。
『あるがままに』(p50) http://tinyurl.com/yzbe26
──────────────────
> もし映画のなかで、
> 観客もまたドラマの一部として
> スクリーン上に見られたとしたら、
> 見る者と見られるものが
> ともにスクリーン上にあることになる。
「われわれ」は
“苦痛や不遇を避けようとする感情”に気づいています。
だからこそ、
苦痛や不遇を避けようとしているわけですから。
つまり、われわれの視野には
「われわれ」とその欲望や感情が両方とも入っている……
と思っている。
「粗忽長屋」の与太郎ではありませんが、
ええっと、
“苦痛や不遇を避けようとする感情”が
あるのは間違いないんだけど、
「われわれ」ってのはいったいどこだっけ?
なんて言いたくなります。
> それをあなた自身に当てはめてみなさい。
要するに、われわれは
気づいている自分を忘れているだけのようです。
ここに身体として見えているものは
“苦痛や不遇を避けようとする感情”の仲間です。
それは知覚対象である現象世界の一部であって、
それに「気づいている者」ではない。
ところが、すべての出来事は
その「気づいている者」に起こっている。
この「気づいている者」がいなければ、
どんな出来事も起こることはできないわけです。
わたしは体験的に断言できますが、
この“自分”というのは
とても変わり身が速いです。
その時その時の状況次第で、
如何ようにも自分の位置を変えられる。(^_-)
要するに“虫ピン”で止められたくはない。
ときには、肉体的な痛みになったり、
ある種の観念に夢中になったり。
それは自分がしたことだと言いたかったり、
逆に、それは自分じゃないと言いたかったり。
いろいろ動くくせに、
とにかく“自分”はいると思っている。
それこそが“自分”の譲れない一線なのでしょう。
それが“自分”の生命線です。
で、その“自分”はどこにいるのかと言うなら、
一瞬一瞬に浮上する想念に対する
ある種の自己同一化ということでしょうか。
何が、あるいは誰が自己同一化するのでしょう?
この自己同一化という一種の癖もまた、
想念と同時に一瞬一瞬に湧いてくるんでしょうね。
肉体的苦痛もあれば、精神的苦痛もあります。
それらが凝り固まった
“思い込みの集積構造体”というか、
“執着の集積構造体”のようなものもあるでしょう。
一方、
それらに何かが気づいているのも確かです。
でも、
それらの肉体的苦痛や精神的苦痛の所有者である
“自分”というのはいない。
一瞬一瞬、わいてくる想念に対する
これまた一瞬一瞬に湧いてくる自己同一化でしょう。
その“自分”とは
知覚対象である現象世界のなかで
身体の中にあるように見える思い込みや執着を根拠に
一瞬一瞬に湧いてくる想念でしょうか?
そして、そのような想念が起こるたびに、
精神身体構造体の中でなにか
苦痛と呼ばれるような状態が励起するわけです。
見かけの変化に応じてある種の想念が湧く。
するとその想念に対する
適切な肉体的反応を査定する判断機構が起動する。
そうして算出された肉体的反応が
精神身体構造体の中で起こるのです。
一瞬のうちに起こる自動化されたその一連の動きが
いわゆる“自分”というものなのかもしれません。
その機械過程自体は単なるバイオロボットです。
ただ、真我が可能にしているその活動は
そこで起動された精神身体活動が
自前で起こっているかのような誤解が
連動するようになっている。
それが“自分”でしょうか。
そのすべての過程において、
それに気づいているものが
純粋な気づきとして留まることができれば、
苦しみの過程は起こっても
苦しんでいる“自分”はいないわけでしょう。
それらの現象過程が
それ自体に気づけるわけではないのですから。
想念が湧いてこられるのも
その背景にそれに気づいている者がいるからです。
気づいているのはわれわれです。
ただ、本当に映し出しているのは
「われわれ」というような自己同化が癖になった
“執着の集積集合体”ではない。
気づいているのは、純粋な気づきです。
自分とは、
湧いてくる一瞬一瞬の想念と
それらすべてに気づいている「気づき」の間を
勝手気ままに動き回る虚構の概念……。
それが苦しんでおり、
それが自由を求めている。
──────────────────
ひとたびあなたの想像以外は
何も困難をもたらすことができない、
と絶対の確信を持って知るなら、
あなたは欲望や恐れ、
概念や見解に注意を払わず、
真実とともにのみ生きるだろう。
『私は在る』(p131)
──────────────────
> ひとたびあなたの想像以外は
> 何も困難をもたらすことができない、
> と絶対の確信を持って知るなら、
