home > 通信 >『アセンション館通信』第731号:消滅の恐怖に関することなのだと



━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
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 ☆☆     ☆☆『アセンション館通信』2018/04/22(第731号)
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☆☆      ☆★ 【気刊】――「私は在る」に導かれ♪――
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 ☆☆   ☆☆          https://www.ascensionkan.com/
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇

このメルマガはアセンション館主人pariと称するあるパターンに
浮上している心象風景の報告です。

 欲望や嫌悪は心のもの
 そして心はあなたのものではない
 あなたはその混乱から自由なのだ(『Ashtavakra Gita』)

内容は人畜無害、でも読む人は相当変わっていますね。現在841名
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◇◇ もくじ ◇◇

1.消滅の恐怖に関することなのだと

2.編集後記
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■ 1.消滅の恐怖に関することなのだと
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今日は晴れ上がっていますね。

このところいつも

ハレーションを起こしたような空だな

と思っていたのですが、

やっと単にこちらの目のせいなのかも

と思い当たりました。(^_-)

まあ、すべて感想というのは

そのようなものなのかもしれません。

夢の中の光景の話です。

(*^_^*)

さて、またまた一週間が過ぎて、

楽しい“アセンション噺”ならぬ「私は在る」噺に、

お付き合いいただく今がやってまいりました。

『アセンション館通信』配達人の pari です。

毎週土曜日になってこのメルマガを書くときは

前号のフォームを使って書きます。

つまり、

先週書いたタイトルが先ず見えるわけです。

すると先週号には

【あなたがしなければならないことは】

なんてラマナの言葉が書いてある。

もしあなたが読んでくださっているとしてですが、

あなたは憶えていらっしゃいますか? (^_-)

わたしはいちおう確認してみました。

──────────────────
 あなたがしなければならないことは、
 真我でない他のものごとに
 注意をはらうのをやめることだけだ。

 『あるがままに』(p20)
──────────────────

アチャ。(>_<)

まあ、だいたい土曜日になって

やっていることってそんな感じなんです。

毎回先週号には

今の自分に聞かせてやりたいようなことが書いてある。(*-_-*)

“今の自分”なんて者がいるとしてですが。

まあ、そういうことなんですよね。

別にそれで問題ないんです。

何の問題もないところから、

問題を捏造しようと自然に湧いているのが

想念ですから。

この瞬間(<いま>)に全体が繰り広げる風景を

pariパターンという辺境眼鏡(<ここ>)で見ると

そんなふうに見えるというだけのことです。

pariパターンの感想が

正しいとか間違っているとか

そんなこと言ったって……もともと無理です。(^^;)

いま全体が繰り広げている風景のひとつ、

というだけのことです。

ただ、この<いま・ここ>は

真我と自我の二枚重ねですよね。

自我から見れば自我のリアル(現実)だし、

真我から見ればすべてが真我です。

真我が現象に目を向けるとしての話ですが。

──────────────────
 世界には何の間違いもない。
 誤りはあなたの見方にあるのだ。
 あなたを惑わせるのは、
 あなた自身の想像だ。
 想像なしには世界もない。
 あなたが世界を意識しているという確信が世界なのだ。
 あなたが知覚している世界は意識でできている。
 あなたが物質と呼ぶものは意識そのものなのだ。
 あなたは、そのなかで世界が動く空間(アーカーシュ)だ。
 あなたは永遠に続く時間だ。
 あなたはそれに生命を与える愛なのだ。(p304)

 『私は在る』
──────────────────

> 世界には何の間違いもない。
> 誤りはあなたの見方にあるのだ。

なかなか納得できなかったものです。

> あなたを惑わせるのは、
> あなた自身の想像だ。

いまこの言葉が

どれほど自明であることか。

だからといって、

その想像から解放されているわけではないですが。

“自分”がどれほど

その想像に執着していることか。(*-_-*)

