home > 通信 >『アセンション館通信』第762号:基本的にはすべてが絶対の顕現だ



━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
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 ☆☆     ☆☆『アセンション館通信』2018/11/25(第762号)
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☆☆      ☆★ 【気刊】──「私は在る」に導かれ♪──
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 ☆☆   ☆☆   https://www.ascensionkan.com/
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇

このメルマガはアセンション館主人pariと称するあるパターンに
浮上している夢の場面の報告です。

わたしは存在している。身体は現れてはいるが存在してはいない。
欲望や期待や喜びは、現れはするが存在してはいない。
心配や恐怖や悲しみは、現れはするが存在してはいない。

内容は人畜無害、でも読む人は相当変わっていますね。現在822名
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◇◇ もくじ ◇◇

1.基本的にはすべてが絶対の顕現だ

2.編集後記
──────────────────

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■ 1.基本的にはすべてが絶対の顕現だ
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今日はまた素晴らしい天気ですね。

夢の中のこんな田舎に

二十万人のフォロワーがいるという

タイ人のブロガーの方たちが来て、

わが家の庭でお昼を食べて行かれたようです。

それから隣家で藍染め体験をしたのだとか。

ちょっと会った通訳の方が

信じられないほど日本語がお上手で、

てっきり日本人かと思ってしまいました。

画像はつねに入れ替わっていきますね。

(*^_^*)

さて、またまた一週間が過ぎて、

楽しい“アセンション噺”ならぬ「私は在る」噺に、

お付き合いいただく今がやってまいりました。

『アセンション館通信』配達人の pari です。

あらゆる体験は意識の中にあります。

じゃ、

その体験の体験者はいるのかとなれば、

体験の体験者もまた意識の中の調度でしょうね。

体験者とは

何らかの体験にその主体が想像された

二元性の中での後付けの概念でしょうから。

体験されるもの、

つまり現象しているものはすべて変化です。

変化しないものは顕現できません。

現象は認識されますが、

つかの間の見かけであって、

存在してはいないわけです。

要するに、

認識されるものはすべて

存在してはいないということです。

顕現はすべて存在していないのであれば

では、いったい何が存在しているのか?

ラマナやマハラジは、

存在するのは真我だけだと言います。

では真我が現象を認識するのでしょうか?。

もし真我が現象を認識するのなら、

真我と現象という二つのものがあることになり、

存在するのは真我だけではないことになります。

これが、

「体験者」と「体験」、

「知る者」と「知られるもの」という

原初の二元性の発現ですよね。

つまりは幻想の誕生です。

現象はよく映画に喩えられます。

世界が真我と同じものであることを

マハルシはこんなふうに説明します。

──────────────────
 ……
 真我を実現した人は、
 世界を彼自身と別のものとしては
 見ないのである。
 
 質問者 
 それは植物や樹木などについても    
 同じなのでしょうか?
 
 マハルシ
 それらが真我を離れて存在するだろうか?
 見いだしなさい。
 あなたはあなたが植物を見ていると考えている。
 その考えは真我から投影されたものである。
 その想念がどこから現れたのか見いだしなさい。
 そうすれば、
 想念はもはや現れず、
 ただ真我だけが残るだろう。
 
 質問者 
 理論的には理解できるのですが、
 それでも想念は依然としてそこにあるのです。
 
 マハルシ
 そうだ。
 それは映画のようなものだ。
 スクリーン上には光があり、
 その上を去来する影が、
 何かのドラマが演じられているような印象を
 観客に与えるのである。
 もし映画のなかで、
 観客もまたドラマの一部として
 スクリーン上に見られたとしたら、
 見る者と見られるものが
 ともにスクリーン上にあることになる。
 それをあなた自身に当てはめてみなさい。
 あなたはスクリーンだ。
 真我が自我をつくり出した。
 そして自我とは
 あなたが尋ねている世界や、
 植物や、樹木として現れた
 想念の総体なのである。
 実際には、
 それらはみな真我以外の何ものでもない。
 もしあなたが真我を見るなら、
 いつでもどこでもすべてが
 真我として現れるだろう。
 真我以外の何ものも存在しないのである。
 
 『あるがままに』(p47-50)
──────────────────

ここでスクリーンが

実在の比喩であることは理解できます。

現象として投影された画像が消えても、

スクリーンだけは存在していると。

では現象に気づいているのは誰なのか?

画像を見ているのはスクリーンなのか?

