home > 通信 >『アセンション館通信』第740号:私はそれを取り除きたいのだ



━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
  ☆☆   ☆☆ 
 ☆☆     ☆☆『アセンション館通信』2018/06/24(第740号)
☆☆   ☆   ☆☆
☆☆      ☆★ 【気刊】――「私は在る」に導かれ♪――
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 ☆☆   ☆☆          https://www.ascensionkan.com/
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇
	
このメルマガはアセンション館主人pariと称するあるパターンに
浮上している心象風景の報告です。

わたしは存在している。身体は現れてはいるが存在してはいない。
欲望や期待や喜びは、現れはするが存在してはいない。
心配や恐怖や悲しみは、現れはするが存在してはいない。

内容は人畜無害、でも読む人は相当変わっていますね。現在835名
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◇◇ もくじ ◇◇

1.私はそれを取り除きたいのだ

2.編集後記
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■ 1.私はそれを取り除きたいのだ
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今日波も雨模様ですね。

今年の梅雨はとても真面目な感じ。

湧いてくるただの概念ですが。

(*^_^*)

さて、またまた一週間が過ぎて、

楽しい“アセンション噺”ならぬ「私は在る」噺に、

お付き合いいただく今がやってまいりました。

『アセンション館通信』配達人の pari です。

マハラジの言葉によれば

運命と恩寵は絶対的に同じものだそうです。

恩寵によって

日々脱臼の苦しみ(のようなもの)

を味わっています。(*^_^*)

もちろん、

起こっている恩寵に

何の問題もあるはずがありません。

そこに利己主義が

分相応の苦しみを付加しているだけです。

全体の機能としてはそれで申し分ない。

ただ、

幻想された個人の都合が

余計な苦しみを味わっている。

そしてそのことが

夢からの脱出を促す恩寵なのでしょう。

今日もまた、

その恩寵の指図にしたがって、

マハラジの最晩年の言葉を

写経させていただきます。

今回は前回の写経部分の翌日の

「一九八〇年七月二二日」

の対話から写経します。

──────────────────
 一九八〇年七月二二日
 
 マハラジ
 こういったすべての議論は観念の交換であり、
 マインドの娯楽であり、
 のんびりと時間をつぶすためのものだ。
 
 質問者 もし人が何らかの努力をしなければ、どこへ
     も行き着きません。
 
 マハラジ
 何らかの進歩が為されなければならないと
 考えてはいけない。
 たとえそれが概念的なものだろうと、
 あなたは何かをやり続けることだろう。
 しかし、
 自分がすでにそこにいることを理解したものは、
 いったい何をするというのだろうか?
 
 質問者 そうですが、でも、そこには大きな自己欺瞞
     の余地があるのではないでしょうか?
 
 マハラジ
 誰が自己欺瞞(ぎまん)に陥るのか?
 
 質問者 経験上のエゴです。
 
 マハラジ
 どんな実体もない。
 だから、
 現象的な物体が何かを達成することは不可能であり、
 エゴも単に現象的な物体にすぎない。
 
 『意識に先立って』(p82-83) 
──────────────────

> マハラジ
> こういったすべての議論は観念の交換であり、
> マインドの娯楽であり、
> のんびりと時間をつぶすためのものだ。

こういう

マハラジのまわりで交わされている議論が

観念の交換であり、

マインドの娯楽であることは間違いありません。

一般論として敷衍するなら、

現象世界で起こっているすべての苦しみは

マインドの娯楽だということにもなります。

苦しんでいる人はいない。

しかし苦しみという幻想は

起こっているわけです。

その原理は、

テレビや映画館で放映されている

喜怒哀楽の引き金としての娯楽と

何の違いもありません。

スクリーン上では

実際には何も起こっていない。

ただ、

投影された画面と音声の変化に応じて、

何らかの意味や物語が想像され、

どこかで葛藤や情動が起こっているだけです。

pariパターンは現象の一部にすぎませんし、

どんな分離独立性した実体もないけれど、

でも想像されたエゴとしては

苦しまざるをえない。

存在しないpariパターンが

そのことを理解するために

このすべての過程が起こっているわけです。

> 質問者 もし人が何らかの努力をしなければ、どこへ
>     も行き着きません。

われわれはこう思っている。

存在しない自分が何かをしていると。

> マハラジ
> 何らかの進歩が為されなければならないと
> 考えてはいけない。

あなたが達成を希求して

足掻き藻掻いているそのゴールこそ

まさにあなた自身の実状なのだから、

あなたがあなた自身であるために

何らかの進歩が為される必要はない。

> たとえそれが概念的なものだろうと、
> あなたは何かをやり続けることだろう。

とはいえ、

たとえ概念的なものにすぎなくても、

あなたは運命の展開のままに

あれやこれやをやり続けることだろう。

> しかし、
> 自分がすでにそこにいることを理解したものは、
> いったい何をするというのだろうか?

