home > 通信 >『アセンション館通信』第758号:あなたは概念以前に存在している



━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
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 ☆☆     ☆☆『アセンション館通信』2018/10/28(第758号)
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☆☆      ☆★ 【気刊】──「私は在る」に導かれ♪──
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 ☆☆   ☆☆   https://www.ascensionkan.com/
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇

このメルマガはアセンション館主人pariと称するあるパターンに
浮上している夢の場面の報告です。

わたしは存在している。身体は現れてはいるが存在してはいない。
欲望や期待や喜びは、現れはするが存在してはいない。
心配や恐怖や悲しみは、現れはするが存在してはいない。

内容は人畜無害、でも読む人は相当変わっていますね。現在828名
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◇◇ もくじ ◇◇

1.あなたは概念以前に存在している

2.編集後記
──────────────────

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■ 1.あなたは概念以前に存在している
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マハラジやラマナの言葉に

触れられるのが嬉しいです。

その言葉が違和感なく

降り注いでくるのが嬉しいです。

(*^_^*)

さて、またまた一週間が過ぎて、

楽しい“アセンション噺”ならぬ「私は在る」噺に、

お付き合いいただく今がやってまいりました。

『アセンション館通信』配達人の pari です。

もうとおの昔に理解していたつもりの言葉が

ふと蘇ってくることがあります。

ああ、

ただこれだけのことだったんだな、

という感想が湧いてきたりします。

──────────────────
 もし映画のなかで、
 観客もまたドラマの一部として
 スクリーン上に見られたとしたら、
 見る者と見られるものが
 ともにスクリーン上にあることになる。
 それをあなた自身に当てはめてみなさい。
 
 『あるがままに』(p50)
──────────────────

われわれの状況はまさにこれです。

わたしが見ている映画の中には

わたしが現れている。(*^_^*)

普段わたしに湧いてくる想念は

知覚対象であるこの人物が

自分だという前提の上での想念です。

そうすると苦しい感じが湧いてくる。

でも、

わたしが見ている映画の中に

もしわたしが登場したら、

いちおう考えられるのは

映画の中の登場人物がわたしであるか、

映画を観ているのがわたしであるか、

のどちらかということになる。

でも、

映画の中の登場人物がわたしだとすると、

じゃあ、その映画は

観客がいなくても存在できるのか、

という話になる。

誰も観ている者がいなくても

映画は顕現できるかというあの話です。

それは無理なので

少なくとも映画が存在できるためには

観客は必要です。

ということは、

映画を観ているのがわたしである、

というのは確定です。

じゃあ、

映画の中に出てくるわたしは

わたしではないのか?

という話です。

この観点についても

ラマナは丁寧に説明してくれています。

──────────────────
 映画のスクリーン上で動いている画像を
 例に考えてみるといい。
 映画が始まる前に、
 あなたの目の前にあるのは何だろう?
 ただのスクリーンである。
 あなたはその劇をスクリーンの上に見ている。
 そして画像が現れている間、
 それらはみな現実であるように見える。
 だが、
 行ってつかみ取ろうとしてみなさい。
 何をつかむだろうか?
 ただのスクリーンである。
 映画が終わって画像が消え去ったあと、
 何が残っているだろうか?
 やはりスクリーンである。
 
 真我もそれと同じなのだ。
 ただ真我だけが存在し、
 画像は来ては去っていく。
 もしあなたが真我とともにとどまれば、
 画像の現れに惑わされることはないだろう。
 あるいは
 画像が現れようと現れまいと
 問題にはならないだろう。
 ちょうどスクリーンを無視して
 画像だけを見ていたように、
 アジニャーニは真我を無視して
 世界を実在だと思いこむ。
 あたかも世界が
 自分から離れて存在しているかのように。
 もし
 スクリーンなしには画像がありえないように、
 見る者なしには見られるものもない
 ということを知れば、
 惑わされることはない。
 ジニャーニはスクリーンも画像も、
 ともに真我であることを知っている。
 世界という画像によって真我は形をとり、
 世界という画像がないとき、
 真我は形をとらずにとどまる。
 ジニャーニにとって
 真我が形をとるかとらないかは問題ではない。
 彼はつねに真我なのだ。
 だが、
 アジニャーニは
 ジニャーニが活動的であるのを見て
 困惑するのである。
 
 『あるがままに』(p67)
──────────────────

なんという丁寧な説明でしょうか。(-||-)

> ただ真我だけが存在し、
> 画像は来ては去っていく。

ただこれだけのことでした。

> もしあなたが真我とともにとどまれば、
> 画像の現れに惑わされることはないだろう。

というわけなのですが、

ところがどっこい、

われわれはちゃんと惑わされる。(*^_^*)

