━━━━☆☆☆☆━━━━━━━ by paritosho ━
☆☆ ☆☆ 『アセンション館通信』
☆☆ ☆☆ 2018/07/29(第745号)
☆☆ ☆ ☆☆
☆☆ ☆★ 「私は在る」に導かれ♪
-☆☆────-☆☆──────────────
☆☆ ☆☆ https://www.ascensionkan.com/
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇
欲望や嫌悪は心のもの
そして心はあなたのものではない
あなたはその混乱から自由なのだ
『Ashtavakra Gita』
人畜無害、読む人は相当変わってます。現在835名
──────────────────
◇◇ もくじ ◇◇
1.痛みを感じるのは肉体ではない
2.いただいたお手紙から:モーニング息子さん
3.編集後記
──────────────────
━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■ 1.痛みを感じるのは肉体ではない
━━━━━━━━━━━━━━━━━━
今日は少し酷暑が和らいでいます。
身体としてはありがたいことです。
このごろは台風も
これまでとは逆に進むみたいで。
何でもありですね。
(*^_^*)
さて、またまた一週間が過ぎて、
楽しい“アセンション噺”ならぬ「私は在る」噺に、
お付き合いいただく今がやってまいりました。
『アセンション館通信』配達人の pari です。
最晩年の『意識に先立って』に入って、
マハラジの言葉はますます
あらゆる霊性の色合いを削ぎ落として
単純になっていくようです。
でも単純だからわかりやすい、
というわけでもないですよね。
今回ご紹介する部分は
この本の最初の方にあるのですが、
こここでマハラジは
何かそれまで触れていなかったことに
触れ始めたような感じもあります。
たまたまそれはpariパターンが以前から
気にしていた範囲のことだったりして、
ああ、これが疑問のエネルギーが
答えを呼び出すということなのかなぁ、
などという感じもやってきます。
ありがたいことに、
それを体験する方法はないと
マハラジが保証しています。
ただ理解しなさいと。
そうなると、
知りたいエネルギーだけが知るという
きわめて単純なことです。
死んだら誰でもわかる……(*^_^*)
というはずなどなくて、
そのときは、もちろん、
知る者など誰もいないというだけです。
今日もまた、
恩寵の指図にしたがって、
マハラジの最晩年の言葉を
写経させていただきます。
今回は「一九八〇年五月一一日」
の対話から写経します。
この日は
質問者との問答ではありませんでした。
──────────────────
一九八〇年五月一一日
マハラジ
肉体においては、
意識が観察し、
行為は三つのグナによっておこなわれる。
意識はすべてに行き渡っていて、
形のない空間のようだ。
もし人が病気や痛みをもつなら、
それには形があるだろうか?
それはただ意識の中の運動に過ぎない。
意識を知るものは痛みを感じることができない。
ただ意識がそれ自身を肉体と一体化するために、
肉体が痛みを感じるのだ。
意識がそこにないとき、
たとえ肉体が切られても痛みはない。
痛みを感じるのは肉体ではない。
五大元素のバランスに混乱が生じるとき、
病気がやって来て、
その病気や痛みが意識の中で感じられるのだ。
冬には暖かさはどんどん減るように、
肉体との一体化が少なくなればなるほど、
感じられる痛みは少なくなり、
肉体との一体化が完全になくなると、
人は火の中に手を入れても
痛みを感じないでいることができる。
火の影響はそこにあっても、
痛みは感じられないのだ。
『意識に先立って』(p38)
──────────────────
> マハラジ
> 肉体においては、
> 意識が観察し、
> 行為は三つのグナによっておこなわれる。
(われわれ)エゴの中核的根拠は、
言うまでもなく、
肉体に起こる様々な感覚です。
ここで起こる様々な感覚は、
物質的根拠と非物質的根拠によって
支えられているはずです。
物質的根拠とは何か?
それはそれが【どのような感覚か?】
という現象の表現的側面です。
これがないことには、
知覚対象としての現象が存在できません。
現象のこの表現的側面は
表現媒体が担う個々の現象ですが、
この表現媒体はもちろん物質です。
その物質は知覚対象であって、
知覚する主体ではありません。
では、もうひとつの
非物質的根拠とは何か?