> あなたは欲望や恐れ、
> 概念や見解に注意を払わず、
> 真実とともにのみ生きるだろう。
そうか。
わたしはまだ絶対の確信をもっていないのか。(;_;)
──────────────────
今、深く内側に入っていきなさい。
目覚めた眠りと言える状態のなかへ入っていきなさい。
世界に気づくのではなく、
自分自身に気づいている状態のなかへと入っていきなさい。
その状態のなかで、
あなたは疑いの余地もなく、
存在の根底では自由で幸福なのだと知るだろう。
唯一の困難は、
あなたが体験に耽溺し、
記憶を大切そうに抱えていることだ。
実際には、その反対なのだ。
思い出されたことは、
けっして実在ではなく、
実在は今あるのだ。
『私は在る』(p442)
──────────────────
> 唯一の困難は、
> あなたが体験に耽溺し、
> 記憶を大切そうに抱えていることだ。
はい。(*-_-*)
> 実際には、その反対なのだ。
> 思い出されたことは、
> けっして実在ではなく、
> 実在は今あるのだ。
……。(;_;)
(*-||-*)
──────────────────
あなたは在る。
ほかのすべては現れにすぎない。
『私は在る』(p421)
──────────────────
(-||-)
──────────────────
永久的なもの、それはあなた自身の存在である。
真我として在りなさい。
それが至福である。
あなたはいつもそれなのである。
『あるがままに』(p58)
──────────────────
……。(-_-)
ありがとうございました。<(_ _)>
(-||-)
今日はこんなところで。
……。
m(_ _)m
………○…………○…………○………
『私は在る』の「目次」はここ↓に置いてあります。
https://www.ascensionkan.com/books/I_AM_THAT-index.html
ときどき「ニサルガ辞書」で遊んでみてください。
https://www.ascensionkan.com/ndic/
新しい「ラマナ・マハルシ辞書」はここです。
https://www.ascensionkan.com/rdic/
おこがましくも『アセ通』既刊号はすべてここに置いてあります。
https://www.ascensionkan.com/mm/
………○…………○…………○………
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■ 2.いただいたお手紙から:andreさん
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
▼『アセ通』への「私は在る」関連ご意見投稿フォーム:
http://www.formzu.net/fgen.ex?ID=P48750702
というのを作らせていただきました。(^^;)
「私は在る」に関するご意見・ご感想・シェアリング、または単な
るメールなど、ご自由にお書きいただければと思います。
………○…………○…………○………
今回も、andreさんからご投稿いただきました。
さっそく、ご紹介します。
【件名】:流氷の島
──────────────────
Pariさんの”流氷の島”の譬えはよかったです。
まるで私の今の心の状態に同期しているようでした。 この”流氷
の島”をAndreパターン(つまり私のこと。)で捉えたらどうなる
かと自分の頭の整理整頓のために書き始めたのですが、どうせな
ら、と恥ずかしながらPariさんにも送ります。
20歳代でクリシュナムルティに遭遇してから、自分の苦しみ、不
安を解消しようとして、実に様々な方法を試みてきました。 哲学
書を読みふけったり、鎌倉に坐禅会に行ったり、瞑想をしたり、教
会に行ったり、心理学やフォーカシングを勉強したり、山に登った
り、クリシュナムルティからラマナ・マハルシ、パパジ、エックハ
ルト・トール、ガンガジ、Osho,そして、ニサルガダッタまで、最
近ではルパート・スパイラ、アジシャンティ、数え上げればきりが
ありません。 それから、マインドフルネス、ホ・オポノポノ、奇
跡のコース、バイロン・ケイティ、さらに、セラピストがすすめる
様々な方法、タッピングや呼吸法などを試みてきました。 いずれ
もダメだったとはけっして言いません。 それらはすべてよかっ
た。 真実だった。効果があった。 今でもそれらは私の中に生き
ています。 しかしそれらはすべてPariさんのおっしゃる”流氷の
島”でした。
「浮上してくる想念をなだめる方法を懸命に模索しています。何か
を理解し、真実を知ったならそこで解放される真実の叡智によって