二元性のなかで現象する論理は、

そんなふうに二元論を紡ごうとします。

ラマナはこう言います。

> もし映画のなかで、
> 観客もまたドラマの一部として
> スクリーン上に見られたとしたら、
> 見る者と見られるものが
> ともにスクリーン上にあることになる。
> それをあなた自身に当てはめてみなさい。

このとても魅力的で

かつ挑発的なラマナの状況設定に、

わが二元論耽溺マインドは魅せられました。

映画の中に

画像として現れているわたしは、

真のわたしではないと思ったからです。

たしかに、

画像として現れたわたしは認識の対象です。

真の私は

この映画を見ている者だと思いました。

しかし、

ラマナの展開はそうではありません。

> あなたはスクリーンだ。

ここでラマナは

あなたは映画を見ている観客だ、

とは言っていません。

【あなたはスクリーンだ】と、

真我をスクリーンに喩えています。

> 真我が自我をつくり出した。

自我(という分離幻想)を創造しているのは

真我である。

> そして自我とは
> あなたが尋ねている世界や、
> 植物や、樹木として現れた
> 想念の総体なのである。

ここで言う自我とは、

現象している世界全体のことだ。

世界のなかのあらゆる見かけ、

植物や、樹木として現れている

想念の総体のことだと。

> 実際には、
> それらはみな真我以外の何ものでもない。

すべての現れは

そんなふうに個々別々の

分離した実体が現象しているように見えても、

実際には、

それはらすべて真我の現れなのだ。

> もしあなたが真我を見るなら、
> いつでもどこでもすべてが
> 真我として現れるだろう。
> 真我以外の何ものも存在しないのである。

だからもし、

あなたがそこに真我を見るなら、

いつでもどこでも

すべてが真我として現れるだろう。

なぜなら、

実際に真我以外の何ものも

存在しないからである。

(というわけでした。

 映画という現象世界がすべて幻想で、

 それを見ている観客だけが真我だ、
 
 というわけではありませんでした。
 
 見る者も、
 
 見られるものも、
 
 分離幻想も、
 
 すべてが真我の現れだと
 
 ラマナは言っていたわけです。)

と同時に、

このように知的に理解したからと言って、

苦しみが消えるわけでもありません。(*^_^*)

なぜ? (?_?)

自分の両脚が

その理解の上に立っているのか、

それとも世界として現れる

見かけの状況の上に立っているのかで、

われわれの

浮き沈みが決まるというわけです。(^_-)

プ。(>_<)

ナンチャーナイ。

(*^_^*)

というわけで、

今日も運命である恩寵の指図のもとに、

マハラジ最晩年の言葉を

写経させていただきます。(-||-)

今回は

「一九八七年一二月九日」の対話から

写経いたします。

──────────────────
 一九八七年一二月九日
 
 マハラジ
 ここであなたは、
 聞きたいと期待したことではなく、
 あるがままを知るようになる。
 意識が起こるとき、
 二元性が起こる。
 私は存在し、
 私は自分が存在していることを知っている。
 それが二元性だ。
 私は存在し、
 私は自分が存在していることを意識していない。
 それが一元性だ。
 たった一つのものしか存在しないが、
 この意識がそこに存在するときには
 二元性の感覚がある。
 
 『意識に先立って』(p175)
 https://goo.gl/pWqC7d
──────────────────

> ここであなたは、
> 聞きたいと期待したことではなく、
> あるがままを知るようになる。

ここであなたが聞く話は、

あなたが聞きたいと期待してきた

話ではないことだろう。

ここであなたが知るのは、

あるがままの実状だ。

> 意識が起こるとき、
> 二元性が起こる。

意識が起こるとき、

つまり存在感が意識を起動するとき、

二元性の現象世界が展開する。

> 私は存在し、
> 私は自分が存在していることを知っている。
> それが二元性だ。

私は存在している。

そしてその私が

自分が存在することを知っている状態のとき、

それが二元性と言われるものだ。

> 私は存在し、
> 私は自分が存在していることを意識していない。
> それが一元性だ。

私は存在している。

そしてその私が

自分が存在することに気づいていない状態のとき、

それが一元性と言われるものだ。

> たった一つのものしか存在しないが、
> この意識がそこに存在するときには
> 二元性の感覚がある。

実在しているのは

たった一つの同じものだが、

この存在の感覚(意識)があるかないかで、

二元性の感覚が発現するかしないかが分かれる。

──────────────────
 質問者 覚醒した人はあらゆることに気づいて
     いるのですか?
 
