━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
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☆☆ ☆☆『アセンション館通信』2018/07/01(第741号)
☆☆ ☆ ☆☆
☆☆ ☆★ 【気刊】――「私は在る」に導かれ♪――
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇
このメルマガはアセンション館主人pariと称するあるパターンに
浮上している心象風景の報告です。
わたしは存在している。身体は現れてはいるが存在してはいない。
欲望や期待や喜びは、現れはするが存在してはいない。
心配や恐怖や悲しみは、現れはするが存在してはいない。
内容は人畜無害、でも読む人は相当変わっていますね。現在835名
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◇◇ もくじ ◇◇
1.意識は世界や宇宙と同じもの
2.編集後記
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■ 1.意識は世界や宇宙と同じもの
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梅雨が明けて、夏になりましたね。
だからどうということもありません。
ただの場面です。
またじきに冬になるでしょう。
移り変わる風景と観念です。
(*^_^*)
さて、またまた一週間が過ぎて、
楽しい“アセンション噺”ならぬ「私は在る」噺に、
お付き合いいただく今がやってまいりました。
『アセンション館通信』配達人の pari です。
マハラジの言葉を読んでも、
それで楽になれるわけではありません。
それでも、
自分がどこにハマっているのかは
わかります。
つまり、
どういう状況にいるエゴを
自分とする夢を観ているのかということは。
その窮境に執着しているわけです。
その窮境を自分だと思っている。
その状況もまた
夢からの脱出を促す恩寵なのでしょう。
今日もまた、
その恩寵の指図にしたがって、
マハラジの最晩年の言葉を
写経させていただきます。
今回は「一九八〇年八月一日」
の対話から写経します。
最初に少し、
マハラジの一人トークがつづきます。
夢を観ているわれわれが
どういう状況にいるのかを
マハラジの言葉で説明してくださっています。
──────────────────
一九八〇年八月一日
マハラジ
あなたのすべての世俗的、
そして非世俗的活動は個人的一体化にもとづいている。
個人としてのあなたが自由を欲しがっている。
個人として留まっていることが難点なのだ。
あなたがこの知識を理解したとどれほど考えていても、
個人として獲得したと思っているかぎり
個人的一体化はまだそこにある。
ヨーギ(ヨーガに熟達している人)に
ある種の進歩があれば具体的な結果が得られるが、
自己一体化がそこにあると、
彼は個人として達成したことに満足したままだ。
あなたは存在の面と、
それが到達したこの低い肉体的性質の両方を
理解しなければならない。
同時に、
その状態は自ずと制限されているが、
この意識ができることには終わりがないことも
理解しなければならない。
自分の本質と全体の潜在的可能性に気づいた者が、
どうしてこの制限された状態の与えるものに
満足できるだろうか?
さらに言えば、
絶対の中の永久的な潜在的可能性があまりに大きいので、
人々は絶対の中にいること
がどういうことか、
それはどのようなものかを想像することができない。
それゆえ、
人々は自分の意識の状態の中で、
自分のことを考えることしかできないのだ。
『意識に先立って』(p95-96)
──────────────────
> マハラジ
> あなたのすべての世俗的、
> そして非世俗的活動は個人的一体化にもとづいている。
> 個人としてのあなたが自由を欲しがっている。
金儲けに熱中していようが、
スピリチュアルな探求に熱中していようが
個人としてのあなたが
自分の自由を欲しがっているのだと。
このマハラジの言葉はとても当然なので
まったく否定する気も起こりませんよね。
まったくそのとおりですとしか、
言いようがありません。
> 個人として留まっていることが難点なのだ。
たしかに。(-_-;)
とはいえ、
だからといって悪びれる必要もありません。
それはこの夢にシナリオであって、
そのような自分が
実際に存在するわけではないのですから。
責任感を感じ、
罪悪感を感じれば感じるほど、
その自己同一化を強める方向にしか
働くことはないでしょう。
もし、
そういうシナリオになっていればですが。
> あなたがこの知識を理解したとどれほど考えていても、
> 個人として獲得したと思っているかぎり
> 個人的一体化はまだそこにある。
夢の中に成果もなければ
失敗もないということは
理屈としてはわかります。
ただ楽になりたいだけです。(*^_^*) \←(\/U)
> ヨーギ(ヨーガに熟達している人)に
> ある種の進歩があれば具体的な結果が得られるが、
> 自己一体化がそこにあると、
> 彼は個人として達成したことに満足したままだ。
そういうタイプのシナリオもあるでしょうね。
> あなたは存在の面と、
> それが到達したこの低い肉体的性質の両方を
> 理解しなければならない。
自分が観照する存在でもあり、
その観照の対象である
意識の内容物としての
肉体的側面でもあることを理解しなければならない。
> 同時に、
> その状態は自ずと制限されているが、
> この意識ができることには終わりがないことも
> 理解しなければならない。
意識の内容物という一大伽藍が
果てしないことも理解しなければならない。
> 自分の本質と全体の潜在的可能性に気づいた者が、
> どうしてこの制限された状態の与えるものに
> 満足できるだろうか?
