home > 通信 >『アセンション館通信』第745号:痛みを感じるのは肉体ではない



━━━━☆☆☆☆━━━━━━━ by paritosho ━
  ☆☆   ☆☆   『アセンション館通信』
 ☆☆     ☆☆    2018/07/29(第745号)
☆☆   ☆   ☆☆             
☆☆      ☆★   「私は在る」に導かれ♪
-☆☆────-☆☆──────────────
 ☆☆   ☆☆   https://www.ascensionkan.com/
━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━━━━

◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇

 欲望や嫌悪は心のもの
 そして心はあなたのものではない
 あなたはその混乱から自由なのだ
 『Ashtavakra Gita』

人畜無害、読む人は相当変わってます。現在835名
──────────────────
◇◇ もくじ ◇◇

1.痛みを感じるのは肉体ではない

2.いただいたお手紙から:モーニング息子さん

3.編集後記
──────────────────

━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■ 1.痛みを感じるのは肉体ではない
━━━━━━━━━━━━━━━━━━

今日は少し酷暑が和らいでいます。

身体としてはありがたいことです。

このごろは台風も

これまでとは逆に進むみたいで。

何でもありですね。

(*^_^*)

さて、またまた一週間が過ぎて、

楽しい“アセンション噺”ならぬ「私は在る」噺に、

お付き合いいただく今がやってまいりました。

『アセンション館通信』配達人の pari です。

最晩年の『意識に先立って』に入って、

マハラジの言葉はますます

あらゆる霊性の色合いを削ぎ落として

単純になっていくようです。

でも単純だからわかりやすい、

というわけでもないですよね。

今回ご紹介する部分は

この本の最初の方にあるのですが、

こここでマハラジは

何かそれまで触れていなかったことに

触れ始めたような感じもあります。

たまたまそれはpariパターンが以前から

気にしていた範囲のことだったりして、

ああ、これが疑問のエネルギーが

答えを呼び出すということなのかなぁ、

などという感じもやってきます。

ありがたいことに、

それを体験する方法はないと

マハラジが保証しています。

ただ理解しなさいと。

そうなると、

知りたいエネルギーだけが知るという

きわめて単純なことです。

死んだら誰でもわかる……(*^_^*)

というはずなどなくて、

そのときは、もちろん、

知る者など誰もいないというだけです。

今日もまた、

恩寵の指図にしたがって、

マハラジの最晩年の言葉を

写経させていただきます。

今回は「一九八〇年五月一一日」

の対話から写経します。

この日は

質問者との問答ではありませんでした。

──────────────────
 一九八〇年五月一一日
 
 マハラジ
 肉体においては、
 意識が観察し、
 行為は三つのグナによっておこなわれる。
 意識はすべてに行き渡っていて、
 形のない空間のようだ。
 
 もし人が病気や痛みをもつなら、
 それには形があるだろうか?
 それはただ意識の中の運動に過ぎない。
 意識を知るものは痛みを感じることができない。
 ただ意識がそれ自身を肉体と一体化するために、
 肉体が痛みを感じるのだ。
 意識がそこにないとき、
 たとえ肉体が切られても痛みはない。
 痛みを感じるのは肉体ではない。
 五大元素のバランスに混乱が生じるとき、
 病気がやって来て、
 その病気や痛みが意識の中で感じられるのだ。
 
 冬には暖かさはどんどん減るように、
 肉体との一体化が少なくなればなるほど、
 感じられる痛みは少なくなり、
 肉体との一体化が完全になくなると、
 人は火の中に手を入れても
 痛みを感じないでいることができる。
 火の影響はそこにあっても、
 痛みは感じられないのだ。
 
 『意識に先立って』(p38)
──────────────────
 
> マハラジ
> 肉体においては、
> 意識が観察し、
> 行為は三つのグナによっておこなわれる。

(われわれ)エゴの中核的根拠は、

言うまでもなく、

肉体に起こる様々な感覚です。

ここで起こる様々な感覚は、

物質的根拠と非物質的根拠によって

支えられているはずです。

物質的根拠とは何か?

それはそれが【どのような感覚か?】

という現象の表現的側面です。

これがないことには、

知覚対象としての現象が存在できません。

現象のこの表現的側面は

表現媒体が担う個々の現象ですが、

この表現媒体はもちろん物質です。

その物質は知覚対象であって、

知覚する主体ではありません。

では、もうひとつの

非物質的根拠とは何か?