それは当然予想されるように、
多種多様な個々の現象を知覚する主体です。
この現象の知覚主体は、
現象の表現媒体である物質ではありえません。
言い換えれば、
現象として顕現しているものは
知覚主体にはなりえないということです。
つまり、
この現象の非物質的根拠は、
あらゆる現象とは無縁なわけです。
ここでマハラジは
> 肉体においては、
> 意識が観察し、
> 行為は三つのグナによっておこなわれる。
という表現の仕方をしています。
> 意識が観察し、
という表現では、
現象の知覚主体を「意識」と呼んでいる、
ということになります。
> 行為は三つのグナによっておこなわれる。
「行為」とは
肉体が表現する変化の相ですから、
これを担っているのはもちろん物質です。
本書の巻末にある「用語解説」には、
──────────────────
グナ Guna:属性。特質。傾向。
サーンキャ哲学では
サットヴァ(純粋)
ラジャス(活動)
タマス(不活発)を属性、特質とする。
──────────────────
とあります。
つまり、物質のふるまいを
この三様態に分類したということでしょう。
もしかしたら、そのうち、
これらの三様態に対応する
量子力学的術語が発明されような
時代がくるのかもしれません。
まあ、わかりませんが。^^;;
しかし、
この「Guna:属性。特質。傾向」が
現象の表現的側面であることは言うまでもなく、
これは物質パターンによって
実現されているでしょう。
ここで知覚主体である「意識」は
> 意識はすべてに行き渡っていて、
> 形のない空間のようだ。
と、かなり具体的に描写されています。
つまり、
肉体の行動側面が、
知覚対象としての
物質パターンで表現されているとすれば、
それを知覚している意識は、
その表現すべてを包含する空間のように
すべてに行き渡っているというのです。
現象のこの両側面を、
【空間】と
その内部に展開する【物質パターン】
というふうに理解するなら、
知覚主体と知覚対象には
明確な区別があるようでもあります。
これは、
量子力学的な物質イメージのなかの
「空間と粒子」のイメージに相当しそうです。
意識=空間、物質=粒子
と考えれば、
知覚主体と知覚対象は
まったく別のものでもあるようです。
ところが、ご存知のように、
量子力学的な物質イメージのなかには
「空間と波動」のイメージもあります。
このイメージでは
空間そのものが波打って、
波動を伝えるわけですから、
「空間と波動」を分離することはできません。
ただ、
波打っていない空間
というものはありそうだというだけです。
> もし人が病気や痛みをもつなら、
> それには形があるだろうか?
ここでマハラジは
面白いことを言っています。
人間が痛みを感じているとき、
そこには痛みという形があるのだろうか、と。
> それはただ意識の中の運動にすぎない。
ここでマハラジは、
その痛みというのは
ただ意識の中で運動が起こっているにすぎない
と言っているようです。
> 意識を知るものは痛みを感じることができない。
ここで、
もしその意識が
自分が意識であることを知っているなら、
その意識は「痛みを感じることができない」
というのです。
> ただ意識がそれ自身を肉体と一体化するために、
> 肉体が痛みを感じるのだ。
肉体が痛みを感じているのは、
ただその知覚主体である意識が
自分自身を肉体だと思いこんでいるからだと。
> 意識がそこにないとき、
> たとえ肉体が切られても痛みはない。
肉体に一体化している意識がないとき、
たとえ肉体が切られても、
それは知覚対象(表現媒体)である物質的側面が
切られたという状態を表現しているだけで、
痛みを感じる知覚主体がいないために、
そこに痛みは現象しないと。
> 痛みを感じるのは肉体ではない。
痛みという意識状態はたしかに
物質媒体である肉体によって表現されるが、
肉体の機能は痛みパターンの表現までで、
肉体がその痛みを知覚できるわけではない。
> 五大元素のバランスに混乱が生じるとき、
> 病気がやって来て、
> その病気や痛みが意識の中で感じられるのだ。
意識の表現媒体である物質パターンに
ある種の混乱が生じて調和が壊れるとき、
そこに病気や痛みのパターンが生成される。
その痛みを映し出している意識が
自分がその痛みだと思いこんでいるとき、
痛みが意識の内容として感じられるのだ、
と言っているようです。
> 冬には暖かさはどんどん減るように、
> 肉体との一体化が少なくなればなるほど、
> 感じられる痛みは少なくなり、
> 肉体との一体化が完全になくなると、
> 人は火の中に手を入れても
> 痛みを感じないでいることができる。
知覚主体としての意識が、
表現媒体(知覚対象)である肉体を
自分と見なさなくなるその程度に応じて、
感じられる痛みは少なくなる。
