home > 通信 >『アセンション館通信』第772号:『ニュー・アース』



━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
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 ☆☆     ☆☆『アセンション館通信』2019/02/03(第772号)
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☆☆      ☆★ 【気刊】──「私は在る」に導かれ♪──
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇

このメルマガはアセンション館主人pariと称するあるパターンに
浮上している夢の場面の報告です。

 「知らないでいること」に心地よさを覚えてください。
 そうすることによって、思考を超越することができます。
   (『世界でいちばん古くて大切なスピリチュアルの教え』)

内容は人畜無害、でも読む人は相当変わっていますね。現在822名
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◇◇ もくじ ◇◇

1.『ニュー・アース』

2.編集後記
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■ 1.『ニュー・アース』
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今日も晴天。

硝子戸の中は温かい。

(*^_^*)

さて、またまた一週間が過ぎて、

楽しい“アセンション噺”ならぬ「私は在る」噺に、

お付き合いいただく今がやってまいりました。

『アセンション館通信』配達人のpariです。

結局、すべては

現象に対する執着というところに

行き着くように思われます。

起こっていることに執着しなければならないと

思っている誰かがいるようなのです。

その誤解が解ければ、

問題はなにもないのでしょう。

たとえば、

いまここに誰かがいます。

その誰かは幸福を求めているという。

幸福を求めているというからには、

自分は幸福ではないという

理解がそこにあるわけです。

でもこれまでいろいろ理屈をたどってきて、

幸福を求める自分こそが

問題の種らしいと理解しはじめている。

起こっていること自体には

別になんの問題もないらしいのです。

ただ現象が顕れているだけです。

現象が現われているのは、

その現象に気づいているものがいるからです。

すべての現象は

その気づいているものに対して顕れている。

その「気づいているもの」自体が

顕れることはありえません。

顕れることができるのは、

何らかの知覚の対象物だけですから。

あらゆる知覚の対象物は

その気づいているものに対して顕れるのだから、

その気づいているもの自体は

顕れることはできないわけです。

とてもわかりきったことです。

ということは、

現象とその現象に気づいているものは

ひとつの事象を描写する二つの側面とも言えます。

現象が現象として顕れることができるのは

それに気づいているものがいるからなのです。

『般若心経』にある言葉

色即是空

とは、

現象(「色」)は

すなわちそれに気づいているもの(「空」)

の存在を指し示している、

という意味だとも言えるでしょう。

空即是色

とは、

気づいているものの存在は

現象が顕れることのなかで明らかになる、

ということを意味しているとも言えそうです。

覚者方がこういう現象の両面に言及するのは

通常われわれが

あまりにも現象世界の【見かけ】の面にのみ

飲み込まれてしまって、

その【見かけ】が【見かけ】自体で成立しているかのように

誤解してしまうからです。

別の言葉で言うなら、

この“自分”の身体がそれ自体で生きていて

その身体が現象に気づいているのだと

勘違いしてしまうからだと思います。

でも実際は、

“自分”の身体もまた知覚の対象物です。

顕れている現象世界、

つまり【見かけ】の一部なのです。

この身体が現象に気づいているわけではない。

この身体もまた

気づかれているからこそ顕れているわけです。

では何が現象に気づいているのか?

この顕れに気づいているもの、

あるいは実際に存在しているあるがままのものを

仏陀は「スンニャター」と言ったのでしょうか。

──────────────────
 仏教における空(くう、梵 [シューニャ]または
 梵 [シューニャター]、巴:[スンニャター])とは、
 一切法は因縁によって生じたものだから
 我体・本体・実体と称すべきものがなく
 空しい(むなしい)こと。
 空は仏教全般に通じる基本的な教理である。
 
 ウィキペディア:空 (仏教)
──────────────────

漢訳『般若心経』では

それに「空」の訳語を当てているのでしょう。

正確に同じではないかもしれないけれど、

それを現代人が理解しやすい観念に置き直し、

「空間」と言ってみましょうか。

「空間」とは

そこに知覚の対象物は「何もない」ということです。

この「何もない」という意味を強調する場合は、

「無」という観念が適切かもしれない。

その「空間」が波立ったとき、

そこに現象(「色」)が【見かけ】として、

ホログラムとして立ち上がります。

【見かけ】とは言っても、

体験としてここに身体があって、

その頭部の中で(両目をつうじて)

視覚現象が起こる感じがあるのですから、

この身体が“自分が”対象に気づいている!

と誤解してもそれは当然です。

これは、

もし意図した誰かがいるのだとしたら、

予め意図された誤解というしかない。

しかし、

“意図した誰か”がいるのでしょうか?

色即是空

空即是色

というふうに、

ここで必要十分条件を満たす定義によって

同じものであると断定されている

「色=空」以外に

誰が存在しているというのでしょう?

