home > 通信 >『アセンション館通信』第759号:「誰がこの存在を知るのか?」



━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
  ☆☆   ☆☆
 ☆☆     ☆☆『アセンション館通信』2018/11/4(第759号)
☆☆   ☆   ☆☆
☆☆      ☆★ 【気刊】──「私は在る」に導かれ♪──
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 ☆☆   ☆☆   https://www.ascensionkan.com/
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇

このメルマガはアセンション館主人pariと称するあるパターンに
浮上している夢の場面の報告です。

わたしは存在している。身体は現れてはいるが存在してはいない。
欲望や期待や喜びは、現れはするが存在してはいない。
心配や恐怖や悲しみは、現れはするが存在してはいない。

内容は人畜無害、でも読む人は相当変わっていますね。現在825名
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◇◇ もくじ ◇◇

1.「誰がこの存在を知るのか?」

2.編集後記
──────────────────

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■ 1.「誰がこの存在を知るのか?」
━━━━━━━━━━━━━━━━━━

実際に存在するもの、

存在する唯一のもの

リアリティ、つまり実在は、

意識の中で生じている幸不幸とは

何の関係もない。

だからもしあなたが、

そしてわたしが

もし不幸であるなら、

あるいはもしかして幸福であるなら、

それは意識の中のある状態を

自分だと思っているというだけのこと、

つまり夢を見ているというだけのこと。

夢から覚めたら、

そんなものはまったく存在していなかった。

というだけのことです……。

それでも夢の中では、

わたしは足掻かなければならない。

夢のシナリオの中で

夢中で藻掻かなければならない。

そういうものなのですね。

そしてそこにどんな理由もない。

なぜなら、理由など

意識の中に自動発生する

こじつけにすぎないのですから。

(*^_^*)

さて、またまた一週間が過ぎて、

楽しい“アセンション噺”ならぬ「私は在る」噺に、

お付き合いいただく今がやってまいりました。

『アセンション館通信』配達人の pari です。

こんなものがなぜあるのか?

こんなもの要らないではないか。

そう初めて思ったころから、

何ひとつ変わっていません。

だってそれは

pariと名づけられたパターンに

配達されるただの想念なのですから。

いまこうして

こんなことを書いているパターンの

時間概念の中での別の時点がとった

一時的表現にすぎません。

そのとき起こったそのような感想、

そのような印象はけっきょく、

すべてつかの間の見かけにすぎません。

いろんな物理的イメージを思い描きました。

無限の宇宙空間の中に現れる

在るか無きかの気配のような

物質が描き出すパターンが現象世界だと思いました。

そして空間はそれを見ているのだと。

つまり、

物質が描き出すパターンと

それを包摂する宇宙空間が

別のものであるかのように想像されたわけです。

物質は現れを表現する死物であり、

生きているのはそれを包含する空間である

というかのように。

生きているのは「真空」だと思いました。

──────────────────
 するとその「真空」という
 無物質の“不動”の一点こそが、
 全物質界を内に“包含し”、
 浮かばせ、
 あらゆる内的および外的諸現象を
 “映し出し(=支え)”てきた
 ともいえるのではないだろうか。
 
 https://www.ascensionkan.com/work/06eien_03shinku.html
──────────────────

このイメージは

原子のイメージに置き換えるなら、

素粒子の“粒子イメージ”に対応するでしょう。

しかし素粒子の振る舞いは

“波動イメージ”でしか

説明できない側面もあるそうです。

つまり、現象宇宙は

死物である物質粒子が描く姿を

生きている空間が映し出すというよりは、

実在する唯一の全体が

揺らいで波立ったり静まったりしているだけ、

という様相のものなのかもしれません。

わかりません。

なぜこんなものがあるのか?

という問いに対する唯一の答えは、

「あなたに興味があるようだから」、

としか言えないのでしょう。

こういう言葉で何かが変わるわけではありません。

問題は、わたしの興味だけなのです。

──────────────────
 私たちは多様性を、
 苦痛と快楽の劇を愛している。
 私たちは対比によって魅せられているのだ。
 このために対立するものと、
 それらの表面上の分裂を必要としている。
 しばらくの間それらを楽しみ、
 それから退屈して、
 純粋な存在の平和と沈黙を切望するのだ。
 宇宙のハートは絶え間なく鼓動している。
 あなたはその観照者であり、
 そのハートでもあるのだ。

 『私は在る』(p434)
──────────────────

> 私たちは多様性を、
> 苦痛と快楽の劇を愛している。
> 私たちは対比によって魅せられているのだ。

【私たちは苦痛と快楽の劇を愛している】

【私たちは対比によって魅せられている】

誰が魅せられているのか?