知覚主体が
知覚対象を自分とはまったく思わなくなると、
たとえ火の中に手を入れても、
痛みを感じないでいることもできる。
それは他人が火傷をしているのを見ても、
あなたが痛みを感じないのと同じことだ。
肉体への自己同化が薄れてゆく様子は、
冬に向かうと暑さを感じなくなるのに似ている。
> 火の影響はそこにあっても、
> 痛みは感じられないのだ。
火の影響はそこにあっても、
意識がそこにないので、
火傷の痛みは感じられない。
「心頭を滅却すれば火もまた涼し」
という快川和尚の言葉が意味するものだ。
──────────────────
さて今、
私が痛みを感じているとしよう。
何かが起こり、
私のマインドがそれに向けられる。
新しい出来事にマインドを向けると、
私はそれまでの痛みを感じなくなることだろう。
しばしば私は体中がかゆくて掻くのだが、
人前に座ると掻きたいという気持ちがなくなり 、
ただそれを我慢する。
我慢していると、
それは消えてしまう。
そうでなければ、
掻き始めると皮膚がはがれ落ち、
血が出始めても、
それでもまだかゆみが止まらない。
マラティー語では
「掻くことによって、
かゆみを刺激してはいけない」
ということわざがある。
たいていの痛みと苦しみはこのようなものだ。
つまり、
あなたが注意を払えば、
それは刺激され、
あなたはそれを愛さなければならない。
注意を払わず、
兆候を無視すれば、
それは消える。
あなたは痛みに耐える能力を持たなければならない。
『意識に先立って』(p38-39)
──────────────────
> さて今、
> 私が痛みを感じているとしよう。
> 何かが起こり、
> 私のマインドがそれに向けられる。
> 新しい出来事にマインドを向けると、
> 私はそれまでの痛みを感じなくなることだろう。
何かの痛みを感じていたのに、
そこに何か別のことが起こって、
注意をそちらに向けているうちに、
それまで感じていた痛みを
忘れててしまったことはないだろうか?
> しばしば私は体中がかゆくて掻くのだが、
> 人前に座ると掻きたいという気持ちがなくなり、
> ただそれを我慢する。
> 我慢していると、
> それは消えてしまう。
とても気になっていたある肉体感覚が、
突然の来客で気にしている余裕もなく、
我慢しているうちに忘れて、
いつの間にか消えてしまった。
そんな経験がないだろうか?
> そうでなければ、
> 掻き始めると皮膚がはがれ落ち、
> 血が出始めても、
> それでもまだかゆみが止まらない。
そんな感覚も
気にして大切に応対すれば、
それなりに存在感を主張したはずだ。
> マラティー語では
> 「掻くことによって、
> かゆみを刺激してはいけない」
> ということわざがある。
> たいていの痛みと苦しみはこのようなものだ。
たいていの痛みや苦しみは、
気にして重要事として扱えば、
それなりの心理的・感覚的印象を
形成することになる。
しかし、
意図的に、または偶然余儀なく
無視しつづければ、
たいていはそのまま消えていくものだ。
> つまり、
> あなたが注意を払えば、
> それは刺激され、
> あなたはそれを愛さなければならない。
何かの肉体的感覚や、
ある種の精神的・概念的印象に、
あなたが注意を向けつづければ、
それは注意のエネルギーをもらって
刺激され、膨張し、舞い上がって、
ますます大切に扱わなければならなくなる。
> 注意を払わず、
> 兆候を無視すれば、
> それは消える。
しかし、
その兆候を無視して、
あたかもそれが存在しないかのように
あなたがふるまい続けるなら、
それは消えるしかない。
> あなたは痛みに耐える能力をもたなければならない。
すでに起こっている痛みには、
いずれにせよ耐えなければならない。
それをなんとか
扱いやすいものにしようとするよりは、
ただ無視することで耐えてみるといい。
──────────────────
肉体の中の意識は、
まったく傷を持つことができない。
その性質とはそういうものだ。
しかし、
あなたが肉体と一体化するとき、
概念的にそれを汚染するかもしれないが、
本質的には意識は非常に純粋なものだ。
生命−呼吸は非常に純粋であり、
この存在性はさらにそれより純粋だ。
私はアートマン(至高の自己)、
真我について話している。
この知識は正しい観点を持っていない者には、
大きな不満を生み出すことになるだろう。
その意図とは、
物事の状態を正しい観点で見ることだ。
これを見て、
自分の能力のかぎりを尽くして、
この世の中での自分の人生を生きなさい。
不死は時間と空間を超えており、
時間も空間もない存在の中では、
五大元素、
光や暗闇、
太陽や月が入ってくることはできない。
時間も空間もない存在は、
それが存在していることを知らない。
それが現実であり、
それが真理だ。