自分が意識の内容物を観照する存在であることと
観照される意識の内容物が
制限された状態であることを知った者が
どうしてその制限された状態に
満足できるだろうか?
> さらに言えば、
> 絶対の中の永久的な潜在的可能性があまりに大きいので、
> 人々は絶対の中にいることがどういうことか、
> それはどのようなものかを想像することができない。
これは、
想像できるわけもありませんよね。
大空の姿を雲の形で
言い当てようとするみたいなもので。
> それゆえ、
> 人々は自分の意識の状態の中で、
> 自分のことを考えることしかできないのだ。
そういうことかぁ。
──────────────────
質問者 どうしたら私たちは、自分が意識の中に留ま
っていることを理解することができますか?
マハラジ
今現在、
あなたはその状態の中にいる。
しかしあなたは、
常に自分の肉体−マインドを通じて判断しようとする。
あなたはまだ肉体−マインドに執着している。
たとえあなたが百年生きるとしても、
あと五年の延長を望むだろう。
絶対においてはそんな必要はないし、
自分自身を知る必要さえない。
質問者 絶対から起こってくるこの一時的状態には
何かの原因があるはずです。
マハラジ
五大元素の軋轢というか相互作用のせいで、
この一時的局面が起こったのだ。
たとえれば、
二人の親しい友人がいたとして、
彼らの友情は非常に長く続いていたが、
何かの軋轢か不和があって、
突然ケンカをしたようなものだ。
質問者 死の瞬間には、肉体面あるいは精神面で非常
に衝撃的な経験があるかもしれません。
マハラジ
必ずしもそうではない。
マインドのあらゆる概念を浄化した者にとっては、
死は非常に至福に満ちたものになることだろう。
あなたはたくさんのことを学んできて
霊的知恵を持っている。
それにもかかわらず、
死の瞬間にあなたはすべての身内を書き留めた
日記を書くことだろう。
『意識に先立って』(p96-97)
──────────────────
> 質問者 どうしたら私たちは、自分が意識の中に留ま
> っていることを理解することができますか?