あるいは何が魅せられているんでしょう?

それに意識という名前をつけても

仕方がないのです。

苦痛と快楽の劇を愛しているのは

わたしです。

わたしが対比に魅せられているのです。

では、

そのわたしとは何か?

それがマハラジのいう

「私は在る」という存在感です。

この存在感が

形態を依代(よりしろ)として

形態として存在することを熱望している。

それがわたしです。

わたしは絶対に諦めたくない。

でも、

そのわたしが諦めるまでは

苦痛と快楽の劇に巻き込まれ続けるわけです。

そのわたしは

配達されてくる言葉で、

想像された概念で、

知識で何とか生き延びようとする。

しかし、

そのように理解したからと言って、

それだけでその執着を断つことは

できないかもしれない。

自分が座っている座布団の両端を持って

自分を持ち上げることなどできないように、

意識の中で想像された概念で

意識に興味を失うことはできないかもしれません。

発射された弾丸が、

すべての弾道をたどったあとでなければ

落ちてくることができないように、

新たな身体をまとった欲望は

すべてのエネルギーを消耗し尽くすまで

焼尽できないのかもしれません。。

こういう解説はすべて単なる概念です。

でも、ありがたいことに、

存在する唯一のもの、

つまり永遠に不動の実在は、

意識の中で生じている幸不幸とは

何の関係もないのです。

苦痛と快楽の劇を可能にしているだけです。

というわけで、

今日も運命である恩寵の指図のもとに、

マハラジ最晩年の言葉を

写経させていただきます。(-||-)

今回は

「一九八四年二月二八日」の対話から

写経いたします。

──────────────────
 一九八四年二月二八日
 
 マハラジ
 肉体が形成されたとき、
 あなたはどんな情報ももってこなかった。
 あなたは外部の情報を集め、
 それにもとづいて得意になり、
 様々な取引をおこなう。
 あなたは本当に最初から
 情報をもって来たのだろうか?
 
 質問者 いいえ、私はどんな情報ももっていません
     でした。
 
 マハラジ
 もしあなたが情報をもっていなかったなら、
 今このすべての情報を買う
 取引先は誰なのだろうか?
 あなたは自分が存在しているという
 第一の情報をもっているが、
 それはあなたの中で自然に生まれた。
 それがあなたの第一の資本であり、
 これ以外のすべての悪ふざけは
 この第一の情報のせいだ。
 そうではないかね?
 
 質問者 はい、それが真実です。
 
 マハラジ
 自分自身の存在を持つこと、
 在ること、
 それが何なのかを
 あなたは理解しているのだろうか?
 
 質問者 私は明確には理解していません。
 
 マハラジ
 それは言葉によって理解されるものではない。
 あなたがどんな知識を言葉から引き出そうとも、
 それは無知でしかない。
 在るとは理解されるべきものではなく、
 あるがままだ。
 
 質問者 それはまさに感覚ですね。
 
 マハラジ
 誰がその意識を知るのか。
 
 質問者 意識がそれ自身を知ります。 
 
 マハラジ
 意識が意識を理解するという方法では、
 あなたは解放されないことだろう。
 あなたは自分に尋ねなければならない。
 「誰がこの存在を知るのか?」と。
 もし私がある特定の時点で、
 自分が存在することを知るなら、
 その時点以前には、
 私は自分が存在していることを
 知らなかったという意味だ。
 自分の存在に気づいていなかったそれが、
  意識がやってきたとき、
 自分の存在に気づくようになった。
 そして、
 この意識は物理的肉体の特性でしかない。
 それは物質でできているので、
 一時的なものだ。
 
 質問者 絶対の中には何の知識もないわけですか?
 
 マハラジ
 すべての知識は
 五感と言葉の理解によるものでしかない。
 仮に三つのもの、
 すなわち目覚めた状態、
 熟睡、
 そして「私は在る」という知識がないとしたら、
 あなたは何だろうか?
 
 質問者 まさに知識、意識ですか?
 
 マハラジ
 この知識、
 意識はあなたと継続的に
 永遠に付き合うのだろうか?
 
 質問者 いいえ。
 
 マハラジ
 だったら、
 それを放棄しなさい。
 なぜあなたは
 自分が永遠に付き合うことができないものに
 頼るのだろうか?
 