それは当然予想されるように、

多種多様な個々の現象を知覚する主体です。

この現象の知覚主体は、

現象の表現媒体である物質ではありえません。

言い換えれば、

現象として顕現しているものは

知覚主体にはなりえないということです。

つまり、

この現象の非物質的根拠は、

あらゆる現象とは無縁なわけです。

ここでマハラジは

> 肉体においては、
> 意識が観察し、
> 行為は三つのグナによっておこなわれる。

という表現の仕方をしています。

> 意識が観察し、

という表現では、

現象の知覚主体を「意識」と呼んでいる、

ということになります。

> 行為は三つのグナによっておこなわれる。

「行為」とは

肉体が表現する変化の相ですから、

これを担っているのはもちろん物質です。

本書の巻末にある「用語解説」には、

──────────────────
 グナ Guna:属性。特質。傾向。
    サーンキャ哲学では
    サットヴァ(純粋)
    ラジャス(活動)
    タマス(不活発)を属性、特質とする。
──────────────────

とあります。

つまり、物質のふるまいを

この三様態に分類したということでしょう。

もしかしたら、そのうち、

これらの三様態に対応する

量子力学的術語が発明されような

時代がくるのかもしれません。

まあ、わかりませんが。^^;;

しかし、

この「Guna:属性。特質。傾向」が

現象の表現的側面であることは言うまでもなく、

これは物質パターンによって

実現されているでしょう。

ここで知覚主体である「意識」は

> 意識はすべてに行き渡っていて、
> 形のない空間のようだ。

と、かなり具体的に描写されています。

つまり、

肉体の行動側面が、

知覚対象としての

物質パターンで表現されているとすれば、

それを知覚している意識は、

その表現すべてを包含する空間のように

すべてに行き渡っているというのです。

現象のこの両側面を、

【空間】と

その内部に展開する【物質パターン】

というふうに理解するなら、

知覚主体と知覚対象には

明確な区別があるようでもあります。

これは、

量子力学的な物質イメージのなかの

「空間と粒子」のイメージに相当しそうです。

意識=空間、物質=粒子

と考えれば、

知覚主体と知覚対象は

まったく別のものでもあるようです。

ところが、ご存知のように、

量子力学的な物質イメージのなかには

「空間と波動」のイメージもあります。

このイメージでは

空間そのものが波打って、

波動を伝えるわけですから、

「空間と波動」を分離することはできません。

ただ、

波打っていない空間

というものはありそうだというだけです。

> もし人が病気や痛みをもつなら、
> それには形があるだろうか?

ここでマハラジは

面白いことを言っています。

人間が痛みを感じているとき、

そこには痛みという形があるのだろうか、と。

> それはただ意識の中の運動にすぎない。

ここでマハラジは、

その痛みというのは

ただ意識の中で運動が起こっているにすぎない

と言っているようです。

> 意識を知るものは痛みを感じることができない。

ここで、

もしその意識が

自分が意識であることを知っているなら、

その意識は「痛みを感じることができない」

というのです。

> ただ意識がそれ自身を肉体と一体化するために、
> 肉体が痛みを感じるのだ。

肉体が痛みを感じているのは、

ただその知覚主体である意識が

自分自身を肉体だと思いこんでいるからだと。

> 意識がそこにないとき、
> たとえ肉体が切られても痛みはない。

肉体に一体化している意識がないとき、

たとえ肉体が切られても、

それは知覚対象(表現媒体)である物質的側面が

切られたという状態を表現しているだけで、

痛みを感じる知覚主体がいないために、

そこに痛みは現象しないと。

> 痛みを感じるのは肉体ではない。

痛みという意識状態はたしかに

物質媒体である肉体によって表現されるが、

肉体の機能は痛みパターンの表現までで、

肉体がその痛みを知覚できるわけではない。

> 五大元素のバランスに混乱が生じるとき、
> 病気がやって来て、
> その病気や痛みが意識の中で感じられるのだ。

意識の表現媒体である物質パターンに

ある種の混乱が生じて調和が壊れるとき、

そこに病気や痛みのパターンが生成される。

その痛みを映し出している意識が

自分がその痛みだと思いこんでいるとき、

痛みが意識の内容として感じられるのだ、

と言っているようです。

> 冬には暖かさはどんどん減るように、
> 肉体との一体化が少なくなればなるほど、
> 感じられる痛みは少なくなり、
> 肉体との一体化が完全になくなると、
> 人は火の中に手を入れても
> 痛みを感じないでいることができる。

