home > 通信 >『アセンション館通信』第750号:形なき状態に戻りたいという自然な思い



━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
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 ☆☆     ☆☆『アセンション館通信』2018/09/02(第750号)
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☆☆      ☆★ 【気刊】──「私は在る」に導かれ♪──
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 ☆☆   ☆☆   https://www.ascensionkan.com/
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇

このメルマガはアセンション館主人pariと称するあるパターンに
浮上している夢の場面の報告です。

わたしは存在している。身体は現れてはいるが存在してはいない。
欲望や期待や喜びは、現れはするが存在してはいない。
心配や恐怖や悲しみは、現れはするが存在してはいない。

内容は人畜無害、でも読む人は相当変わっていますね。現在829名
──────────────────
◇◇ もくじ ◇◇

1.形なき状態に戻りたいという自然な思い

2.編集後記
──────────────────

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■ 1.形なき状態に戻りたいという自然な思い
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九月に入りました。

清々しい季節のはずですが、

清々しさから離れてしまったのか、

このところはどうも……。

ところで九月一日というのは

このごろは子どもたちの自殺が

いちばん多くなる日なんだそうですね。

なんというか……。

という風景が今は流れています。

(*^_^*)

さて、またまた一週間が過ぎて、

楽しい“アセンション噺”ならぬ「私は在る」噺に、

お付き合いいただく今がやってまいりました。

『アセンション館通信』配達人の pari です。

眼前に流れる光景の手前に

そういう想念が流れているのが

エゴの観点というものなのでしょう。

そういった

いつも何か物欲しげな想念が流れている。

こういった想念は

どのような前提の中で醸成され、

何を求めて、

何の代償作用として自然発生しているのか?

そういうことが見破られないかぎり、

こういう想念は

いつまでも湧いてくるものなのでしょう。

こういう想念を

身体が観ているのでないことは確かです。

身体は観られているものの一部ですから。

観ているのは……、

もちろん、わたしです。

でも、

そのわたしは純粋な鏡ではない。

映しているのは純粋な鏡でしょう。

でもわたしは自分が純粋な鏡だとは

自覚してもいないので、

自認してもいません。

だからこそ、この身体が

観照されている現象世界の一部だと

概念としては知りながらも、

なおも自然現象として

なにか物欲しげな想念が

いつまで経っても湧いてくるのでしょう。

そしてそういった想念に

意識エネルギーを漏洩させては

少し不安になったりするのでしょう。

なぜこのような想念が湧いてくるのか?

それは、もちろん、

想念が湧く鼠穴が

監視されていないからでしょうね。

あるいは気づきの矢印が

気づき自身に向かっていないからでしょう。

気づきの矢印が

見かけの中の対象に向かっているので

そこから常にエネルギーが漏れて

こうして想念が湧いてくる。

といっても、

鼠穴を監視する誰かが

実体として存在するわけでもありません。

そういうことはすべて、

すでに起こっている現象世界の中の

自然現象として

起こることがただ起こっているだけです。

ただその見かけで起こることが

なにか自分に関係があると

思っている自分がいる……と幻想している、

そういうことなのでしょうね。

その自分が

じつは存在しないことが見破られるまでは

そういうことがつづくわけでしょう。

「沈黙の観照者としてのみとどまる」

そんなことは自分にはできません、

と言う質問者に、

マハラジは次のように答えています。

──────────────────
 マハラジ
 それは、
 世界に影響されるのに充分なほど、
 あなたが大きいと考えているからだ。
 そうではない。
 何ものもピンで留めることができないほど、
 あなたは小さいのだ。
 捕らわれてしまうのはあなたのマインドであって、
 あなたではない。
 次元と時間を超えた意識内の単なる点としての、
 あるがままのあなたを知りなさい。
 あなたは鉛筆の先の点のようなものだ。
 あなたと接触するだけで、
 マインドは世界の絵を描き出す。
 あなたは単一で単純だ。
 絵は複雑で大規模なものだ。
 絵に惑わされてはならない。
 小さな点に気づきつづけなさい。
 その点は絵のなかのどこにでもあるのだ。
 
 在るものが在ることをやめることはできる。
 ないものは存在のなかに現れることができる。
 しかし、在ることもないこともなく、
 存在と非存在がともに依存するそれは、
 否定することのできないものだ。
 あなた自身を、
 欲望と恐れの原因であり、
 しかもその両方から自由であるものだと知りなさい。
 