あなたがどれほどの瞑想、
その他のことをしても、
自分の真実の状態に留まることはできない。
あなたが究極に安定するのは、
「私は最高の状態である」
という強固な信念によってのみだ。
通常、
一般的な霊的探求者は、
私が何を言わんとしているのかを
理解しないことだろう。
なぜなら彼は、
自分が楽しめる何かを求めているからだ。
あなたはこの世の中での利益、
自分の日常生活の面倒を見てくれる
何かを探しているにすぎず、
あなたが霊的なことから期待していることは
せいぜいその程度だ。
霊性を探求しているいわゆる「賢者」たちは、
自分たちの日常生活が安楽に続くことに
彼らの野心を置いている。
いったい全体なぜ私は存在するようになったのか?
誰もそのことは問わない。
徳と罪が終わった人だけが
この場所を訪れることだろう。
「私は肉体−マインドである」
という記憶の残骸があるかぎり、
あなたは理解しない。
この話の全体は
サットグル−パラブラフマンとして知られている。
この状態では何も必要がない。
私の状態は宇宙の創造と消滅を決して感じないし、
私はこの部分を今まで説明したこともない。
私は宇宙の創造と消滅に触れられないままだ。
『意識に先立って』(p39-40)
──────────────────
> 肉体の中の意識は、
> まったく傷を持つことができない。
> その性質とはそういうものだ。
肉体を構成している
物質的側面としての意識は、
傷という形態を現象させる表現媒体であって、
傷という意識内実であることはできない。
意識の物質的側面とはそういうものだ。
> しかし、
> あなたが肉体と一体化するとき、
> 概念的にそれを汚染するかもしれないが、
> 本質的には意識は非常に純粋なものだ。
だがあなたという知覚主体が、
自分を肉体だと誤解したとき、
肉体の表現媒体である物質パターンに
概念的混乱が生じる可能性はある。
しかし本質的には
意識というのは非常に純粋なものだ。
> 生命−呼吸は非常に純粋であり、
> この存在性はさらにそれより純粋だ。
この息吹く生命(プラーナ)自体は
非常に純粋なものであり、
存在性自体となるとさらに純粋だ。
> 私はアートマン(至高の自己)、
> 真我について話している。
私は唯一永遠に存在しているもの、
不滅の実在について話している。
> この知識は正しい観点を持っていない者には、
> 大きな不満を生み出すことになるだろう。
まだ正しい観点に至っていない理解が
この知識について耳にしたら、
そこに大きな不満が湧くことになるだろう。
> その意図とは、
> 物事の状態を正しい観点で見ることだ。
今この存在性自体について話す意図は、
いかなるアイデンティティも存在しない
正しい観点で物事の状態を見ることを
伝えたいからだ。
> これを見て、
> 自分の能力のかぎりを尽くして、
> この世の中での自分の人生を生きなさい。
この純粋な存在性そのものに目を向け、
あなたの能力のかぎりを尽くして、
この世の中で与えられた運命を生きなさい。
> 不死は時間と空間を超えており、
> 時間も空間もない存在の中では、
> 五大元素、
> 光や暗闇、
> 太陽や月が入ってくることはできない。
永遠の常在は
時間と空間の中の物語を超えており、
その実在の存在性の中には
どんな物語も
どんな意識の内容物も入っては来れない。
> 時間も空間もない存在は、
> それが存在していることを知らない。
なぜなら、
時間や空間が想像される以前の純粋な存在性は
存在していること自体を知らないからだ。
> それが現実であり、
> それが真理だ。
それが純粋な存在性のリアリティであり、
それが不動の真理だ。
> あなたがどれほどの瞑想、
> その他のことをしても、
> 自分の真実の状態に留まることはできない。
時空間内の対象物として現象しているあなたが、
時空間内に現象している物語の中で
どれほど瞑想しようが努力しようが、
「私は在る」の誕生以前の
意識に先立つその真実の状態に
留まることはできない。
> あなたが究極に安定するのは、
> 「私は最高の状態である」
> という強固な信念によってのみだ。
あなたが意識の中で
行き着くことができる究極の安定とは、
「私は最高の状態である」という
揺るぎない確信によって実現するしかないものだ。
> 通常、
> 一般的な霊的探求者は、
> 私が何を言わんとしているのかを
> 理解しないことだろう。
たいていの霊的探求者たちは、
そのようなものを求めていない。
したがって、
私が伝えようとしていることに
何の魅力も感じないことだろうし、
また理解することもないだろう。
> なぜなら彼は、
> 自分が楽しめる何かを求めているからだ。
というのも、
たいていの霊的探求者が求めているのは、
探求者の消滅ではなく、
探求者が幸福になることだからだ。