知覚主体としての意識が、

表現媒体(知覚対象)である肉体を

自分と見なさなくなるその程度に応じて、

感じられる痛みは少なくなる。

知覚主体が

知覚対象を自分とはまったく思わなくなると、

たとえ火の中に手を入れても、

痛みを感じないでいることもできる。

それは他人が火傷をしているのを見ても、

あなたが痛みを感じないのと同じことだ。

肉体への自己同化が薄れてゆく様子は、

冬に向かうと暑さを感じなくなるのに似ている。

> 火の影響はそこにあっても、
> 痛みは感じられないのだ。

火の影響はそこにあっても、

意識がそこにないので、

火傷の痛みは感じられない。

「心頭を滅却すれば火もまた涼し」

という快川和尚の言葉が意味するものだ。

──────────────────
 さて今、
 私が痛みを感じているとしよう。
 何かが起こり、
 私のマインドがそれに向けられる。
 新しい出来事にマインドを向けると、
 私はそれまでの痛みを感じなくなることだろう。
 しばしば私は体中がかゆくて掻くのだが、
 人前に座ると掻きたいという気持ちがなくなり 、
 ただそれを我慢する。
 我慢していると、
 それは消えてしまう。
 そうでなければ、
 掻き始めると皮膚がはがれ落ち、
 血が出始めても、
 それでもまだかゆみが止まらない。
 マラティー語では
 「掻くことによって、
  かゆみを刺激してはいけない」
 ということわざがある。
 たいていの痛みと苦しみはこのようなものだ。
 つまり、
 あなたが注意を払えば、
 それは刺激され、
 あなたはそれを愛さなければならない。
 注意を払わず、
 兆候を無視すれば、
 それは消える。
 あなたは痛みに耐える能力を持たなければならない。
 
 『意識に先立って』(p38-39)
──────────────────

> さて今、
> 私が痛みを感じているとしよう。
> 何かが起こり、
> 私のマインドがそれに向けられる。
> 新しい出来事にマインドを向けると、
> 私はそれまでの痛みを感じなくなることだろう。

何かの痛みを感じていたのに、

そこに何か別のことが起こって、

注意をそちらに向けているうちに、

それまで感じていた痛みを

忘れててしまったことはないだろうか?

> しばしば私は体中がかゆくて掻くのだが、
> 人前に座ると掻きたいという気持ちがなくなり、
> ただそれを我慢する。
> 我慢していると、
> それは消えてしまう。

とても気になっていたある肉体感覚が、

突然の来客で気にしている余裕もなく、

我慢しているうちに忘れて、

いつの間にか消えてしまった。

そんな経験がないだろうか?

> そうでなければ、
> 掻き始めると皮膚がはがれ落ち、
> 血が出始めても、
> それでもまだかゆみが止まらない。

そんな感覚も

気にして大切に応対すれば、

それなりに存在感を主張したはずだ。

> マラティー語では
> 「掻くことによって、
>  かゆみを刺激してはいけない」
> ということわざがある。
> たいていの痛みと苦しみはこのようなものだ。

たいていの痛みや苦しみは、

気にして重要事として扱えば、

それなりの心理的・感覚的印象を

形成することになる。

しかし、

意図的に、または偶然余儀なく

無視しつづければ、

たいていはそのまま消えていくものだ。

> つまり、
> あなたが注意を払えば、
> それは刺激され、
> あなたはそれを愛さなければならない。

何かの肉体的感覚や、

ある種の精神的・概念的印象に、

あなたが注意を向けつづければ、

それは注意のエネルギーをもらって

刺激され、膨張し、舞い上がって、

ますます大切に扱わなければならなくなる。

> 注意を払わず、
> 兆候を無視すれば、
> それは消える。

しかし、

その兆候を無視して、

あたかもそれが存在しないかのように

あなたがふるまい続けるなら、

それは消えるしかない。

> あなたは痛みに耐える能力をもたなければならない。

すでに起こっている痛みには、

いずれにせよ耐えなければならない。

それをなんとか

扱いやすいものにしようとするよりは、

ただ無視することで耐えてみるといい。

──────────────────
 肉体の中の意識は、
 まったく傷を持つことができない。
 その性質とはそういうものだ。
 しかし、
 あなたが肉体と一体化するとき、
 概念的にそれを汚染するかもしれないが、
 本質的には意識は非常に純粋なものだ。
 生命−呼吸は非常に純粋であり、
 この存在性はさらにそれより純粋だ。
 私はアートマン(至高の自己)、
 真我について話している。
 この知識は正しい観点を持っていない者には、
 大きな不満を生み出すことになるだろう。
 その意図とは、
 物事の状態を正しい観点で見ることだ。
 これを見て、
 自分の能力のかぎりを尽くして、
 この世の中での自分の人生を生きなさい。
 