 『意識に先立って』(p469-470)
──────────────────
 
> 何ものもピンで留めることができないほど、
> あなたは小さいのだ。

そうなんですね。

> 捕らわれてしまうのはあなたのマインドであって、
> あなたではない。

そうなのか。

> 次元と時間を超えた意識内の単なる点としての、
> あるがままのあなたを知りなさい。

結局、それしかないんだなぁ。

> あなた自身を、
> 欲望と恐れの原因であり、
> しかもその両方から自由であるものだと知りなさい。

(-||-)

というわけで、

今日も恩寵の指図を受けて、

マハラジ最晩年の言葉を

写経させていただきます。

今日は

「一九八〇年四月一五日」の対話から

写経いたします。

──────────────────
 一九八〇年四月一五日
 
 マハラジ
 意識がそれ自身と混じるとき、
 それがサマーディ(超越意識の至福状態)だ。
 人が何も知らないとき、
 そして自分が何も知らないことさえ知らないとき、
 それはサマーディなのだ。
 
 質問者 肉体が硬直するのでしょうか?
 
 マハラジ
 肉体は静かになる。
 さらに、
 肉体の認識もなくなる。
 あらゆることの原因がわかるとき、
 それがサハジャ・サマーディ(自然な至福状態)だ。
 
 質問者 感覚は内側も外側も燃えるようで、活気を帯
     びる感じです。それは少々お熱を誘発します。
 
 マハラジ
 それは自然なことだ。
 五大元素がお互いに混じるとき、
 あらゆる種類の物事が起こるかもしれない。
 五大元素は、
 その段階では肉体を通じて
 様々な異なる様式で自らを表現する。
 これはすべてに共通するものではないし、
 必ずしも一様ではない。
 おのおのの肉体はそれぞれ異なる行動をし、
 反応する。
 それゆえ、
 それぞれの賢者たちは異なる教えをもつのだ。
 このすべてに対する共通した源泉は目覚めた状態、
 睡眠の状態、
 そして「私は在る」という意識だ。

 『意識に先立って』(p19-20)
──────────────────

> 意識がそれ自身と混じるとき、
> それがサマーディ(超越意識の至福状態)だ。

(実際に体験もなく

 ただ言葉だけで解釈しても
 
 しようがないような文面ですね。)

> 人が何も知らないとき、
> そして自分が何も知らないことさえ知らないとき、
> それはサマーディなのだ。

サマーディが何かはわからなくても、

これが最善の状態であることだけは

よくわかります。

> 質問者 肉体が硬直するのでしょうか?

この方は間違いなく実践派ですね。

> マハラジ
> 肉体は静かになる。
> さらに、
> 肉体の認識もなくなる。
> あらゆることの原因がわかるとき、
> それがサハジャ・サマーディ(自然な至福状態)だ。

肉体の認識はなく、

しかもすべての原因がわかっている状態。

この完全な無の一歩手前みたいな状態は、

意識が望みうる最高の状態なのでしょう。

> 質問者 感覚は内側も外側も燃えるようで、活気を帯
>     びる感じです。それは少々お熱を誘発します。

とても実践派の方の感想です。

> マハラジ
> それは自然なことだ。
> 五大元素がお互いに混じるとき、
> あらゆる種類の物事が起こるかもしれない。
> 五大元素は、
> その段階では肉体を通じて
> 様々な異なる様式で自らを表現する。

(人間の肉体が体験できるすべての状態は、

 五大元素の異なる組み合わせの

 様々な表現だということでしょうか。)

> これはすべてに共通するものではないし、
> 必ずしも一様ではない。
> おのおのの肉体はそれぞれ異なる行動をし、
> 反応する。
> それゆえ、
> それぞれの賢者たちは異なる教えをもつのだ。

賢者という個別の実体があるわけではないので、

現象世界という

五大元素の多様な組み合わせによる

表現のなかに賢者たちの表現も

含まれている。

> このすべてに対する共通した源泉は
> 目覚めた状態、
> 睡眠の状態、
> そして「私は在る」という意識だ。

五大元素の組み合わせによる

あらゆる表現は、

目覚めた状態、

睡眠の状態、

「私は在る」という意識の

三つの状態として現象すると。

──────────────────
 質問者 私はマハラジが言うようにやりました。私は
     子供意識を調べ、また種と木について熟考し
     ました。そして、その相関関係を解明しまし
     た。
 
 マハラジ
 これらの疑問が解消されたあとに何が残り、
 あなたはそれについて何かできるだろうか?
 