自分がどれほど

その“自分”であることか。

> 想像なしには世界もない。

まったくです。

> あなたが世界を意識しているという確信が世界なのだ。

やっとこの言葉に素直に同意できます。

> あなたが知覚している世界は意識でできている。

間違いなく。

> あなたが物質と呼ぶものは意識そのものなのだ。

はい、ニューエイジですら

そのことを保証しています。

素粒子が意識であることを。

> あなたは、そのなかで世界が動く空間(アーカーシュ)だ。

わかります。

昔……、

空間の中を自分(身体)が動くとき

その自分が意識する自分は

身体で運ばれるのだろうか、

それとも元々とそこにあった空間が

その身体の新たな自分になって、

意識しているのだろうか、

などと想像したことがありましたが……。

> あなたは永遠に続く時間だ。

はい。

永遠に「私は在る」です。

記憶された想念としての“わたし”は

ある時期から

ただただ何も無いことを望んだものです。

でも、「私は在る」は

永遠のサット−チット−アーナンダであって、

ただの空無に帰することはありえないのでしょう。

> あなたはそれに生命を与える愛なのだ。

わたしが

架空の現象に生命を与える愛なのだとしたら。

> あなたが世界を意識しているという確信が世界なのだ。

いまこの言葉が

どれほどリアルに聞こえることか。

しかし、それが真実であることが

どれほど論理的に理解できたとしても、

それでもこの執着のエネルギーから

立ち上ってくる想念を無視することは難しい。

そして

<何故にすべては始まってしまったのか?>などと

世界の発生を誰かの所為にしたくなるのです。

pariパターンのこの態度はすべて

もちろん、この現象世界がリアルだという

確信から生じています。

それはすべて

実際は夢を見ていながら、

いや夢を見ているからこそ、

自分が見ているのが夢であることがわからないからです。

そして、

湧いてくる想念に巻き込まれて

その夢の中の場面とは別の場面を望むのです。

喘ぐように今とは別の場面を求める……。

そんな思いがふと、

ヒロさんが翻訳したジョーン・トリフソンの

『つかめないもの』の中にあった

「どこにも行かない技術」という章を

開かせたのだと思います。

──────────────────
 あらゆる経験が、
 ここにないことはありえない目覚め、
 つねに今ここにある目覚めを
 明らかにしていることに気づきはじめます。
 それは、
 写っているのは暴力シーンであれ
 優しいシーンであれ、
 映画の中のあらゆる画像が現れるのを可能にしながら
 映画のすべてのシーンとして
 目に写っているスクリーンと同じように、
 鏡に映る像の中に
 像として等しく存在している鏡と同じように、
 すべての波として現れている水と同じように
 存在しています。
 その目覚めは、
 何が現れているかにかかわらず
 いつもここにあるのであって、
 現れているものが原因になって
 ここにあるわけではありません。
 夢に出てくるあらゆる要素が
 夢を見ている人のものであるのと同じように、
 目が覚めているときの生という映画の中に
 何が現れていても、
 それは、
 つねに新しい変装と
 必ずこれまでとは違う自分の様相とで
 自分自身を驚かしている
 <あなた>(二のない<一なるもの>)
 以外の者であることは絶対にありません.

 『つかめないもの』(p212)
──────────────────

> あらゆる経験が、……
> つねに今ここにある目覚めを
> 明らかにしている……

> それは、……
> 映画の中のあらゆる画像が現れるのを可能にしながら
> 映画のすべてのシーンとして
> 目に写っているスクリーンと同じように、

映画のスクリーンと同じように、

> 鏡に映る像の中に
> 像として等しく存在している鏡と同じように、

鏡像の中に存在している鏡と同じように、

> すべての波として現れている水と同じように
> 存在しています。

はい。(-_-)

> その目覚めは、
> 何が現れているかにかかわらず
> いつもここにあるのであって、

何が現れていても

その現れに気づいている目覚めが

ここあることを明証しているのであって、

> 現れているものが原因になって
> ここにあるわけではありません。

現れている画面が原因になって

次に現れる場面が現れているわけではありません。

そうかぁ。(-_-;)

> 夢に出てくるあらゆる要素が
> 夢を見ている人のものであるのと同じように、

夢の中の場面が

夢を観ている人から生まれていて、

前の夢の場面が原因になって

次の夢の場面が現れるわけではないように。

> 目が覚めているときの生という映画の中に
> 何が現れていても、
> それは、
> つねに新しい変装と
> 必ずこれまでとは違う自分の様相とで
> 自分自身を驚かしている
> <あなた>(二のない<一なるもの>)
> 以外の者であることは絶対にありません.

うーむ。(*-_-*)

ジョーン・トリフソンはつづけます。

──────────────────
 このことがわかかると、
 自分なりの意見を持ったり、
 目が覚めているときの生という映画の中で
 最善に思えることをするために
 適切な行動をしたりすることは続くかもしれませんが、
 偽りの確信や想像上の分離という場所から
 行為することがなくなります。
 劇の中のさまざまの登場人物のすべてが
 ──善人役も悪役も──
 自分自身であることがわかります。
 あらゆることが非常に深刻に感じられるときでも、
 もっと大きな文脈についての気づきと、
 すべてが実体のない劇だという認識がそこにはあります。
 
 『つかめないもの』(p212-213)
──────────────────

> 偽りの確信や想像上の分離という場所から
> 行為することがなくなります。

pariパターンには

まだこういうことは起こっていません。(-_-)

> 劇の中のさまざまの登場人物のすべてが
> ──善人役も悪役も──
> 自分自身であることがわかります。

これは……わかっているようでもありますが。

だから、腹が立つということは

ずいぶん以前から起こらないようです。

でもまだ、心配が起こります。

夢の中でいい場面に近づきたい。

プ!(>_<)