映画の文脈の中で

小突き回される登場人物を

自分だと思っているので。(^^;)

> ちょうどスクリーンを無視して
> 画像だけを見ていたように、
> アジニャーニは真我を無視して
> 世界を実在だと思いこむ。
> あたかも世界が
> 自分から離れて存在しているかのように。

まさに、

真面目にこれをやっているわけです。(^_-)

> スクリーンなしには画像がありえないように、
> 見る者なしには見られるものもない

これは否定できない事実です。

> ジニャーニはスクリーンも画像も、
> ともに真我であることを知っている。

はー、そういうことなんですね。

> 世界という画像によって真我は形をとり、
> 世界という画像がないとき、
> 真我は形をとらずにとどまる。

このことは、

理解されようが無視されようが、

実際は単純な事実です。

しかも、

ただ理解すればいいだけ。

結局、

どうしても理解したい者だけが

理解することになるということでしょう。

> ジニャーニにとって
> 真我が形をとるかとらないかは問題ではない。
> 彼はつねに真我なのだ。

何者でもないものが、

あらゆるないものとして存在していても、

何者でもないものが、

何者でもないものとして存在していても、

それはジニャーニにとっては問題ではない。

真我は常に不動の背景として

存在しているのだから。

(-||-)

というわけで、

今日も運命である恩寵の指図のもとに、

マハラジ最晩年の言葉を

写経させていただきます。

今回は

「一九八一年二月二二日」の対話から

写経いたします。

──────────────────
 一九八一年二月二二日
 
 マハラジ
 もしあなたが問題の核心を本当に理解したなら、
 どんな質問も起こりえない。
 質問はただ実体にのみ起こる。
 その質問とはたいてい、
 「私は何をすることができるだろうか?」
 というものだ。
 しかし、
 「私」そのものが存在しないとき、
 誰が何を知りたがるというのだろうか?
 あらゆる顕現は意識によって認識され、
 知られる意識の中の見かけだ。
 ただ機能し認識する顕現があるだけなのだ。
 
 『意識に先立って』(p252)
──────────────────

> もしあなたが問題の核心を本当に理解したなら、
> どんな質問も起こりえない。
> 質問はただ実体にのみ起こる。

疑問というのは

自分が固有の実体だという

誤解の中でしか起こりえない。

顕現というものがすべて

単なる不可分の自然な全体過程であり、

そこにどんな分離した実体もありえないことが

本当に理解されているところには

どんな質問も起こりえない。

> その質問とはたいてい、
> 「私は何をすることができるだろうか?」
> というものだ。

そして“自分”という分離実体が存在する

という誤解の中で起こる質問はたいてい、

多かれ少なかれ

ではその私には何ができるのか?

という文脈に関するものだ。

> しかし、
> 「私」そのものが存在しないとき、
> 誰が何を知りたがるというのだろうか?

しかし、

どんな分離実体も存在しえないというのに、

いったい誰が何を知りたいというのか?

> あらゆる顕現は意識によって認識され、
> 知られる意識の中の見かけだ。
> ただ機能し認識する顕現があるだけなのだ。

あらゆる顕現というものは

すべて意識の中に現れる見かけを

意識が認識しているだけなのだ。

そこにはただ、

そこに見かけを顕現する機能と

その見かけを認識する機能という

意識の働きがあるだけだ。

──────────────────
 質問者 私のマインドはとても騒がしいので、
     意識が意識の中に留まることができません。
 
 マハラジ
 あなたは私の言うことを注意深く聞いていない。
 私の言葉はあなたに届いていない。
 意識は常にそこにあり、
 起こることは何であれ意識の中にあるので、
 意識を意識の中に残しておきなさい
 と私は言ったのだ。
 
 それなのに、
 なぜあなたは自分自身を分離した実体だと考えて、
 それに干渉しようとするのだろうか?
 存在するすべは意識だ。
 
 『意識に先立って』(p252)
──────────────────

> 質問者 私のマインドはとても騒がしいので、
>     意識が意識の中に留まることができません。

(ちょっと、
 
 ピント外れの質問かもしれません。)

> マハラジ
> あなたは私の言うことを注意深く聞いていない。
> 私の言葉はあなたに届いていない。

あなたは私が言ったことを

ちゃんと聞いたのかね?

私が言ったのは、

あなたに質問が起こるのは、

あなたが自分を独立した実体だと

思っているからだ、ということだ。

ところが実際は、

あらゆる顕現に関するかぎり、

次々と自然に起こってくる見かけの印象も、

その印象に連動して配達される想念も、

そのどれをとっても、

そこに顕現という見かけから独立した

どんな「あなた」という実体も

存在していないことがわからないだろうか?