 すべての私たちの聖典は、
 ただパラブラフマンだけが真理であり、
 それ以外の何も真理ではないと言っている。
 そして、
 あなたは永遠にそれだ。
 
 質問者 なぜ私はそれから自分自身を分離したので
     しょうか?
 
 マハラジ
 それしかないのに、
 あなたはどうやって
 それから分離できるというのかね?
 
 質問者 
 ジニャーネシュワル(一三世紀のインドの賢者)が
 千四百歳のいにしえの賢人に書いた詩のある行に、
 「知識のビジョンがますます弱くなります」
 とあります。これはどういう意味ですか?
 
 マハラジ
 意識のビジョンもまた
 究極的な分析の中で消えてなくなることだろう。
 なぜなら、
 知識と無知は意識の領域にあるからだ。
 
 『意識に先立って』(p255-258)
──────────────────

> マハラジ
> 肉体が形成されたとき、
> あなたはどんな情報ももってこなかった。

あなたが身体として

家族の中に誕生したのだと伝えられたとき、

あなたはどんな自前の情報ももっていなかった。

(現代の脳科学は
 
 辺縁系だとか海馬だとか、
 
 記憶については
 
 別の見解を持っているかもしれません。
 
 しかし体験的には、
 
 わたしがもっているすべての知識は
 
 誕生後に誰かから聞いた話でした。)

> あなたは外部の情報を集め、
> それにもとづいて得意になり、
> 様々な取引をおこなう。

あなたは外からやって来る情報を掻き集めて、

それを根拠に自分の意見を作り、

得意になって様々な取引をしてきたのだ。

> あなたは本当に最初から
> 情報をもって来たのだろうか?

それともあなたは、

いや自分は最初から自前の情報をもってきた、

と主張できるのだろうか?

> 質問者 いいえ、私はどんな情報ももっていません
>     でした。

いいえ、

そんな主張はできません。

事実私は、

どんな情報ももっていませんでした。

> マハラジ
> もしあなたが情報をもっていなかったなら、
> 今このすべての情報を買う
> 取引先は誰なのだろうか?

もしあなたが、

自前の情報をもっていなかったというのなら、

いまあなたがすべての情報を取得しようとしている

その取引先とは誰なのだろうか?

> あなたは自分が存在しているという
> 第一の情報をもっているが、
> それはあなたの中で自然に生まれた。

だが、

自分が存在しているという情報だけは、

あなたが外部から説得されて

獲得した情報ではないようだ。

このあなたが存在しているという情報を

第一の情報とするなら、

この情報だけは、

あなたのなかで自然に生まれたと言える。

> それがあなたの第一の資本であり、
> これ以外のすべての悪ふざけは
> この第一の情報のせいだ。
> そうではないかね?

この「私は在る」という情報は

あなたの中から自然に生まれた。

その意味で

これはあなたの第一の資本だ。

そしてそれ以外の

あなたの現在の窮境を形成している

すべての悪ふざけは、

この第一の情報から派生したものだ。

そうではないかね?

> 質問者 はい、それが真実です。

はい。

そのことを認めざるをえません。

私にとってはそれが真実です。

> マハラジ
> 自分自身の存在を持つこと、
> 在ること、
> それが何なのかを
> あなたは理解しているのだろうか?

自分が存在しているということ、

それが何なのかを

あなたは理解しているのかね?

> 質問者 私は明確には理解していません。

いえ、

私はそのことを明確には理解していません。

> マハラジ
> それは言葉によって理解されるものではない。

「私は在る」という存在感は、

言葉が理解できるものではない。

それは言葉の発生以前にある

言葉が発生する土台だからだ。

> あなたがどんな知識を言葉から引き出そうとも、
> それは無知でしかない。

あなたが言葉の組み合わせによって

どんな知識を引き出してみたとしても、

それは「私は在る」という存在感の前では

無知でしかない。

> 在るとは理解されるべきものではなく、
> あるがままだ。

存在とは、

言葉で理解できる事柄ではなく、

言葉の誕生以前に存在する

あるがままだからだ。

> 質問者 それはまさに感覚ですね。

それは存在の感覚なのですね?

> マハラジ
> 誰がその意識を知るのか。

その存在感という意識は、

誰が知るのかね?

> 質問者 意識がそれ自身を知ります。 

意識がその意識を知るのでしょうか?

