home > 通信 >『アセンション館通信』第749号:「私は在る」が創造の蜘蛛の巣を紡ぐ



━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
  ☆☆   ☆☆
 ☆☆     ☆☆『アセンション館通信』2018/08/26(第749号)
☆☆   ☆   ☆☆
☆☆      ☆★ 【気刊】──「私は在る」に導かれ♪──
-☆☆────-☆☆─────────────────────
 ☆☆   ☆☆   https://www.ascensionkan.com/
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇

このメルマガはアセンション館主人pariと称するあるパターンに
浮上している夢の場面の報告です。

わたしは存在している。身体は現れてはいるが存在してはいない。
欲望や期待や喜びは、現れはするが存在してはいない。
心配や恐怖や悲しみは、現れはするが存在してはいない。

内容は人畜無害、でも読む人は相当変わっていますね。現在829名
──────────────────
◇◇ もくじ ◇◇

1.「私は在る」が創造の蜘蛛の巣を紡ぐ

2.編集後記
──────────────────

━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■ 1.「私は在る」が創造の蜘蛛の巣を紡ぐ
━━━━━━━━━━━━━━━━━━

また暑い夏が戻ってきましたね。

昨日は高い空に細かい鰯雲を見ました。

一瞬なぜか懐かしさに襲われました。

(*^_^*)

さて、またまた一週間が過ぎて、

楽しい“アセンション噺”ならぬ「私は在る」噺に、

お付き合いいただく今がやってまいりました。

『アセンション館通信』配達人の pari です。

マハラジがしてくださっているのは、

基本的に概念の破壊……、

あるいは概念への信頼の破壊なのかもしれません。

とにかくこうやって、

毎週土曜日に写経をするだけの人間に

起こっているのはそういうことだと思います。

一生、本ばかり読んできた人間なのに

このところ読んでいる本と言えば、

ニサルガダッタとラマナ・マハルシと

あと何冊かの本だけです。

これほど本を読めなくなってしまうとは。

あと、たまーに

上橋菜穂子さんを読むこともあるのですが、

いつまで読めるか……。

まあ、楽しみではあります。^^;