平安が訪れると想像するからです。」
確かに平安は訪れます。 しかし続きません。 たとえ、それが紛
れもない真実の叡智だったとしても、「知覚可能なものはすべてつ
かの間の変化でしかありえないからです。」
ニサルガダッタが言ったことが真実だったとしても、それを私が概
念として、苦しみ、不安から逃れる方法、知識と技術として受け
取った、まさにその瞬間に変質してしまうのです。
Pariさんのおっしゃるように「助けを求める者が助けを得ることは
ありえません。もしそんなことができたとしたら、その助けもまた
夢のなかの物語でしかない。助けを求める者は存在しない自分ゆえ
の想像の苦しみを苦しんでいるのですから。」
それでは、私に残ったものは何だったのでしょうか。 それはニサ
ルガダッタが言うように、「真剣であること。」、そして「欲望と
恐れに注意を注がないこと。」 「真剣であること。」は知識や技
術ではありません。 「欲望と恐れに注意を注がないこと。」 こ
れは知識や技術ではけっしてできないことです。
わずかな欲望もなしに、
露(あらわ)になり、壊れやすく、
無防備で、不確かで、独りで、完全に開いて在リ、
すべてがあなたの物質的、
あるいは霊的快楽と利益を生みだすべきだといった
利己的な確信をもつことなく、
起こるがまま人生を受け入れなさい。
この言葉から「悟りを開いた人」、「覚醒した人」を我々がイメー
ジするのは難しいでしょう。 我々がイメージする「悟りを開いた
人」は 泰然自若としていて、安定していて、確実で、どんな災害
や不幸にもびくともせず、すべてを知っていて、いつも幸福で、微
笑んでいるような人なんじゃないでしょうか。 さらにチャクラな
んか開いちゃったりして、特殊能力を身に着け、スーパーマンのよ
うになった人、神秘的な人、その人に願い事をすれば、一瞬にして
叶えてくれるような人、その延長上の救世主じゃないでしょうか。
つまり、もうここから我々の自我がイメージする「悟り」が乖
離してくるのです。
起こるがままの人生を受け入れるということは、今まで逃れようと
していた不幸、災難、事故、苦しみ、不安、恐れを、起こってし
まったら、起こるがままに受け入れるということでしょう。 楽し
いことを受け入れるのは言うまでもありません。 でもそうなら
ば、今まで何のために苦しみ、不安、恐れから逃れるために様々な
方法を試みてきたのでしょう。 不幸にならないようにと手を尽く
してきたのに、不幸にならない究極の方法は、不幸になったら、そ
れを受け入れて平気になる、つまり不幸だと思うな!と言われてい
るようなものです。 癌になったら、癌に成りきれ! なんて禅の
坊さんが言いそうです。 「心頭滅却すれば火もまた涼し」
我々はあくまで不幸、事故、苦しみ、不安、恐れから逃れる(自由
になる)方法を探してきたのです。 その一番簡単でそして難しい
方法は死ぬことです。 身も蓋もありませんが。 でも実際に毎年
日本では2万人もの人がこの解決を自ら選んでいます。 それでも
逃れることはできても、自由になるかどうかはわかりません。
別の方法は?
逃れるのはなく、自由になるには?
そう来ると、もうお手上げです。 この地上では今までの方法を繰
り返すか、新しい方法を探すだけです。 流氷の島が、別の流氷の
島に接触するだけです。 それもウンザリしたのなら、ここで我々
は徹底的に降参するしかないのです。 お手上げの状態です。 そ
してこのお手上げの状態が私にも訪れました。 私の自我はけっし
てこんなものを望んではいなかったのですが。
野望なしに在りなさい。
わずかな欲望もなしに、
露(あらわ)になり、壊れやすく、
無防備で、不確かで、独りで、完全に開いて在り、
すべてがあなたの物質的、
あるいは霊的快楽と利益を生みだすべきだといった
利己的な確信をもつことなく、
これは否応なく、そうなるのだと私には思います。 意図的になろ
うとしてもなれません。イヤですから! わずかな欲望もないし、
物質的にも霊的にも快楽と利益が得られないとしたら、いったい、
何の意味があるの? つまりこれは「完全な降参」でしかありま
せん。 我々に降りかかった多くの不幸、災難がいやでもそうさせ
るのです。 「完全な降参」は我々の人生に起こる知覚可能なもの
はすべて実在しないということを意味しています。 この地上に知
覚可能な実在が一つでもあれば、まだ降参しなくてもいいから。
ですからこれは別名、「絶望」のことです。 この「絶望」が
即、自殺に結びつかないのは「完全に開いて在る」という一点があ
るからです。 別の言い方をすれば、自分に起こることは起こるが
ままにすべて受け入れるという意志です。 自殺が拒否する姿勢で
あるのに対して、まったく逆の方向です。