> マハラジ
> 意識が意識を理解するという方法では、
> あなたは解放されないことだろう。

その存在感を知るのは意識だ

と理解する方法では、

あなたは解放されないことだろう。

なぜなら存在感とは

知的な理解から構成されたものではないからだ。

逆に、

すべての知的な理解が

この存在感によって支えられている。

それはあなたの知的な理解を上に乗せた、

座布団のようなものだ。

> あなたは自分に尋ねなければならない。
> 「誰がこの存在を知るのか?」と。

あなたは、

「誰がこの存在を知るのか?」

と自分に尋ねなければならない。

何がこの存在を存在させているのか?

何がこの存在を可能にしているのか?

この存在は何に対して現れたのか?

とあなたは自問しなければならない。

この存在を知るのは誰なのか、と。

> もし私がある特定の時点で、
> 自分が存在することを知るなら、
> その時点以前には、
> 私は自分が存在していることを
> 知らなかったという意味だ。

もしわたしが

ある特定の時点で

自分が存在していることを知ったというのなら、

それ以前には

私は自分が存在していることを

知らなかったことになる。

> 自分の存在に気づいていなかったそれが、
>  意識がやってきたとき、
> 自分の存在に気づくようになった。

それまで自分が存在することを

知らなかったそれが、

意識がやってきたとき、

自分の存在に気づくようになったのだ。

別の言葉を使うなら、

身体が誕生したとき

その身体の中で「私は在る」という

存在の感覚が発生したとも言える。

そしてあなたは

自分の存在に気づくようになったわけだ。

> そして、
> この意識は物理的肉体の特性でしかない。
> それは物質でできているので、
> 一時的なものだ。

とするなら、

この存在の感覚は

物理的肉体の特性でしかないと言える。

それは物質でできているのだから、

一時的な見かけでしかない。

> 質問者 絶対の中には何の知識もないわけですか?

というと、

その存在感が誕生する以前の状態、

つまり、絶対状態の中には

何の知識もないわけですか?

> マハラジ
> すべての知識は
> 五感と言葉の理解によるものでしかない。

おしなべて知識というものは

五感と言葉の理解によるもののことだ。

> 仮に三つのもの、
> すなわち目覚めた状態、
> 熟睡、
> そして「私は在る」という知識がないとしたら、
> あなたは何だろうか?

いま仮に、

私たちが体験している三つの状態、

目覚めた状態、

熟睡状態、

「私は在る」という存在感の状態、

もしこの三つがないとしたら、

あなたとは何だろうか?

> 質問者 まさに知識、意識ですか?

その「私は在る」という知識、

意識があるだけなのですか?

> マハラジ
> この知識、
> 意識はあなたと継続的に
> 永遠に付き合うのだろうか?

ではその「私は在る」という知識、

その存在感という意識は、

永遠にずーっと継続的に

あなたと付き合うというのかね?

あなたは

バカの一つ覚えのように

「私は在る」と、

ずーっと永遠にただ意識し続け

なければならないと言うのかね?

> 質問者 いいえ。

いいえ。

ちょっとバカげた気がしてきました。

> マハラジ
> だったら、
> それを放棄しなさい。
> なぜあなたは
> 自分が永遠に付き合うことができないものに
> 頼るのだろうか?

だったら、

そんな何の役にも立たないものは

放棄したらいい。

なぜあなたは、

そんな「私は在る」という存在感のような、

自分が永遠に付き合うことができないものに

頼ろうとするのだろうか?

> すべての私たちの聖典は、
> ただパラブラフマンだけが真理であり、
> それ以外の何も真理ではないと言っている。
> そして、
> あなたは永遠にそれだ。

古からの私たちの聖典はすべて、

永遠不動の実在だけが真理であり、

それ以外の現象するすべての見かけは

真理ではないと言っている。

そして、

あなたはその永遠に不動の実在なのだ。

> 質問者 なぜ私はそれから自分自身を分離したので
>     しょうか?

もし私が

その永遠に不動の実在なのだとすれば、

なぜ私はそれから自分自身を分離したのですか?

> マハラジ
> それしかないのに、
> あなたはどうやって
> それから分離できるというのかね?

あなたのその疑問は、

自分はその永遠不動の実在ではない、

という前提から出てきている。

あなたはただ

存在していない自分に執着しているだけだ。

その永遠不動の実在しかないのに、

どうやってあなたが

それから分離できるというのだろうか?

