home > 通信 >『アセンション館通信』第757号:意識が動き出すとき二元性が起こる



━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
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 ☆☆     ☆☆『アセンション館通信』2018/10/21(第757号)
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☆☆      ☆★ 【気刊】──「私は在る」に導かれ♪──
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 ☆☆   ☆☆   https://www.ascensionkan.com/
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇

このメルマガはアセンション館主人pariと称するあるパターンに
浮上している夢の場面の報告です。

わたしは存在している。身体は現れてはいるが存在してはいない。
欲望や期待や喜びは、現れはするが存在してはいない。
心配や恐怖や悲しみは、現れはするが存在してはいない。

内容は人畜無害、でも読む人は相当変わっていますね。現在828名
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◇◇ もくじ ◇◇

1.意識が動き出すとき二元性が起こる

2.編集後記
──────────────────

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■ 1.意識が動き出すとき二元性が起こる
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■ 1.意識が動き出すとき二元性が起こる
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なんだか密かに嬉しいのです。

またマハラジの言葉を写経できるのが……。

(*^_^*)

さて、またまた一週間が過ぎて、

楽しい“アセンション噺”ならぬ「私は在る」噺に、

お付き合いいただく今がやってまいりました。

『アセンション館通信』配達人の pari です。

これほどの贅沢があるでしょうか?

注意を身体のサバイバルに

向けなくてもいいのです。

何かを知ったつもりにならなくてもいい。

ただただ単なる無知になって、

マハラジの言葉を浴びられる。

一週間にいちど獲得したこの瞬間……。

(-||-)

というわけで、

今日も運命である恩寵の指図のもとに、

マハラジ最晩年の言葉を

写経させていただきます。

今回は

「一九八〇年一二月七日」の対話から

写経いたします。

──────────────────
 質問者 私は究極を直接経験したいです。 
 
  マハラジ
 絶対は経験できないものだ。
 それは対象的な物事ではない。
 私が一元性(ユニシティ)であるとき、
 それは自分の気づきに気づいていない
 純粋な気づきだ。
 そして、
 どんな主体も対象も存在しえない。
 それゆえ、
 何の観照もありえない。
 どんな顕現、
 どんな機能、
 どんな観照もただ
 二元性の中でのみ起こることができる。
  
 そこには主体と対象がなければならず、
 それらは二つのものだ。
 しかしそれらは二つではなく、
 同じものの両端なのだ。
 意識が動き出すとき、
 二元性が起こる。
 何百万という対象物があり、
 それぞれの対象物がお互いを見るとき、
 自分が絶対の主体だと思い込むものだが、
 実際それは対象物だ。
 対象物である私は
 他のすべての対象物を認識したり
 解釈したりするが、
 自分が主体だと思い込んでいるので
 観照が起こるのだ。
 
 『意識に先立って』(p172-173)
──────────────────

> 質問者 私は究極を直接経験したいです。 

(いかにも

 無知なわれわれが言いそうなことです。
 
 ところがこの無知な質問が、
 
 他ではけっして聞けなかったであろう
 
 思いも寄らない明晰な叙述を
 
 マハラジの口から引き出したのです。
 
 この言葉を聞ける
 
 われわれは幸運です。)