どうやら私の言葉は

あなたに届いていなかったようだ。

> 意識は常にそこにあり、
> 起こることは何であれ意識の中にあるので、
> 意識を意識の中に残しておきなさい
> と私は言ったのだ。

あなたが問題にしているのは顕現だ。

そして顕現に関するかぎり、

すべては意識の中にある。

起こることはすべて意識の中にあるのだから、

意識の取る見かけはすべて

意識の中に残しておきなさい

と私は言ったのだ。

あなたが自分だと思っている

何らかの形態や想念は、

すべて意識の取るつかの間の見かけにすぎない。

あなたが見かけの上でどれほど気をもんでも、

それらの見かけを維持することも、

永続させることも、

静止させることもできない。

だったら、

何を気にすることがあるのか。

意識の取る見かけのことは

意識に任せておきなさい。

それらの見かけが顕現するには

いずれにせよあなたの存在が必要なのだ。

意識の見かけの顕現にはあなたが必要だが、

見かけが現れる以前にも、

見かけが消失したその後にも

あなたは存在するのだ。

それにもし、

あなたが存在しないのなら、

存在しないあなたのことを

誰が気にするというのだろうか?

いずれにしろ、

あなたが気にしなければならないことなど

何ひとつないのだ。

> それなのに、
> なぜあなたは自分自身を分離した実体だと考えて、
> それに干渉しようとするのだろうか?

それなのに、

あなたはそれほど絶対的に安全な

特権的地位を放り出して、

なぜ自分自身を

顕現の中の分離した実体だと想像して、

その想像の中で苦むしむ必要があるのか?

なぜ顕現の中の分離した実体として、

顕現を自分の好みに変化させようとか、

自分の望みのままに永続させようとか、

不可能な干渉を試みようとするのか?

> 存在するすべは意識だ。

放っておきなさい。

あなたが何もしなくても、

事実、

存在するすべては意識なのだから。

──────────────────
 質問者 
 苦しみの意味についてお尋ねしてもいいですか?
 
 マハラジ
 今、
 あなたは新しい概念を展開している。
 つまり、
 苦しみの背後には何か意味深く
 奥深い何かがあるという概念だ。
 この概念そのものが
 あなたを窒息死させることだろう。
 あなたから出た概念が何であれ、
 どうしてそれらがあなたに
 知識を与えることができるだろうか?
 あんたはすべての概念を
 取り除かなければならない。
 あなたがまさに基盤であり、
 土台であり、
 そこから概念が起こる。
 あなたは概念ではなく、
 概念以前に存在している。
 あなたはそのことを
 確固ことした信念にしなければならない。
 
 質問者
 私は概念を抑圧するべきでしょうか?
 
 マハラジ
 それらを放っておき、
 概念が起こっては消えて行くのを眺めなさい。
 概念から離れて、
 それらと一体化しないようにしなさい。
 
 質問者 
 私はそれをするだけの能力がありません。
 
 マハラジ
 もしあなたがいなければ、
 どこに概念があるというのだろうか?
 もしあなたがそこにいなければ、
 どこに無知とか知識の問題があるのだろうか?
 「私は在る」という第一の概念が、
 肉体のアイデンティティとしてしがみついているので、
 すべての問題が起こるのだ。
 自分は概念ではないという結論に到達しなさい。 
 
 『意識に先立って』(p253-254)
──────────────────

> 質問者 
> 苦しみの意味についてお尋ねしてもいいですか?

苦しみにはどんな意味があるのでしょうか?

そのことをお尋ねしてもいいですか?

> マハラジ
> 今、
> あなたは新しい概念を展開している。
> つまり、
> 苦しみの背後には何か意味深く
> 奥深い何かがあるという概念だ。

あなたはまた、

無用な新しい概念を展開しはじめた。

自分がこれほど苦しんでいるのだから、

そこには何か、

意味深く、

深遠な理由があるに違いないという概念だ。

> この概念そのものが
> あなたを窒息死させることだろう。

もしあなたがそんな概念を抱えて

その意味深く深遠な理由を求め続ければ、

きっとそれだけであなたは

<何故にすべては始まってしまったのか?>

などと、

息をすることすら難しい状態にまで

突き進むことになるだろう。

> あなたから出た概念が何であれ、
> どうしてそれらがあなたに
> 知識を与えることができるだろうか?

あなたが意識の中で

どんな概念を想像したところで、

どうしてあなたが想像した概念が

あなたに知識を与えることができるだろう?