> 質問者 
> ジニャーネシュワル(一三世紀のインドの賢者)が
> 千四百歳のいにしえの賢人に書いた詩のある行に、
> 「知識のビジョンがますます弱くなります」
> とあります。これはどういう意味ですか?

一三世紀のインドの賢者

ジニャーネシュワルが書いた詩に、

「知識のビジョンがますます弱くなります」

という一行があるそうです。

これはどういう意味でしょうか?

> マハラジ
> 意識のビジョンもまた
> 究極的な分析の中で消えてなくなることだろう。

知識というイメージだけでなく、

意識というイメージもまた

最終的な吟味の中では

消えてなくなることだろう。

> なぜなら、
> 知識と無知は意識の領域にあるからだ。

なぜなら、

知識とか無知とか言ったものは

すべて意識の領域内にしかないからだ。

──────────────────
 質問者 私はあなたの言葉の一言も
     手放したくありません。
 
 マハラジ
 あなたはいったいいつまで
 言葉とその意味にしがみつくのだろうか?
 いつまで?
 
 質問者 それらは、「私は在る」があるかぎり、
     役に立ちます。
 
 マハラジ
 この「私は在る」もまた概念ではないだろうか?
 そして、
 あなたはまたこの概念にも
 しがみつきたいと思っている。
 しかし、
 この「私は在るという性質」は
 永遠にあなたと付き合うわけではない。
 これが去るとき、
 「私は在るという性質」に関する
 あらゆることも去るのだ。
 これが物事の実状なのに、
 知識を得たり吸収することが
 何の役に立つだろうか?
 
 言葉は正確には適用できない。
 私は自分が何でないかを正確に見てきた。
 「私は在る」が不在のとき、
 その状態とは何かを私は見てきて、
 今も見ている。
 それゆえ、
 私は何も失うものがない。
 その状態では、
 見るとか経験することは何ら問題にならない。
 しかし、
 コミュニケーションのためには、
 私たちは言葉の力を借りなければならない。
 
 ここに奥深い知恵に満ちた著名な人たちがいる。
 私は彼らをどう見るだろうか?
 彼らはさながら私のようだ。
 こちらは法律の専門家で
 サンスクリットの学者でもあるが、
 様々な努力でパラグラフマンを
 自分の言葉の中に捉えようとしている。
 彼はそれが非常に得意だが、
 さてその利益は何だろうか?
 
 質問者 私の状態は概念ではないと理解すること、
     それ自体が利益です。
 
 マハラジ
 あなたは「私は在る」の概念の上に立って、
 別の概念でそれに色を塗ろうとしている。
 
 質問者 これは弁護士が被告席へ引きずり込まれる、
     ある種の法廷ということですね。
 
 『意識に先立って』(p258-259)
──────────────────

> 質問者 私はあなたの言葉の一言も
>     手放したくありません。

あなたの言葉の一言も残さず

私の中に留まればいいのですが。

> マハラジ
> あなたはいったいいつまで
> 言葉とその意味にしがみつくのだろうか?
> いつまで?

わたしはこれまで、

あなたが問題にしている状況は

すべて意識の中にしかないと、

あなたに伝えてきた。

それらの状況とはすべて、

あなたが外側から与えられた

言葉によって理解され解釈されたものだ。

その意識の領域は

あなたに現れたのだ。

あなたはその意識が現れる以前からいる。

なぜそれほど意識の領域に執着するのか?

あなたはいったいいつまで

言葉とその意味にしがみつくつもりなのか?

いつまでかね?

> 質問者 それらは、「私は在る」があるかぎり、
>     役に立ちます。

でも、マハラジの言葉は

「私は在る」があるかぎり、

役に立つのです。

> マハラジ
> この「私は在る」もまた概念ではないだろうか?
> そして、
> あなたはまたこの概念にも
> しがみつきたいと思っている。

その「私は在る」もまた

概念でしかないことがわからないだろうか?

あなたはまたもや、

この「私は在る」という概念にも

しがみつきたいと思っているようだ。

> しかし、
> この「私は在るという性質」は
> 永遠にあなたと付き合うわけではない。
> これが去るとき、
> 「私は在るという性質」に関する
> あらゆることも去るのだ。

だが、

この「私は在るという性質」は、

食物の本質からなる肉体によって維持されているのだ。

永遠にあなたのもとに留まるわけではない。

肉体が去るとき、

存在の感覚にまつわるすべても去る。

> これが物事の実状なのに、
> 知識を得たり吸収することが
> 何の役に立つだろうか?

