home > 通信 >『アセンション館通信』第748号:建築資材を見て自分を大工と思う



━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
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 ☆☆     ☆☆『アセンション館通信』2018/08/19(第748号)
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☆☆      ☆★ 【気刊】──「私は在る」に導かれ♪──
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 ☆☆   ☆☆   https://www.ascensionkan.com/
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇

このメルマガはアセンション館主人pariと称するあるパターンに
浮上している夢の場面の報告です。

わたしは存在している。身体は現れてはいるが存在してはいない。
欲望や期待や喜びは、現れはするが存在してはいない。
心配や恐怖や悲しみは、現れはするが存在してはいない。

内容は人畜無害、でも読む人は相当変わっていますね。現在829名
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◇◇ もくじ ◇◇

1.建築資材を見て自分を大工と思う

2.編集後記
──────────────────

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■ 1.建築資材を見て自分を大工と思う
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秋のような清々しい空気。

気持ちがいいですね。

このまま秋にもならないだろうけど。

(-||-)

さて、またまた一週間が過ぎて、

楽しい“アセンション噺”ならぬ「私は在る」噺に、

お付き合いいただく今がやってまいりました。

『アセンション館通信』配達人の pari です。

こうしてせっかく時間のあるときは、

まったく何もせずに、

ただ内面の空白のみを見ていればいいのに……

と思いつつも、今日もまた、

運命の指図にしたがって、

マハラジの最晩年の言葉を

写経させていただきます。

前回から順に写経しているのですが、

わかっているようなつもりになって

読んでいたマハラジの言葉も、

たちまち不可解な言葉に

変わってしまうこともあります。

覚者たちがよく使う表現では、

私たちが住む世界はよく夢に喩えられます。

いつもそういう言葉を聴いているので、

さほどの違和感もなく

そういう比喩を受け入れているわけですが、

ただ言葉として読んでいる者にとっては

それが一瞬で異形の言葉に変化して

しまうこともあるようです。

今日の写経部分などは

まさにその前触れではないかと思われます。

では今日は

「一九八〇年四月八日」の対話から写経いたします。

──────────────────
 一九八〇年四月八日
 
 質問者 私たちが見ているような世界は思考でしょう
     か?「人が世界を見るとき、人は真我を見ず、
     逆に人が真我を見るとき、人は顕現を見ない」
     とどこかに書かれています。
 
 マハラジ
 世界はあなた自身の
 「私」意識のイメージにすぎない。
 それはまるで、
 あなたが電話に出ると、
 「あなたは存在している」と言われて
 すぐに世界が現れるようなものだ。
 あなたが熟睡していて、
 自分が目覚めたと感じると同時に
 夢の世界が現れる。
 「私は在る」にともなって、
 目覚めた状態と夢の状態で世界が現れる。
 
 『意識に先立って』(p11) 
──────────────────
 
> 質問者 私たちが見ているような世界は思考でしょう
>     か?「人が世界を見るとき、人は真我を見ず、
>     逆に人が真我を見るとき、人は顕現を見ない」
>     とどこかに書かれています。

この質問者の問の後半は

たとえば、

ラマナ・マハルシのつぎのような言葉を

考えているのかもしれません。

「5 世界が(実在として)存在しているときでさえ、
   真我が実現されるということはないのでしようか? 
 
 ないだろう。
 
 6 なぜでしようか?
 見る者と見られている対象は、
 ロープと蛇のようなものである。
 錯党である蛇という知識がなくならないかぎり、
 実体であるロープという知識は得られない。
 同じように、
 世界が実在であるという確信がなくならないかぎり、
 実在である真我の実現は得られないだろう。」
 ……
 (『あるがままに』(p394))

そしてこの質問の最初の部分、

【私たちが見ているような世界は思考でしょうか?】

は、マハルシの次のような言葉を

下敷きにしたものかもしれません。

「あなたは眠りの間も
 自分が存在していることを否定できないが、
 世界が知覚されていないことを
 認めるに違いない。
 その世界はあなたが目覚めるときに現れる。
 では、それはどこにあるのだろうか?
 明らかに世界はあなたの想念なのだ。
 想念とはあなたが投影したものである。
 はじめに「私」が創造され、
 それから世界が創造される。
 ……
 (『あるがままに』(p323))

このような観念が

質問者の頭の中にあって、

このイメージに対するマハラジの観点を

確認したかったのではないでしょうか。

マハラジは答えます。

> マハラジ
> 世界はあなた自身の
> 「私」意識のイメージにすぎない。

世界というのは

われわれの中の「私」という観念が

投影したイメージにすぎない。

(なんとなくわかったような気にはなります。)

