home > 通信 >『アセンション館通信』第744号:単に感知し、理解する



━━━━☆☆☆☆━━━━━━━ by paritosho ━
  ☆☆   ☆☆   『アセンション館通信』
 ☆☆     ☆☆    2018/07/22(第744号)
☆☆   ☆   ☆☆             
☆☆      ☆★   「私は在る」に導かれ♪
-☆☆────-☆☆──────────────
 ☆☆   ☆☆   https://www.ascensionkan.com/
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇

 欲望や嫌悪は心のもの
 そして心はあなたのものではない
 あなたはその混乱から自由なのだ
 『Ashtavakra Gita』

人畜無害、読む人は相当変わってます。現在835名
──────────────────
◇◇ もくじ ◇◇

1.単に感知し、理解する

2.編集後記
──────────────────

━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■ 1.単に感知し、理解する
━━━━━━━━━━━━━━━━━━

意識の中には

いろいろな苦しみがありますが、

近辺の意識世界で

今年の流行りは酷暑ですね。

「今日もまた暑くなるぞ」

『にちよういち』だったかな、

昔読んだ絵本のセリフの一節です。

(*^_^*)

さて、またまた一週間が過ぎて、

楽しい“アセンション噺”ならぬ「私は在る」噺に、

お付き合いいただく今がやってまいりました。

『アセンション館通信』配達人の pari です。

マハラジの言葉を聴いているうちに、

いろいろなことが

単純になってきたようです。

マハラジが言う「意識」とは

何らかの意味の物質のことだと

言えそうです。

物質とは変化しないものというよりは、

むしろ変移の相そのもの、

つまり現象の

表現媒体のようなのです。

そしてその本質からして

死物であり対象物なのです。

そして物質は、

変化しないのではなく、

変化しないことができない。

不動ではありえないわけです。

というのも物質は

知覚されることによって現象できるもの、

それ自体では存在しないものだからです。

現象は知覚されてはじめて現象できます。

しかし現象したときその現象は、

その現象を知覚しているものの

思い込みを反映しているのです。

誰の思い込みを反映しているのか?

現象を見ている者の思い込みを。

そして、

現象自体が現象を知覚することは

ありえません。

別の言い方をすると、

物質自体が

他の物質を知覚することは

ありえないということです。

物質とは

変移の相の表現媒体である

ホログラムを形成する材料です。

ホログラム自体の中を

どこまで探し回っても、

そこに主体が見つかることはありません。

主体が客体として出現することは

ありえないからです。

現象とはどこまで探求しても

絶えざる変化の相であって、

現象の中に不動は存在しないのです。

現象の中に常在は存在しない。

現象の中に

現象の真の観察者は存在しない。

ただ、

現象として表現されうる

様々な意識、心情、情緒、概念、

欲望、意図、執着、恐怖、等々は

もちろん、ホログラムの中の

パターンとして存在(現象)するでしょう。

しかし、

それらのパターンは

それらの様々な意識内実の表現媒体であって、

それらの表現媒体自体が

別の意識内実の表現媒体を

感知できるわけではない。

では、

何がそれらの表現に気づいているのか?

唯一実在するものが

それに気づいています。

どうやって?