だから、

もしこの「色=空」を

<意識>と呼び換えるなら

<意識>以外には何も存在しないわけです。

そして「私」、“自分”とは

言うなれば、

「色」に射し込んだ「空」の響きであり、

【見かけ】が表現する多様性のなかで解釈された

「空」の不滅性です。

意図した者もいなければ

被害者も存在しない。

加害者も被害者もすべては

形や想念という【見かけ】の(解釈の)なかに顕れた

観念でしかないわけですから。

では誰が苦しんでいるのか?

「わたし」が苦しんでいるのです。(*^_^*)

なぜか?

と、その誤解の中では理屈が展開するのです。

するとたとえば、

「わたし(“自分”)」が苦しむことによって、

現象世界がリアルなものになるから、

といった思考が浮上したりします。

いやいや、

「わたし」はそれほど

公共のために働いているわけではなさそです。

「わたし」はただ

「わたし」という想念として、

「わたし」が抱えた誤解の中で

生き延びたいだけのようなのです。

エックハルト・トールは

その著『ニュー・アース』のなかで

次のように説明しています。

──────────────────
 エゴに囚われている人は
 苦しみを苦しみとして認めず、
 どんな状況でもそれが唯一適切な対応だと考える。
 エゴには自分が
 自分自身や他者に及ぼす苦しみが見えない。
 不幸はエゴが創り出した精神的病だが、
 それが伝染病と化している。
 地球の環境汚染と同様の心の汚染だ。
 怒りや不安や憎悪、
 恨み、不満、羨望、嫉妬
 その他のネガティブな状態が
 ネガティブと感じられず、
 完全に正当化され、
 しかも自分が創り出したのに、
 他人か何らかの外部要因のせいだと
 勘違いされている。
 「私の苦痛はあなたのせいだ」、
 エゴはいつもそう言う。
 
 『−ニュー・アース』(p124)
 https://amzn.to/2DOLmXA
──────────────────

> エゴに囚われている人は
> 苦しみを苦しみとして認めず、
> どんな状況でもそれが唯一適切な対応だと考える。

なんと!(@_@)

わたしの場合もまさにそのとおりでした。

> エゴには自分が
> 自分自身や他者に及ぼす苦しみが見えない。

そういうことだったのか。

> 不幸はエゴが創り出した精神的病だが、
> それが伝染病と化している。
> 地球の環境汚染と同様の心の汚染だ。

伝染性があるのか。

> 怒りや不安や憎悪、
> 恨み、不満、羨望、嫉妬
> その他のネガティブな状態が
> ネガティブと感じられず、
> 完全に正当化され、
> しかも自分が創り出したのに、
> 他人か何らかの外部要因のせいだと
> 勘違いされている。

あああああ……。(*>_<*)

> 「私の苦痛はあなたのせいだ」、
> エゴはいつもそう言う。

イワン・カラマーゾフの苦しみがそうだったし、

わたしの苦しみもそうだった。

──────────────────
 ネガティブな状態になったとき、
 あなたの中には必ずその状態を望む何者かがいて、
 そのネガティブな状態を喜びだと感じるか、
 それによって欲しいものが手に入ると信じている。
 そうでなければ、
 どうしてネガティブな状態にしがみつき、
 自分や他人を惨めにして
 身体的な病気を創り出したがるのか。
 だから自分の中にネガティブな状態が生まれたとき、
 そのネガティブな状態に喜びを感じる、
 あるいはそれが目的達成に役立つと
 考える部分があると気づけたなら、
 あなたはまさにエゴに気づいたことになる。
 そのとき、
 あなたのアイデンティティは
 エゴから気づきへとシフトしている。
 エゴが縮み、
 気づきが成長したということだ。
 
 『−ニュー・アース』(p125)
 https://amzn.to/2DOLmXA
──────────────────

> ネガティブな状態になったとき、
> あなたの中には必ずその状態を望む何者かがいて、
> そのネガティブな状態を喜びだと感じるか、
> それによって欲しいものが手に入ると信じている。

なんと!? (@_@) ⌒★?

> そうでなければ、
> どうしてネガティブな状態にしがみつき、
> 自分や他人を惨めにして
> 身体的な病気を創り出したがるのか。

うーむ。(-_-;)

なんの意味もないのは確かだ。

> だから自分の中に
> ネガティブな状態が生まれたとき、
> そのネガティブな状態に喜びを感じる、
> あるいはそれが目的達成に役立つと
> 考える部分があると気づけたなら、
> あなたはまさにエゴに気づいたことになる。

(@_@) ⌒★?