> あなたはこの世の中での利益、
> 自分の日常生活の面倒を見てくれる
> 何かを探しているにすぎず、
> あなたが霊的なことから期待していることは
> せいぜいその程度だ。
たいていの霊的探求者は、
自分が霊的に成長することによって
より上品で、より洗練され、
より偉大で、より安楽な
日常生活が保証される状態を、
探し求めているにすぎない。
そして、もちろん、その状態は、
それが顕在的か潜在的かは別としても、
何らかのより下品で、より粗雑で、
より卑小で、より苦痛な日常生活との
対比によってしか存在できない。
それが単なる虚構でしかありえないことが、
わからないとでも言うのだろうか。
> 霊性を探求しているいわゆる「賢者」たちは、
> 自分たちの日常生活が安楽に続くことに
> 彼らの野心を置いている。
新たな素晴らしい世界の到来を告げる
いわゆる「賢者」たちや意識存在たちは、
自分たちの日常生活が安楽に続くことに、
そして自分たちの名声が歴史に刻まれることに、
その野心を置いていることだろう。
> いったい全体なぜ私は存在するようになったのか?
> 誰もそのことは問わない。
いったいなぜ私が存在し、
このような物語が存在するようになったのか?
誰もそのことを問おうとはしない。
> 徳と罪が終わった人だけが
> この場所を訪れることだろう。
意識のコンテンツによって支えられる
このような徳と罪の虚構が終わった理解だけが、
このような言葉を求めることになるだろう。
> 「私は肉体−マインドである」
> という記憶の残骸があるかぎり、
> あなたは理解しない。
何らかの識別対象を
自らのアイデンティティとして掴んだ
その記憶の残骸が残っているかぎり、
その意識エネルギーが今語られたことを
理解することはないだろう。
> この話の全体は
> サットグル−パラブラフマンとして知られている。
今ここで語られたことの全体は、
真の導師−至高の実在として知られている。
> この状態では何も必要がない。
この状態が必要とするものは何もない。
逆にあらゆる意識存在が
この状態の中で消滅を繰り返している。
> 私の状態は宇宙の創造と消滅を決して感じないし、
> 私はこの部分を今まで説明したこともない。
> 私は宇宙の創造と消滅に触れられないままだ。
宇宙の創造と消滅は
ただこの状態の中で消滅する一場の夢にすぎない。
私はこれまでこういうことに触れたことはなかった。
宇宙の創造と消滅が
この状態に触れることはできない。
それらはただ
この状態のなかで起こることができるだけだ。
(-||-)
──────────────────
あなたは在る。
ほかのすべては現れにすぎない。
『私は在る』(p421)
──────────────────
(-||-)
──────────────────
永久的なもの、
それはあなた自身の存在である。
真我として在りなさい。
それが至福である。
あなたはいつもそれなのである。
『あるがままに』(p58)
──────────────────
……。(-_-)
ありがとうございました。<(_ _)>
(-||-)
今日はこんなところで。
……。
m(_ _)m
………○…………○…………○………
『私は在る』の「目次」はここ↓にあります。
https://www.ascensionkan.com/books/I_AM_THAT-index.html
「ニサルガ辞書」で遊んでみてください。
https://www.ascensionkan.com/ndic/
「ラマナ・マハルシ辞書」はここです。
https://www.ascensionkan.com/rdic/
『アセ通』既刊号はすべてここにあります。
https://www.ascensionkan.com/mm/
………○…………○…………○………
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■ 2.いただいたお手紙から:モーニング息子さん
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
▼『アセ通』へのご意見投稿フォーム:
http://www.formzu.net/fgen.ex?ID=P48750702
「私は在る」に関するご意見や単なるメールなど、
ご自由にお書きください。
………○…………○…………○………
今回、モーニング息子さんからご投稿いただきました。
さっそく、ご紹介します。
【件名】:感謝とお願い
──────────────────
pariさん。こんばんは。
モーニング息子です。
「意識に先立って」の写経と解説、
本当にありがとうございます。
マハラジの本を一人で読むのも良いですが、
pariさんの解説を読んでいると
マハラジの高弟の方が