だが、

あなたはすでに

自分が存在することを知っており、

それ以外の現れはすべて

ただの一時的な見かけにすぎないことを

あなたが理解しているのなら、

いったい何をするというのだろうか?

> 質問者 そうですが、でも、そこには大きな自己欺瞞
>     の余地があるのではないでしょうか?

それはそうなのですが、

なにか騙されているような気がして、

いまいち納得できない感じがあります。

そこになにか大きな自己欺瞞があるような。

> マハラジ
> 誰が自己欺瞞(ぎまん)に陥るのか?

誰が自分を騙しているというのかね?

> 質問者 経験上のエゴです。

あの、私というエゴですけど……。(*-_-*)

> マハラジ
> どんな実体もない。

経験上のエゴなどというものに、

どんな実体もないことを

あなたは理解しているのではないのかね?

> だから、
> 現象的な物体が何かを達成することは不可能であり、
> エゴも単に現象的な物体にすぎない。

すべて現象的な物体というものは

束の間の見かけを形作るために

気づきの光の中に舞い上がった

単なるホコリの微粒子のようなものにすぎない。

その現象的な物体が

何かを達成することなど不可能なのだ。

あなたの言う経験上のエゴも、

あなたという観照の中に浮上した

単なる現象的な物体にすぎない。

だからこそあなたは、

知覚対象としてのそれに気づくことができるのだ。

──────────────────
 質問者 一歩引き下がるために、人は何らかの努力を
     するべきではないでしょうか?
 
 マハラジ
 何もしないということは、
 どんな種類の行為を意味するのだろうか?
 
 質問者 私たちの通常の生き方は一体化です。もし私
     たちが一歩引き下がったら、質的違いがあり
     ますか?
 
 マハラジ
 あなたの娯楽を続けなさい。
 しかし、
 自分が何かをやっていると誤解してはいけない。
 
 質問者 「私は神だ」と言っても、どうして人々は私
     の前にひれ伏さないのでしょうか?
 
 マハラジ
 もしあなたが神であることを真に理解したなら、
 その確信の前に アイデンティティを失ってしまい、
 全顕現と融合していることだろう。
 だったら、
 いったい誰がひれ伏されることを期待するのだろうか?
 
 『意識に先立って』(p84)
──────────────────

> 質問者 一歩引き下がるために、人は何らかの努力を
>     するべきではないでしょうか?

しかし、

現れの中に自分がいると幻想する私たちは

どうしても自分に何かできるとしか思えません。

この幻想世界から一歩引き下がるために、

私たちは何か努力すべきではないのでしょうか?

> マハラジ
> 何もしないということは、
> どんな種類の行為を意味するのだろうか?

では、

そう考えるあなたにとって、

何もしないということが、

どんな種類の行為を意味することになるか

それを考えてみるといい。

> 質問者 私たちの通常の生き方は一体化です。もし私
>     たちが一歩引き下がったら、質的違いがあり
>     ますか?

私たち無知なる者の普通の生き方は、

この身体としての個人への

自己同化から生まれています。

そういう私たちが

現象世界から一歩引き下がろうとしたら、

それは何かの質的違いをもたらすでしょうか?

> マハラジ
> あなたの娯楽を続けなさい。

あなたがそのような思考に惹かれるのなら、

それがあなたの恩寵なのだろう、

あなたの娯楽を続けなさい。

> しかし、
> 自分が何かをやっていると誤解してはいけない。

しかし、

それを自分が何かをしているかのように

誤解しないほうがいい。

> 質問者 「私は神だ」と言っても、どうして人々は私
>     の前にひれ伏さないのでしょうか?