上橋菜穂子さんが新しい本を書いたら、

それりゃあ、読むだろなぁ。

ときどき、

本棚の山本周五郎の前に行ったりするんだけど、

昔読みすぎたせいでしょうね、

なかなか手が出なくなりました。

藤沢周平さんの前に行っても、

どうも手が出ない。

夏目漱石の前に行ってもどうも手が出ないし、

森鴎外の前に行っても、

いや、わざわざ読むほどのこともないか、

などと思ってしまいます。

ドストエフスキーなどとても手が出ないし、

ましてや新しい本に手すような元気は

もうありません。

要するに、

もうフィクションを読むエネルギーがないのです。

かと言って

ノンフィクションなら読めるかと言うと、

そんなこともありません。

すべての意見は

それぞれもっともなのだろうけれど、

それをなぞるほどの元気はもう出ません。

すべてはつかの間の概念であることは

あまりにも明らかですから。

ある時期から凝りだした

精神世界系の本も読めなくなっています。

そこに書かれた過去の物語や

論理をたどるだけの興味がわかないのです。

一瞬興味が湧いて

棚から本を取り出しても、

読み進めるだけのエネルギーがつづかない。

1ページも読み進まない内に

本を置いてしまいます。

興味がつづかない。

たしか、昔なら、

一日で読めただろうと思うのに。

アドヴァイタ系の本だって、

そのうち同じ運命をたどるのかもしれません。

こういう興味はすべて、

マインドが何かの食べ物を求めて

足掻いているのだけなのかもしれません。

でも、

マハラジに与えられた

遅効性の毒が効いてきたのか、

興味の発芽率も下がってきているようだし、

またせっかく興味が起こっても、

どんなもっともらしい情報を見ても、

それがただのつかの間の概念にすぎないことが、

こんなふうに自明になってしまうと……。

つかの間の概念って、

要するにエンタメの材料ってことですよね。

そんなことが自明になってしまうと、

ほんと、トホホです。

というわけで、

今日も恩寵の指図を受けて、

マハラジ最晩年の言葉を

写経させていただきます。

今日は

「一九八〇年四月一四日」の対話から

写経いたします。

──────────────────
 一九八〇年四月一四日
 
 マハラジ
 あなたがこの顕現世界に関心を持っているかぎり、
 根源に行く時間はない。
 その根源とは、
 あなたが子供だった頃に現れたこの意識のことだ。
 あなたが現在どんな活動をやっていても、
 その根源は、
 あなたが子供だった頃のその瞬間だ。
 その子供の中で、
 最も重要な質
 ──化学的なもの、意識──が、
 写真を撮ったのだ。
 その瞬間からあなたは知識を集め始め、
 それにもとづいて現在の活動は起こっている。
 
 人々は私の言葉に非常に関心をもつあまり、
 誰もその子供意識とは何かを
 本当に発見しようとはしない。
 あなたが意識の中に落ち着くとき初めて、
 その子供意識を知ることができる。
 それが唯一の方法だ。
 
 『意識に先立って』(p15)
──────────────────
 
> マハラジ
> あなたがこの顕現世界に関心を持っているかぎり、
> 根源に行く時間はない。

ずばり、核心を突いてきましたね。

いまのところまだ、

pariパターンには根源に行く時間がない。

さて、その根源とは何か?、ですが……。

> その根源とは、
> あなたが子供だった頃に現れたこの意識のことだ。

「この意識」……。

つまり、

いまこのモニター画面の上に踊る

文字を見ているこの意識のことでしょう。

> あなたが現在どんな活動をやっていても、
> その根源は、
> あなたが子供だった頃のその瞬間だ。

いま、一見、

とてももっともらしい

大人の観点からの止むに止まれぬ

必要に基づいた活動をやっているようでいて、

実際は、それは

子供の頃に目覚めた対象への興味の瞬間、

眼前の現象に興味をもった幼児のその瞬間、

それと同じものだ。

> その子供の中で、
> 最も重要な質
> ──化学的なもの、意識──が、
> 写真を撮ったのだ。

pariパターンの場合

記憶に残っているのは、

白っぽい床の上に

(おそらく新聞紙が広がっている)

部屋中の畳が相互に立てかけられた

(どうも二階らしい)ある部屋の光景です。

> その瞬間からあなたは知識を集め始め、
> それにもとづいて現在の活動は起こっている。

あの瞬間からpariパターンは

知識を集め始めたのでしょう。

このモニター画面に向かっている

いまのこの活動も実際は

あの瞬間から始まった夢の一場面にすぎない。

> 人々は私の言葉に非常に関心をもつあまり、
> 誰もその子供意識とは何かを
> 本当に発見しようとはしない。

マハラジの言葉という対象の方に

興味を奪われてしまって、

興味をもっているのが何であるのかを

pariパターンがそうであるように、

誰も本気で発見しようとはしない。

> あなたが意識の中に落ち着くとき初めて、
> その子供意識を知ることができる。
> それが唯一の方法だ。

あなたの注意の矢が

自分という主体性に向かって定まるとき、

初めて自分という意識が何であるかを

あなたは知ることができる。

方法はそれしかない。

──────────────────
 質問者 大人意識と比較すると、子供意識というのは
     退行を暗示します。そういった状態にあると
     き、子供意識とか大人意識とかを考えません。
     ただ存在があるだけで、それ以上行くべき方
     向がありません。
 
 マハラジ
 子供意識と大人意識には何の違いもない。
 
 質問者 もし小さい壺を満たす空間が、
     大きな壺を満たす空間と同じなら、
     どうやって小さい壺を認識するのでしょうか?
 