 マハラジ
 実際は覚醒している人がいるわけではなく、
 純粋な知識があるだけだ。
 ただコミュニケーション上、
 覚醒した人と言うだけだ。
 知識が、
 それを知識だと理解したのだ。
 起こったことはそれだけだ。
 私はこの肉体ではなく、
 言葉でもない。
 知識がそれを認識するとき、
 それが真我実現と呼ばれる。
 
 質問者 マハラジが与えている知識はジニャーニの
     ためのものです。これを理解できない非常
     に単純な人はどうなるのでしょうか?
 
 マハラジ
 バジャンと瞑想をやりなさい。
 瞑想によって、
 未熟な知識が次第に成熟することだろう。
 
 『意識に先立って』(p175)
──────────────────

> 質問者 覚醒した人はあらゆることに気づいて
>     いるのですか?

悟った方というのは

あらゆることに気づいているのですか?

> マハラジ
> 実際は覚醒している人がいるわけではなく、
> 純粋な知識があるだけだ。

実際は、

悟った人間がいるわけではなく、

純粋な知識があるだけだ。

> ただコミュニケーション上、
> 覚醒した人と言うだけだ。

ただ言葉で伝える都合上、

覚者というような表現が使われるだけだ。

> 知識が、
> それを知識だと理解したのだ。
> 起こったことはそれだけだ。

実在しているそれが、

現象が現れていなくても自分は存在している

と知ったのだ。

自分は存在しているという知識が、

自分とはその知識のことだったと理解したのだ。

自らをその知識と同定したと言ってもいい。

起こったことはそれだけだ。

> 私はこの肉体ではなく、
> 言葉でもない。
> 知識がそれを認識するとき、
> それが真我実現と呼ばれる。

自分はこの肉体ではなく、

言葉・想念・情緒でもない。

自分とは

自分が存在していると知っているこの知識だ。

そのようにこの知識が自己認知したとき、

それが真我実現と呼ばれる。

> 質問者 マハラジが与えている知識はジニャーニの
>     ためのものです。これを理解できない非常
>     に単純な人はどうなるのでしょうか?

マハラジが語られるそのような知識は、

ジニャーニのための知識だと思います。

こういう話を理解できない

非常に単純な人はどうなるのですか?

> マハラジ
> バジャンと瞑想をやりなさい。

そういう人は、

バジャン(神に捧げる賛歌)と瞑想をするといい。

> 瞑想によって、
> 未熟な知識が次第に成熟することだろう。

瞑想をすれば、

未熟な状態にあるその知識が

次第に成熟することだろう。

──────────────────
 質問者 千年前、人々は原始的でした。彼らはこう
     いうことを理解できなかったことでしょう。
     それはただ発達したマインドのためのもの
     です。
 
 マハラジ
 原始的であろうと、
 文明化されていようと、
 人々はこれを理解することができる。
 当時でさえ、
 この知識が現れた者たちがいたはずであり、
 彼らは直接的にこれを理解した。
 
 この知識は新しいものではない。
 これは常に存在してきた。
 人々は直感的にこれを理解するようになったのだ。
 
 質問者 なぜインドがこの知識の発祥地のように
     見えるのでしょうか? 他のどの国も
     この知識を持っていないようです。
 
 マハラジ
 それは違う。
 この顕現は絶対の表現であり、
 この顕現は様々な国で様々な形をとることだろう。
 それがどんな種類の表現をとるかは
 重要なことではない。
 基本的にはすべてが絶対の顕現だ。
 原因もなければ、
 結果もない。
 なぜあるものがある場所にあって、
 別の何かが別の場所にあるのか、
 どんな理由もない。
 人がすべきことは、
 自分とは何かを自分で発見することだ。
 
 『意識に先立って』(p176)
──────────────────

> 質問者 千年前、人々は原始的でした。彼らはこう
>     いうことを理解できなかったことでしょう。
>     それはただ発達したマインドのためのもの
>     です。

大昔の人々、

たとえば、千年前の人々は原始的だったでしょう。

このような話は理解できなかったと思います。

こういう知識は、

発達したマインドのためのものだと思います。

> マハラジ
> 原始的であろうと、
> 文明化されていようと、
> 人々はこれを理解することができる。

いや、原始人であろうと、

文明化された人間であろうと、

これを理解することができる。

> 当時でさえ、
> この知識が現れた者たちがいたはずであり、
> 彼らは直接的にこれを理解した。

千年前の人々のなかにも、

この知識を実現したものがいたはずだ。

その人たちはこの事実を直感的に理解したのだ。

> この知識は新しいものではない。
> これは常に存在してきた。
> 人々は直感的にこれを理解するようになったのだ。

この知識は

人間の文明化によって発生した

新しい知識ではない。

この知識はいつも存在してきた。

人々はこの知識を

直感的に理解してきたのだ。

> 質問者 なぜインドがこの知識の発祥地のように
>     見えるのでしょうか? 他のどの国も
>     この知識を持っていないようです。

インドがこの知識の発祥地のように思えますが、

それはなぜなのでしょうか?