なんか、こう書くとおかしい。

> あらゆることが非常に深刻に感じられるときでも、
> もっと大きなの文脈についての気づきと、
> すべてが実体のない劇だという認識がそこにはあります。

そう、そういう認識もたしかにあります。

でもまだ、夢の中で

あまり不幸にもなりたくない。(*^_^*)

EOさんなら、

「だからあなたはダメなのだ」

とおっしゃることでしょう。

まあ、できることなど何もないわけです。

pariパターンとは

単なる夢の中の登場人物なのだから。

──────────────────
 現れるものを
 自分が退けながら抵抗して批判していること、
 そのすべてをひどく深刻に捉えていること、
 生のありように不満を言っていること、
 イライラしたり狼狽したり激怒したり
 していることに気がついたとしたら、
 それは、
 脅かされていると感じているのは誰なのか、
 あるいは何なのか、
 そしてその狼狽の根底には何があるのかを問う
 素晴らしい機会になりえます。
 結局、
 それはいつでも想像上の「私」に関することであり、
 突き詰めてみれば必ず死の恐怖、
 消滅の恐怖に関することなのだと
 気づくかもしれません。
 「私」と私の存続を
 何かが脅かしているように感じられます。
 そういった脅威は、
 特定の状況においては、
 相対的な意味では
 実際に存在しているのかもしれません。
 ただ、
 もっと深い意味では、
 私たちが考える考えているとおりに
 実際に起こっていることは何もありません。
 何が現れていても、
 それは注意深く調べてみれば、
 そこには持続するかたちも
 実体もないことがわかります。
 傷つく人はどこにもいないこと、
 自分を傷つけられるものは
 何もないことはことを発見するかもしれません。
 当然ですが、
 それはこちらに向かってくる
 バスの前を歩くという意味でも、
 体や感情の痛みを
 まったく感じなくなるという意味でもありません。
 ただ単に、
 いつまでもとどまり続けるものは
 何もないという意味です。
 
 『つかめないもの』(p212-215)
──────────────────

> 現れるものを
> 自分が退けながら抵抗して批判していること、
> そのすべてをひどく深刻に捉えていること、
> 生のありように不満を言っていること、
> イライラしたり狼狽したり激怒したり
> していることに気がついたとしたら、
> それは、
> 脅かされていると感じているのは誰なのか、
> あるいは何なのか、
> そしてその狼狽の根底には何があるのかを問う
> 素晴らしい機会になりえます。

なるほど。

> 結局、
> それはいつでも想像上の「私」に関することであり、
> 突き詰めてみれば必ず死の恐怖、
> 消滅の恐怖に関することなのだと
> 気づくかもしれません。

そうかぁ。(-_-)

自分がいないことを願いながら、

なおかつ消滅を恐れているのかぁ。

元々存在していない自我が存在するためには、

そんな心理的曲芸も必要なのかなぁ。

> 「私」と私の存続を
> 何かが脅かしているように感じられます。

そうですよねぇ。

> そういった脅威は、
> 特定の状況においては、
> 相対的な意味では
> 実際に存在しているのかもしれません。

ええ。

> ただ、
> もっと深い意味では、
> 私たちが考える考えているとおりに
> 実際に起こっていることは何もありません。

それもわかります。

> 何が現れていても、
> それは注意深く調べてみれば、
> そこには持続するかたちも
> 実体もないことがわかります。

たしかに。

> 傷つく人はどこにもいないこと、
> 自分を傷つけられるものは
> 何もないことはことを発見するかもしれません。

現象が現れるのを可能にしているものが

現象によって傷つけられる可能性はないわけです。

> 当然ですが、
> それはこちらに向かってくる
> バスの前を歩くという意味でも、
> 体や感情の痛みを
> まったく感じなくなるという意味でもありません。

ですよね。

> ただ単に、
> いつまでもとどまり続けるものは
> 何もないという意味です。

わかりました。

(-||-)

──────────────────
 あなたは在る。
 ほかのすべては現れにすぎない。
 
 『私は在る』(p421) 
──────────────────

(-||-)

──────────────────
 永久的なもの、それはあなた自身の存在である。
 真我として在りなさい。
 それが至福である。
 あなたはいつもそれなのである。
 
 『あるがままに』(p58) 
──────────────────

……。(-_-)

ありがとうございました。<(_ _)>

(-||-)

今日はこんなところで。

……。

m(_ _)m


       ………○…………○…………○………


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おこがましくも『アセ通』既刊号はすべてここに置いてあります。
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■ 2.編集後記:
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今日は一日曇り。

眼の前を見るかぎり

どんよりとした花曇りですが。

今日は明るいうちに終えました。

ではまた。

<(_ _)>


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■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
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