 マハラジ
 宇宙の種には大きさがない。
 だが、
 肉体のせいで現れた意識は肉体と一体化する。
 しかし実際は、
 すべてのものは
 あらゆるところに浸透している顕現した意識だ。
 「私は愛する」(I love)が顕現している。
 全宇宙にとっては、
 利益と損失という問題はなく、
 ただ肉体との一体化があるときだけ、
 問題が起こるのだ。
 
 あなたが食べ物を食べるとき、
 誰が食べているのだろうか?
 その「私は在るという性質」
 (I Amness)が食べているのだ。
 食べ物にもまた
 「私は在るという性質」が含まれているので、
 あなたがそれを消費するとき、
 あなたの「私は在るという性質」は保持される。
 「私は在るという性質」 は食べ物の中にもあるが、
 誰も食べ物と自分を一体化はしない。
  人々は、
 「これは私の昼食であり、私ではない」と言う。
 しかし、
 それが人々に消費され、
 体の体の一部になると、
 彼らは「私は肉体である」という。
 それが、
 人々が犯す間違いだ。
 
 『意識に先立って』(p15-16)
──────────────────

> 質問者 大人意識と比較すると、子供意識というのは
>     退行を暗示します。そういった状態にあると
>     き、子供意識とか大人意識とかを考えません。
>     ただ存在があるだけで、それ以上行くべき方
>     向がありません。

(「子供意識」というマハラジの造語を、

 質問者は子供の頃の意識

 という意味にとったのでしょう。

 マハラジの用語法のほうが乱暴なのですから、

 この誤解は仕方がないし、

 ある意味では当然とも言えますが。)

> マハラジ
> 子供意識と大人意識には何の違いもない。

(でも、マハラジが言った意味の

 「子供意識」とは、

 大人の意識と子供の意識を

 区別する意味ではまったくなくて、

 眼前の見かけにひたすら振り回される

 この人間という“子供っぽい意識状態”

 の意味だったというわけです。)

> 質問者 もし小さい壺を満たす空間が、
>     大きな壺を満たす空間と同じなら、
>     どうやって小さい壺を認識するのでしょうか?

(質問者はまだ

 「子供意識」と「大人意識」の区別に

 こだわっているようです。)

> マハラジ
> 宇宙の種には大きさがない。
> だが、
> 肉体のせいで現れた意識は肉体と一体化する。
> しかし実際は、
> すべてのものは
> あらゆるところに浸透している顕現した意識だ。

(「宇宙の種には大きさがない」

 という表現は、

 すでに現象世界となって

 “展開された宇宙”を包含する

 「空間」の概念とは違って、

 “宇宙の種”は大きさがない、

 というニュアンスを感じさせますね。)

> 「私は愛する」(I love)が顕現している。

(マハラジの喩えの中には

 われわれが馴染みやすい

 物質的表現はまったく出てきません。

 出てくるのはどこまでも

 主観性の言葉だけです。)

すべての顕現を呼び出しているのは

「私は愛する」(I love)という概念だ。

> 全宇宙にとっては、
> 利益と損失という問題はなく、
> ただ肉体との一体化があるときだけ、
> 問題が起こるのだ。

宇宙全体にとっては

誰が誰に何を与えるとか、

誰が誰から何を奪ったと言ったことは

いっさい無いのだから、

利益とか損失と言った問題はありえない。

ただ、

気づいている意識が

宇宙の一部である(自分という)肉体に

一体化したときに初めて

有利とか不利とか、

勝利とか敗北とか、

損とか得とか言った問題が起こる。

> あなたが食べ物を食べるとき、
> 誰が食べているのだろうか?
> その「私は在るという性質」
> (I Amness)が食べているのだ。

あなたの眼前にある食べ物が

あなたの口の中に移動するとき、

その食べ物の位置の移動は

“食べる”という動詞で表現される。

この“食べる”という表現には、

その食べ物の位置の移動を起こす

一種の推進力の存在が暗黙に前提されている。

もし生命世界全体のエネルギー循環を

“食べる”という表現で括るとしたら、

生命世界全体は

生命体が生命体を“食べる”ことによって

エネルギー自給され、

維持されているのだから、

この生命世界全体にはその津々浦々、

隅々に至るまで何らかの

“欲動推進”が浸透していると考えるしかない。

その“欲動推進”に名前をつけるなら、

「私は在るという性質」(I Amness)

と表現することになる。

つまり、

あなたが見ている現象宇宙の

ありとあらゆるところに隈なく

この「私は在るという性質」(I Amness)