> マハラジ
> 絶対は経験できないものだ。

絶対を経験するということはない。

> それは対象的な物事ではない。

絶対とは

観照の対象となりうるような

対象物ではないからだ。

> 私が一元性(ユニシティ)であるとき、
> それは自分の気づきに気づいていない
> 純粋な気づきだ。

実在が本来の一元性として留まっているとき、

それは自らが気づきであることに

気づいていない。

その状態が純粋な気づきだ。

> そして、
> どんな主体も対象も存在しえない。

実在は自らを知らず、

そこにはどんな気づきも機能していない。

したがってそこには、

いかなる主体も対象も存在しえない。

> それゆえ、
> 何の観照もありえない。

だからそこに

観照という機能は起こりえない。

> どんな顕現、
> どんな機能、
> どんな観照もただ
> 二元性の中でのみ起こることができる。

あらゆる顕現、

あらゆる機能、

あらゆる観照は、

二元性の中でしか起こりえない。

> そこには主体と対象がなければならず、
> それらは二つのものだ。
> しかしそれらは二つではなく、
> 同じものの両端なのだ。

顕現が起こりうるためには、

その顕現は気づかれなければならない。

つまり顕現が起こるためには

その顕現に気づいている者が必要なのだ。

そこには顕現という対象と、

その顕現に気づいている主体という

二つのものが必要になる。

言葉で表現するとそのようにも見える。

ところが実際には、

対象として気づかれる顕現がないのに

主体である気づきの機能だけが発現する

ということはありえない。

つまり、

対象と主体とか、

顕現と気づきというのは、

ひとつの状態を言葉で叙述するときに

現れる二面性であって、

実際には、

二つのものではなく、

一つの事柄の両端にすぎない。

> 意識が動き出すとき、
> 二元性が起こる。

実在である意識エネルギーが

潜在エネルギー状態から動き出し

顕在エネルギー状態になると、

そこに見かけ上の二元性が起こる。

> 何百万という対象物があり、
> それぞれの対象物がお互いを見るとき、
> 自分が絶対の主体だと思い込むものだが、
> 実際それは対象物だ。
> 対象物である私は
> 他のすべての対象物を認識したり
> 解釈したりするが、
> 自分が主体だと思い込んでいるので
> 観照が起こるのだ。

実在である意識が

潜象状態から顕現状態に変化して

現象世界が立ち現れると、

そこに見かけ上の何百万という対象物が現れる。

それらの見かけ上の対象物のあいだで

相互に相手の姿を見ることが起こると、

それぞれの対象物は、

あたかも自分が絶対の主体で

まわりが対象物であるかのように思い込む。

しかし実際は、

それらの何百万という対象物はすべて

等しく顕現エネルギー状態のなかの

対象物であるにすぎない。

だが自分を主体と思い込んだ

それらの見かけ上の個々の“私”に

他の対象物を認識したり解釈したりする

見かけ上の主体的な機能が起こる。

それらの個々の対象物は

自分が主体だと深く思い込んでいるために

やがてそこに観照が起こることになる。

──────────────────
 質問者 なぜ意識が動き出すのでしょうか?
     その原因は何ですか?
 
 マハラジ
 どんな原因もなく、
 自然発生的にそれは起こる。
 そこにはどんな理由もない。
 その意識は宇宙的なものであり、
 どんな個人性もない。
 しかしその意識が
 これもまた自然発生的に起こった特定の形態の中で
 動き回ったり機能したりし始めるとき、
 その形態はそれを個人だと思い込み、
 無限のそれ自身を
 特定の形態に制限するために問題が発生するのだ。
 
 誰かがジニャーニになったとしよう。
 しかし、
 まず第一にそれは何だったのだろうか?
 それはあの酸っぱく苦い原理であり、
 意識を生じさせる分泌物だ。
 そのまさに原理である
 「私は在る」という知識が発展し、
 成長し、
 甘くなる。
 それが成熟して
 顕現化したジニャーニの状態になるのだ。
 このジニャーニにとは何だろうか?
 それは五大元素からなる食物の本質の産物だ。
 それがなくなるとき、
 何が残るのだろうか?
 それ自身を知らない絶対だ。 
 
 『意識に先立って』(p173)
──────────────────

> 質問者 なぜ意識が動き出すのでしょうか?
>     その原因は何ですか?

(時空間という

 現象世界での変化の作法に
 
 あまりにも慣れたわれわれは、
 
 すべての現象を個別に分断し
 
 それらのなかに時間的な
 
 原因と結果の論理を持ち込まざるをえません。)

それまで潜象状態にあった意識が、

ある時から顕現状態に変化するのだとすれば、

そこには何かの原因があるに違いありません。

どんな原因があって、

静まっていた意識は動き出すのでしょうか?

> マハラジ
> どんな原因もなく、
> 自然発生的にそれは起こる。
> そこにはどんな理由もない。

そこには時間の論理が納得するような

どんな原因もない。

あえて言うなら、

そこにはどんな原因もなく、

自然発生的に起こるとしか言えない。

ここではどんな理由も後付けであり、

実際は理由などなにもないのだ。

> その意識は宇宙的なものであり、
> どんな個人性もない。

実在である意識の顕現とは

現象全体を包含した全宇宙的なものであり、

そこにはどんな個人性もない。

> しかしその意識が
> これもまた自然発生的に起こった特定の形態の中で
> 動き回ったり機能したりし始めるとき、
> その形態はそれを個人だと思い込み、
> 無限のそれ自身を
> 特定の形態に制限するために問題が発生するのだ。

しかしその意識が

潜象状態から現象状態に移るとき、

そこには自然発生的に多様な形態が生まれる。

その自然発生的な形態という煙幕の中で

意識が活性化し機能し始めると、

それらの個々の形態は自らを個人だと思い込み、

本来無限であった自らを

その特定の形態に制限する誤解が生まれる。

その誤解が無知の発生であり、

その無知の中でありとあらゆる現象が問題となる。

> 誰かがジニャーニになったとしよう。
> しかし、
> まず第一にそれは何だったのだろうか?
> それはあの酸っぱく苦い原理であり、
> 意識を生じさせる分泌物だ。
> そのまさに原理である
> 「私は在る」という知識が発展し、
> 成長し、
> 甘くなる。
> それが成熟して
> 顕現化したジニャーニの状態になるのだ。

たとえば、

誰かがジニャーニになるという状況を考えてみよう。

だが、まず第一に、

ジニャーニになったものの素性を洗ってみよう。

ジニャーニになったものとは元々は何だったのか?