それらのパターンが表現する

意識内実に興味をもつことによって。

その意識内実に注目することによって。

つまり、

パターンが表現する意識内実が

それ自体で存在していると

誤解することによってです。

要するに、

それらのパターンが表現する意識内実に

自己同一化することによってです。

つまり、

物質が表す物質的あるいは精神的表現を

自分だと誤解することによってです。

この誤解は

想像の果をさまよう今となっては、

非常に根深い構造を内蔵化するに至っています。

つまり

この誤解体系はいまとなっては、

創造世界という大伽藍となって

次々と自己同化の対象となる

新たなパターンを量産し続けているのです。

今や地球人類も

そのような自動機械による増産過程が

可能であることを知っています。

そのような現象世界という

全エネルギー過程の源泉こそが

「私は在る」という観念なのでしょう。

マハラジは、

この「私は在る」という観念が

出現する以前に存在しているものを

「絶対」と名づけています。

そして

その「絶対」こそが

何者にも汚染されていない

あなた自身だと。

今日もまた、

恩寵の指図にしたがって、

マハラジの最晩年の言葉を

写経させていただきます。

今回は「一九八〇年一二月一三日」

の対話から写経します。

マハラジはとても単純なことを言っています。

そして、

pariパターンなどにとっては

ありがたいことですが、

このことを体験する方法はない、

と言っています。

ただ直感的に理解しなさいと。

それを体験することはできない。

しかし、それであることはできる……。

──────────────────
 一九八〇年一二月一三日
 
 マハラジ
 絶対は一元性であり、
 それ自身だが、
 それは多くの方法や形態で表現される。
 絶対としては、
 私は自分自身を経験しない。
 他者を想定しない帰依は真我への帰依であり、
 そこには二元性はない。
 いったん二元性がやってくると、
 帰依は主体と対象に別れる。
 誕生前、
 私は自分自身を意識しなかった。
 異質な要素である誕生がもたらされて初めて、
 私たちは自分自身を意識するようになったのだ。
 
 これを理解することは目覚めであり、
 それにはどんな道もテクニックもない。
 それは非常に霊妙なことで、
 私はそれについてはもっと話したいが、
 これ以上は肉体的に不可能だ。
 
 他の人たちは私のように
 オープンには話さないことだろう。
 一人一人がこれをどれくらい受容できるかは、
 その人自身の運による。
 またあなたは私から聞いたことを
 利用できないことも理解しなさい。
 聞いたことが何であれ、
 それは独自の展開をすることだろう。
 
 『意識に先立って』(p178)
──────────────────
 
> マハラジ
> 絶対は一元性であり、
> それ自身だが、

このマハラジの言葉は

このまま鵜呑みにするしかない。

言い換えてみても仕方がない気がします。

マハラジが言う「絶対」とは、

主体がいちばん奥まで

引き下がった状態のことでしょう。

存在する唯一の常在。

でも、自分を知らない。

そして、自分を知ろうとすれば、

> それは多くの方法や形態で表現される。

ということになるのでしょう、

> 絶対としては、
> 私は自分自身を経験しない。

いかなる意識状態にも

関心を向けない状態では

絶対は自分自身を経験しない。

> 他者を想定しない帰依は
> 真我への帰依であり、
> そこには二元性はない。

帰依とか献身という言葉は

通常の用法では

誰かが自分以外の誰かに対してもつ

態度のように使われます。

だから通常は

二元性を前程して使われる言葉ですが、

ここでマハラジは

真我が真我に向ける帰依には

二元性はないと言います。

まあ、理屈としては分かりますし、

反対する理由もありません。

> いったん二元性がやってくると、
> 帰依は主体と対象に別れる。

人から神に向けた帰依として、

二元性を生んでしまうと。

> 誕生前、
> 私は自分自身を意識しなかった。

わたしの場合も、

誕生前の意識の記憶などありません。

> 異質な要素である誕生がもたらされて初めて、
> 私たちは自分自身を意識するようになったのだ。

了解です。

> これを理解することは目覚めであり、
> それにはどんな道もテクニックもない。

なんと……。

マハラジは、

これを理解することは目覚めだ、

と言っています。

しかもご丁寧なことに、

それには(つまり、それを理解するには)、

どんな方法もテクニックもないと。

簡単に言うと、

禅語で言う

「父母未生以前の本来の面目」が

本当の自分だという理解があれば、

それが目覚めだとマハラジは言っている。

それを理解しているのなら、

そこにもう自覚の揺れは存在せず、

自覚の揺れがあるようなら、

それはまだ理解していないのだ、

ということなのでしょう。

> それは非常に霊妙なことで、
> 私はそれについてはもっと話したいが、
> これ以上は肉体的に不可能だ。

もっと話していただきたかったですが、

それが起こらかなったのですから、

できることは何もありません。

でも、

pariパターンにとっても、

「異質な要素である誕生」が起こる前から、

わたしはいたということは、

自明なことだと思われます。

そうでなければ、

誰が、あるいか何が

「異質な要素である誕生」に気づくのですか?

どうやって、

「異質な要素である誕生」が

起こることができるのですか?