が浸透しているのだ。

> 食べ物にもまた
> 「私は在るという性質」が含まれているので、
> あなたがそれを消費するとき、
> あなたの「私は在るという性質」は保持される。

だからもちろん、

あなたが“食べる”食べ物にも

その「私は在るという性質」が含まれている。

それゆえ、

あなたの「私は在るという性質」は

その食べ物の中の「私は在るという性質」を

吸収することによって維持されているのだ。

> 「私は在るという性質」 は食べ物の中にもあるが、
> 誰も食べ物と自分を一体化はしない。
>  人々は、
> 「これは私の昼食であり、私ではない」と言う。
> しかし、
> それが人々に消費され、
> 体の体の一部になると、
> 彼らは「私は肉体である」という。
> それが、
> 人々が犯す間違いだ。

ところがあなたは、

食べ物の中の「私は在るという性質」を

自分の身体の中に取り込むことで

あなたの「私は在るという性質」を

維持しているにもかかわらず、

食べる前のその食べ物を自分だとは見なさない。

それは自分の昼食であり、

あなた自身ではないというわけだ。

ところがいったん、

その食べ物が口の中に移動して

その「私は在るという性質」が吸収されたら、

今度は、

これは自分の身体だと主張する。

ひたすら単純な見かけの変化に騙される

このパターン認識における

子供っぽい支離滅裂な勘違いが、

あなたのすべての要らざる不幸の根源だ。

──────────────────
 質問者 私はジニャーニの状態に
     なりたいと望んでいます。
 
 マハラジ
 あなたは「私は在る」という知識を知らねばならない。
 ジニャーニと知識はひとつだ。
 
 質問者 ただ存在するだけで、
     人はこの知識を持っているのですか?
 
 マハラジ
 あなたはすでにそれなのだ。
 しかし、
 あなたは自分自身を
 理解するように努めなければならない。
 
 質問者 あなたは存在のまさに本質によって、
     それを理解されています。ですから、
     どんな知識も関わっていないのです。
 
 マハラジ
 この瞬間、
 あなたは自分の肉体と一体化している。
 だから、
 あなたにはその秘密がわからないのだ。
 あなたが本当にそれになるとき、
 しだいに知るようになることだろう。
 
 質問者 もし「私は在る」の中に、
     ただ存在の感覚しかなければ、
     どこに概念が入ってくるのでしょうか?
 
 マハラジ
 命を保つ呼吸があることによって、
 そこにマインドの流れがある。
 マインドとは言葉を意味し、 
 よって思考がそこにある。
 それらが概念だ。
 自分の根源、
 子供意識を眺め、
 それを終わりにしてしまいなさい。

 『意識に先立って』(p16-18)
──────────────────

> 質問者 私はジニャーニの状態に
>     なりたいと望んでいます。

(わかります。

 ご同様ですから。)

> マハラジ
> あなたは「私は在る」という知識を知らねばならない。
> ジニャーニと知識はひとつだ。

この子供意識である「私は在る」が

どのようにして湧いてくるのか

その存在感の源泉に

あなたはたどり着かなければならない。

なぜならジニャーニとは

「私は在る」とは一つの想念であることを

知っている状態のことだからだ。

> 質問者 ただ存在するだけで、
>     人はこの知識を持っているのですか?

わたしは自分が存在することを知っていますが、

ただ存在しているだけで、

この知識を持っていると言えるのでしょうか?

> マハラジ
> あなたはすでにそれなのだ。
> しかし、
> あなたは自分自身を
> 理解するように努めなければならない。

自分が存在することを知っている以上、

あなたは間違いなくすでにそれだ。

ただ、現状のあなたは

自分がそれであることを自覚していない。

だから現象世界の一部と

自分を同一化してしまうのだ。

あなたは間違いなくすでにそれだが、

自分の自覚としてそれであるためには、

あなた自身が理解しなければならない。

> 質問者 あなたは存在のまさに本質によって、
>     それを理解されています。ですから、
>     どんな知識も関わっていないのです。

マハラジはどんな知識も関係なしに、

存在の本質によって理解されています。

だから、マハラジにとっては

それは外から与えられた観念ではないのです。

> マハラジ
> この瞬間、
> あなたは自分の肉体と一体化している。
> だから、
> あなたにはその秘密がわからないのだ。
> あなたが本当にそれになるとき、
> しだいに知るようになることだろう。