それは「私は在る」という

あの酸っぱくも苦い存在の感覚だった。

この存在感から絶えず

意識の内容物が分泌されていたのだ。

ジニャーニとは、

この酸っぱくも苦い原理、

「私は在る」という未熟な知識が、

発展し、成長し、完熟して

甘くなったものだ。

この「私は在るという性質」が、

成熟して、

顕現化したのがジニャーニという状態だ。

> このジニャーニにとは何だろうか?
> それは五大元素からなる食物の本質の産物だ。

この「私は在るという性質」を

再生産するために、

つねに食物が消費されてきたことは

あなたもよく知っているとおりだ。

だとすれば、

ジニャーニにとは何か?

それは五大元素からなる食物の本質が

発展し、成長し、完熟した姿だ。

> それがなくなるとき、
> 何が残るのだろうか?
> それ自身を知らない絶対だ。 

「私は在る」という性質、

この酸っぱくも苦い存在感、

この未熟な知識が成熟した状態が

ジニャーニだ。

ではその

「私は在る」という知識が

完熟して消えたとき何が残るのか?

実在である意識が、

活動状態を収束して非活性化し、

また潜象状態に戻るとき

そこに残るのが

自らを知らない純粋な意識

すなわち絶対だ。

──────────────────
 質問者 自由を望む願望もまた願望ではありませんか?
 
 マハラジ
 自由について話さず、
 あなた自身や、
 あなたとは何かについて話しなさい。
 あなたがそれを理解するとき、
 知識と無知の両方が消える。
 無知がそこにあるときにかぎり、
 あなたは知識を要求する。
 
 知識のある人は
 無知な人の無知を取り除くために、
 あらゆることを教えることができる。
 その目的のために、
 彼はいわゆる世俗的知識、
 概念の助けを受け入れる。
 そして世俗的で概念的な知識と無知の
 両方が同時になくなる。
 ジニャーニもあなたの無知を取り除くために、
 あらゆる概念を与えることだろう。
 この「私は在るという性質」は知識であり、
 あなたはそれを抱きしめている。
 それを取り除くために、
 つまりあなたが
 五大元素からなる食物の本質の産物である
 「私は在るという性質」ではないことを
 理解するために、
 彼はこういったすべての概念を与えるのだ。
 いったんあなたがそれを理解すれば、
 彼がどんな概念を与えようとも、
 この「私は在るという性質」といっしょに
 投げ捨てられることになる。
 残っているものが絶対だ。
 
 これが実際の現実の状態だ。
 あなたは決して、
 私はこれのようだ、
 あれのようだと言うことはできない。
 あなたは知識がないものだ。
 人がこれを理解して、
 意識の領域を超えるのはまれであろう。
 
 私の話を聞いたあと、
 あなたはそれを非常に単純だと思うだろうが、
 しかし、
 これはそれほど簡単ではない。 
 
 『意識に先立って』(p174)
──────────────────

> 質問者 自由を望む願望もまた願望ではありませんか?

しかし自由を望むという願望も

また必然的な願望ではないでしょうか?

(この質問は、
 
 ちょっと意図と文脈がわかりません。
 
 何か希望を見つけたくなったかな?(^_-))