このように質問するこの方は、
普段からそうとう内面が
空っぽの方なんでしょうね。
わたしなどなら、
自分が意識の中に留まっていることは
理解するまでもないようなことですが。
> マハラジ
> 今現在、
> あなたはその状態の中にいる。
このマハラジの言葉の意味は、
【その状態】が何を指すのかが決まらないと
判断できません。
> しかしあなたは、
> 常に自分の肉体−マインドを通じて判断しようとする。
しかし後続するこの文章を見ると、
今現在あなたはその状態にいるのに、
しかし自分の肉体−マインドて判断しようとする
という“逆接”接続でつながっています。
ということは、
【あなたはその状態の中にいる】とは、
“意識の中に留まっている状態”の中にいる、
の意味ではなく、
【自分が意識の中に留まっていることを
理解することができる】状態の中にいる、
の意味なのでしょう。
あなたの実際の状態は、
自分が意識の中に留まっていることを理解できる状態だ。
にもかかわらず、
あなたがそのような質問をするのは、
> あなたはまだ肉体−マインドに執着している。
あなたがまだ
肉体−マインドに執着しているからだ、と。
そのような執着があるかぎり、
生きた時間の長さが
その状態に自動的に影響を及ぼせるわけではない。
> たとえあなたが百年生きるとしても、
> あと五年の延長を望むだろう。
たとえあなたがこの先百年生きるとしても、
そのときになってもあなたは
あと五年の延長を望むだことろう。
> 絶対においてはそんな必要はないし、
> 自分自身を知る必要さえない。
絶対というのはマハラジが
「私が在る」という存在感が
始まる前の状態につけた名前ですから、
そこでは自分自身を知る必要さえない
ということなのでしょう。
> 質問者 絶対から起こってくるこの一時的状態には
> 何かの原因があるはずです。
この質問者はわれわれ
意識の中にいる人間の立場を代表して
ここでは質問してくれています。
もしこの現象宇宙を呼び起こした種である
絶対状態の中に兆した最初の想念、
「私が在る」という存在感さえも
一時的状態であるとするなら、
その一時的状態を引き起こした原因は
そのあなたがおっしゃる「絶対」の中に
あるはずではないでしょうか?と。
ここでのマハラジの解答は
“自分”が納得がいくものであるかどうかを
トコトン吟味しなければと思います。
そうでなければ、
受容などということが起こるはずもないからです。
> マハラジ
> 五大元素の軋轢というか相互作用のせいで、
> この一時的局面が起こったのだ。
「五大元素」というのは、
地球の諸々の知的伝統のなかで
世界を形作るとされる五つの「元素」のことです。
仏教では
「地」「水」「火」「風」「空」の五つを、
五大といいます。
道教(その「五行思想」)では
「木」「火」「土」「金」「水」の五つ。
ヨーロッパでは、
「空気」「火」「土」「水」の四大元素に
アリストテレスが天体を構成する元素として導入した
「エーテル」を加えて五元素と言うようです。
マハラジの説明によると
この物質的構成要素である「五大元素」の
【軋轢というか相互作用のせいで、
この一時的局面が起こった】と。
もちろん、
この説明も意識の中にあります。
そしてマハラジはこんな喩えをします。
> たとえれば、
> 二人の親しい友人がいたとして、
> 彼らの友情は非常に長く続いていたが、
> 何かの軋轢か不和があって、
> 突然ケンカをしたようなものだ。
長い調和状態の中にあった
宇宙の構成要素の間で
何かの軋轢か不和があって、
一時的な不調和が生じてしまったようなものだ、と。
DNAの配置機構の中で
起こってしまった誤動作の中に
意図的な悪意や何かを想像しても、
無意味だというような感じでしょうか。
【全顕現は不妊の女性の子供】といった言葉と
通底している観念でしょうね。
> 質問者 死の瞬間には、肉体面あるいは精神面で非常
> に衝撃的な経験があるかもしれません。
質問者は、
死に対してなにかドラマチックな
異変を想像しているようです。
> マハラジ
> 必ずしもそうではない。
いつも必ず一種のショックが起こる
というものでもない。
> マインドのあらゆる概念を浄化した者にとっては、
> 死は非常に至福に満ちたものになることだろう。
これ以上手放すものを
何ひとつ掴んでいない者にとっては、
死はとても穏やかな
また軽やかなものになるだろう。
> あなたはたくさんのことを学んできて
> 霊的知恵を持っている。
> それにもかかわらず、
> 死の瞬間にあなたはすべての身内を書き留めた
> 日記を書くことだろう。
これは……、
どういった類の表現なのか? (?_?)
マハラジは普通、
こんなふうな表現はしないようにも
思えますけどね。
質問者も、
ちょっと自分の意見を言いたかったようです。(^_-)
──────────────────
質問者 私はあなたの祝福とともに平和な死を迎え、
誰のことも思い出さないことでしょう。
マハラジ
その高い状態に留まっていなさい。
あなたは聞く以外、
何もする必要はない。
もしあなたが正しく聞けば、
あらゆることが起こるだろう。
今、
私はあなたにこの存在性が何であるのか、
それは五大元素の戯れの結果であり、
つまり知識のあることはこの食物からなる肉体の結果で、
あなたはそれではないことを話した。
だから、
あなたは知識のあることとの別れについて
心配することはないのだ。
あなたは自分に現れる意識の
観照者であることを理解したのだろうか?