今この瞬間は、

あなたはつかの間の見かけの一部である

あなたの肉体に自己同化している。

そのヴェールのかかった視界からは

この明白な秘密は見えない。

あなたが実際にそれであることを知るにつれ、

あなたにもそれが見えてくるだろう。

> 質問者 もし「私は在る」の中に、
>     ただ存在の感覚しかなければ、
>     どこに概念が入ってくるのでしょうか?

「私は在る」というのが

ただこの存在感だけのことだとすれば、

概念はどこに入ってくるのですか?

(ちょっと意味不明です。)

 しかし、その質問を契機に
 
 マハラジが説明してくださったことは、

 とても厳密な感じです。)

> マハラジ
> 命を保つ呼吸があることによって、
> そこにマインドの流れがある。
> マインドとは言葉を意味し、 
> よって思考がそこにある。
> それらが概念だ。
> 自分の根源、
> 子供意識を眺め、
> それを終わりにしてしまいなさい。

肉体の命を保つためには

その肉体は呼吸をしなければならない。

するとその呼吸に従って想念が流れる。

想念とは言葉のことだ。

つまりそこに思考があることになる。

その思考の流れが概念だ。

眼前の見かけにすぐに興味を奪われ

たちまちそこにまた聞きの観念を織り込んで

概念を紡ぎだすのが子供意識だ。

そしてそこで創造された物語に

自ら閉じ込められて不平を訴える。

その子供っぽい意識の在りようが

あなたの根源だ。

それを終わりにしてしまいなさい。

──────────────────
 質問者 問題は、すべての意識は同一という事実です。
     では、どうやって根源に行ったらいいのでし
     ょうか?
 
 マハラジ
 この意識は木であるが、
 しかし、
 種があったのだ。
 だから、
 種のところへ行くことだ。
 あなたが今持っている意識は子供意識と同じだ。
 それにしがみつきなさい。
 それで十分だ。
 意識がそこにあるかぎり、
 あらゆることはあなたにとってとても重要だ。
 しかし、
 もしそれが消滅してしまったら、
 そのとき、
 あなたにとって
 この全世界の価値はどこにあるのだろうか?
 この種を知るものは誰なのか?
 この「私は在るという性質」が
 どうやって現れてくるのか、
 それに注意を払うことだ。
 そうすれば、
 あなたは知ることだろう。
 「あなたはこの顕現した純粋な意識であり、
  宇宙やあなたが見ているこの生命のまさに魂であり、
  今はただ肉体という衣装を着ているだけだ」
 というこのアイデンティティだけをただ受け入れ、
 これに注目するのだ。
 あなたの人生で
 非常に多くの物事を娯楽のために注目している。
 だったら、
 これにも注目して
 何が起こるかを見てみたらどうだろうか?
 月を眺めるとき、
 あなたがそこにいるかぎりは
 月が存在することを知るなら、
 何が起こるかを見てみなさい。
 この壮大なる概念、
 この喜び、
 あなたはこれを直接経験し、
 楽しむのだ。  
 
 『意識に先立って』(p18-19)
──────────────────

> 質問者 問題は、すべての意識は同一という事実です。
>     では、どうやって根源に行ったらいいのでし
>     ょうか?

でも実際は、

すべての意識は同じものなんですよね。

だとすれば、

どうやって根源に行ったらいいのでしょう?

(ちょっと意味不明ですが、

 しかし引き出した言葉は貴重です。)

> マハラジ
> この意識は木であるが、
> しかし、
> 種があったのだ。
> だから、
> 種のところへ行くことだ。

現象世界という意識全体は大木のようなものだ。

しかし、

その木はひとつの種から芽生えたものだ。

だから、その種のところに行きなさい。

> あなたが今持っている意識は子供意識と同じだ。
> それにしがみつきなさい。
> それで十分だ。

あなたが今見守っている意識は、

あなたが子供の頃に

初めて見かけに興味を惹かれたときと

同じ子供っぽいふるまい方をする意識だ。

だが、それで十分だ。

その子供っぽい意識のふるまいを見守り続けなさい。

> 意識がそこにあるかぎり、
> あらゆることはあなたにとってとても重要だ。
> しかし、
> もしそれが消滅してしまったら、
> そのとき、
> あなたにとって
> この全世界の価値はどこにあるのだろうか?

