home > 通信 >『アセンション館通信』第764号:意識がそれ自身を求めている



━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
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 ☆☆     ☆☆『アセンション館通信』2018/12/09(第764号)
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☆☆      ☆★ 【気刊】──「私は在る」に導かれ♪──
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 ☆☆   ☆☆   https://www.ascensionkan.com/
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇

このメルマガはアセンション館主人pariと称するあるパターンに
浮上している夢の場面の報告です。

 どの観念もあなた自身のものではないということを認識しなさい。
 それらはみな、外側からあなたにやってくるのだ。
 あなたは全力をあげて考えなければならない。(『私は在る』)

内容は人畜無害、でも読む人は相当変わっていますね。現在823名
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◇◇ もくじ ◇◇

1.意識がそれ自身を求めている

2.編集後記
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■ 1.意識がそれ自身を求めている
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暖かくなったり寒くなったり

今年の気温変化は激しいですね。

今の瞬間は暖かですが、

先のことはわかりません。

小説の365ページ目に描かれている登場人物に

366ページの内容がわからないようなものです。(^_-)

次の行の内容すらわかりませんけどね。

(*^_^*)

さて、またまた一週間が過ぎて、

楽しい“アセンション噺”ならぬ「私は在る」噺に、

お付き合いいただく今がやってまいりました。

『アセンション館通信』配達人の pari です。

このごろまた

ラメッシ・バルセカールの

『意識は語る』を拾い読みしています。

pariパターンにとっては

まだ観念の中に何かがあるのでしょうね。

もちろん、だからこそ

観念の中に理解を求めるのでしょうし。

映画の登場人物としての役割がそうなのだから

もちろんそれでいいのです。

想念が想念に助けを求めるのでしょうか?

そこにpariという実体がいるわけではない。

不思議だなぁ……。(-_-)

でも、おかげさまでと言うか

今回『意識は語る』を読んでいて、

改めて明確になったことがあるのです。

それはいつも何かを求めてしまう

この「自分」が何かということです。

「自分」という仮想の主体性が

ひとつの観念にすぎないことは

もう充分に聞かされていて、

それなりにわかったつもりではいます。

でもこの「自分」は

肉体という感覚的な根拠に護られていて

なかなか虫ピンで止めることができません。

賢者たちはそれぞれの表現能力を駆使して、

それが何かを教えてくださる。

それがひとつの観念でしかなく、

虚構の主体性であることはわかります。

でもその理解がいまいち深まらない。

それがですね

ラメッシ・バルセカールという方の

言語能力はじつに大変なものだと

今回改めて感嘆させられました。

本当に痒いところに手が届くように、

見事に「自分」を言語化してくれています。

見るとその箇所には

以前も感嘆したと見えて、

ちゃんと付箋が貼ってありました。(*-_-*)

でもその理解は沈潜していませんでした。

今回はじめて読んだような気がしましたから。

今回は、

その何かを求めている

【自分】とは何なのか?についての

例外的なまでに明晰で

老婆心切的に綿密な

ラメッシ・バルセカールの説明を

シェアしたくなったというわけです。

そのラメッシ・バルセカールの説明は

【なぜ私たちは今日ここにいるのでしょうか?】

という質問に応えて起こったものです。

──────────────────
 【なぜ私たちは今日ここにいるのでしょうか?】
 
 明らかに皆さんは全員、
 何かを求めています。
 あなたが求めているのは何ですか?
 あなたが求めているのは、
 明らかにあなたが
 見たり聞いたりできるものでなければ、
 聞いたり、味わったり、
 触ったりすることができるものでもありません。
 つまり、
 あなたが求めているものは
 対象物ではないという意味です、
 ですから、
 求められているものは対象物ではないのです。
 そして、
 誰が求めているのでしょうか?
 求めているものは、
 主体でなければなりません。
 主体は対象物を求め、
 そして、
 あなたが求めていると思っているものは、
 対象物です。
 しかし、
 何が求めているのでしょうか?
 根本的に対象物です。
 あなたが自分は求めていると思うとき、
 何が求めていると
 あなたは思っているのでしょうか?
 私たちは求めている「自分」という観点で考えますが、
 何が求めているかと言えば、
 実際、
 求めているものは肉体精神機構、
 機械で、
 それがそれ自身を「自分」と呼んでいるのです。
 何かが肉体精神機構と一体化して、
 「私は求めている」と言うのです。
 その何かとは意識です。
 ですから、
 求めているとあなたが思っているものは、
 実は対象物、
 現象の全体性の一部である対象物です。
 