シーン。(-_-)

(-||-)

> そのとき、
> あなたのアイデンティティは
> エゴから気づきへとシフトしている。

(-_-;)

> エゴが縮み、
> 気づきが成長したということだ。

(-||-)

──────────────────
 ネガティブな状態のさなかに、
 「いまこの瞬間、
  私は自分で苦しみを作り出して
  自分を苦しめている」
 と気づくことができれば、
 それだけで条件に限定された
 エゴイスティックな状態と反応という
 限界を乗り越えることができる。
 気づきによって訪れる無限の可能性が開ける。
 どんな状況にも
 知的に対応できる可能性である。
 こんなのは知的ではないと気づいた瞬間に、
 あなたは自分のエゴから解放されて自由になる。
 ネガティブな状態は知的ではない。
 それはつねにエゴである。
 
 『−ニュー・アース』(p125-126)
──────────────────

> ネガティブな状態のさなかに、
> 「いまこの瞬間、
>  私は自分で苦しみを作り出して
>  自分を苦しめている」
> と気づくことができれば、
> それだけで条件に限定された
> エゴイスティックな状態と反応という
> 限界を乗り越えることができる。

ネガティブな状態とは

取りも直さず利己的な状態なのか。(-_-;)

心理的な苦しみに執着するのは

その苦しみから栄養をもらって

生き延びている者がいるから。

それがエゴのサバイバル戦略。

【エゴには自分が
 自分自身や他者に及ぼす苦しみが見えない。】
 
エゴは物語のなかで生きている。

エゴは物語の比較参照のなかでの

生存を画策しているだけで

自分のその生存戦略が 

生命体を苦しめていることを理解しない。

そもそもエゴ自体が

目的を与えられて走る

目的解決志向の連想にすぎないのだから。

不安や心配というネガティブな状態が

生命体に実際に及ぼすダメージは理解できない。

しかし自分が与えられた目的に沿って

忠実にその解決策を模索しつづける。

たとえそれが生命体にとって致命的な解決策であっても。

エゴとはそのようなプログラムだから。

そうか、苦しんでいるのは

エゴが作り出す誤解に満ちた解決策にフォーカスしている

意識エネルギーのほうなのか。(@_@) ⌒★?

だから意識がそのことに気づいたら。

> 気づきによって訪れる無限の可能性が開ける。

そう気づいただけで新たな可能性が開ける。

> どんな状況にも
> 知的に対応できる可能性である。

そのとき

どんな状況にも知的に対応できる

可能性が開ける。

> こんなのは知的ではないと気づいた瞬間に、
> あなたは自分のエゴから解放されて自由になる。

不幸であることは

けっして賢くもなければ

生命体が望んでもいないと気づいた瞬間、

意識とエゴのあいだに隙間ができる。

意識はエゴを識別する。

> ネガティブな状態は知的ではない。
> それはつねにエゴである。

不幸な状態は賢明ではない。

不幸な状態はただ

エゴが与えられた状況のなか

手に入る連想野のなかで割り出した利己的な解決策が

生命体にとって絶望的なものだったと言うだけ。

そして生命体がその解決策を信じたと言うだけ。

そういうすべての迷いは

【見かけ】に対する執着があるときにだけ起こる。

誰が【見かけ】に執着しているのか?

その誰かは存在するか?

言葉はトゲにもなる。

とげ抜きのトゲにもなる。

わたしは

わたしが考えていることでもなければ、

わたしが感じていることでもない。

わたしは

考えや感情に気づいているもの。

「私は在る」。

(-||-)

──────────────────
 あなたは在る。
 ほかのすべては現れにすぎない。
 
 『私は在る』(p421) 
──────────────────

(-||-)

──────────────────
 永久的なもの、
 それはあなた自身の存在である。
 真我として在りなさい。
 それが至福である。
 あなたはいつもそれなのである。
 
 『あるがままに』(p58) 
──────────────────

……。(-_-)

ありがとうございました。<(_ _)>

(-||-)

今日はこんなところで。

……。

m(_ _)m


   ………○…………○…………○………


『私は在る』の「目次」はここ↓にあります。
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■ 2.編集後記:
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不幸であることが

賢いことのように感じられていました。

そんな時代を長くすごしてきたようです。

いま不幸であることが

さほど賢いこととは思えなくなった。

誰にその不幸を見せびらかすというのでしょう?

エックハルト・トールの

『ニュー・アース』という本は

その装丁といい、

たしかに見かけた憶えがあるのに

本棚にありませんでした。

それでもう一度買ってみると、

やっぱり読んだことがありました。

ところがそれが最初だけで、

途中から読んだ憶えがない。

まさに初めて読む本でした。

きっと以前買ったことがあって

それをBookOffにでも持っていったのでしょう。

そのときは時期ではなかった。(^^;)

「ペインボディ」といい、

エックハルト・トールの描写は素晴らしい。

やっとその恩恵に与れる時期が来たようです。

ありがたいことです。(-||-)

すっかり暗くなりました。

それではおやすみなさい。

<(_ _)>


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■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
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  メール: pariアットマークjk2.so-net.ne.jp
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二つの配信スタンドで発行されています。
mag2:http://www.mag2.com/m/0000126287.html
melma:http://www.melma.com/backnumber_110091/
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