> それはまるで、
> あなたが電話に出ると、
> 「あなたは存在している」と言われて
> すぐに世界が現れるようなものだ。

これは他で耳にしたことのない

いかにもマハラジを感じさせる独特の比喩ですが、

とても喚起力のあるイメージですね。

と同時に、読む者に

自分は何もわかっていない、ということを

思い出させてもくれます。

非常に想像力のある状態に電話がかかってくる。

電話に出ると「あなたは逮捕された」

と告げられる。

まるでカフカの世界ですね。

> あなたが熟睡していて、
> 自分が目覚めたと感じると同時に
> 夢の世界が現れる。

これは【夢の】という言葉を除けば

日常的に体験していることです。

毎朝目が覚めれば、

こうして日常が始まるわけですから。

この世界が「夢の世界」だと認めれば、

言葉としては何の違和感もありません。

> 「私は在る」にともなって、
> 目覚めた状態と夢の状態で世界が現れる。

「私は在る」という観念に基づく

存在感の誕生にともなって、

起きたときに現れる日常の目覚めの状態と、

寝ていて見ている夢の状態の中で

世界が現れる、と。

ここもとりわけ違和感はありません。

──────────────────
 質問者 エゴの存在がないとき、人は世界を見ること
     ができるのでしょうか?

 マハラジ
 エゴとはいつあるのだろうか?
 エゴとは、
 あなたがある種の反応をするときにあるものだ。
 あなたは観察されるものが何であれ、
 瞬間的に受け取る。
 あなたがそれにしがみつき、
 それを登録すると、
 初めてそこにエゴが存在する。
 
 あなたは道路に建築資材が置かれているのを見る。
 あなたは自分が大工だと思い、
 その資材をどう使うかをあれこれ思案し始める。
 すると思考過程が始まり、
 エゴが始まる。
 もしあなたが誰でもなければ、
 あなたは建築資材のことを気にも留めないことだろう。
 あなたはそれを観察し、
 自分の道を行くだけだ。
 いったんそれが見えなくなれば、
 それはマインドから消える。
 しかし、
 あんたがそれを受け取り、
 それについて考えたときにエゴが始まったのだ。
 
 質問者 ということは、見られたものを活用するとき、
     エゴは存在するようになるわけですね?
 
 マハラジ
 そのとおりだ。
 エゴとはそういう性質のものだ。
 
 『意識に先立って』(p11-12) 
──────────────────

> 質問者 エゴの存在がないとき、人は世界を見ること
>     ができるのでしょうか?

世界というものが

「私」意識のイメージにすぎないのなら、

では、エゴが存在しないときに、

この世界を見るということはありうるのですか?

と質問者は再確認しています。

> マハラジ
> エゴとはいつあるのだろうか?

マハラジはその問いに対して、

そのエゴというのは、

いったいいつ存在するとあなたは考えているのかね?

と反問する形で答えています。

> エゴとは、
> あなたがある種の反応をするときにあるものだ。

エゴとは人が現象に反応するときに

現れるものだ。

(ここにエゴのとてもユニークな

 かつ厳格な定義が現れます。)

> あなたは観察されるものが何であれ、
> 瞬間的に受け取る。

人間は何であれ現象を観察すると

観察したその瞬間にそれを受け取る。

> あなたがそれにしがみつき、
> それを登録すると、
> 初めてそこにエゴが存在する。

そして受け取った現象にしがみつき、

それを記憶に登録する。

その瞬間に初めてエゴが発生するのだ。

> あなたは道路に建築資材が置かれているのを見る。
> あなたは自分が大工だと思い、
> その資材をどう使うかをあれこれ思案し始める。

たとえば、それは

道路に建築資材が置かれているのを見たとたん、

突然自分は大工だったんだと思いだして、

その場でその資材の使いみちを

あれこれ算段しはじめるようなものだ。

> すると思考過程が始まり、
> エゴが始まる。

するとたちまち思考過程が始まり、

立派にエゴが誕生しているというわけだ。

> もしあなたが誰でもなければ、
> あなたは建築資材のことを気にも留めないことだろう。

もし自分が誰でもないのなら、

建築資材のことなど気にも留めなくていいはずだ。

> あなたはそれを観察し、
> 自分の道を行くだけだ。

一瞬眼前に現れた建築資材を眺めて、

ただ自分の道を進むだけのことだ。

> いったんそれが見えなくなれば、
> それはマインドから消える。

そうすれば、

その建築資材はすぐに眼前から消えて、

どんな思考の痕跡も残さないことだろう。

> しかし、
> あんたがそれを受け取り、
> それについて考えたときにエゴが始まったのだ。

ところがあなたは、

一瞬路上の建築資材を目にしただけで、

律儀にも自分を大工だと思いこんで、

その建築資材の使い道などの

思考過程に巻き込まれる。

そしてそれについて考え始めたとたん

そこに立派にエゴが始まっている。

なにしろあなたは

いまや自分を大工として自己定義して、

アイデンティティをまとったからだ。

> 質問者 ということは、見られたものを活用するとき、
>     エゴは存在するようになるわけですね?