> あんたはすべての概念を
> 取り除かなければならない。

あなたが自分で想像した苦しみを

解除するために必要なことは、

ちょうどそれとは反対のことだ。

あなたに不要な苦しみを押しつける

それらの概念をすべて取り除くこと

それこそが必要なことだ。

> あなたがまさに基盤であり、
> 土台であり、
> そこから概念が起こる。

あなたこそが

そこですべてが起こる基盤であり、

すべてが起こりうる土台なのだ。

あなたの存在こそが、

すべての概念の発生を可能にしているのだ。

> あなたは概念ではなく、
> 概念以前に存在している。
> あなたはそのことを
> 確固ことした信念にしなければならない。

しかしまた、

だからこそあなたは概念ではない。

あなたは概念以前に存在している。

あなたはそのことを理解し。

その理解を揺らぐことのない

確固とした信念にしなければならない。

> 質問者
> 私は概念を抑圧するべきでしょうか?

(ちょっと、
 
 マハラジの言葉が聞こえていないかも。)

> マハラジ
> それらを放っておき、
> 概念が起こっては消えて行くのを眺めなさい。

概念にかかずらって

それにエネルギーを与えるようなことをせず、

概念のことはただ放っておきなさい。

むしろ、

概念が起こっては消えて行くのを

ただ眺めていなさい。

> 概念から離れて、
> それらと一体化しないようにしなさい。

概念から離れて、

それに夢中になるのを避けなさい。

自分は概念など気にしなくてもいいのだ

という特権を充分に味わいなさい。

> 質問者 
> 私はそれをするだけの能力がありません。

でも、私には

そんな超絶的なことをするだけの

能力がありません。

私はどうしてもそういう

物語のほうに惹かれてしまうのです。(;_;)

> マハラジ
> もしあなたがいなければ、
> どこに概念があるというのだろうか?
> もしあなたがそこにいなければ、
> どこに無知とか知識の問題があるのだろうか?

それは、あなたが

自分が実体として存在していると

誤解しているからだ。

あなたという個別の実体など

どこにも存在していない。

あなたが自分だと思っている

見かけの中で現象している

何らかの特徴を備えたつかの間の形は、

全体が機能するための道具にすぎない。

あなたという分離実体が存在しない以上、

概念を求める観点など存在しえない。

概念を求める者が存在しないのに、

いったいどこに概念がありうるだろう?

そして、

もしあなたがいないのだとしたら、

いったいどこに

無知とか知識の問題がありうるだろうか?

> 「私は在る」という第一の概念が、
> 肉体のアイデンティティとしてしがみついているので、
> すべての問題が起こるのだ。
> 自分は概念ではないという結論に到達しなさい。 

肉体の誕生とともに

何もなかったところに存在感が発生し、

「私は在る」という第一の概念が起こる。

この「私は在る」という第一の概念が

肉体を物質的根拠として掴んで、

その概念を維持しようとして

さまざまの抵抗を起こすために、

ありとあらゆる問題が起こってくる。

それゆえ、

それらの問題を手放すためには

まずそれらの概念を手放す必要がある。

自分はどんな概念でもない

と理解することがどうしても必要なのだ。

あなたはなんでもないものだ。

だから、

あなたはあらゆるものでもある。

いずれにせよ、

意識の中の現れを

あなたが気にすることはない。

(-||-)

──────────────────
 あなたは在る。
 ほかのすべては現れにすぎない。
 
 『私は在る』(p421) 
──────────────────

(-||-)

──────────────────
 永久的なもの、
 それはあなた自身の存在である。
 真我として在りなさい。
 それが至福である。
 あなたはいつもそれなのである。
 
 『あるがままに』(p58) 
──────────────────

……。(-_-)

ありがとうございました。<(_ _)>

(-||-)

今日はこんなところで。

……。

m(_ _)m


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『私は在る』の「目次」はここ↓にあります。
https://www.ascensionkan.com/books/I_AM_THAT-index.html

「ニサルガ辞書」で遊んでみてください。
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「ラマナ・マハルシ辞書」はここです。
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『アセ通』既刊号はすべてここにあります。
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   ………○…………○…………○………


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ご自由にお書きください。


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■ 2.編集後記:
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賢者の口真似も

ずいぶん堂に入ってきたものです。(*-_-*)

しかし恥ずかしがるべき

誰が存在できるというのか? (-_-;)

まあ、

現れのことなど

あまり気にすることはない。(*^_^*)

日が暮れるのは早くなりましたが、

今日はまだ明るいようです。

それではまた。

<(_ _)>


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■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
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  メール: pariアットマークjk2.so-net.ne.jp
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二つの配信スタンドで発行されています。
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