そしてその

「異質な要素である誕生」が起こった

そのとき初めて、

> 私たちは自分自身を意識するようになった

ことも間違いないと思います。

pariパターンは以前、別の文脈で

「意識は誕生できない」

という観念を抱懐したことがあります。

この<意識>という言葉は

<気づき>を意味する言葉でした。

観察対象の中から

どうやって<気づき>が誕生できるのか?

という文脈でした。

ここでマハラジが言っているのは

<気づき>の潜在性である「絶対」のなかに、

「私は在る」という

自分の存在生を意識した「異質な要素」が

誕生したということのようです。

これが個々の現象に対する

自己同一化が始まる源泉だということでしょう。

> 他の人たちは私のように
> オープンには話さないことだろう。

こうしてマハラジにように

このことをこんな単純な言葉で語る導師は

他にはあまりいないだろう、

とマハラジは言っています。

> 一人一人がこれをどれくらい受容できるかは、
> その人自身の運による。

こうして写経しているpariパターンが

このことをどれくらい受容しているかは、

神のみのぞ知るところです。

それこそが恩寵、

pariパターンの運命です。

> またあなたは私から聞いたことを
> 利用できないことも理解しなさい。

これ、

とてもいいですね。

pariがこの話を利用しようと思っても、

そうは問屋が卸さないと。

個別の運命に自己同化したpariには

この知識は「猫に小判」「豚に真珠」です。

pariには何の使い道もない知識です。

また、

pariが利用できるようでは、

何の恩寵もなかったということでしょう。

> 聞いたことが何であれ、
> それは独自の展開をすることだろう。

こうして写経していることは、

やがて独自の展開をすることでしょう。

──────────────────
 質問者 ここに座って、マハラジの話を聞くことは
     純粋な喜びです。それが二元性にあるように
     見えても、何か内部の深いところに響きます。
 
 マハラジ
 あなたの中に二元性の感覚があるかぎり、
 あなたの聞いたことは的に届くことはない。
 
 私が言っていることを理解しなさい。
 意識は自然発生的に起こる、
 いったん自分自身を意識したら、
 私は存在していることを知る。
 そして、
 私はこの存在性を愛し、
 自分から離れて欲しくない。
 このせいで、
  眠りが襲うまで、
 この存在の愛を満足させるために
 私は一日中奮闘する。
 
 それからグルが物事の真実の状態を語った。
 私がこんなにも愛しているこの意識は
 幻想にすぎないと教えてくれたのだ。
 それがすべての不幸の根本原因であり、
 私の真実の状態はこの意識が起こる前のものだ。
 それはすべての概念を超えていて、
 与えられた名前はすべて概念なのだ。

 言葉を超えて、
 直感的に完全にこれを理解しなさい。
 しかしまた、
 その理解は何の役にも立たないことも理解しなさい。
 なぜなら、
 「役に立つ」とは意識のレベルの話であり、
 意識は幻想だからだ。
 
 ここで録音され、
 書き写されていることは、
 やがて理解の基礎が広がって
 人々が物事の状態とは何なのかを知りたいと思うとき、
 想像できないほど価値あるものになることだろう。
 これが広範囲に明らかになる頃には、
 驚きをもって迎えられるはずだ。
 こうした言葉は少ないが、
 ある時点で自分の達成を誇っていた人たちが聞くなら、
 その知識があまりにも突然に蒸発してしまうのに
 驚愕することだろう。