 不死は時間と空間を超えており、
 時間も空間もない存在の中では、
 五大元素、
 光や暗闇、
 太陽や月が入ってくることはできない。
 時間も空間もない存在は、
 それが存在していることを知らない。
 それが現実であり、
 それが真理だ。
 
 あなたがどれほどの瞑想、
 その他のことをしても、
 自分の真実の状態に留まることはできない。
 あなたが究極に安定するのは、
 「私は最高の状態である」
 という強固な信念によってのみだ。
 
 通常、
 一般的な霊的探求者は、
 私が何を言わんとしているのかを
 理解しないことだろう。
 なぜなら彼は、
 自分が楽しめる何かを求めているからだ。
 あなたはこの世の中での利益、
 自分の日常生活の面倒を見てくれる
 何かを探しているにすぎず、
 あなたが霊的なことから期待していることは
 せいぜいその程度だ。
 
 霊性を探求しているいわゆる「賢者」たちは、
 自分たちの日常生活が安楽に続くことに
 彼らの野心を置いている。
 いったい全体なぜ私は存在するようになったのか?
 誰もそのことは問わない。
 
 徳と罪が終わった人だけが
 この場所を訪れることだろう。
 「私は肉体−マインドである」
 という記憶の残骸があるかぎり、
 あなたは理解しない。
 
 この話の全体は
 サットグル−パラブラフマンとして知られている。
 この状態では何も必要がない。
 私の状態は宇宙の創造と消滅を決して感じないし、
 私はこの部分を今まで説明したこともない。
 私は宇宙の創造と消滅に触れられないままだ。
 