 質問者 いいえ。種は苗木に消え入り、苗木は木に消
     え入り、最終的に木も消えます。そして子供
     という種が十代に消えるなどです。
 
 マハラジ
 それは消えるのではなく、
 変換されるのだ。
 今、
 残るものがパラブラフマンだ。
 
 質問者 息子が父親のところへ戻るという感覚があり
     ました。
 
 マハラジ
 その感覚は源泉の内側で起こったのだろうか?
 それとも外側だろうか?
 両親とは人が常に知っている
 源泉に与えられた名前にすぎない。
 
 何かが理解されるとき、
 名前を与えられるまで、
 人は本当にはそれを理解しない。
 名前を与えられると、
 人は「私は理解しました」と言う。
 しかし、
 名前はものではない。
 名前上では、
 父親、母親、子供は三つだ。
 しかし、
 これらの三つは同じものを表している。
 あるがままはただ一つであり、
 それはただ在る。
 その三つのものは、
 基本的に一つのものに与えられた
 名前と数にすぎない。
 プラクリティ(宇宙の実体)と
 プルシャ(宇宙の魂)の融合が私自身だ。
 しかし、
 プラクリティとプルシャは名前にすぎない。
 それらは形ではない。
 この話題は、
 真剣に興味を持っている人たちにだけ向けられている。
 
 ジャック・フルーツは
 厚い皮と外側に鋭い棘がある非常に大きな果物だ。
 中身が実で、
 さらにその中に種がある。
 人は果実を利用するが、
 もっと果実を得ることができる種もそこにあるのだ。
 人間の肉体も同じことで、
 外側は単なる殻に過ぎず、
 人が利用するのは実である内部の存在だ。
 種は再生産に使うことができるが、
 甘さである「私は在る」という味は
 自らを価値あるものにするので、
 どんな犠牲を払ってでも継続したいと思うものだ。
 
 この形をとる以前、
 あなたは形がなかった。
 自然発生的に形が現れ、
 形がそこに現れたとき、
 形なき状態に戻りたいという自然な思いがあった。
 あなたがこの形なきもの、
 願望のない状態に戻りたいと思うとき、
 そのときあなたは初めて、
 自分の本質を求めてここに来るのだ。
 意識は意識を知らねばならない。
 それが自分自身に目覚めるとき、
 その時ようやくあなたは普通に戻る。
 
 『意識に先立って』(p20-22)
──────────────────

> 質問者 私はマハラジが言うようにやりました。私は
>     子供意識を調べ、また種と木について熟考し
>     ました。そして、その相関関係を解明しまし
>     た。

(この方きっと、

 しっかり実践してきた自覚があって、

 自分の見解を評価してほしいのでしょう。)

> マハラジ
> これらの疑問が解消されたあとに何が残り、
> あなたはそれについて何かできるだろうか?
> 
> 質問者 いいえ。

自分にできることは何もない、

ということを確認しました。

>     種は苗木に消え入り、苗木は木に消え入り、
>     最終的に木も消えます。そして子供という種
>     が十代に消えるなどです。

種から始まった状態が、

順次、

次の状態の中へと消えていくだけです。

> マハラジ
> それは消えるのではなく、
> 変換されるのだ。

(それは間違いなくそうですね。)

> 今、
> 残るものがパラブラフマンだ。

そして、現在は

パラブラフマンとして残っている。

> 質問者 息子が父親のところへ戻るという感覚があり
>     ました。

この方、

ただ変化の相を熟考してきただけではなく、

ある種の感覚的体験をなさったようです。

> マハラジ
> その感覚は源泉の内側で起こったのだろうか?
> それとも外側だろうか?

(こういうマハラジの表現の

 「源泉」が何を指しているのか?

 体験的な感覚なのか、

 それとも概念的なものなのか?)

> 両親とは人が常に知っている
> 源泉に与えられた名前にすぎない。

(ここでマハラジの「源泉」の

 一部が解説されているようです。)

誰もが知っている「両親」という言葉は

源泉に付与された符牒にすぎない。

> 何かが理解されるとき、
> 名前を与えられるまで、
> 人は本当にはそれを理解しない。

何かがわかったというとき、

そこにはその事態に付与された

ある名前が存在する。

ある事態に名前がつけられると

人はそれで

その事態がわかったような気になるのだ。

> 名前を与えられると、
> 人は「私は理解しました」と言う。

だから、

ある事態の名前を聞かされると、

「わかった」と、

それで納得してしまうものなのだ。

(クリシュナムルティがどこかで、

 「あれは鳥だ、と教えられると、
 
  その子は二度とふたたび、
 
  鳥を見なくなる。
  
  それ以後、その子は
  
  鳥という概念しか見ない」

 と言っていましたね。)