> マハラジ
> それは違う。
> この顕現は絶対の表現であり、
> この顕現は様々な国で様々な形をとることだろう。
> 原因もなければ、
> 結果もない。

いや、それは違う。

この知識の顕現は絶対の表現なのだから、

様々な時代に様々な国で、

この知識は様々な形をとることだろう。

> それがどんな種類の表現をとるかは
> 重要なことではない。

この知識の顕現がどんな表現をとるかは、

重要なことではない。

> 基本的にはすべてが絶対の顕現だ。
> 原因もなければ、
> 結果もない。

基本的にはすべてが絶対の顕現だ。

そこにどんな原因もなければ、

結果もない。

> なぜあるものがある場所にあって、
> 別の何かが別の場所にあるのか、
> どんな理由もない。
> 人がすべきことは、
> 自分とは何かを自分で発見することだ。

なぜあるものがある場所にあって、

別の何かが別の場所にあるのか?

そんな原因と理由を

幻想の二元性のなかにしかない

後付けの概念に求めても、

幻想の中で捏造されたその答えが

あなたを幻想の外に

連れ出してはくれるわけではない。

> どんな理由もない。
> 人がすべきことは、
> 自分とは何かを自分で発見することだ。

基本的には

すべての顕現は絶対の表現だ。

そこにどんな理由もない。

あなたがすべきことは、

自分が何であるかを自分で発見することだ。

──────────────────
 質問者 グルはその知識に向かって一押し
     してくれることはできますか?
 
 マハラジ
 あなたは自分が一人の個人で、
 グルもまた別の個人だと思っているが、
 そうではない。
 グルとはこの意識を知るものだが、
 仮の姿だ。 
 
 この奇妙な状況を理解しなさい。
 私があなたに話している間、
 この肉体には耐え難い苦痛がある。
 
 お互いから分離しているどんな個人もいないし、
 世俗的知識と霊的知識として分離している
 どんな知識もないことを、
 私は確固と理解した。
 グルも弟子もいなければ、
 神も帰依者もいない。
 対立するものは何もない。
 それらは分離した二つの部分ではなく、
 同じものの二つの部分、
 二つの極だ。
 私はそれを確信しながら、
 それでもあなたに話している。
 あなたはそれを知識として受け入れ、
 私は知識として与える。
 このおかしな要因を理解しなさい。
 
 この話は私から自然発生的に生じている。
 言葉が出てくる前には
 何も意味付けされていない。
 マインドはどんな役割も演じていない。
 それは直接的で自然発生的だ。
 
 質問者 マハラジが意識という言葉を使うとき、
     それはどういう定義ですか ?
 
 マハラジ
 ここで使われている意識は、
 この生きて、
 存在しているという感覚、
 存在感のことだ。
 それはあらゆる願望の源泉と原因である
 存在の愛なのだ。
 
 『意識に先立って』(p176-177)
──────────────────

> 質問者 グルはその知識に向かって一押し
>     してくれることはできますか?

私たちがその知識に向かうのを

グルは一押ししてくださるのでしょうか?

> マハラジ
> あなたは自分が一人の個人で、
> グルもまた別の個人だと思っているが、
> そうではない。
> グルとはこの意識を知るものだが、
> 仮の姿だ。 

あなたは

自分が一人の個人で、

グルもまた別の個人だと思っているようだが、

そうではないのだ。

あなたという個人や、

グルという別の個人がいるわけではない。

そういうものは意識の中の模様にすぎない。

グルとは

自分がこの意識ではないことを知り、

意識が何かを知っている状態のことだが、

そのグルという姿もまた

意識の中の仮の姿にすぎない。

> この奇妙な状況を理解しなさい。
> 私があなたに話している間、
> この肉体には耐え難い苦痛がある。

今ここで起こっている

この奇妙な状況を理解しなさい。

こうして私があなたに話している間、

この肉体には耐え難い苦痛が起こっている。

> お互いから分離しているどんな個人もいないし、
> 世俗的知識と霊的知識として分離している
> どんな知識もないことを、
> 私は確固と理解した。

だが私がこうして話していられるのは、

相互に分離しているどんな個人もいないし、

世俗的知識とか霊的知識とかいった

どんな分離した知識もないことを、

私が確固と理解しているからだ。

> グルも弟子もいなければ、
> 神も帰依者もいない。
> 対立するものは何もない。
> それらは分離した二つの部分ではなく、
> 同じものの二つの部分、
> 二つの極だ。