プ。(>_<)

> マハラジ
> もしあなたが神であることを真に理解したなら、
> その確信の前にアイデンティティを失ってしまい、
> 全顕現と融合していることだろう。

あなたが「私は神だ」と言ったからといって、

それは、あなたが神であることを

あなたが真に理解したことを意味しない。

もし自分が神であることを真に理解したら、

その確信を前に

たちまち今のアイデンティティーは蒸発して、

あなたは全顕現と融合していることだろう。

> だったら、
> いったい誰がひれ伏されることを期待するのだろうか?

そうなったとき、

ひれ伏されることを期待する誰がいるというのか?

──────────────────
 質問者 何かをするために自分の意志を使うというこ
     とはありますか? もし人がマントラを唱え
     たり、瞑想をしたりして目覚めていようと努
     力し、眠りの状態から自分を引っ張り続けれ
     ば、その人は何かをしているのではないでし
     ょうか?
 
 マハラジ
 探求者の段階であれば
 彼がしていることは正しいかもしれないが、
 しかし彼はすぐに探究の過程で
 探求者が消えてしまうことを発見するだろう。
 探求者が消えたとき、
 何かをするという問題はなくなる。
 後に探求者は
 すべての行為を行っていたのは自分の本質ではなく、
 「生まれた」というラベルが自分の本質に貼られたことで、
 意識が目覚めと睡眠状態、そして肉体に
 それ自身を一体化させたのだと理解することだろう。
 行為はこれらの束全体がおこなっていたのだ。
 しかし、
 探求者はこれらの束ではない。
 この私の肉体は知覚できるものだが、
 私の本質は肉体と意識が存在する以前からあったそれだ。
 マインドによって感覚的に見られたり、
 解釈されたりするすべては意識の中の見かけであり、
 真実ではない。
 私は自分の経験以外は話しておらず、
 自分が理解し、
 経験したことだけを話している。
 それは非常に単純なことで、
 私の経験は時間に縛られており、
 時間に縛られているすべては真実ではない。
 なぜなら、
 時間それ自体が概念だからだ。
 
 私が話していることはこの単純な事実に基づいているし、
 それは私の経験にもとづいている。
 もしそれがこの瞬間にあなたのマインドに訴える概念なら、
 受け入れなさい。
 そうでなければ、
 受け入れてはいけない。
 
 あなたがどうしても何かをしたいというなら、
 自分がまったくすることができないことをやりなさい。
 それが非存在の状態だ。
 
 『意識に先立って』(p84-85)
──────────────────

> 質問者 何かをするために自分の意志を使うというこ
>     とはありますか? もし人がマントラを唱え
>     たり、瞑想をしたりして目覚めていようと努
>     力し、眠りの状態から自分を引っ張り続けれ
>     ば、その人は何かをしているのではないでし
>     ょうか?

いったい

何かをするために自分の意志を使う

ということはあるものなのでしょうか?

というのも、

もし人がマントラを唱えたり、

瞑想をしたりして

懸命に目覚めていようと努めて、

眠りの状態に陥らないように努力したとすれば、

その人は何かをしていると言えると

私には思われるのですが。

> マハラジ
> 探求者の段階であれば
> 彼がしていることは正しいかもしれないが、
> しかし彼はすぐに探究の過程で
> 探求者が消えてしまうことを発見するだろう。

その人が探求者の段階にいるのなら、

その人にとってはそうするのが正しいだろう。

しかしその人がその探求過程を

真摯にたどる運命なら、

その探究の過程で

探求者が消えてしまうことを発見することになる。

> 探求者が消えたとき、
> 何かをするという問題はなくなる。

探求者が消えてしまったら、

もうそこに何かをするという問題はない。

何かをするどんな実体もそこにはいないからだ。

> 後に探求者は
> すべての行為を行っていたのは自分の本質ではなく、
> 「生まれた」というラベルが自分の本質に貼られたことで、
> 意識が目覚めと睡眠状態、そして肉体に
> それ自身を一体化させたのだと理解することだろう。