> しかし、
> 名前はものではない。

しかし、

名前は実体ではない。

> 名前上では、
> 父親、母親、子供は三つだ。
> しかし、
> これらの三つは同じものを表している。
> あるがままはただ一つであり、
> それはただ在る。
> その三つのものは、
> 基本的に一つのものに与えられた
> 名前と数にすぎない。

名前の上では、

父親と母親と子供は三つの別のものだが、

それはただひとつのあるがままの

見かけの中に発見された

三つの異なる名前にすぎない。

実際はその三つの名前は

同じただ一つのあるがままを指している。

(とても素朴な比喩で

 複雑さを好むマインドが
 
 納得しやすい比喩ではなさそうです。

 しかし、事実は、

 あらゆる名前や概念は、

 すべてただひとつのあるがままに

 押しつけられたものなのでしょう。

 われわれは

 その概念の中で

 迷子になっていることだけは

 間違いないわけです。)

> プラクリティ(宇宙の実体)と
> プルシャ(宇宙の魂)の融合が私自身だ。

(ここで、

 プラクリティ(宇宙の実体)と
 
 プルシャ(宇宙の魂)
 
 というヒンドゥー教の
 
 二つの概念が紹介されます。

 今回最初に引いた比喩で言うなら、

 プラクリティ(宇宙の実体)とは、

 世界の絵を描き出すマインドであり、

 プルシャ(宇宙の魂)とは、

 鉛筆の先の点のようなものでしょうか。)
 
世界を描き出そうと

待ち構えているマインドと、

そのマインドの魔法の絵の具に触れる

一点の注意が融合したもの

それがわたしだ。

> しかし、
> プラクリティとプルシャは名前にすぎない。
> それらは形ではない。
> この話題は、
> 真剣に興味を持っている人たちにだけ向けられている。

しかし、

“マインドという魔法の絵の具”と、

あなたが使える“注意の筆先”と言っても、

それは単なる概念にすぎず、

それは描き出される形自体、

つまり宇宙そのものではない。

私が今話しているこういう話題は、

こういうヒンドゥー教の概念に

真剣に興味をもっている人だけに向けている。

だから他の人たちは

興味を惹かれないことだろう。

> ジャック・フルーツは
> 厚い皮と外側に鋭い棘がある非常に大きな果物だ。
> 中身が実で、
> さらにその中に種がある。

(ジャック・フルーツというのは、

 こういう大きな果物です。
 http://www.africafe.jp/barua88fenesija.html
 
 「1つが長さ80センチ、
 
  直径25センチほどの楕円形、
 
  重さは30キロほどもあるの」
  
 だとか。
 
果物には

いちばん外側の厚い外皮と

外皮に護られた中の実と

さらにその実の中の種がある。

> 人は果実を利用するが、
> もっと果実を得ることができる
> 種もそこにあるのだ。
> 人間の肉体も同じことで、
> 外側は単なる殻に過ぎず、
> 人が利用するのは実である内部の存在だ。
> 種は再生産に使うことができるが、
> 甘さである「私は在る」という味は
> 自らを価値あるものにするので、
> どんな犠牲を払ってでも継続したいと思うものだ。

果実が美味しいので

私たちは果物の果実を食べる。

しかしその中には種もあって

その種からもっと多くの

果実を生み出すこともできる。

人間の肉体もそれと同じで、

肉体という外皮自体は

存在感を護るための殻にすぎない。

人が使うのは殻(肉体)に護られた存在感だ。

種は新たな肉体の再生産に使える。

しかし最も価値あるものとされるのは

「私は在る」という甘美な存在感だ。

どんな犠牲を払ってでも生き延びたいと願うのが

この「私は在る」という存在感だ。

> この形をとる以前、
> あなたは形がなかった。
> 自然発生的に形が現れ、
> 形がそこに現れたとき、
> 形なき状態に戻りたいという自然な思いがあった。

この「私は在る」という存在感が現れる以前、

あなたにはどんな形もなかった。

あなたは何者でもなかった。

そこに自然発生的に

この「私は在る」という存在感が現れた。

これはあなたが起こしたわけではない。

そもそも誰も存在しなかったのだから。

そして「私は在る」という形が現れたとき、

そこに形なき状態に戻りたいという

自然な思いも誕生した。

> あなたがこの形なきもの、
> 願望のない状態に戻りたいと思うとき、
> そのときあなたは初めて、
> 自分の本質を求めてここに来るのだ。

あなたがこの存在感がない状態、

どんな願望もない状態に戻りたいと思うとき、

そのときあなたは初めて、

自分の本質を告げるこの情報を求めるのだ。

> 意識は意識を知らねばならない。
> それが自分自身に目覚めるとき、
> その時ようやくあなたは普通に戻る。

意識は

意識が何であるかを

知らなければならない。

そして意識が何であるかを知り、

意識に先立って存在している

自分自身に目覚めるとき、

その時初めてあなたは本来の普通に戻る。

──────────────────
 質問者 ここに来た人の中で、誰かジニャーニになっ
     た人がいますか?
 