そこに見かけの対象があり、

その見かけに夢中になっている今のあなたにとっては、

見かけの中で起こるあらゆることが重要に思われる。

だが、こう考えてみなさい。

もしその見かけ全体が消えてしまったら、

そのときあなたにとって

その消えてしまった全世界の価値はどこにあるのかと。

すべてが消えてしまってもなお、

あなたにとってその全世界の価値はあるのだろうか?

もしそれがあるのだとしたら、

その全世界の価値を保っているのは、

その見かけではなく、

あなたではないだろうか?

あるいはもし、

その見かけ全体が消えてしまったら、

その全世界の価値もすべて消えてしまうというのなら、

全世界がつかの間の見かけであるのが明らかな以上、

その全世界の価値ももともと存在しなかった

ということではないだろうか?

いずれにせよ、

それらの価値はあなたの中にしかなかった。

その価値は

あなたの興味と執着の中にしかなかったのだ。

> この種を知るものは誰なのか?
> この「私は在るという性質」が
> どうやって現れてくるのか、
> それに注意を払うことだ。

あなたの執着の種はどこにあったのだろう?

その種を知るものとはいったい誰なのか?

全現象世界を呼び出したあなたの存在感が

どうやって現れてくるのか、

それに注意を払いなさい。

> そうすれば、
> あなたは知ることだろう。
> 「あなたはこの顕現した純粋な意識であり、
>  宇宙やあなたが見ているこの生命のまさに魂であり、
>  今はただ肉体という衣装を着ているだけだ」
> というこのアイデンティティだけをただ受け入れ、
> これに注目するのだ。

そうしていれば、

やがてあなたにもわかる。

すべてはあなたがいるからこそ、

存在しているのだということが。

あなたが気づいていなければ、

実際は何ひとつ現れることはできないのだ。

そしてあなたはすでに気づいている。

ならば、

あなたがいなければ、

あなたの世界など何一つ存在できないことは

明らかではないだろうか。

いまあなたが気づいている世界の中で、

唯一実際に実体をもって実在しているのは

あなただけだ。

それ以外のすべては、

ただつかの間の見かけを

あなたの眼前で展開しているだけなのだ。

あなたこそが

この顕現した宇宙の中の純粋な意識であり、

あなたが見ているこの生命のまさに魂なのだ。

今はただ肉体という衣装を着ているだけだ。

実際に事実であるこの自覚をただ受け入れ、

その自覚だけに注目しつづけなさい。

> あなたの人生で
> 非常に多くの物事を娯楽のために注目している。
> だったら、
> これにも注目して
> 何が起こるかを見てみたらどうだろうか?

あなたはこの人生の中で

非常に多くの時間を

娯楽というただ意識を散乱させ混濁させるものに

浪費していることだろう。

だったら、

実際にあなた自身であることが明らかなものに

注目しつづけてみて、

何が起こるかを見てみたらどうだろうか?

> 月を眺めるとき、
> あなたがそこにいるかぎりは
> 月が存在することを知るなら、
> 何が起こるかを見てみなさい。
> この壮大なる概念、
> この喜び、
> あなたはこれを直接経験し、
> 楽しむのだ。  