 『意識に先立って』(p178-179)
──────────────────

> 質問者 ここに座って、マハラジの話を聞くことは
>     純粋な喜びです。それが二元性にあるように
>     見えても、何か内部の深いところに響きます。

こうやって質問者が

精一杯に表現しているのに……。

> マハラジ
> あなたの中に二元性の感覚があるかぎり、
> あなたの聞いたことは的に届くことはない。

こういう

まったく愛想のないマハラジ流の表現は、

はじめは必ずしも好きではありませんでした。

でもどういうわけか、

いまではけっこう気に入っています。

何の意味もないけれど。

> 私が言っていることを理解しなさい。

理解しようとしています。

> 意識は自然発生的に起こる、

このことはよくわかります。

現地球人類に手が届く程度のAIでも、

仮想現実の自発的自動発生装置くらいは

開発できるでしょう。

そういうものが存在するなら、

それに注目する意識の位相もまた、

(間接的には)物質波動として

いくらでも量産できるということです。

なぜなら、こうして、

体験のない絶対から歩み出て

そのような意識波動に興味をむける

あなたやpariパターンが

実際にこうして現象しているのですから。

> いったん自分自身を意識したら、
> 私は存在していることを知る。

はい、

いったん自分自身を意識したら、

「私は在る」が誕生したのです。

> そして、
> 私はこの存在性を愛し、
> 自分から離れて欲しくない。

「私は在る」

「私はこの存在性を愛する」

「私はこれを終わらせたくない」

……。

> このせいで、
>  眠りが襲うまで、
> この存在の愛を満足させるために
> 私は一日中奮闘する。

わたしの日々のこの奮闘は、

この基盤上に築かれた執着に

根拠を持っている。

> それからグルが物事の真実の状態を語った。

そして、

何故にすべては始まってしまったのか?

という問いが起こり、

マハラジのこの言葉にまでたどり着く。

> 私がこんなにも愛しているこの意識は
> 幻想にすぎないと教えてくれたのだ。

わたしがこれほどにも

欲望と嫌悪を向けるこの意識は、

自動的に生成される様々な意識パターンに

自己同化することから生まれる

たんなる想像による幻想にすぎない。

> それがすべての不幸の根本原因であり、
> 私の真実の状態はこの意識が起こる前のものだ。

この幻想に

これほどの欲望と嫌悪でつながることが

すべての不幸の根本原因だということ。

そして、

わたしの真実の状態は

この意識が起こる前のものだということ。

それがどれほど理解されているかは、

意識エネルギーが

どちらに向かって流れ出すかでわかる。

幻想である現象世界に流れ出すのか、

それとも「私は在る」の源泉に向かって

流れ出すのか……。

> それはすべての概念を超えていて、
> 与えられた名前はすべて概念なのだ。

わたしの真実の状態は

意識が起こる前のもの……。

意識の中で捏造されるすべての概念以前に

存在している。

現象に気づいているあなたはそれだ。

想像された概念の中で溺れるかどうかは、

あなたの運による。

> 言葉を超えて、
> 直感的に完全にこれを理解しなさい。

まさにこれこそが、

pariパターンが出会うことを求めていた

理解だったと思います。

> しかしまた、
> その理解は何の役にも立たないことも理解しなさい。

これも、よくわかる。

> なぜなら、
> 「役に立つ」とは意識のレベルの話であり、
> 意識は幻想だからだ。

まったく。

> ここで録音され、
> 書き写されていることは、
> やがて理解の基礎が広がって
> 人々が物事の状態とは何なのかを知りたいと思うとき、
> 想像できないほど価値あるものになることだろう。

そういう時代が来るようには

思えませんが……。

> これが広範囲に明らかになる頃には、
> 驚きをもって迎えられるはずだ。

もしそういうことが起これば、

それはその小宇宙の崩壊でしょうか。

> こうした言葉は少ないが、
> ある時点で自分の達成を誇っていた人たちが聞くなら、
> その知識があまりにも突然に蒸発してしまうのに
> 驚愕することだろう。

そういうことが本当に了解されたとき、

そこに驚愕する誰かがいるのだろうか。

──────────────────
 質問者 私はここで使われているような意識とい
     う言葉を理解できません。意識とは純粋な
     気づき、究極の現実だと思っていました。

 マハラジ
 この意識は食物からなる
 生まれたものである肉体に依存していて、
 時間に束縛されている。
 意識以前に存在しているものが絶対だ。
 そして、
 意識が形もなく、
 それ自身に気づいていないとき、
 それは絶対だ。
 私たちはこの意識に他ならない。
 
 私はここに来ているあなたに話をしているが、
 あなたが来ようが来まいが関心はない。
 私は完全に独立している。
 絶対である私は意識を必要としていない。
 完全なる独立は単に感知し、
 理解する。
 私は見かけ上、
 「私はある」という意識に依存している。
 私があなたを認識できるのは、
 この知覚のおかげだ。
 この概念を私はもっていなかったが、
 そのときでも私は存在していた。
 私はこの意識が現れる以前にそこにいたのだ。
 