 『意識は語る』(p320-321)
──────────────────

> 明らかに皆さんは全員、
> 何かを求めています。
> あなたが求めているのは何ですか?
> あなたが求めているのは、
> 明らかにあなたが
> 見たり聞いたりできるものでなければ、
> 聞いたり、味わったり、
> 触ったりすることができるものでもありません。
> つまり、
> あなたが求めているものは
> 対象物ではないという意味です、
> ですから、
> 求められているものは対象物ではないのです。

これほど明確な言葉に

さらに別の贅言を加えるのは

いくらなんでもバカすぎる。

でも、そのバカをやるのが

pariパターンなのかもしれません。(*^_^*)

ラメッシ・バルセカールが

ここでまず明確にしているのは、

霊的探求で求められているものは

じつは探求者が当初想像しているような

知覚の対象物ではないということです。

これは、納得できますよね。

> そして、
> 誰が求めているのでしょうか?
> 求めているものは、
> 主体でなければなりません。
> 主体は対象物を求め、
> そして、
> あなたが求めていると思っているものは、
> 対象物です。
> しかし、
> 何が求めているのでしょうか?
> 根本的に対象物です。

前段で霊的探求者の旅は、

自覚的には

対象物の探求であるかのように始まるが、

最後にはそれが対象物ではないことが理解される。

と説明されたわけです。

対してこの段では

探求者とは何かがまず断定されます。

探求している本人は

当然自分が主体だと思っているけれど、

探求の最後には

自分とは根本的には主体ではなく対象物だと

理解されて終わると。

> あなたが自分は求めていると思うとき、
> 何が求めていると
> あなたは思っているのでしょうか?
> 私たちは求めている「自分」という観点で考えますが、
> 何が求めているかと言えば、
> 実際、
> 求めているものは肉体精神機構、
> 機械で、
> それがそれ自身を「自分」と呼んでいるのです。
> 何かが肉体精神機構と一体化して、
> 「私は求めている」と言うのです。
> その何かとは意識です。
> ですから、
> 求めているとあなたが思っているものは、
> 実は対象物、
> 現象の全体性の一部である対象物です。

霊的探求の旅で

われわれはもちろん、

探求しているのは「自分」だと考えています。

つまり、

「自分」という主体が探求していると。

ところが実際は、

探求をはじめている「自分」とは

現象世界の様々な定義を負った「自分」です。

具体的には肉体で定義された「自分」です。

このことに反対する人はいないでしょう。

ということは、

探求を始めた探求者とは、

じつは様々な状況に制限された肉体精神機構なのです。

つまり現象世界の一部である機械です。

こうして改めて明言されると

納得せざるをえませんよね。

で、そこまでの文脈は理解できました。

しかし翻って考えてみると、

機械が疑問をもちはじめ、

機械が探求を始めるというのは

やっぱり、ちょっといただけないわけです。

なんと言っても機械は機械です。

マハラジ流に言うなら死物にすぎません。

ということは、

何かがこの機械の立場に立って

機械の立場に一体化して、

「私は求めている」と言っているわけです。

では何がこの機械の立場に一体化しているのか?