あなたは意識ではなく、
その知識でもなく、
サットグルがあなたの本質なのだ。
意識は世界や宇宙と離れてあることはできず、
それは同じものだ。
これは私のマーヤーであり、
私から出て来た。
そして、
私は自分がそのマーヤーではないことを知っている。
私はこれの観照者であり、
それはただ私の戯れにすぎない。
しかし、
私はその戯れではない。
このすべてのサーダナの最終的な意味はあなただ。
あなたが何であれ、
あなたは存在している。
今までこういったことを誰も本に書かなかったが、
これからは出て来ることだろう。
これについて書く人は科学的な見解を持つべきだ。
私は自分に現れたこの知識に
好き勝手をさせてきたが、
そういった知識の最後の果実は何だろうか?
その知識には今、
「お前は病気をもっていて、
もうすぐいなくなってしまう」
という烙印が押されている。
だから、
私はこの知識の性質を知っている。
あなたも自分自身で発見しなさい。
私はこの知識とダンスを踊り、
それを神と呼んだが、
今この知識には病気だという烙印が押されている。
しかし、
私は自分が何であるかを知っていて、
私はこれ以前に存在しているのだ。
私が自分自身の本質に文句を言ったら、
私の本質は、
「それはすべてリーラ(遊び)であり、
おまえはそれとは何の関係もない」
と言う。
まさにこの意識は不正直であり、
一体私と何の関係があるだろうか?
私はその土台だ。
人々は私が原因だと考えているが、
私は原因ではなく、
その土台なのだ。
質問者 ジニャーニにおいては、存在性は非存在性の
状態に到達しながら、それでも外見が現れま
す。その人はどのように行動するのですか?
マハラジ
それは夢の世界の中で行動するようなものだ。
夢ではあらゆることが起こっているが、
あなたが何かをしているわけではない。
その最高の状態からは、
ただ存在性の観照とその活動が起こるだけなのだ。
『意識に先立って』(p97-98)
──────────────────
> 質問者 私はあなたの祝福とともに平和な死を迎え、
> 誰のことも思い出さないことでしょう。
これがこの瞬間にこの方から出てきた
返答でした。
この方のシナリオがそうなっていたから。
> マハラジ
> その高い状態に留まっていなさい。
ふむ。
> あなたは聞く以外、
> 何もする必要はない。
これはどういう意味なんでしょうね?
「聞く」と翻訳されているのは
質問する意味なのか、
それとも傾聴する意味なのか?
> もしあなたが正しく聞けば、
> あらゆることが起こるだろう。
あなたが適切に耳を傾けていれば、
言葉はあなたという意識の中に沈んで、
そこで起こすべき変化を起動するだろう。
> 今、
> 私はあなたにこの存在性が何であるのか、
> それは五大元素の戯れの結果であり、
> つまり知識のあることはこの食物からなる肉体の結果で、
> あなたはそれではないことを話した。
いま私は、
この「私は在る」という存在感、
この存在性が何であるのかを
つぶさに説明した。
それは意識を構成する物質要素である
五大元素の何の意味もない戯れの結果だ。
つまり、
あらゆる知識というものは、
この存在感を引き起こした肉体の本質を
引き継ぐものであり、
その内容は食べ物の本質である
“存在することへの愛”だ。
そしてあなたは、
その“存在することへの愛”ではない。
あなたは
“存在することへの愛”に先立って
存在している。
> だから、
> あなたは知識のあることとの別れについて
> 心配することはないのだ。
あらゆる知識は、
形あるものの存続への欲望から派生している。
“存在への愛”に先立って存在するあなたは、
あらゆる知識との別れについて
心配する必要はないのだ。
> あなたは自分に現れる意識の
> 観照者であることを理解したのだろうか?
あなたは自分が
あなたの前に現れる意識の観照者であることを
理解したのかね?