ということは、

観察する対象に対応した瞬間に

そこに自分が誕生するということなのですね?

> マハラジ
> そのとおりだ。
> エゴとはそういう性質のものだ。

そういうことだ。

エゴとはそういうものだ。

夢は今この瞬間に創造されている、

と言われるのはそういうことなのですね。

(-_-;)

──────────────────
 質問者 前の質問に戻りますが、
     「世界が見られているときに真我はなく、
      真我が見られているときには世界はない」。
     これはそうなのですか?
 
 マハラジ
 そうではない。
 「私は在る」とあなたが知るとき、
 世界は存在する。
 もしあなたが存在しなければ、
 あなたの世界も存在しない。
 
 質問者 「私」は真我でしょうか? 私が話題にして
     いるのは、「私は在る」と、エゴである「私
     は一人の人間である」の違いについてです。
     「私は在る」の意識の中で、世界が存在する
     のでしょうか?
     人はそれを見ることができますか ?
 
 マハラジ
 目覚めたとき、
 あなたは言葉にできない存在感だけをもつ。
 これが第一の原理であり、
 前提だ。
 あとで、
 あなたは自分が存在し、
 世界が存在することを完全に知る。
 しかし、
 ウサギの角のように、
 これは幻想なのだ。
 世界は最終的には夢の世界のようなものだ。
 これを完全に理解しなさい。
 あなたはあまりにエゴに関わりすぎている。
 あなたはエゴについて言われたことを
 理解したのだろうか?
 
 質問者 私は理解したと思っています。もう一つ質問
     をすれば、私はたぶん疑問を解消することが
     できます。ヘビとロープのたとえ話(薄明か
     りでロープを見て、それをヘビと見間違うこ
     と)を使うなら、
 
 もしそのたとえ話のように世界を見ると、間違えられ
 た自己はどこにあるのですか?
 
 マハラジ
 真我は世界だ。
 あなたは真我と世界の間にある
 自己を取り除くことについて話をしている。
 違うかね?
 まず第一に真我に取り組み、
 真我とは何かを理解することだ。
 最初に真我を知り、
 それから世界とは何かを理解しなさい。
 世界が現れる理由は、
 「私は在る」とあなたが知るようになるからだ。

 『意識に先立って』(p13-14)
──────────────────

> 質問者 前の質問に戻りますが、
>     「世界が見られているときに真我はなく、
>      真我が見られているときには世界はない」。
>     これはそうなのですか?

もう一度確認させてください。

世界を見ていれば、そこに真我はなく、

真我を見ていれば、そこに世界はない、

と言われるのは、

これはそのとおりなのでしょうか?

(何となく

 異論などあるはずもない
 
 質問のようにも聞こえますが……。)
 
マハラジはどう答えるか?

> マハラジ
> そうではない。

(ほう。

 これは、意外な返答とも聞こえます。

 その真意はどこにあるのでしょう。)

> 「私は在る」とあなたが知るとき、
> 世界は存在する。
> もしあなたが存在しなければ、
> あなたの世界も存在しない。

(あ……あ。

 そういうことか。

 マハラジはこの返答で、

 それは

 存在している世界に目を向けるかどうか、

 という問題ではない、

 と答えているようです。)

世界の存在はアプリオリなものではない。

「私は在る」が世界を支えているのだ。

自分は存在しているという存在感、

「私は在る」という観念の誕生が、

世界を誕生させる。

だから、

「私は在る」という観念がなければ、

自分の世界も存在しない。

> 質問者 「私」は真我でしょうか? 私が話題にして
>     いるのは、「私は在る」と、エゴである「私
>     は一人の人間である」の違いについてです。
>     「私は在る」の意識の中で、世界が存在する
>     のでしょうか?
>     人はそれを見ることができますか ?

(ここで質問者が確認しているのは、

 「私は在る」という観念がなければ、

 その人の世界は存在しない、

 とマハラジはおっしゃいますが、

 その「私は在る」の「私」とは、

 真我のことでしょうか?