 あなたが何を望み、
 欲し、
 崇拝しようが、
 すべて概念にすきない。
 あなたは何が概念的な存在で、
 何が概念以前の存在かを
 聞いたことがあるだろうか?
 多くの人たちが
 純粋に霊的目的のためだけにここにやってきて、
 私に対する大いなる愛を告白した。
 そのあと、
 何らかの幸運が彼らに起こって繁栄すると、
 そのせいでここに来る時間がなくなってしまった。
 以前あった愛はどこへ行ったのだろうか?
 これがマーヤーの領域だ。
 ある人が
 誠実な霊的探求の目的をもってここに来たのに、
 それからこのマーヤーが少々の誘惑を見せると、
 彼は去ってしまう。

 このマーヤーは独立して動いているわけではなく、
 私たちはパートナーだ。
 彼はこのマーヤーと離婚する勇気があるだろうか?
 いや、
 彼はそのマーヤーを受け入れることだろう。
 私はこれだ、私はあれだという
 エゴを取り除くことはとてもむずかしい。
 しかし、
 私が言うことを本当に理解する人には、
 エゴは触れることができない。

 概念が残るかぎり、
 あなたはここに来続けることだろう。
 いったんそれを超えたら、
 ここに来る必要はない。
 
 あなたはいつから、
 そして何ゆえに、
 自分が存在すると考えるようになったのだろうか?
 
 『意識に先立って』(p179-181)
──────────────────

> 質問者 私はここで使われているような意識とい
>     う言葉を理解できません。意識とは純粋な
>     気づき、究極の現実だと思っていました。

意識という言葉を

どういう意味合いで使うかは、

単にその概念の定義の仕方にすぎません。

意識とは純粋な気づき、

という定義もけっして悪くはないし、

それならその純粋な気づきに

後退すればいいわけですから。

ただ、

あらゆる体験はすべて単なる概念だ、

というマハラジの表現は、

マハラジがたどった道から生まれた

表現なんだと思います。

そしてそれはとても強力で

シンプルです。

> マハラジ
> この意識は食物からなる
> 生まれたものである肉体に依存していて、
> 時間に束縛されている。

ここで、

「意識」←「時間」←「肉体」←「食べ物」

という依存関係が語られています。

これは、

メチャクチャ、マハラジ的です。

こんなことを言っている人を他に知らない。

> 意識以前に存在しているものが絶対だ。

【意識以前に存在しているものが絶対】

> そして、
> 意識が形もなく、
> それ自身に気づいていないとき、
> それは絶対だ。

【自身に気づいていない意識が絶対】

マハラジの用語法はこれで分かりました。

> 私たちはこの意識に他ならない。

そして、

わたしたちはまさにこの意識。

> 私はここに来ているあなたに話をしているが、
> あなたが来ようが来まいが関心はない。

ふふ。

この【関心はない】という表現、

わたしは好きです。

でも、この表現を使う導師は

たぶん、めったにいないと思います。

本当は、

夢の中の場面にそんなに関心を持っている

導師などいないと思うけど。

> 私は完全に独立している。

これを言う導師もめったにいない。

> 絶対である私は意識を必要としていない。

ははは。

> 完全なる独立は単に感知し、
> 理解する。

ああ……。

【完全なる独立は単に感知し、理解する】

> 私は見かけ上、
> 「私はある」という意識に依存している。

はい。

> 私があなたを認識できるのは、
> この知覚のおかげだ。

私が夢の登場人物であるあなたと会話できるのは、

この「私は在る」という意識のおかげだ。

> この概念を私はもっていなかったが、
> そのときでも私は存在していた。

この「私は在る」という概念は

私の中に誕生したものだ。

そして私は

その概念の誕生以前にも存在していた。

> 私はこの意識が現れる以前にそこにいたのだ。

はい。

実在しているのはそれだけだから。

> あなたが何を望み、
> 欲し、
> 崇拝しようが、
> すべて概念にすきない。

想像され、捏造された概念にすぎない。

> あなたは何が概念的な存在で、
> 何が概念以前の存在かを
> 聞いたことがあるだろうか?