つまり、

あとになって探求者は、

すべての行為をしていたのは

観照している自分の本質ではなかったのだと

知ることになるからだ。

そこで起こっていたことは、

ただ観照する自分の本質に

「生まれた」という観念が覆いかぶさったため、

そのけっか意識エネルギーが見かけの方に流れ出して、

目覚めと睡眠状態と肉体の三者に対する

意識の自己同化が起こったのだと理解することだろう。

> 行為はこれらの束全体がおこなっていたのだ。

見かけの変化を引き起こしていたのは

目覚めと睡眠状態と肉体という

三者の束が全体としてやっていたことだ。

> しかし、
> 探求者はこれらの束ではない。

しかし、

それらの三者の束の行為は

見かけを作るための自動的機械過程であり、

その自動的機械過程が探求者であるわけではない。

探求者とは、

その自動的機械過程を観照しながら

そこで起こっているのが何なのかの

そのパターン認識の謎解きをしている者だ。

それがあなたなのだ。

謎が解ければ、

あなたは見かけに対する興味を失い、

ただ自分の中に静まり

本来の自然な状態に戻ることだろう。

> この私の肉体は知覚できるものだが、
> 私の本質は肉体と意識が存在する
> 【以前】からあった【それ】だ。

見かけの中のこの私の肉体は

単なる知覚の対象物にすぎないが、

この知覚の対象物を観照している私の本質は

肉体と意識が発現する【以前】から在る【常在】だ。

> マインドによって感覚的に見られたり、
> 解釈されたりするすべては意識の中の見かけであり、
> 真実ではない。

見かけに起動されて湧き起こる

感覚的な情緒や解釈としての観念は

それ自体もまた意識内容として出現する見かけであり、

それを知覚している当のものではない。

> 私は自分の経験以外は話しておらず、
> 自分が理解し、
> 経験したことだけを話している。

こういう話はすべて、

私が自ら実際に体験して知ったことであり、

私は自分が理解し経験したこと以外は、

何ひとつ話していない。

> それは非常に単純なことで、
> 私の経験は時間に縛られており、
> 時間に縛られているすべては真実ではない。

すべての知覚対象は

単なる束の間の見かけであって

実在しないというのは、

非常に単純なことだ。

それは私の経験がすべて、

時間のなかで起こる物語に関係していたからだ。

時間に縛られているすべては真実ではない。

> なぜなら、
> 時間それ自体が概念だからだ。

なぜなら、

時間とは、

物語を構成する必要上、

浮上する想念(記憶と想像)を参照するための

基準軸として捏造された

ただの概念にすぎないからだ。

> 私が話していることは
> この単純な事実に基づいているし、
> それは私の経験にもとづいている。

私が今話していることは、

この時間は概念にすぎないという

単純な事実に基づいている。

そしてそれは私が体験した事実でもある。

> もしそれがこの瞬間に
> あなたのマインドに訴える概念なら、
> 受け入れなさい。

もしいま私からこの話を聞いて

それがあなたの心の中で真実だと響くなら、

その概念を受け入れたらいい。

> そうでなければ、
> 受け入れてはいけない。

そうでないのに、

ただ教条として受け入れてはいけない。

> あなたがどうしても何かをしたいというなら、
> 自分がまったくすることができないことをやりなさい。

そして、

もしあなたがどうしても

何かの修行をしたいというのなら、

また見かけから一歩引き下がることを

やりたいというのなら、

見かけの世界に対して

自分がまったく何もできない、

ということを修行にしてみるといい。

あなたはこの世界に対して

あたかもまったく存在していないかのごとくに。

あなたはこの世界に対して死んでいる。

> それが非存在の状態だ。

それはこの世界に対する非存在の状態だ。

──────────────────
 質問者 マインドの中に何かを実現したいという
     落ち着きのなさが常にあり、それ自体が
     障害のように見えます。
 
 マハラジ
 あなたはマインド以前にいるのか、
 それともあとだろうか?
 
 質問者 マインド以前です。
 
 マハラジ
 では、
 マインドのことは心配しないように。
 自分の日常生活に役立つ程度にマインドを使い、
 それ以上は使わないようにしなさい。
 
 知者はマインドを通じて獲得できるどんな経験も、
 ただ実体のないものとして観照し、
 打ち消す。
 この世界の出来事はマインドの領域にある。
 だから、
 いったん自分がそのマインドではないと理解したら、
 いったい何を心配するというのだろうか?
 これは一時的局面であり、
 不完全で、
 不適切た。
 
 質問者 存在性でさえ、不完全で、一時的な局面なの
     でしょうか?
 
 マハラジ
 その意識は本質的に食物の本質からなる肉体の産物であり、
 肉体は「私はある」が維持されるための燃料だ。
 あなたは肉体が何であるかを観察しないのだろうか?
 それはほんの少量の食物と水ではないだろうか?
 現在、
 あなたはこの「私は在るという性質」の中に巻き込まれているが、
 あなた──絶対であるあなたはこの「私は在るという性質」ではない。
 
 質問者 あなたが言っていることは、人がマインドの
     中で認識するようこの「私は在るという性質」でさえ
     あるがままではないということですか?
 