 という問のようです。

 そして再度
 
 別の言い回しで問い直しています。)

マハラジの「私は在る」という言葉は、

エゴが言う「私は一人の人間である」と、

同じ意味なのでしょうか、

それとも違う意味なのでしょうか?

> マハラジ
> 目覚めたとき、
> あなたは言葉にできない存在感だけをもつ。
> これが第一の原理であり、
> 前提だ。

朝、目が覚めたとき、

最初にあるのは言葉にならない存在感だけだ。

このある意味で純粋な存在感が

全現象の前提となる第一の原理であり

すべての前提だ。

> あとで、
> あなたは自分が存在し、
> 世界が存在することを完全に知る。

そしてそのあとで、

自分が誰であるのか、

自分がどこに住んでいたのか、

その自分が住んでいた世界を完全に思い出す。

> しかし、
> ウサギの角のように、
> これは幻想なのだ。

しかしこうして思い出された世界は、

想像の記憶の蓄積でしかなく、

実際は、捏造された幻影なのだ。

> 世界は最終的には夢の世界のようなものだ。
> これを完全に理解しなさい。

こうして毎朝思い出される世界は、

結局は夢の中の世界のようなもので、

たんなる概念的な連想でしかない。

それはいわば物語作者の手になる

物語のようなものだ。

このことを完全に理解する必要がある。

> あなたはあまりにエゴに関わりすぎている。

あなたは、

そうして毎朝思い出される世界、

その捏造された物語に

あまりにも拘束されていて、

幻影の完全な虜になっているのだ。

> あなたはエゴについて言われたことを
> 理解したのだろうか?

エゴが実際には存在しえない

偽りの物語だということを

あなたは理解したのだろうか?

> 質問者 私は理解したと思っています。
>     もう一つ質問をすれば、私はたぶん疑問を
>     解消することができます。
>     ヘビとロープのたとえ話(薄明かりでロー
>     プを見て、それをヘビと見間違うこと)を
>     使うなら、もしそのたとえ話のように世界
>     を見ると、間違えられた自己はどこにある
>     のですか?

エゴが

概念的な連想ゲームによる

偽りの物語だということは理解したつもりです。

ですがもうひとつ、

確認させてください。

現実と幻影について、

薄明かりの中でロープをヘビと見間違う

という比喩がよく使われます。

この昔からよく使われる比喩に倣うとしたら、

エゴ(ヘビ)に見間違えられた真我(ロープ)は

どこで見つかるのでしょうか?

> マハラジ
> 真我は世界だ。
> あなたは真我と世界の間にある
> 自己を取り除くことについて話をしている。
> 違うかね?

あなたは、

真我と世界の間にあるエゴを

取り除こうとしているようだが、違うかね?

だが、

世界というのは真我と異なるものではない。

真我とは世界のことだ。

真我の表現が世界なのだ。

世界自体は何も問題ではない。

世界がなければ真我を知ることもない。

ただエゴが捏造する物語があまりに偏っていて、

その偽りの物語の中で

無用な苦しみが生じるだけなのだ。

> まず第一に真我に取り組み、
> 真我とは何かを理解することだ。

とはいえ、

まず真我を知りなさい。

まず最初に真我に取り組んで、

真我が何かを理解する必要がある。

先に直接、

世界が何かを知ることはできない。

映画がどのように投影されているのかを、

スクリーン上の映画を調べることで

知ることはできないようなものだ。

あなたはその映画を投影している

映写機を調べなければならない。

> 最初に真我を知り、
> それから世界とは何かを理解しなさい。

まず最初に

どこからどのように映画が投影されているか、

どこからどのように想念が誕生するのを知ったら、

映画が何かを理解することができる。

世界が何かを理解できるだろう。

> 世界が現れる理由は、
> 「私は在る」とあなたが知るようになるからだ。

そして、

あなたの世界が現れるのは、

「私は在る」という観念が誕生して、

あなたが自分は存在すると知ったからなのだ。

──────────────────
 質問者 どうしたら人は目覚めている状態で、世界の
     感覚を完全に失って、ただ真我になることが
     できるのでしょうか?
 
 マハラジ
 だったら、
 あなたは太陽に相談しなければならないことだろう。
 彼に尋ねるといい。
 「あなたはどうやって
  光を取り除くことができますか?」と。
 光は太陽の物質的顕現だ。
 太陽を光から、
 あるいは光を太陽から
 分離することができるだろうか?
 太陽が存在するから、
 光がある。
 同様に、
 あなたが存在するから、
 あなたの世界がある。
 
 観照状態が起こるので、
 ゆえにあなたは在る。
 あなたが在るので、
 観照が明白に感じられるのだ。
 もし観照することがなければ、
 どこに観照者がいるだろうか?
 そこに住むことだ。

 質問者 存在がその観照者ということでしょうか?
 
