home > 通信 >『アセンション館通信』第775号:肉体たちの会話を見ている者



━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
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 ☆☆     ☆☆『アセンション館通信』2019/02/24(第775号)
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☆☆      ☆★ 【気刊】──「私は在る」に導かれ♪──
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 ☆☆   ☆☆   https://www.ascensionkan.com/
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇

このメルマガはアセンション館主人pariと称するあるパターンに
浮上している夢の場面の報告です。

 あなたがしなければならないことは、
 真我でない他のものごとに注意をはらうのをやめることだけだ。
 もしそれらに気づくのをやめれば、純粋な覚醒だけが残る。
 それが真我である。『あるがままに』

内容は人畜無害、でも読む人は相当変わっていますね。現在820名
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◇◇ もくじ ◇◇

1.肉体たちの会話を見ている者

2.編集後記
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■ 1.肉体たちの会話を見ている者
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このところずいぶん温かくなってきました。

なんでもないものが今こうして

自分を何かだと思って現象に注目している。

喜びも悲しみもその中にある。

そこにわたしの思い込みと執着がある。

(*^_^*)

さて、またまた一週間が過ぎて、

楽しい“アセンション噺”ならぬ「私は在る」噺に、

お付き合いいただく今がやってまいりました。

『アセンション館通信』配達人のpariです。

【自分は身体として生きている】

肉体の誕生以来、

わたしたちが積み重ねてきた訓練のすべてが、

まさにそのような観念の刷り込みだったでしょう。

そしてその自分という観念の背景にあるのが、

自分がいるという存在の感覚です。

この物理次元にひとつの肉体が誕生します。

するとその肉体の機能として、

そこに存在の感覚が発現します。

「私は在る」という感覚です。

肉体が誕生した世界は、

自分とはこの肉体のことだ

と教えてくれる世界です。

そのように教えてくれる肉体たちもまた、

自分とはその肉体のことだと

教えられてきたからです。

わたしに自分とはこの肉体のことだと

教えてくれたその肉体にも、

教えられたこの肉体と同じ程度の根拠しか

じつはなかったわけです。

肉体が肉体に風説を伝え続けてきただけです。

わたしにそう教えてくれたのは

他ならぬこのわたしだったというわけです。

伝言ゲームのように言い伝えられてきた

その風説はすっかり定着して、

風説は定説となり、

それを疑うことすら難しくなった。

しかし実際は、

肉体とはバイオロボットであり

それは自動操縦で生成崩壊する

機械過程でしかありませんでした。

客観的な存在を示すと思われた物質世界とは、

意識に反応して位置を変える

素粒子が見せる【見かけ】のことでした。

物質が形成するのはすべて見かけでした。

肉体とは反応系の表現を担当する

バイオロボットのことでした。

バイオロボットが何台揃い踏みしようが、

それはすべて自動操縦の機械過程です。

そこにどんな実体がいるわけでもありません。

ではその肉体たちの会話の様子を見、

またその会話に耳を傾け、

それへの反応として配達される想念に

気づいているのは誰か?

バイオロボットの肉体たちではありえない。

それらの肉体たち形態を見て、

そこで交わされる音声を聞き、

どこからともなく配達されるくる想念に

気づいているのは誰でしょうか?

気づきの内容の発現と同時に

その裏づけとして起こっている気づき、

つまり気づいているわたしです。

気づいているあなたです。

もちろんそれは同じものです。

永遠不動の唯一の実在です。

この永遠不動の唯一の実在が、

夢を観て遊んでいる……。

肉体となった夢を観て苦しんでいる……。

pariパターンというこの自分は、

自分に掛かったこの魔法を解くために、

もう長いこと同じような理屈を書き続けています。

しかし、

もし自分とはこの肉体のことだと言うなら、

この肉体である自分が逆立ちしても

この魔法を解けるはずもありません。

そもそもこの魔法を解こうと

この自動過程が思い立てるはずもない。

<気づき>が観ている夢の帳が

薄くなりはじめているのです。

子供のころに読んだ

あんなに面白かった物語にも、

終わりが近づいてくる予感がありました。

それは、

面白がっている自分が、

その物語の中にはいなかったことを、

また思いだしはじめるときでした。

今こうして肉体になっている自分も、

実際は肉体の中にはいない。

気づきは気づきの内容にはなれない。

気づきの内容の発現には、

それに気づいているものが必要なだけです。

その気づきが

みずからの存続を願うでしょうか?