 マハラジ
 ここに来た多くの者たちは知識を得たが、
 それはほんの表面的なことだ。
 誰も知識とは何かを本当に学んだ者はいない。
 本当に完全なる意味を理解した者は誰もいない。
 彼らは何をしているのだろうか?
 彼らは願望や欲求で混乱し、
 そのせいで知識を忘れている。
 これからも、
 この知識を正しく得て、
 自分のハートに深く吸収する者は非常にまれだろう。
 いったんこの運動、
 この活動の起源、
 この願望の理由と性質を理解するなら、
 そのとき初めてあなたは自分の本質に戻ることができる。
 そのことについて確信しないかぎり、
 理解しないことだろう。
 
 『意識に先立って』(p22)
──────────────────

> 質問者 ここに来た人の中で、誰かジニャーニになっ
>     た人がいますか?

ここに来た人で、

あなたがおっしゃるような意味で

普通になった人というのはいるのですか?

> マハラジ
> ここに来た多くの者たちは知識を得たが、
> それはほんの表面的なことだ。
> 誰も知識とは何かを本当に学んだ者はいない。
> 本当に完全なる意味を理解した者は誰もいない。

(手厳しいですね。

 まあ、例外的な方たちもいるのでしょうが。)

> 彼らは何をしているのだろうか?
> 彼らは願望や欲求で混乱し、
> そのせいで知識を忘れている。

(これだけ長くマハラジの文章を読んで

 やっといまのレベルで読めるようになった者が

 言えることなど何もありません。)

> これからも、
> この知識を正しく得て、
> 自分のハートに深く吸収する者は非常にまれだろう。

(*-||-*)

> いったんこの運動、
> この活動の起源、
> この願望の理由と性質を理解するなら、
> そのとき初めてあなたは自分の本質に戻ることができる。

ひとたび

この意識という運動、

この意識活動の起源が理解され、

この願望の理由と性質が理解されたら、

そのとき初めて

その意識活動は自らを緩め、

思考という一切の抵抗をやめて、

自ら解体するに任せるだろう。

> そのことについて確信しないかぎり、
> 理解しないことだろう。

意識の中でこのことが確信されないかぎり、

その解体は起こらないだろう。

(-||-)

──────────────────
 あなたは在る。
 ほかのすべては現れにすぎない。
 
 『私は在る』(p421) 
──────────────────

(-||-)

──────────────────
 永久的なもの、
 それはあなた自身の存在である。
 真我として在りなさい。
 それが至福である。
 あなたはいつもそれなのである。
 
 『あるがままに』(p58) 
──────────────────

……。(-_-)

ありがとうございました。<(_ _)>

(-||-)

今日はこんなところで。

……。

m(_ _)m


   ………○…………○…………○………


『私は在る』の「目次」はここ↓にあります。
https://www.ascensionkan.com/books/I_AM_THAT-index.html

「ニサルガ辞書」で遊んでみてください。
https://www.ascensionkan.com/ndic/

「ラマナ・マハルシ辞書」はここです。
https://www.ascensionkan.com/rdic/

『アセ通』既刊号はすべてここにあります。
https://www.ascensionkan.com/mm/


   ………○…………○…………○………


▼『アセ通』へのご意見投稿フォーム:
http://www.formzu.net/fgen.ex?ID=P48750702

「私は在る」に関するご意見や単なるメールなど、

ご自由にお書きください。


   ………○…………○…………○………


▼『アセンション館通信』への情報ご投稿フォーム
http://www.formzu.net/fgen.ex?ID=P87119518


   ………○…………○…………○………


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■ 2.編集後記:
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こうしてマハラジの言葉を

一行一行、

舐めるようにして眺めていくと、

それぞれの行に込められた

マハラジの意図が浸透してくるようです。

マハラジは「理解の道」を

説いてくださるのだと思っています。

今日は比較的に涼しい日でした。

明るいうちに終えました。

ではまた。

<(_ _)>


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■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
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  メール: pariアットマークjk2.so-net.ne.jp
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二つの配信スタンドで発行されています。
mag2:http://www.mag2.com/m/0000126287.html
melma:http://www.melma.com/backnumber_110091/
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Copyleft(C)2018 paritosho
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