> マハラジ
> 自由について話さず、
> あなた自身や、
> あなたとは何かについて話しなさい。

自由などという

単なる概念にすぎないものを、

あたかも実体をもつかのごとく

その存在を前程して話すのではなく、

まずは自分自身について話しなさい。

> あなたがそれを理解するとき、
> 知識と無知の両方が消える。

あなたが自分が何かを理解したら、

その瞬間に

知識と無知の両方が消えるのだ。

> 無知がそこにあるときにかぎり、
> あなたは知識を要求する。

あなたが知識を欲しがるのは、

そこに無知があるからなのだ。

無知だけが知識を要求する。

> 知識のある人は
> 無知な人の無知を取り除くために、
> あらゆることを教えることができる。

知識のある状態、

すなわち無知を拭い去った状態は、

無知な人(無知な状態)が

なぜ知識を欲しがるかを知っている。

だからその無知を取り除くために、

あらゆる方便を使うことができる。

> その目的のために、
> 彼はいわゆる世俗的知識、
> 概念の助けを受け入れる。

無知の煙幕で充満した

相手の状態に合わせるために、

無知を拭い去った人は、

世俗的知識や概念の助けを受け入れる。

> そして世俗的で概念的な知識と無知の
> 両方が同時になくなる。

そして世俗的で概念的な知識が

単なる無知でしかないことを理解させ、

そうすることによって、

概念的知識とそれを信任する無知を

両方同時に相殺させて消滅させるのだ。

> ジニャーニもあなたの無知を取り除くために、
> あらゆる概念を与えることだろう。

だから、ジニャーニも

概念的知識を盲信する無知を取り除くべく、

あらゆる概念を刺抜きの刺として

あなたに与えなくてはならない。

> この「私は在るという性質」は知識であり、
> あなたはそれを抱きしめている。
> それを取り除くために、
> つまりあなたが
> 五大元素からなる食物の本質の産物である
> 「私は在るという性質」ではないことを
> 理解するために、
> 彼はこういったすべての概念を与えるのだ。

あなたは自分が存在することを、

自分で確実に知っている状態にいる。

自分の存在について他の誰かに確認を求めたりはしない。

その意味ではあなたにとって、

この「私は在るという性質」は知識だ。

あなたはこの確実な知識を抱きしめている。

そして他のすべての知識は、

この知識が自らを補強するために

掻き集めているのだ。

だからもしあなたが、

この「私は在るという性質」は自分ではない、

ということを理解できたら、

あなたはあらゆる概念の追求から解放される。

いったんあなたが

無知なる概念をかき集める必要から解放されたら、

たとえジニャーニがあなたに

どんな概念を与えようとも、

あなたはそれらの概念を

この「私は在るという性質」といっしょに

投げ捨てることができる。

すべての概念が排除されたとき、

そこに残っているものが絶対だ。

> これが実際の現実の状態だ。

実際にはこれが

実在と呼ばれるものの純粋な状態だ。

> あなたは決して、
> 私はこれのようだ、
> あれのようだと言うことはできない。

いったんこれがわかったら、

あなたは二度と再び、

自分はこうだとかああだとか、

何らかの定義で自らを制限しようとはしないだろう。

> あなたは知識がないものだ。
> 人がこれを理解して、
> 意識の領域を超えるのはまれであろう。

あなたはいかなる知識にも拠らないものだ。

しかし、

たとえ私がこう伝えたからといって、

私のこの言葉を理解して、

意識の領域を後にする者はめったにいないだろう。

> 私の話を聞いたあと、
> あなたはそれを非常に単純だと思うだろうが、
> しかし、
> これはそれほど簡単ではない。 

こうして言葉にして話せば、

これを理解するのは簡単だと思うかもしれない。

しかし、

意識の領域を立ち去ることは

それほど簡単に起こることではない。

(-||-)

──────────────────
 あなたは在る。
 ほかのすべては現れにすぎない。
 
 『私は在る』(p421) 
──────────────────

(-||-)

──────────────────
 永久的なもの、
 それはあなた自身の存在である。
 真我として在りなさい。
 それが至福である。
 あなたはいつもそれなのである。
 
 『あるがままに』(p58) 
──────────────────

……。(-_-)

ありがとうございました。<(_ _)>

(-||-)

今日はこんなところで。

……。

m(_ _)m


   ………○…………○…………○………


『私は在る』の「目次」はここ↓にあります。
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「ラマナ・マハルシ辞書」はここです。
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   ………○…………○…………○………


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■ 2.編集後記:
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> 私の話を聞いたあと、
> あなたはそれを非常に単純だと思うだろうが、
> しかし、
> これはそれほど簡単ではない。 

意識の埒を超えることは

たしかに、

それほど簡単なことではなさそうです。

何しろ私たちは劇を愛しているからです。

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 私たちは多様性を、
 苦痛と快楽の劇を愛している。
 私たちは対比によって魅せられているのだ。
 このために対立するものと、
 それらの表面上の分裂を必要としている。
 しばらくの間それらを楽しみ、
 それから退屈して、
 純粋な存在の平和と沈黙を切望するのだ。
 
 『私は在る』(p434)
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今日は暗くなりました。

それではまた。

<(_ _)>


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■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
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  メール: pariアットマークjk2.so-net.ne.jp
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二つの配信スタンドで発行されています。
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