上記のニサルガダッタの言葉は宮沢賢治の「雨ニモ負ケズ」を想起
させます。
ヒドリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ
(後半部分抜粋)
昔はヒドリノトキハナミダヲナガシ、サムサノナツハオロオロアル
キ、ミンナニデクノボートヨバレなんて、「賢治という人はずいぶ
ん謙虚な人だな。」なんて思っていたのですが、そうではなくて、
これが必然だったのです。 誰だって涙を流したくないし、オロオ
ロ歩きたくないし、デクノボウと呼ばれたくないのでしょうが。
ところで、この世が「完全な降参」、「絶望」になったとしたら、
それこそ真っ暗闇じゃないか! と突っ込まれそうです。 実は
真っ暗闇ではないのです。 この世に知覚可能な実在は一つも無い
のは、どうしようもないわけで、生まれたものは死ぬし、すべては
変化していきますし、無くなってしまうのです。 それにもかかわ
らず、この世には美と愛があります。 美も愛も知覚できるのな
ら、実在ではないわけですが、(実在とは生まれもしないし、した
がって死にもしない、始まりも終わりもない、他の何からも存在の
影響を受けないものとして捉えています。 ) ニサルガダッタは
それを実在の反映という言い方をしました。 賢治が涙を流し、オ
ロオロ歩き、デクノボウと呼ばれるのは、愛がそこにあるからで
す。 美も愛も自我、マインドが生み出すことはできません。
「まるで冗談のようにすべては完璧」と言われます。 これは非二
元の人がよく言うことです。 誰かの慈しみによって、助けられる
人がいると同時に、同じ地上で誰にも助けられずに自殺する人がい
る。 このどちらも善悪の判断をせずに、あるがままに受け取れと
いうのです。 それどころか、完璧なんだとも言います。 電車を
寝過ごすぐらいなら、たいしたことないのですが。
ニサルガダッタはこう言います。
(ジニャーニも悲しみを感じるのか、彼は苦しまないのか、という
なら)
彼は苦しむ人たちとともに苦しむ。
出来事自体が重要なのではない。
だが、生きていようと死んでいようと、身体のなかにいようと外
にいようと、
彼は苦しむ人たちに対して慈悲に満ちている。
やはり、彼(ジニャーニ)の本性は愛と慈悲なのだ。
彼はすべての生命とひとつであり、行為のなかでひとつであるこ
とが愛なのだ。(p201)
これはどういうことかというと、前述した、「露(あらわ)にな
り、壊れやすく、無防備で、不確かで、独りで、完全に開いて在り
なさい」ということです。 どうせこの世の中は幻想で、実在では
ないのだから、自分も他人も含めて関係ねーよ、というのなら、そ
れは完全に開いてはいないのです。
完全に開いているからこそ、彼は苦しむ人たちとともに苦しむ。そ
れが「まるで冗談のようにすべては完璧」の本当の意味だと思いま
す。 なんでもかんでもOK、ハッピーハッピーと言っているわけ
ではないし、どうせ世の中は夢のまた夢なのだから、どうでもいい
よ、と言っているわけでもないのです。
──────────────────
> Pariさんの”流氷の島”の譬えはよかったです。
ありがとうございます。
> まるで私の今の心の状態に同期しているようでした。
もし響いたようなら、良かったです。
どなたに起こることもすべて完璧ですよね。
> この”流氷
> の島”をAndreパターン(つまり私のこと。)で捉えたらどうなる
> かと自分の頭の整理整頓のために書き始めたのですが、どうせな
> ら、と恥ずかしながらPariさんにも送ります。
ありがとうございます。
Andreさんの遍歴は
とてもpariパターンと重なる部分が多いですね。(^^;)
とはいえ、わたしよりはずっと行動的ですが。
> しかしそれらはすべてPariさんのおっしゃる”流氷の島”でした。
まあ、そういうものですよね。(^_-)
> それでは、私に残ったものは何だったのでしょうか。 それはニサ
> ルガダッタが言うように、「真剣であること。」、そして「欲望と
> 恐れに注意を注がないこと。」 「真剣であること。」は知識や技
> 術ではありません。 「欲望と恐れに注意を注がないこと。」 こ
> れは知識や技術ではけっしてできないことです。
そうなんですよねぇ。
現象すべてに特に意味は無いのですから、
言葉で語られることには執着を維持する以外の
効用はありませんものね。
> 我々はあくまで不幸、事故、苦しみ、不安、恐れから逃れる(自由
> になる)方法を探してきたのです。 その一番簡単でそして難しい
> 方法は死ぬことです。 身も蓋もありませんが。 でも実際に毎年
> 日本では2万人もの人がこの解決を自ら選んでいます。 それでも