グルとか弟子とかいった区別は、

単なる意識のなかの模様にすぎない。

神もいなければ帰依者もいない。

対立するものはすべて

顕現が起こりうるための対極にすぎない。

それらは分離した二つの部分ではなく、

何かが現象するための

その同じものの二つの部分、

二つの極にすぎないのだ。

> 私はそれを確信しながら、
> それでもあなたに話している。

実際は、

質問しているあなたという実体が

存在するわけではない。

答えている私という実体が

存在するわけでもない。

私はそれを知っていながら、

なおかつこうして

あなたにこんなことを話しているのだ。

> あなたはそれを知識として受け入れ、
> 私は知識として与える。
> このおかしな要因を理解しなさい。

そんな幻想の対話の中で

あなたは私の言葉を知識として受け入れ、

私は知識として与えている。

これがどれほどおかしなことかを、

理解するといい。

> この話は私から自然発生的に生じている。
> 言葉が出てくる前には
> 何も意味付けされていない。
> マインドはどんな役割も演じていない。
> それは直接的で自然発生的だ。

こうして語られている言葉は、

幻想の対話の中、

顕現という絶対の表現の中で、

自然発生的に生じている。

言葉が出てくる前には

いかなる意味付けもされていない。

そこでマインドは何の役割も演じていない。

それはただ直接的に、

自然発生的に生じている。

こうして話している私自身が言うのだ。

そのことを理解しなさい。

> 質問者 マハラジが意識という言葉を使うとき、
>     それはどういう定義ですか ?

この対話でマハラジが

「意識」という言葉を使うとき、

それはどういう意味でしょうか?

> マハラジ
> ここで使われている意識は、
> この生きて、
> 存在しているという感覚、
> 存在感のことだ。
> それはあらゆる願望の源泉と原因である
> 存在の愛なのだ。

私がここで使っている「意識」は、

この生きているという感覚、

存在しているという感覚、

存在感のことだ。

この存在感こそが、

あらゆる願望の源泉と原因である

存在の愛だ。

この存在することへの愛が、

誤って顕現の一部である肉体へと向かえば、

途方もない苦しみの原因ともなる。

顕現すべてが自分であることを知れば、

すべきことなど何もなくなるのだ。

あなたはすでにそれだからだ。

だが、

そのことが絶対的に確信されるまでは、

あなたは幻想の二元性が生み出す状況のなか、

そこで捏造される物語の中の何かになって、

喜んだり苦しんだりしなければならない。

それがどれほど精緻な仕掛けによって

実現されていようと、

その物語には何の意味もない。

すべてはただの娯楽だ。

(-||-)

──────────────────
 あなたは在る。
 ほかのすべては現れにすぎない。
 
 『私は在る』(p421) 
──────────────────

(-||-)

──────────────────
 永久的なもの、
 それはあなた自身の存在である。
 真我として在りなさい。
 それが至福である。
 あなたはいつもそれなのである。
 
 『あるがままに』(p58) 
──────────────────

……。(-_-)

ありがとうございました。<(_ _)>

(-||-)

今日はこんなところで。

……。

m(_ _)m


   ………○…………○…………○………


『私は在る』の「目次」はここ↓にあります。
https://www.ascensionkan.com/books/I_AM_THAT-index.html

「ニサルガ辞書」で遊んでみてください。
https://www.ascensionkan.com/ndic/

「ラマナ・マハルシ辞書」はここです。
https://www.ascensionkan.com/rdic/

『アセ通』既刊号はすべてここにあります。
https://www.ascensionkan.com/mm/


   ………○…………○…………○………


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http://www.formzu.net/fgen.ex?ID=P48750702


   ………○…………○…………○………


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■ 2.編集後記:
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今日は晴天でしたが、

日が暮れるのが早いので

すっかり暗くなりました。

それではまた。

<(_ _)>


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■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
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  メール: pariアットマークjk2.so-net.ne.jp
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二つの配信スタンドで発行されています。
mag2:http://www.mag2.com/m/0000126287.html
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