ありえません。

また機械的自動過程である肉体にも、

何かを願うこともできなければ、

その願いに合わせて何かをすることも

できません。

夢の中の肉体になりきった者が

その肉体(登場人物)が負っている夢を

引き受けているのです。

マハラジはこう言います。

──────────────────
 あなたは自分が存在していることに
 何の疑いも持っていないが、
 何があなたに
 ずっと存続していたいと思わせるのだろうか?
 
 無限の時間が来ては去っていった。
 この時間の中で
 無数の形が創造されては破壊されてきた。
 今、彼らは存在の感覚をもっているだろうか?
 彼らは自分自身について心配しているだろうか?
 この存在感がなければ、
 あなたは何をすることもできず、
 またそれを継続するために
 できることも何一つないのだ。
 
 『意識に先立って』(p227) 
──────────────────

> あなたは自分が存在していることに
> 何の疑いも持っていないが、

(たしかにわたしは

 自分の存在を疑っていません。)

> 何があなたに
> ずっと存続していたいと思わせるのだろうか?

崩壊する運命にあるこの肉体を

存続させたいなどという実現不可能な夢を

何がわたしにもたせているのだろうか?

> 無限の時間が来ては去っていった。

これまでも無限の時間が過ぎ去った。

> この時間の中で
> 無数の形が創造されては破壊されてきた。

過ぎ去ったその無限の時間の中で

無数の生命形態が誕生しては死滅していった。

> 今、彼らは存在の感覚をもっているだろうか?

崩壊したその肉体は

今どこに在るというのだろうか?

それらの崩壊した肉体は

今もかつての存在感を発現しているだろうか?

> 彼らは自分自身について心配しているだろうか?

それらの崩壊した肉体たちは

今もなお自らの存続を心配しているだろうか?

> この存在感がなければ、
> あなたは何をすることもできず、
> またそれを継続するために
> できることも何一つないのだ。

肉体ゆえに発現している

この存在感がなかったら、

いったい誰が何を

欲望しうるというのだろう?

マハラジは、

この存在感から流れ出す夢を、

われわれが目覚めているときに見る

この「リーラ(神の戯れ」とも呼ばれる夢を、

「巨大な詐欺」と一刀両断する意識です。

その発言内容から見るかぎり、

ラマナ・マハルシとも

とても近いタイプの覚者のようです。

しかし、

そのマハラジは肉体の機能について

ここではとても異なる発言をしています。

ある意味では

とてもOshoに近縁な発言とも言えそうです。

運命である恩寵の指図のもとに、

この目覚めの夢の中にまで聞こえてきた

マハラジ最晩年のそんな言葉を

写経させていただきます。

今回は

「一九八〇年八月二九日」の対話から

写経いたします。

──────────────────
 一九八〇年八月二九日
 
 質問者 人が存在性ではないと知ったあとでも、
     その存在性はまだ存在したがります。
     それは自分自身を守ります。そのことは
     その単体に組み込まれているのですか?
 
 マハラジ
 そのとおりだ。
 それがその性質なのだ。

 質問者 存在性のこれらの単体たちは
     映像と同じくらいの価値しかなく、
     それらはただテレビ画面の映像のような
     ものというのは正しいですか ?
 
 マハラジ
 あなたはそれはを
 単なる映像として捉えるかもしれない。
 それでも、
 それは内部に宇宙を包括する
 ある原理をもった非常に驚くべき道具だ。
 だから単なる映像として
 退けないようにしなさい。
 
 真我は肉体の助けがなければ、
 それ自身の知識のある状態を
 経験することができない。
 肉体は必要な道具だ。
 食物と鼓動(生命−呼吸)、
 これらがなければ成長はなく、
 存在性もそこにはないことだろう。
 
 この肉体は栄養の入れ物にすぎないが、
 「私は在る」という知識は
 個人的なものではなく、
 宇宙的なものなのだ。
 
 『意識に先立って』(p109-110)
──────────────────

> 質問者 人が存在性ではないと知ったあとでも、
>     その存在性はまだ存在したがります。
>     それは自分自身を守ります。そのことは
>     その単体に組み込まれているのですか?