マハラジ以前に、

そういう話を聞いたことはありません。

マハラジから聞いて

いまでは現象世界はすべて、

概念的な存在だと思っています。

> 多くの人たちが
> 純粋に霊的目的のためだけにここにやってきて、
> 私に対する大いなる愛を告白した。

はい。

> そのあと、
> 何らかの幸運が彼らに起こって繁栄すると、
> そのせいでここに来る時間がなくなってしまった。

ふふ、そういう言い方もありますね。

> 以前あった愛はどこへ行ったのだろうか?
> これがマーヤーの領域だ。

彼らが戻っていったのがマーヤーの領域だ、

という意味ですか?

それとも、

そんなふうな疑問をもつのが、

マーヤーの領域だという意味ですか?

でも、こういう(後者の)言い方は

マハラジはしないな。

> ある人が
> 誠実な霊的探求の目的をもってここに来たのに、
> それからこのマーヤーが少々の誘惑を見せると、
> 彼は去ってしまう。

なるほど。

人間はマーヤーの誘惑が好きなのだと。

> このマーヤーは独立して動いているわけではなく、
> 私たちはパートナーだ。

あああ……。

クリシュナムルティが言う、

「世界は私だ」ということかなぁ。

> 彼はこのマーヤーと離婚する勇気があるだろうか?

離婚するよりはずっと、

執着と嫌悪に揺れている方が容易です。

つまり安逸に流されるなら、

執着と嫌悪に揺れる状態にとどまり

苦しみ、そして

「何のために?」と問うことになる。

> いや、
> 彼はそのマーヤーを受け入れることだろう。

たしかに。

> 私はこれだ、私はあれだという
> エゴを取り除くことはとてもむずかしい。

とてもむずかしいです。

> しかし、
> 私が言うことを本当に理解する人には、
> エゴは触れることができない。

とてもむずかしいあいだは、

本当に理解してはいないということだなぁ。
 
> 概念が残るかぎり、
> あなたはここに来続けることだろう。

こうしてマハラジの本を

読み続けています。

> いったんそれを超えたら、
> ここに来る必要はない。

いったんそれを超えたら、

もう読む必要はなくなる。

> あなたはいつから、
> そして何ゆえに、
> 自分が存在すると考えるようになったのだろうか?

そうか……。

わたしはいつから、

そして何ゆえに、

自分が存在すると考えるようになったのか?

それが本当の問いなんだ。

(-||-)

──────────────────
 あなたは在る。
 ほかのすべては現れにすぎない。
 
 『私は在る』(p421) 
──────────────────

(-||-)

──────────────────
 永久的なもの、
 それはあなた自身の存在である。
 真我として在りなさい。
 それが至福である。
 あなたはいつもそれなのである。
 
 『あるがままに』(p58) 
──────────────────

……。(-_-)

ありがとうございました。<(_ _)>

(-||-)

今日はこんなところで。

……。

m(_ _)m


   ………○…………○…………○………


『私は在る』の「目次」はここ↓にあります。
https://www.ascensionkan.com/books/I_AM_THAT-index.html

「ニサルガ辞書」で遊んでみてください。
https://www.ascensionkan.com/ndic/

「ラマナ・マハルシ辞書」はここです。
https://www.ascensionkan.com/rdic/

『アセ通』既刊号はすべてここにあります。
https://www.ascensionkan.com/mm/


   ………○…………○…………○………


▼『アセ通』へのご意見投稿フォーム:
http://www.formzu.net/fgen.ex?ID=P48750702


   ………○…………○…………○………


▼『アセンション館通信』への情報ご投稿フォーム
http://www.formzu.net/fgen.ex?ID=P87119518


   ………○…………○…………○………


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■ 2.編集後記:
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今日も暑かったですね。

一週間にいちどこんなことを書くのは

とても楽しみなんです。

暑い中を夢中になって

言葉と戯れている。

マーヤーの領域ですねぇ。

今日は暗くなりました。

それでは、お休みなさい。

<(_ _)>


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■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
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  メール: pariアットマークjk2.so-net.ne.jp
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二つの配信スタンドで発行されています。
mag2:http://www.mag2.com/m/0000126287.html
melma:http://www.melma.com/backnumber_110091/
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