 『意識に先立って』(p39-40)
──────────────────
 
> 肉体の中の意識は、
> まったく傷を持つことができない。
> その性質とはそういうものだ。

肉体を構成している

物質的側面としての意識は、

傷という形態を現象させる表現媒体であって、

傷という意識内実であることはできない。

意識の物質的側面とはそういうものだ。

> しかし、
> あなたが肉体と一体化するとき、
> 概念的にそれを汚染するかもしれないが、
> 本質的には意識は非常に純粋なものだ。

だがあなたという知覚主体が、

自分を肉体だと誤解したとき、

肉体の表現媒体である物質パターンに

概念的混乱が生じる可能性はある。

しかし本質的には

意識というのは非常に純粋なものだ。

> 生命−呼吸は非常に純粋であり、
> この存在性はさらにそれより純粋だ。

この息吹く生命(プラーナ)自体は

非常に純粋なものであり、

存在性自体となるとさらに純粋だ。

> 私はアートマン(至高の自己)、
> 真我について話している。

私は唯一永遠に存在しているもの、

不滅の実在について話している。

> この知識は正しい観点を持っていない者には、
> 大きな不満を生み出すことになるだろう。

まだ正しい観点に至っていない理解が

この知識について耳にしたら、

そこに大きな不満が湧くことになるだろう。

> その意図とは、
> 物事の状態を正しい観点で見ることだ。

今この存在性自体について話す意図は、

いかなるアイデンティティも存在しない

正しい観点で物事の状態を見ることを

伝えたいからだ。

> これを見て、
> 自分の能力のかぎりを尽くして、
> この世の中での自分の人生を生きなさい。

この純粋な存在性そのものに目を向け、

あなたの能力のかぎりを尽くして、

この世の中で与えられた運命を生きなさい。

> 不死は時間と空間を超えており、
> 時間も空間もない存在の中では、
> 五大元素、
> 光や暗闇、
> 太陽や月が入ってくることはできない。

永遠の常在は

時間と空間の中の物語を超えており、

その実在の存在性の中には

どんな物語も

どんな意識の内容物も入っては来れない。

> 時間も空間もない存在は、
> それが存在していることを知らない。

なぜなら、

時間や空間が想像される以前の純粋な存在性は

存在していること自体を知らないからだ。

> それが現実であり、
> それが真理だ。

それが純粋な存在性のリアリティであり、

それが不動の真理だ。

> あなたがどれほどの瞑想、
> その他のことをしても、
> 自分の真実の状態に留まることはできない。

時空間内の対象物として現象しているあなたが、

時空間内に現象している物語の中で

どれほど瞑想しようが努力しようが、

「私は在る」の誕生以前の

意識に先立つその真実の状態に

留まることはできない。

> あなたが究極に安定するのは、
> 「私は最高の状態である」
> という強固な信念によってのみだ。

あなたが意識の中で

行き着くことができる究極の安定とは、

「私は最高の状態である」という

揺るぎない確信によって実現するしかないものだ。

> 通常、
> 一般的な霊的探求者は、
> 私が何を言わんとしているのかを
> 理解しないことだろう。

たいていの霊的探求者たちは、

そのようなものを求めていない。

したがって、

私が伝えようとしていることに

何の魅力も感じないことだろうし、

また理解することもないだろう。

> なぜなら彼は、
> 自分が楽しめる何かを求めているからだ。

というのも、

たいていの霊的探求者が求めているのは、

探求者の消滅ではなく、

探求者が幸福になることだからだ。

> あなたはこの世の中での利益、
> 自分の日常生活の面倒を見てくれる
> 何かを探しているにすぎず、
> あなたが霊的なことから期待していることは
> せいぜいその程度だ。

たいていの霊的探求者は、

自分が霊的に成長することによって

より上品で、より洗練され、

より偉大で、より安楽な

日常生活が保証される状態を、

探し求めているにすぎない。

そして、もちろん、その状態は、

それが顕在的か潜在的かは別としても、

何らかのより下品で、より粗雑で、

より卑小で、より苦痛な日常生活との

対比によってしか存在できない。

それが単なる虚構でしかありえないことが、

わからないとでも言うのだろうか。

> 霊性を探求しているいわゆる「賢者」たちは、
> 自分たちの日常生活が安楽に続くことに
> 彼らの野心を置いている。

新たな素晴らしい世界の到来を告げる

いわゆる「賢者」たちや意識存在たちは、

自分たちの日常生活が安楽に続くことに、

そして自分たちの名声が歴史に刻まれることに、

その野心を置いていることだろう。

> いったい全体なぜ私は存在するようになったのか?
> 誰もそのことは問わない。

いったいなぜ私が存在し、

このような物語が存在するようになったのか?

誰もそのことを問おうとはしない。

> 徳と罪が終わった人だけが
> この場所を訪れることだろう。

意識のコンテンツによって支えられる

このような徳と罪の虚構が終わった理解だけが、

このような言葉を求めることになるだろう。

> 「私は肉体−マインドである」
> という記憶の残骸があるかぎり、
> あなたは理解しない。

何らかの識別対象を

自らのアイデンティティとして掴んだ

その記憶の残骸が残っているかぎり、

その意識エネルギーが今語られたことを

理解することはないだろう。

> この話の全体は
> サットグル−パラブラフマンとして知られている。

今ここで語られたことの全体は、

真の導師−至高の実在として知られている。

> この状態では何も必要がない。

この状態が必要とするものは何もない。

逆にあらゆる意識存在が

この状態の中で消滅を繰り返している。

> 私の状態は宇宙の創造と消滅を決して感じないし、
> 私はこの部分を今まで説明したこともない。
> 私は宇宙の創造と消滅に触れられないままだ。

宇宙の創造と消滅は

ただこの状態の中で消滅する一場の夢にすぎない。

私はこれまでこういうことに触れたことはなかった。

宇宙の創造と消滅が

この状態に触れることはできない。

それらはただ

この状態のなかで起こることができるだけだ。

(-||-)

──────────────────
 あなたは在る。
 ほかのすべては現れにすぎない。
 
 『私は在る』(p421) 
──────────────────

(-||-)

──────────────────
 永久的なもの、
 それはあなた自身の存在である。
 真我として在りなさい。
 それが至福である。
 あなたはいつもそれなのである。
 
 『あるがままに』(p58) 
──────────────────

……。(-_-)

ありがとうございました。<(_ _)>

(-||-)

今日はこんなところで。

……。

m(_ _)m


   ………○…………○…………○………


『私は在る』の「目次」はここ↓にあります。
https://www.ascensionkan.com/books/I_AM_THAT-index.html

「ニサルガ辞書」で遊んでみてください。
https://www.ascensionkan.com/ndic/

「ラマナ・マハルシ辞書」はここです。
https://www.ascensionkan.com/rdic/

『アセ通』既刊号はすべてここにあります。
https://www.ascensionkan.com/mm/


   ………○…………○…………○………


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■ 2.いただいたお手紙から:モーニング息子さん
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