たとえば、

月を眺めるとする。

その月がそこに存在しているのは

あなたがその月を眺めている間だけだ。

これほど明らかなことが

あなたにわからないはずがない。

その感覚を楽しみながら

その月を眺めてみるといい。

そして何が起こるかを見てみなさい。

これは壮大な概念ではないだろうか。

この喜びを直接経験しながら、

楽しんでみなさい。

──────────────────
 質問者 この創造に対して、責任を持っている
     何らかのパワーがあるに違いありません。
 
 マハラジ
 パワーは真我であり、
 それを一人ひとりが自分の存在の中にもっている。
 しかし、
 そのパワーは時間に縛られている。
 存在が現れて以来、
 存在が消えるときまで、
 それは自動的に創造する。
 それ以前は何もなかった。
 それ以後も何もない。
 存在が継続している間だけ、
 世界と創造はある。
 このパワーは
 根源的概念である「私は在る」への信念であり、
 創造の蜘蛛の巣を紡ぐのがこの概念だ。
 全顕現はこの概念の中の見かけなのだ。
 
 『意識に先立って』(p19)
──────────────────

> 質問者 この創造に対して、責任を持っている
>     何らかのパワーがあるに違いありません。

でも、

この全創造を意図的に起動した

何らかのパワーがあるはずですよね?

そうじゃないんですか?

> マハラジ
> パワーは真我であり、
> それを一人ひとりが自分の存在の中にもっている。

確かに、パワーは存在する。

それが唯一の実在である真我だ。

そして一人ひとりの肉体の中で

この全創造を顕現しているのはその真我なのだ。

> しかし、
> そのパワーは時間に縛られている。

だが、

この全創造を顕現しているパワーは

時間に縛られている。

なぜなら顕現とは

時間と空間という枠の中でしか実現できないからだ。

> 存在が現れて以来、
> 存在が消えるときまで、
> それは自動的に創造する。
> それ以前は何もなかった。
> それ以後も何もない。
> 存在が継続している間だけ、
> 世界と創造はある。

肉体が誕生して

「私は在る」という存在感が生まれてから、

肉体が崩壊してその存在感が消滅するまで、

そのパワーは自動的に創造しつづける。

それが始まる以前には何もなかったし、

それが消滅した以後にも何もない。

その存在感が継続している間だけ、

世界と創造はあるのだ。

> このパワーは
> 根源的概念である「私は在る」への信念であり、
> 創造の蜘蛛の巣を紡ぐのがこの概念だ。
> 全顕現はこの概念の中の見かけなのだ。

全世界を創造しているこのパワーとは

根源的概念「私は在る」への信念だ。

肉体の誕生後、

子供の頃に兆した現象への興味が

今もなお「私は在る」という存在感として

あなたの中で息づいている。

その存在感が創造の蜘蛛の巣を紡いでいる。

全顕現はこの概念の中の見かけなのだ。

(-||-)

──────────────────
 あなたは在る。
 ほかのすべては現れにすぎない。
 
 『私は在る』(p421) 
──────────────────

(-||-)

──────────────────
 永久的なもの、
 それはあなた自身の存在である。
 真我として在りなさい。
 それが至福である。
 あなたはいつもそれなのである。
 
 『あるがままに』(p58) 
──────────────────

……。(-_-)

ありがとうございました。<(_ _)>

(-||-)

今日はこんなところで。

……。

m(_ _)m


   ………○…………○…………○………


『私は在る』の「目次」はここ↓にあります。
https://www.ascensionkan.com/books/I_AM_THAT-index.html

「ニサルガ辞書」で遊んでみてください。
https://www.ascensionkan.com/ndic/

「ラマナ・マハルシ辞書」はここです。
https://www.ascensionkan.com/rdic/

『アセ通』既刊号はすべてここにあります。
https://www.ascensionkan.com/mm/


   ………○…………○…………○………


▼『アセ通』へのご意見投稿フォーム:
http://www.formzu.net/fgen.ex?ID=P48750702

「私は在る」に関するご意見や単なるメールなど、

ご自由にお書きください。


   ………○…………○…………○………


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   ………○…………○…………○………


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■ 2.編集後記:
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

遠くから花火の音が聞こえています。

下の方からは川沿いのキャンパーたちの音楽。

今日は比較的暑い日でした。

今日は暗くなりました。

おやすみなさい。

<(_ _)>


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
  メール: pariアットマークjk2.so-net.ne.jp
──────────────────
二つの配信スタンドで発行されています。
mag2:http://www.mag2.com/m/0000126287.html
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