もう見当がついたでしょうが、

ラメッシ・バルセカールは

それが「意識」だと言っているわけです。

でも霊的探求の出発点を構成しているのは

肉体精神機構という機械の立場です。

なぜなら

ドラマの中でしか疑問は起こらないからです。

だから、

この苦しみの根拠を問いただして、

探求の端緒となっている当体は

あくまでも現象の全体性の一部である

対象物なのです。

つまりここまでで

ラメッシ・バルセカールが説明したのは

対象物(肉体精神機構)が

対象物ではないものを求めているのが

霊的探求というものだ、ということです。

──────────────────
 この現象においては、
 どんな対象物の間にも違いがありません。
 すべての対象物は意識の中の単なる見かけです。
 あなたが主体だと思っている「自分自身」は、
 実に
 自分自身を主体だと思っている
 他の対象物から認識されている対象物です。
 誰か他の人があなたを見ます。
 その人にとってはその人が主体で、
 あなたが対象物です。
 でも根本的には、
 観察者も観察されるものも両方が対象物です。
 
 この逆説とは何でしょうか?
 誰が何を求めているのでしょうか?
 その唯一の満足できる答えは、
 意識がそれ自身を求めているというものです。
 それは、
 主体がそれ自身を求めているのです。
 意識が自分自身をそれぞれの人間機構と一体化し、
 それから、
 それを「自分」と呼びます。
 「自分」は単なる観念にすぎません。
 それは、
 個人的意識として一体化された
 非個人的意識なのです。
 その源泉、
 宇宙意識を求めているのは個人的意識です。
 主体としての意識が自分自身を求めているのです。
 
 ヒンドゥー哲学が「リーラ」と呼んでいるのは、
 この奇妙なゲームです。
 それに対しては何の説明もありません。
 神秘家は長い間、
 この現象界は意識が認識する意識の中の見かけで、
 全現象は非個人的プロセスである
 と言い続けてきました。
 今日では科学者が、
 全現象は自己生成するプロセスである、
 つまり、
 それはそれ自身として生じると言っています。
 この非個人的プロセスこそ、
 私たちが一体化している探求なのです。
 私たちは「私は何かを求めている」、
 つまり「自分」が何かを求めていると信じています。
 すると探求はものすごくみじめになります。 
 
 『意識は語る』(p321-322)
──────────────────

> この現象においては、
> どんな対象物の間にも違いがありません。
> すべての対象物は意識の中の単なる見かけです。

この現象世界の中では、

あらゆる対象物はすべて

見かけの表現媒体にすぎません。

どの対象物のほうが別の対象物よりは

主体に近いなどということはない。

すべての対象物は意識の中の単なる見かけです。

> あなたが主体だと思っている「自分自身」は、
> 実に
> 自分自身を主体だと思っている
> 他の対象物から認識されている対象物です。
> 誰か他の人があなたを見ます。
> その人にとってはその人が主体で、
> あなたが対象物です。
> でも根本的には、
> 観察者も観察されるものも両方が対象物です。

現にこのpariパターンが「自分」

などと想像したとしても、

他人(他の対象物)から見れば

認識対象にすぎないことは明らかです。

その他人も別の他人(たとえばpari)から見れば

やっぱり単なる対象物です。

というわけで、

現象世界の中に現れている

観察者も観察されるものも

明らかに両方が対象物なのです。

> この逆説とは何でしょうか?
> 誰が何を求めているのでしょうか?
> その唯一の満足できる答えは、
> 意識がそれ自身を求めているというものです。

この主体を装っているのが

じつは対象物でしかないという逆説は

何を意味しているのか?

いったい誰が何を求めているというのか?

唯一満足できる答えがあるとしたら、

それは意識がそれ自身を求めている

ということだ、とラメッシは言うのです。

> それは、
> 主体がそれ自身を求めているのです。
> 意識が自分自身をそれぞれの人間機構と一体化し、
> それから、
> それを「自分」と呼びます。
> 「自分」は単なる観念にすぎません。
> それは、
> 個人的意識として一体化された
> 非個人的意識なのです。
> その源泉、
> 宇宙意識を求めているのは個人的意識です。
> 主体としての意識が自分自身を求めているのです。