(とても高度な質問者のようですね。)

わたしたちは

「私は在る」ですらありません、

しかしそうと知ったあとでも

この存在感はまだ存在したがります。

この肉体に仕込まれた存在感は

存在感であり続けようとします。

こういうことは、

この肉体に組み込まれているのですか?

> マハラジ
> そのとおりだ。
> それがその性質なのだ。

そうだ。

それが肉体の性質だ。

> 質問者 存在性のこれらの単体たちは
>     映像と同じくらいの価値しかなく、
>     それらはただテレビ画面の映像のようなもの
>     というのは正しいですか ?

存在感を発現するこれらの肉体には

テレビ画面の映像ほどの価値しかない

というのは正しいのでしょうか?

> マハラジ
> あなたはそれはを単なる映像として捉えるかもしれない。

観念として知的に捉えるなら、

肉体には単なる映像としての意味しかないかもしれない。

> それでも、
> それは内部に宇宙を包括する
> ある原理をもった非常に驚くべき道具だ。

だが肉体自体は

その中に宇宙を包括するほどの原理を内蔵した

じつに驚嘆すべき道具だ。

> だから単なる映像として退けないようにしなさい。

だから単なる映像として高をくくって

退けたりしないほうがいい。

> 真我は肉体の助けがなければ、
> それ自身の知識のある状態を経験することができない。

この肉体という奇跡的道具の助けなしには、

そもそも真我自身の潜在可能性である

知識のある状態を経験することは不可能だからだ。

> 肉体は必要な道具だ。

実在の真の可能性を実現するには

肉体は必要な道具だ。

> 食物と鼓動(生命−呼吸)、
> これらがなければ成長はなく、
> 存在性もそこにはないことだろう。

食物と呼吸によって維持される

この肉体という形態での生命活動がなければ、

そこには成長も存在性もありえないことだろう。

> この肉体は栄養の入れ物にすぎないが、
> 「私は在る」という知識は個人的なものではなく、
> 宇宙的なものなのだ。

たしかにこの肉体は栄養の入れ物にすぎない。

だがこの肉体によって維持される

「私は在る」という知識は、

個人的なものではなくて宇宙的なものなのだ。

──────────────────
 質問者 存在性のこれらすべての単体たちをつうじて、
     意識がそれ自身を楽しんでいるのですか?
 
 マハラジ
 そのとおりだ。
 食物の包み、
 つまり肉体の形態のせいで、
 この存在性が個人性の中に入る。
 私の観点で言えば、
 それはダイナミックで、
 顕現した存在性があるだけで、
 どんな個人性もない。
 
 一度あなたがこの理解に至ったら、
 個人として自分自身を楽しむということはない。
 あなたはもはや個人ではなく、
 個人は消滅してしまったのだ。
 こうなる人はまれだ。
 
 すべての五大元素とその戯れを理解した者は、
 これら五大元素の本質である
 存在性について心配しないし、
 この状態もまた超越される。
 その者は人類の香りをもつ。
 彼は人類のことを忘れはしないが、
 自分が人類とは何の関係もないことを知っている。
 
 これを理解し、
 超越した者にとっては言葉は無用だ。
 
 存在性は自分が死ぬべきではないと感じてはいるが、
 いわゆる死が起こったとしても、
 それが喪失するものは何もない。
 
 私の立場を言えば、
 人間の形態をした存在性は
 すべて消えてしまっている。
 人間の形態が消滅したために、
 存在性が明白になったのだ。
 
 『意識に先立って』(p110-111)
──────────────────

> 質問者 存在性のこれらすべての単体たちをつうじて、
>     意識がそれ自身を楽しんでいるのですか?

個々の肉体によって発現する存在感、

その源泉から流れ出す物語をつうじて

意識はそれ自身を楽しんでいるのでしょうか?