> 逃れることはできても、自由になるかどうかはわかりません。
自殺が自由とまったく関係がないことは
ご存知のとおりですよね。
> 上記のニサルガダッタの言葉は宮沢賢治の「雨ニモ負ケズ」を想起
> させます。
>
> ヒドリノトキハナミダヲナガシ
> サムサノナツハオロオロアルキ
> ミンナニデクノボートヨバレ
> ホメラレモセズ
> クニモサレズ
> サウイフモノニ
> ワタシハナリタイ
> (後半部分抜粋)
連想は本当にひとりひとり異なるものですね。
それでいいのだと思います。
> 「まるで冗談のようにすべては完璧」と言われます。 これは非二
> 元の人がよく言うことです。 誰かの慈しみによって、助けられる
> 人がいると同時に、同じ地上で誰にも助けられずに自殺する人がい
> る。 このどちらも善悪の判断をせずに、あるがままに受け取れと
> いうのです。 それどころか、完璧なんだとも言います。 電車を
> 寝過ごすぐらいなら、たいしたことないのですが。
「すべては完璧」という言葉をそういう
ニュアンスで受け取られたのですね。
> ニサルガダッタはこう言います。
>
> (ジニャーニも悲しみを感じるのか、彼は苦しまないのか、という
> なら)
> 彼は苦しむ人たちとともに苦しむ。
> 出来事自体が重要なのではない。
> だが、生きていようと死んでいようと、身体のなかにいようと外
> にいようと、
> 彼は苦しむ人たちに対して慈悲に満ちている。
> やはり、彼(ジニャーニ)の本性は愛と慈悲なのだ。
> 彼はすべての生命とひとつであり、行為のなかでひとつであるこ
> とが愛なのだ。(p201)
>
> これはどういうことかというと、前述した、「露(あらわ)にな
> り、壊れやすく、無防備で、不確かで、独りで、完全に開いて在り
> なさい」ということです。 どうせこの世の中は幻想で、実在では
> ないのだから、自分も他人も含めて関係ねーよ、というのなら、そ
> れは完全に開いてはいないのです。
> 完全に開いているからこそ、彼は苦しむ人たちとともに苦しむ。そ
> れが「まるで冗談のようにすべては完璧」の本当の意味だと思いま
> す。 なんでもかんでもOK、ハッピーハッピーと言っているわけ
> ではないし、どうせ世の中は夢のまた夢なのだから、どうでもいい
> よ、と言っているわけでもないのです。
andreさんの「すべては完璧」の
本当の意味を書いていただきましたが、
ここだけちょっとコメントさせていただきますね。
「すべては完璧」という言葉にわたしが乗せた意味は、
個々人の感想や想念とはまったく無関係です。
事実として、
起こっていることはすべてそれでいい、
「すべては完璧」という意味です。
pariパターンの個人的な理解とか感想ではありません。
若い頃の自分に現在の自分が
語りかける文脈で湧いた言葉でした。
言ってみれば、
──────────────────
世界には何の間違いもない。
誤りはあなたの見方にあるのだ。
『私は在る』(p304)
──────────────────
といった連想の言葉でした。
そして、その誤った見方を
集合的に創造しているのが宇宙なのですから、
「すべては完璧」という意味でした。
夢の中の登場人物の観点とはまったく無関係です。
伝わったかどうかはわかりませんが。^^;;
andreさん、ありがとうございました。
m(_ _)m
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■ 3.編集後記:
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わたしという夢は
人生の無意味さを再確認する役割のようです。
そのように生きてきたようです。
そのような登場人物も
全体のバランスのためには必要なのでしょう。
「すべては完璧」なのだと思います。
寝ているときに見る個人の夢に
特に意味は無いように、
起きているときに見る集合的な夢も、
なんの意味もないのだと思います。
まさに『ソラリスの海』。
意味もなく展開する集合意識の夢です。
こうして湧いてくる連想を書き綴ることに
なんの意味もありません。
永遠に待っている沈黙を避ける以外の意味は。
今日も晩くなりました。
お休みなさい。
<(_ _)>
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■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
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