> あなたは意識ではなく、
> その知識でもなく、
> サットグルがあなたの本質なのだ。
あなたは意識の内容物ではなく、
意識の内容物についての知識でもなく、
ただそれを映し出している観照者、
サットグルであることを理解しただろうか。
> 意識は世界や宇宙と離れてあることはできず、
> それは同じものだ。
意識の内容物は
世界や宇宙という現象と離れては存在できない。
意識の内容物とは
世界や宇宙という現象のことだ。
> これは私のマーヤーであり、
> 私から出て来た。
これは私の幻想だ。
この幻想を見ることができる者が
私以外に存在するわけではない。
この幻想が出てくる原因になった者が
私以外に存在するわけではない。
> そして、
> 私は自分がそのマーヤーではないことを知っている。
だが私は、
自分がこの幻想ではないことを知っている。
この夢が私であるわけではない。
> 私はこれの観照者であり、
> それはただ私の戯れにすぎない。
私はこの幻想を映し出すことができる者、
この夢を見ることができる者だ。
この夢はただ私の戯れであるにすぎない。
> しかし、
> 私はその戯れではない。
だが、
この戯れが私であるわけではない。
地上世界の苦しみも喜びも
すべて太陽の光に拠って存在している。
しかしだからといって、
地上世界の苦しみや喜びの責任が
太陽にあるわけではないようなものだ。
> このすべてのサーダナの最終的な意味はあなただ。
この霊的修練の最終的な意味はあなたにある。
なぜならあなただけが実在しているからだ。
実際あなた以外には何ひとつ存在しない。
この夢の受取り手はあなた以外にはいない。
あなたが受け取らなければ、
その夢は現象できない。
あなたがその娯楽を受け取れば、
その幻想は力を得て現実になる。
他の誰もあなたにそれを強制してはいない。
実在するのはあなただけだからだ。
> あなたが何であれ、
> あなたは存在している。
あなたが自分をいかなる存在と自認しているにせよ、
あなたは存在している。
> 今までこういったことを誰も本に書かなかったが、
> これからは出て来ることだろう。
> これについて書く人は科学的な見解を持つべきだ。
マハラジはこういう見解を持っていたんですね。
> 私は自分に現れたこの知識に
> 好き勝手をさせてきたが、
> そういった知識の最後の果実は何だろうか?
さて、マハラジが言うには、
これまでその知識に
夢の世界の中で好き放題をさせてきたが、
その知識は夢の中で
最後にどんな果実を得たか?
> その知識には今、
> 「お前は病気をもっていて、
> もうすぐいなくなってしまう」
> という烙印が押されている。
ふふ。
面白い言い方。
そういう知識にも
特別華やかな果実があるわけでもない。
「お前も病気だから、
もうすぐいなくなるだろう」かぁ。
夢の中で何を得たところで、
それは夢の中で消えてゆくだけ。
> だから、
> 私はこの知識の性質を知っている。
というわけで、
マハラジはこの知識がどういうものか、
よく知っている。
> あなたも自分自身で発見しなさい。
あなたも自分で発見するといい。
> 私はこの知識とダンスを踊り、
> それを神と呼んだが、
> 今この知識には
> 病気だという烙印が押されている。
マハラジがその身体と
そこに湧いている想念を
「この知識」と呼んでいるのが、
どういう気分なのかはわかりませんが、
その知識を彼は神と呼び、
生涯その知識とダンスをしたそうです。
そして今やその身体とそこにある理解には、
病気の烙印が押されました。
もう長くない。
> しかし、
> 私は自分が何であるかを知っていて、
> 私はこれ以前に存在しているのだ。
しかしマハラジは自身は
その意識内容つまり知覚可能な知識ではなく、
それに先立って存在していたことを知っている。
> 私が自分自身の本質に文句を言ったら、
> 私の本質は、
> 「それはすべてリーラ(遊び)であり、
> おまえはそれとは何の関係もない」
> と言う。
なので、
マハラジがその知識に文句を言ったら、
その知識はマハラジに、
「それはすべてリーラ(遊び)であり、
おまえはそれとは何の関係もない」
と言ったというのです。(^^;)
まさに禅問答そのものです。(^_-)
しかし、
この知識の言葉は
合理的なマインドの論理的表現と考えれば、
これはまさにそうとしか言えない。
それはただ、
合理性を追求せずにはいられない言語体系の中での
辻褄合わせでしかありません。
> まさにこの意識は不正直であり、
> 一体私と何の関係があるだろうか?