▼『アセ通』へのご意見投稿フォーム:
http://www.formzu.net/fgen.ex?ID=P48750702

「私は在る」に関するご意見や単なるメールなど、

ご自由にお書きください。


       ………○…………○…………○………


今回、モーニング息子さんからご投稿いただきました。

さっそく、ご紹介します。

【件名】:感謝とお願い
──────────────────
 pariさん。こんばんは。
 モーニング息子です。
 「意識に先立って」の写経と解説、
 本当にありがとうございます。
 
 マハラジの本を一人で読むのも良いですが、
 pariさんの解説を読んでいると
 マハラジの高弟の方が
 師の教えを噛み砕いて教えてくれているような、
 あるいは
 マハラジとpariさんの対話を聞いているような
 そんな気持ちにさせられます。
 
 メルマガ配信を通じて、
 霧に包まれていたような
 仏陀の諸行無常と諸法無我の教えに
 陽が射して明らかになりつつあるのを感じています。
 
 また、
 長年にわたるぶれない姿勢と
 毎週欠かさずのアップを本当に深く感謝いたします。
 
 まだまだ暑い日が続きますが、
 どうぞお体にお気を付けくださり、
 ご活躍をお祈り申し上げます。
 
 重ねてお願いですが、
 バックナンバーの640(すべては今に湧く想念)が
 649(十年目の棚卸し)にリンクされています。
 ご訂正をお願いいたします。
──────────────────

> pariさん。こんばんは。
> モーニング息子です。
> 「意識に先立って」の写経と解説、
> 本当にありがとうございます。

いつも読んでいただいて、

ありがとうございます。

> マハラジの本を一人で読むのも良いですが、
> pariさんの解説を読んでいると
> マハラジの高弟の方が
> 師の教えを噛み砕いて教えてくれているような、
> あるいは
> マハラジとpariさんの対話を聞いているような
> そんな気持ちにさせられます。

それは褒めすぎですが、

お役に立てたのなら嬉しいです。

モーニング息子さんの言葉に押されて

お陰さまで、

こんなことをさせていただいています。

> メルマガ配信を通じて、
> 霧に包まれていたような
> 仏陀の諸行無常と諸法無我の教えに
> 陽が射して明らかになりつつあるのを感じています。

おおー。

「諸行無常と諸法無我」ですか……。

なるほど、たしかにそうですね。

「不妊の女性の孤児」ですものね。

> また、
> 長年にわたるぶれない姿勢と
> 毎週欠かさずのアップを本当に深く感謝いたします。

癖になったことだけが、

pariパターンの航路を自動修正してくれるようです。

これが運命であり恩寵であるなら

ありがたいことです。

> まだまだ暑い日が続きますが、
> どうぞお体にお気を付けくださり、
> ご活躍をお祈り申し上げます。

ありがとうございます。

> 重ねてお願いですが、
> バックナンバーの640(すべては今に湧く想念)が
> 649(十年目の棚卸し)にリンクされています。
> ご訂正をお願いいたします。

このページ↓の
https://www.ascensionkan.com/mm/index_6.html#1
【・640 すべては今に湧く想念】ですか?

あれ、ちゃんと、【1.すべては今に湧く想念】
https://www.ascensionkan.com/mm/vol640.html

に飛ぶようですけど? (?_?)

それとも別の場所のことですかね?

いずれにせよ、モーニング息子さん、

おかげさまで楽しんでいます。

応援メールありがとうございました。

<(_ _)>


   ………○…………○…………○………


▼『アセンション館通信』への情報ご投稿フォーム
http://www.formzu.net/fgen.ex?ID=P87119518


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■ 3.編集後記:
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今日は親戚の法事があって、

朝から東京に行ってきました。

ありがたいことに

上手く台風のタイミングを躱(かわ)せて

ほとんど濡れもせずに家に帰れました。

ありがたいことです。

お休みなさい。

<(_ _)>


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■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
  メール: pariアットマークjk2.so-net.ne.jp
──────────────────
二つの配信スタンドで発行されています。
mag2:http://www.mag2.com/m/0000126287.html
melma:http://www.melma.com/backnumber_110091/
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
Copyleft(C)2018 paritosho
↑コピーレフトの概念はこちら↓をご覧ください。
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