 マハラジ
 二つの観照段階がある。
 存在がこのすべての顕現を観照する。
 そして、
 この存在や意識を観照することが、
 絶対であるあの永遠の原理に起こるのだ。 
 
 『意識に先立って』(p14-15)
──────────────────

> 質問者 どうしたら人は目覚めている状態で、世界の
>     感覚を完全に失って、ただ真我になることが
>     できるのでしょうか?

私はマハラジのようになりたいのです。

私はマハラジの状態を

目覚めている状態で、

しかも世界の感覚を完全に失っている

真我そのものの状態と想像しています。

どうすれば、

そのような状態になれるのでしょうか?

> マハラジ
> だったら、
> あなたは太陽に相談しなければならないことだろう。
> 彼に尋ねるといい。
> 「あなたはどうやって
>  光を取り除くことができますか?」と。

もしあなたが

そういうことを望んでいるのなら、

それなら太陽にこう尋ねてみるといい。

「太陽さん、

 あなたはどうやったら

 光であることをやめられますか?」

と。

> 光は太陽の物質的顕現だ。
> 太陽を光から、
> あるいは光を太陽から
> 分離することができるだろうか?

光とは

太陽が太陽であることの物質的表現だ。

太陽であることと光り輝くことを

分離することはできない。

> 太陽が存在するから、
> 光がある。
> 同様に、
> あなたが存在するから、
> あなたの世界がある。

太陽が存在するから

光り輝くことがある。

それとまったく同じく、

あなた(真我)が存在するから

あなたの世界があるのだ。

> 観照状態が起こるので、
> ゆえにあなたは在る。

気づくという機能があるからこそ、

あなたは存在しているのだ。

> あなたが在るので、
> 観照が明白に感じられるのだ。

あなたという存在が、

気づいていることを自明に感じているのだ。

> もし観照することがなければ、
> どこに観照者がいるだろうか?
> そこに住むことだ。

気づきという働きがないのに、

どこに存在がありうるだろうか?

あなたはその気づきなのだ。

あなたはその気づきを

他の何者にも負っていない。

なぜなら、あなたは

「私は在る」と知っているからだ。

あなたはただそれであればいい。

いろいろ余計な想像をたくましくして

無用な苦しみを想像する必要はない。

> 質問者 存在がその観照者ということでしょうか?

存在自体が、

観照者だということですか?

> マハラジ
> 二つの観照段階がある。

これまであまり語られてこなかったが、

観照には二つの段階がある。

> 存在がこのすべての顕現を観照する。

一つ目の観照段階は、

すべての顕現に気づいている観照だ。

これは気づきである存在の働きだ。

> そして、
> この存在や意識を観照することが、
> 絶対であるあの永遠の原理に起こるのだ。 

そしてもうひとつ、

二つ目の観照段階がある。

全顕現とそれに気づいている働き

その存在や意識を観照することが

絶対の中で起こっている。

(-||-)

──────────────────
 あなたは在る。
 ほかのすべては現れにすぎない。
 
 『私は在る』(p421) 
──────────────────

(-||-)

──────────────────
 永久的なもの、
 それはあなた自身の存在である。
 真我として在りなさい。
 それが至福である。
 あなたはいつもそれなのである。
 
 『あるがままに』(p58) 
──────────────────

……。(-_-)

ありがとうございました。<(_ _)>

(-||-)

今日はこんなところで。

……。

m(_ _)m


   ………○…………○…………○………


『私は在る』の「目次」はここ↓にあります。
https://www.ascensionkan.com/books/I_AM_THAT-index.html

「ニサルガ辞書」で遊んでみてください。
https://www.ascensionkan.com/ndic/

「ラマナ・マハルシ辞書」はここです。
https://www.ascensionkan.com/rdic/

『アセ通』既刊号はすべてここにあります。
https://www.ascensionkan.com/mm/


   ………○…………○…………○………


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「私は在る」に関するご意見や単なるメールなど、

ご自由にお書きください。


   ………○…………○…………○………


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■ 2.編集後記:
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今日はいちど強い雨が降りました。

そしていまごろになっても暑くなってきました。

いまを避けないようにしないと。

いつまでもこの身体があるわけじゃなし。

今日は明るいうちに終えました。

ではまた。

<(_ _)>


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
  メール: pariアットマークjk2.so-net.ne.jp
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二つの配信スタンドで発行されています。
mag2:http://www.mag2.com/m/0000126287.html
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