> マハラジ
> そのとおりだ。

そうだ。

> 食物の包み、
> つまり肉体の形態のせいで、
> この存在性が個人性の中に入る。

食べ物の器であるこの肉体という機能形態のゆえに、

「私は在る」という存在感が個人の物語となり、

夢見られることが実現しているのだ。

> 私の観点で言えば、
> それはダイナミックで、
> 顕現した存在性があるだけで、
> どんな個人性もない。

ただし催眠状態にない私の観点から言うなら、

そこにはダイナミックな宇宙的存在性があるだけで、

現象にはどんな個人性もない。

> 一度あなたがこの理解に至ったら、
> 個人として自分自身を楽しむということはない。

そして

一度あなたにこの理解が浸透したら、

二度と再びあなたに

個人性を楽しむということは起こらない。

> あなたはもはや個人ではなく、
> 個人は消滅してしまったのだ。
> こうなる人はまれだ。

そこに個人性というものは

存在しないことが自明になったら、

個人という概念は消滅してしまう。

その状態が起こることは稀だ。

> すべての五大元素とその戯れを理解した者は、
> これら五大元素の本質である
> 存在性について心配しないし、
> この状態もまた超越される。

すべてが現象構造体を構成する

五大元素の自動過程であり、

それ以外には何も存在しないことが

理解されたら、

もはやその五大元素の存在性について

心配することも起こらないし、

その状態もまた超越される。

> その者は人類の香りをもつ。

その状態を超越した者には

人類の記憶が香りのように残る。

> 彼は人類のことを忘れはしないが、
> 自分が人類とは何の関係もないことを知っている。

その者には微かな人類の記憶が残るが、

それと自分が何の関係もないことも知っている。

> これを理解し、
> 超越した者にとっては言葉は無用だ。

その状態に達した者には

言葉による観念はいっさい無用になる。

> 存在性は自分が死ぬべきではないと感じてはいるが、
> いわゆる死が起こったとしても、
> それが喪失するものは何もない。

存在感は自分が消滅するとは感じていないが、

たとえ消滅したとしても、

失うものを何ももっていない。

> 私の立場を言えば、
> 人間の形態をした存在性は
> すべて消えてしまっている。
> 人間の形態が消滅したために、
> 存在性が明白になったのだ。

私の居場所に関して言うなら、

人間的な意味での存在感は

すべて消えてしまっている。

人間的な「私は在る」が消滅したために、

存在性が明白になったとも言える。

(-||-)

まあ……、

このような言葉が

夢の中に入ってくるということ自体が、

とても稀なことなのでしょう。

こういう言葉を聞くにつけ、

自分が見ている世界は

自分の執着なのだということが

感じられてきます。

われわれは一人ひとりが

別々の自分だけの世界に住んでいるのでしょう。

──────────────────
 子供はあなたの世界に生まれてくるのだ。
 さて、
 あなたは世界のなかに生まれたのだろうか、
 それとも、
 世界があなたに対して現れたのだろうか? 
 生まれるということは
 あなた自身を中心として、
 あなたの周りに世界をつくり出すことだ。
 しかし、
 あなたがあなた自身を創造したのだろうか? 
 あるいは、
 誰かがあなたを創造したのだろうか? 
 誰もが自分自身の世界をつくり出し、
 己の無知によって監禁され、
 そのなかで生きているのだ。
 わたしたちのしなければならないことは、
 牢獄の実在生を否定することだけだ。

 『私は在る』(p226)
──────────────────

(-||-)

──────────────────
 あなたは在る。
 ほかのすべては現れにすぎない。
 
 『私は在る』(p421) 
──────────────────

(-||-)

──────────────────
 永久的なもの、
 それはあなた自身の存在である。
 真我として在りなさい。
 それが至福である。
 あなたはいつもそれなのである。
 
 『あるがままに』(p58) 
──────────────────

……。(-_-)

ありがとうございました。<(_ _)>

(-||-)

今日はこんなところで。

……。

m(_ _)m


   ………○…………○…………○………


『私は在る』の「目次」はここ↓にあります。
https://www.ascensionkan.com/books/I_AM_THAT-index.html

「ニサルガ辞書」で遊んでみてください。
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「ラマナ・マハルシ辞書」はここです。
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■ 2.編集後記:
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「アセ館note」というブログで

日記みたいなものを書き始めました。

今日みたいなメルマガを書く日は

多分更新しないと思いますが、

それ以外は、

たいていなにか書こうかと思っています。

といっても、

別に特段の異なる話題があるわけでもないので、

相も変わらず同じような話を書くだけですが、

その瞬間その瞬間、

配達されてくる想念を文字にしていく感じです。

よろしければ、

お付き合いください。

今日はすっかり暗くなりました。

それではおやすみなさい。

<(_ _)>


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■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
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  メール: pariアットマークjk2.so-net.ne.jp
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二つの配信スタンドで発行されています。
mag2:http://www.mag2.com/m/0000126287.html
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