いったい、
そんな言語体系の都合に合わせて
苦しむ必要があるだろうか?
まさに意識とは不正直であり、
それに先立って存在している者が
付き合う必要などいっさい存在しない。
そんな不正直な意識の都合など
誰が気にするのか?
> 私はその土台だ。
私は意識に拠って存在しているのではなく、
私が意識の土台なのだから。
> 人々は私が原因だと考えているが、
> 私は原因ではなく、
> その土台なのだ。
意識の中で判断する人々は
実在が意識の原因だと考えているが、
実在が原因なのではなく、
実在は意識の土台なのだ。
ただ意識という現象を可能にしている
ということにすぎない。
> 質問者 ジニャーニにおいては、存在性は非存在性の
> 状態に到達しながら、それでも外見が現れま
> す。その人はどのように行動するのですか?
顕現という夢の中で
その虚妄を見破って覚醒したジニャーニが、
なおも虚妄の夢の中に登場できるのは
どのようにして可能なのでしょうか?
> マハラジ
> それは夢の世界の中で行動するようなものだ。
それはあたかも
この身体が夢の中で働くのを
観照しているようなものだ。
> 夢ではあらゆることが起こっているが、
> あなたが何かをしているわけではない。
この現象世界という夢の中では
あらゆることが起こっているが、
実際は登場人物であるあなたが
何かをしているわけではない。
知覚対象である意識内容としてのあなたは、
単なる物質にすぎない。
その物質の見かけ上の振る舞いが
生きているわけではない。
唯一生きているのは
その見かけ上の振る舞いを観ているあなただ。
> その最高の状態からは、
> ただ存在性の観照とその活動が起こるだけなのだ。
そのような不動の状態からは、
ただ存在感が観照されていて、
見かけの活動が起こっているだけなのだ。
(-||-)
──────────────────
あなたは在る。
ほかのすべては現れにすぎない。
『私は在る』(p421)
──────────────────
(-||-)
──────────────────
永久的なもの、それはあなた自身の存在である。
真我として在りなさい。
それが至福である。
あなたはいつもそれなのである。
『あるがままに』(p58)
──────────────────
……。(-_-)
ありがとうございました。<(_ _)>
(-||-)
今日はこんなところで。
……。
m(_ _)m
………○…………○…………○………
『私は在る』の「目次」はここ↓に置いてあります。
https://www.ascensionkan.com/books/I_AM_THAT-index.html
ときどき「ニサルガ辞書」で遊んでみてください。
https://www.ascensionkan.com/ndic/
新しい「ラマナ・マハルシ辞書」はここです。
https://www.ascensionkan.com/rdic/
おこがましくも『アセ通』既刊号はすべてここに置いてあります。
https://www.ascensionkan.com/mm/
………○…………○…………○………
▼『アセ通』への「私は在る」関連ご意見投稿フォーム:
http://www.formzu.net/fgen.ex?ID=P48750702
というのを作らせていただきました。(^^;)
「私は在る」に関するご意見・ご感想・シェアリング、または単な
るメールなど、ご自由にお書きいただければと思います。
………○…………○…………○………
▼『アセンション館通信』への情報ご投稿フォーム
http://www.formzu.net/fgen.ex?ID=P87119518
………○…………○…………○………
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■ 2.編集後記:
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何をさせられているのかは知りませんが、
責任を感じたり恥ずかしさを感じたりする必要も、
ましてや罪悪感を感じる必要もなさそうです。
もしそういうシナリオになっていればですが。
そもそも知覚対象としての意識内容の中に、
どんな独立した個別存在もいないわけですから。
マハラジの言葉を口真似をすることが、
pariパターンのシナリオに書かれているのなら、
pariパターンに逆らえるはずもありません。
(-||-)
明日は朝から地域の草刈りです。
もうすっかり暗くなりました。
お休みなさい。
<(_ _)>
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■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
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→ メール: pariアットマークjk2.so-net.ne.jp
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