それは言い方を変えると、

主体がそれ自身を求めている

ということにもなります。

存在するものはすべて意識だけだ

という立場に立つなら、

意識が自らの表現である

個々の人間機構と一体化して、

その人間機構を「自分」と呼んでいるのだと。

「自分」とは意識の一表現である

単なる観念にすぎません。

それは非個人的意識が

人間機構に一体化して個人的意識となったもの

とも言えるでしょう。

> その源泉、
> 宇宙意識を求めているのは個人的意識です。
> 主体としての意識が自分自身を求めているのです。

自らの源泉、

つまり宇宙意識を求めているのは、

個人的意識となった宇宙意識です。

主体としての意識が自分自身を求めているわけです。

> ヒンドゥー哲学が「リーラ」と呼んでいるのは、
> この奇妙なゲームです。
> それに対しては何の説明もありません。

ヒンドゥー哲学で「リーラ」、

「神の遊戯」と呼ばれてきたのは、

この不思議なゲームのことです。

この「リーラ」というゲームについては、

古来特に何の説明もありません。

> 神秘家は長い間、
> この現象界は意識が認識する意識の中の見かけで、
> 全現象は非個人的プロセスである
> と言い続けてきました。
> 今日では科学者が、
> 全現象は自己生成するプロセスである、
> つまり、
> それはそれ自身として生じると言っています。
> この非個人的プロセスこそ、
> 私たちが一体化している探求なのです。
> 私たちは「私は何かを求めている」、
> つまり「自分」が何かを求めていると信じています。
> すると探求はものすごくみじめになります。

ラメッシ・バルセカールは、

マハラジがグルと出会った最初の日、

マハラジはグル(シッダラメシュバール)に

「すべては夢で、

 非個人的出来事で、
 
 あなたは全体が機能するための単なる道具にすぎず、
 
 独立した実体としてのどんな『あなた』もいない」

と言われたと伝えています。

初めて聞くにはちょっと強烈な表現ですが、

それだけにとても端的ですね。

マハラジはこの言葉を

深くハートで受け容れたわけです。

インドでは古くから神秘家たちが

このように語ってきていたのでしょう。

現象界とは

意識が認識する意識の中の見かけにすぎない。

全現象は非個人的プロセスであり、

そこにはどんな個人的実体も存在しないと。

ラメッシ・バルセカールは

「リーラ」を喩えるのに

“神なる小説家”という観念を好んでいるようです。

つまり、

現象世界は“神なる小説家”の娯楽であって、

小説の中の登場人物のための

娯楽ではないわけです。

ニサルガダッタは

現象世界を【不妊の女性の孤児】に

喩えているようです。

中の登場人物の立場に固執するのか、

夢から覚めた意識の立場に留まるのか。

それを誰が決めているのか?

そのシナリオは夢の中で自動生成されるのか?

そういうことはすべて夢の中の観念なのか?

不思議ですよねぇ。(-_-;)

なんだか、

一瞬、

悩むのがバカげているようにも

思えてきますね。(^_-)

(-||-)

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 あなたは在る。
 ほかのすべては現れにすぎない。
 
 『私は在る』(p421) 
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(-||-)

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 永久的なもの、
 それはあなた自身の存在である。
 真我として在りなさい。
 それが至福である。
 あなたはいつもそれなのである。
 
 『あるがままに』(p58) 
──────────────────

……。(-_-)

ありがとうございました。<(_ _)>

(-||-)

今日はこんなところで。

……。

m(_ _)m


   ………○…………○…………○………


『私は在る』の「目次」はここ↓にあります。
https://www.ascensionkan.com/books/I_AM_THAT-index.html

「ニサルガ辞書」で遊んでみてください。
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「ラマナ・マハルシ辞書」はここです。
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■ 2.編集後記:
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こんなに状況は明らかなのに、

それでもまだ悩むのかなぁ。(-_-;)

(*^_^*)

すっかり暗くなりました。

それではまた。

<(_ _)>


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■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
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  メール: pariアットマークjk2.so-net.ne.jp
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二つの配信スタンドで発行されています。
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