師の教えを噛み砕いて教えてくれているような、
あるいは
マハラジとpariさんの対話を聞いているような
そんな気持ちにさせられます。
メルマガ配信を通じて、
霧に包まれていたような
仏陀の諸行無常と諸法無我の教えに
陽が射して明らかになりつつあるのを感じています。
また、
長年にわたるぶれない姿勢と
毎週欠かさずのアップを本当に深く感謝いたします。
まだまだ暑い日が続きますが、
どうぞお体にお気を付けくださり、
ご活躍をお祈り申し上げます。
重ねてお願いですが、
バックナンバーの640(すべては今に湧く想念)が
649(十年目の棚卸し)にリンクされています。
ご訂正をお願いいたします。
──────────────────
> pariさん。こんばんは。
> モーニング息子です。
> 「意識に先立って」の写経と解説、
> 本当にありがとうございます。
いつも読んでいただいて、
ありがとうございます。
> マハラジの本を一人で読むのも良いですが、
> pariさんの解説を読んでいると
> マハラジの高弟の方が
> 師の教えを噛み砕いて教えてくれているような、
> あるいは
> マハラジとpariさんの対話を聞いているような
> そんな気持ちにさせられます。
それは褒めすぎですが、
お役に立てたのなら嬉しいです。
モーニング息子さんの言葉に押されて
お陰さまで、
こんなことをさせていただいています。
> メルマガ配信を通じて、
> 霧に包まれていたような
> 仏陀の諸行無常と諸法無我の教えに
> 陽が射して明らかになりつつあるのを感じています。
おおー。
「諸行無常と諸法無我」ですか……。
なるほど、たしかにそうですね。
「不妊の女性の孤児」ですものね。
> また、
> 長年にわたるぶれない姿勢と
> 毎週欠かさずのアップを本当に深く感謝いたします。
癖になったことだけが、
pariパターンの航路を自動修正してくれるようです。
これが運命であり恩寵であるなら
ありがたいことです。
> まだまだ暑い日が続きますが、
> どうぞお体にお気を付けくださり、
> ご活躍をお祈り申し上げます。
ありがとうございます。
> 重ねてお願いですが、
> バックナンバーの640(すべては今に湧く想念)が
> 649(十年目の棚卸し)にリンクされています。
> ご訂正をお願いいたします。
このページ↓の
https://www.ascensionkan.com/mm/index_6.html#1
【・640 すべては今に湧く想念】ですか?
あれ、ちゃんと、【1.すべては今に湧く想念】
https://www.ascensionkan.com/mm/vol640.html
に飛ぶようですけど? (?_?)
それとも別の場所のことですかね?
いずれにせよ、モーニング息子さん、
おかげさまで楽しんでいます。
応援メールありがとうございました。
<(_ _)>
………○…………○…………○………
▼『アセンション館通信』への情報ご投稿フォーム
http://www.formzu.net/fgen.ex?ID=P87119518
………○…………○…………○………
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■ 3.編集後記:
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今日は親戚の法事があって、
朝から東京に行ってきました。
ありがたいことに
上手く台風のタイミングを躱(かわ)せて
ほとんど濡れもせずに家に帰れました。
ありがたいことです。
お休みなさい。
<(_ _)>
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■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
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メール: pariアットマークjk2.so-net.ne.jp
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二つの配信スタンドで発行されています。
mag2:http://www.mag2.com/m/0000126287.html
melma:http://www.melma.com/backnumber_110091/
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Copyleft(C)2018 paritosho
↑コピーレフトの概念はこちら↓をご覧ください。
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