それがことの有り様だと言うのに、

知識を獲得したり取り込んだりすることが

何の役に立つというのだろうか?

> 言葉は正確には適用できない。
> 私は自分が何でないかを正確に見てきた。
> 「私は在る」が不在のとき、
> その状態とは何かを私は見てきて、
> 今も見ている。

どんなことにも言葉が適用できるなどと、

考えないほうがいい。

私は自分が何でないかを正確に見てきた。

存在の感覚が不在のとき、

それがどういう状態かを私は見てきたし、

今も見ている。

> それゆえ、
> 私は何も失うものがない。
> その状態では、
> 見るとか経験することは何ら問題にならない。
> しかし、
> コミュニケーションのためには、
> 私たちは言葉の力を借りなければならない。

だから、

存在感をもたない私には失うものが何もない。

この状態の中では、

見るとか経験するとかいったことは

何の問題にもならない。

ただコミュニケーションのために

言葉の力を借りなければならないだけだ。

> ここに奥深い知恵に満ちた著名な人たちがいる。
> 私は彼らをどう見るだろうか?

ここには深遠な知識をもった

著名な人たちがいる。

私は彼らをどう見ているのだろうか?

> 彼らはさながら私のようだ。

彼らもまた私と同じだ。

実際は知識の中に存在するのではなく、

意識の領域が出現する以前からいるのだ。

> こちらは法律の専門家で
> サンスクリットの学者でもあるが、
> 様々な努力でパラグラフマンを
> 自分の言葉の中に捉えようとしている。
> 彼はそれが非常に得意だが、
> さてその利益は何だろうか?

こちらの法律の専門家は

サンスクリットの学者でもあって、

永遠不動の実在を

なんとか自分の言葉で捉えようとしている。

たしかにそれは彼の得意分野なのだが、

さてそれが何の役に立つだろうか?

どんな現象もつかの間の現れにすぎない。

たかだか身体が滅びるまでのことだ。

> 質問者 私の状態は概念ではないと理解すること、
>     それ自体が利益です。

でも私のような理解段階の者にとっては、

実在が概念ではないと理解するだけでも

充分な利益なのです。

> マハラジ
> あなたは「私は在る」の概念の上に立って、
> 別の概念でそれに色を塗ろうとしている。

どうやらあなたは、

「私は在る」の概念の上に立って、

その概念を別の概念で

さらに飾ろうととしているようだ。

> 質問者 これは弁護士が被告席へ引きずり込まれる、
>     ある種の法廷ということですね。

現象界の意味を救おうとする弁護士は、

ここでは被告席へ引きずり込まれるようです。

ここはそういう法廷なのですね。

(-||-)

──────────────────
 あなたは在る。
 ほかのすべては現れにすぎない。
 
 『私は在る』(p421) 
──────────────────

(-||-)

──────────────────
 永久的なもの、
 それはあなた自身の存在である。
 真我として在りなさい。
 それが至福である。
 あなたはいつもそれなのである。
 
 『あるがままに』(p58) 
──────────────────

……。(-_-)

ありがとうございました。<(_ _)>

(-||-)

今日はこんなところで。

……。

m(_ _)m


   ………○…………○…………○………


『私は在る』の「目次」はここ↓にあります。
https://www.ascensionkan.com/books/I_AM_THAT-index.html

「ニサルガ辞書」で遊んでみてください。
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「ラマナ・マハルシ辞書」はここです。
https://www.ascensionkan.com/rdic/

『アセ通』既刊号はすべてここにあります。
https://www.ascensionkan.com/mm/


   ………○…………○…………○………


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   ………○…………○…………○………


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   ………○…………○…………○………


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■ 2.編集後記:
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土曜日だけ

やたらに元気になっています。

他の時間はすべて

自己同化した物語の中で

サバイバルのシナリオを辿らされています。

何を期待するというのか……。

知的営為がその限界でキリキリ舞いをしています。

まだ最後まで辿られていないのでしょう。

日が暮れるのは早くなりましたが、

今日はまだ明るいようです。

それではまた。

<(_ _)>


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■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
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  メール: pariアットマークjk2.so-net.ne.jp
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二つの配信スタンドで発行されています。
mag2:http://www.mag2.com/m/0000126287.html
melma:http://www.melma.com/backnumber_110091/
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Copyleft(C)2018 paritosho
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