 マハラジ
 次のように考えてみなさい。
 これは腹痛とか首の痛みと同じくらい
 いいことでもあり悪いことでもある。
 完全な状態では、
 私は決して痛みはなかった。
 しかし、
 この「私は在るという性質」がそこにあるとき、
 突然私はその痛みを感じた。
 そしてまた、
 その「私は在るという性質」が融合し、消え、
 「私は在るという性質」がなくなったとき、
 私は完全な状態になる。
 私は「私は在るという性質」がなかったことを
 確実に知っている。
 ちょうど慢性的な痛みに苦しまなければならないように、
 私はこの存在性に苦しんでいる。
 私がどんなレベルで話しているのか、
 どんなレベルへあなたを導こうとしているのか、
 ただ理解しなさい。
 
 この霊的な話がどこへ飛行したのか、
 ただ想像しなさい。
 あらゆるところにある通常の霊的アプローチは、
 非常に多くの称号で意識を崇拝する。
 しかし、
 私にとってはそれは苦痛であり、
 私はそれを取り除きたいのだ。
 
 『意識に先立って』(p87)
──────────────────

> 質問者 マインドの中に何かを実現したいという落ち
>     着きのなさが常にあり、それ自体が障害のよ
>     うに見えます。

今のお話を伺って、

自分の中にはいつも何かを実現したいという

落ち着きのなさのようなものがあることに

気づかされました。

どうやら私の場合は、

それ自体が障害なのかもしれません。

> マハラジ
> あなたはマインドを以前にいるのか、
> それともあとだろうか?

あなたはマインドの落ち着きのなさを問題にしているが、

そもそもあなたはそのマインドの発生以前にいるのか、

それともその発生以後にいるのか?

> 質問者 マインド以前です。
> 
> マハラジ
> では、
> マインドのことは心配しないように。

ならば、

あなたがマインドのことを心配する必要はない。

> 自分の日常生活に役立つ程度にマインドを使い、
> それ以上は使わないようにしなさい。

見かけの世界のことに関しては

自分の日常生活に役立つ程度にマインドを使って、

それ以上は使わないようにしなさい。

> 知者はマインドを通じて獲得できるどんな経験も、
> ただ実体のないものとして観照し、
> 打ち消す。

見かけが何であるかを知った知者は、

知覚対象の世界の中で獲得できるどんな経験にも

見かけ以外のどんな実体もないことが自明なので、

観照の中で経験が起こるたびに

ただちにそれを打ち消す。

> この世界の出来事はマインドの領域にある。

現象世界で起こる出来事は

すべてマインドの領域内にある。

> だから、
> いったん自分がそのマインドではないと理解したら、
> いったい何を心配するというのだろうか?

いったん自分が

その知覚の対象物に先立って存在していると理解したら、

知覚の対象物のなかで起こる見かけの変化の

何を心配する必要があるというのだろう?

> これは一時的局面であり、
> 不完全で、
> 不適切た。

それらの出来事はすべて束の間の見かけだ。

すべて不完全であり、

不適切なものなのだ。

> 質問者 存在性でさえ、不完全で、一時的な局面なの
>     でしょうか?

私はこの存在感覚こそが

信頼するに足る永遠のものと理解していたのですが、

それもまた不完全な一時的局面なのですか?

> マハラジ
> その意識は本質的に食物の本質からなる肉体の産物であり、
> 肉体は「私はある」が維持されるための燃料だ。

知覚の対象物である意識の諸相は、

肉体の誕生が引き起こした「私はある」の派生物だ。

肉体の本質は食物の本質から構成されている。

つまり肉体とは

「私はある」を維持するための燃料なのだ。

> あなたは肉体が何であるかを観察しないのだろうか?

あなたは肉体が何なのかを観察しないのかね?

> それはほんの少量の食物と水ではないだろうか?

あなたも肉体がほんのわずかの

食物と水からなることに反対はしないだろう。

> 現在、
> あなたはこの「私は在るという性質」の中に巻き込まれているが、
> あなた──絶対であるあなたはこの「私は在るという性質」ではない。

現在あなたは、

「私は在る」という存在感が引き起こす世界に

すべての注意を奪われているが、

意識に先立って存在している

【絶対】としてのあなたは

その「私は在る」という存在感ではないのだ。

> 質問者 あなたが言っていることは、人がマインドの
>     中で認識するようなこの「私は在るという性質」でさえ
>     あるがままではないということですか?

ということは、

私たちが気づいているこの存在感でさえ

永遠の実在ではないということなのですか?(@_@)

> マハラジ
> 次のように考えてみなさい。

こんなふうに考えてみるといい。

> これは腹痛とか首の痛みと同じくらい
> いいことでもあり悪いことでもある。

知覚対象としての世界を励起するこの存在感は

いわば私たちの肉体の痛みのように、

いいことにもなれば悪いことにもなる。

> 完全な状態では、
> 私は決して痛みはなかった。

だが、

【絶対】として完全な状態にあった私には

けっして何の痛みもなかったのだ。

> しかし、
> この「私は在るという性質」がそこにあるとき、
> 突然私はその痛みを感じた。

だが、

肉体の誕生によって存在感が引き起こされると、

突如として私は痛みを感じるようになった。

> そしてまた、
> その「私は在るという性質」が融合し、消え、
> 「私は在るという性質」がなくなったとき、
> 私は完全な状態になる。

それだけではない。

その存在感がまた元の鞘の中に収まり、

源泉の中に融合して消え去るとき、

私はまた完全な状態に戻るのだ。

> 私は「私は在るという性質」がなかったことを
> 確実に知っている。

私はその存在感がなかった状態を

確実に体験して知っている。

> ちょうど慢性的な痛みに苦しまなければならないように、
> 私はこの存在性に苦しんでいる。

いま私は痛みに苦しむ慢性病患者のように

この存在性に苦しんでいる。

> 私がどんなレベルで話しているのか、
> どんなレベルへあなたを導こうとしているのか、
> ただ理解しなさい。

私がどんなレベルのことを話しているのか、

どんな領域へあなたを導こうとしているのか、

ただ理解しようとしてみなさい。

> この霊的な話がどこへ飛行したのか、
> ただ想像しなさい。

あなたが引き出したこの霊的話題が

いまどんな領域を飛んでいるのか、

ただ想像しようとしてみなさい。

> あらゆるところにある通常の霊的アプローチは、
> 非常に多くの称号で意識を崇拝する。

いたるところで聞かれる

通常のいわゆる霊的アプローチは、

この存在感がもたらす意識の世界を、

多種多様な霊的称号で崇拝することだろう。

> しかし、
> 私にとってはそれは苦痛であり、
> 私はそれを取り除きたいのだ。

だが私にとっては

この意識とか創造とか呼ばれる霊的世界は、

単純に苦痛以外の何物でもなく、

私はそれを取り除きたいのだ。

(-||-)

──────────────────
 あなたは在る。
 ほかのすべては現れにすぎない。
 
 『私は在る』(p421) 
──────────────────

(-||-)

──────────────────
 永久的なもの、それはあなた自身の存在である。
 真我として在りなさい。
 それが至福である。
 あなたはいつもそれなのである。
 
 『あるがままに』(p58) 
──────────────────

……。(-_-)

ありがとうございました。<(_ _)>

(-||-)

今日はこんなところで。

……。

m(_ _)m


       ………○…………○…………○………


『私は在る』の「目次」はここ↓に置いてあります。
https://www.ascensionkan.com/books/I_AM_THAT-index.html

ときどき「ニサルガ辞書」で遊んでみてください。
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新しい「ラマナ・マハルシ辞書」はここです。
https://www.ascensionkan.com/rdic/

おこがましくも『アセ通』既刊号はすべてここに置いてあります。
https://www.ascensionkan.com/mm/


       ………○…………○…………○………


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というのを作らせていただきました。(^^;)

「私は在る」に関するご意見・ご感想・シェアリング、または単な
るメールなど、ご自由にお書きいただければと思います。

       ………○…………○…………○………


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       ………○…………○…………○………


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■ 2.編集後記:
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いつも同じテーマで

何の変化もないと思われる話を、

十年以上も続けていると、

いつの間にやら、

もう引き返すことのできない

関を越えてしまったのかもしれません。

マハラジの言葉を口真似していると、

いつの間にやら、

その言霊がこちらにも乗り移ってくるようです。

ありがたいことです。

(-||-)

今日は午前中は草刈りをして、

午後から書き始めたので

すっかり暗くなりました。

お休みなさい。

<(_ _)>


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■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
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