━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
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☆☆ ☆☆『アセンション館通信』2019/03/03(第776号)
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☆☆ ☆★ 【気刊】──「私は在る」に導かれ♪──
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☆☆ ☆☆ https://www.ascensionkan.com/
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇
このメルマガはアセンション館主人pariと称するあるパターンに
浮上している夢の場面の報告です。
あなたがしなければならないことは、
真我でない他のものごとに注意をはらうのをやめることだけだ。
もしそれらに気づくのをやめれば、純粋な覚醒だけが残る。
それが真我である。『あるがままに』
内容は人畜無害、でも読む人は相当変わっていますね。現在820名
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◇◇ もくじ ◇◇
1.現象は存在を知らせるアラーム音
2.編集後記
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■ 1.現象は存在を知らせるアラーム音
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今日は春の陽気ですね。
このところ私的にいろいろ状況があって
さまざまな思いを通過しています。
現象という物質性の中には
どんな実体(個人性)も存在しない
という思いを強くしています。
(-_-)
さて、またまた一週間が過ぎて、
楽しい“アセンション噺”ならぬ「私は在る」噺に、
お付き合いいただく今がやってまいりました。
『アセンション館通信』配達人のpariです。
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質問者 もちろん、私の行為は
私がコントロールできます。
マハラジ
試してみるがいい。
しなければならないことを
するのだということを、
あなたはすぐに理解するだろう。
『私は在る』(p373)
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> しなければならないことを
> するのだということを、
> あなたはすぐに理解するだろう。
マハラジの言葉のなかで
この言葉ほど自前の言葉として語れる言葉は
ほかにないかもしれません。
どこから湧いてくるのか知らないけれど、
配達されてくる想念を
自分に結びつけているかぎり
いつまで経っても想念に救いを求めるしかない。
求められるかぎり、
次々と想念は湧いてきます。
注目されているのに、
自から身を引く詐欺師など
いないようなものかもしれません。
かくて次々と
あたかも最新の究極的理解でもあるかのように
使い古された新たな想念が送られてくる。
そんなふうにして
ひとつの身体の生涯はすぎていくのでしょう。
物理現象としての“自分”に
できることがあるという幻想のなかで、
実際は何ひとつできることなどないこと、
そもそも物理現象にどんな個人的実体もないことが
自明になっていくまでの道行きが
織り込まれているのでしょうか。
バイオロボットたちのふるまいが
眼前に展開しているのです。
それを見ている誰かがいるのでしょうか?
少なくとも
物質過程であるバイオロボットに
それを見ることができないことは確かです。
バイオロボットは
ある登場人物のふるまいを造形するための
表現媒体です。
その表現を知覚する役割までは担えません。
たとえば、トランペットの音に、
バイオリンの音が聞こえないようなものです。
トランペットの音という物理過程は、
トランペットの音を表現するだけで手が一杯で
バイオリンの音を聞く能力などもちません。
現象の表現媒体には、
現象を知覚する能力はありません。
では、誰が、あるいは何が
現象に気づいているのか?
現象に気づいているのは、
現象の表現媒体にはなれないものです。
それはどんな現象も表現できない何かです。
いや、
それはけっして「何か」には成れない何かです。
眼前の全現象世界を知ることができるのは
自らはけっして現象できないものです。
存在するのは<意識>だけと言われるとき、
その<意識>には二つの相があります。
ひとつは現象を表現するための変化の相。
もうひとつはその現象に気づくための不動の相。
この両面を備えないかぎり
<意識>は現象することができません。
現象を視覚的形態でイメージするなら、
形態に気づけるのは何もない空間だけです。
現象を聴覚的音声でイメージするなら、
音声に気づけるのは無音の静寂だけです。
けっして何者にも成れないものしか
何かを体験することはできない。
自分を現象の中の何かだと思ったとたんに、
潜在的に一種の違和感が始まっている。
環境にチヤホヤされているうちはいい。
しかしいったん環境に甘やかされなくなると、
たちまち探求とやらが始まるのです。
「なぜ私がこんな目に遭わなければならないの?」
「俺が何をしたというのだ!」
やがては、
「何故にすべては始まってしまったのか?」
などと。
かくて、あらゆる意味は
物語の中にしか存在できないことが納得され、
現象とは自分が存在することを知らせる
アラーム音にすぎないことを悟るのです。
運命である恩寵の指図のもとに、
この目覚めの夢の中にまで聞こえてきた
マハラジ最晩年の言葉を
写経させていただきます。
今回は
「一九八〇年一〇月一日」の対話から
写経いたします。
──────────────────
マハラジ
真我は空間よりも微妙なものだ。
真我にとっては誕生も死もない。
私が言うことを盲目的に受け入れてはいけない。
私に質問しなさい。
私が詳細に説明している知識を
徹底的に調べ、検査し。
それから初めてそれを受け入れなさい。
あなたは家の中に住んでいるが、
家はあなた自身ではない。
同様に、
「私は在る」という知識は肉体の中にあるが、
それは肉体ではない。
『意識に先立って』(p131-132)
──────────────────
> 真我は空間よりも微妙なものだ。
(空間というのは、
物理現象ではないにしても
その物理現象を入れる器であり、
その意味でとても物理的な表現です。
真我という気づきの一点は、
その空間よりもずっと
全現象の源泉そのものを
指し示しているのかもしれませんね。)
> 真我にとっては誕生も死もない。
真我という実在は
意識全体を支える根拠であり、
意識内の現象の尺度にすぎない時間のなかで
誕生したり崩壊したり
できるようなものではない。
> 私が言うことを盲目的に受け入れてはいけない。
ただし、
私がそう言ったからといって、
その言葉を無批判に盲目的に受け入れても
何の役にも立たないだろう。
> 私に質問しなさい。
それよりはむしろ、
自分が理解できないことは
私に質問しなさい。
> 私が詳細に説明している知識を
> 徹底的に調べ、検査し、
> それから初めてそれを受け入れなさい。
そして私が詳しく説明するその知識を、
自分が納得できるまで徹底的に調べ、
後戻りする必要がないくらいに
自分で検査してから、
はじめてそれを受け入れなさい。
> あなたは家の中に住んでいるが、
> 家はあなた自身ではない。
あなたは自分が家に住んでいても
自分が家ではないことを知っている。
> 同様に、
> 「私は在る」という知識は肉体の中にあるが、
> それは肉体ではない。
それと同じように、
自分が存在するというその存在感は
たしかに肉体に根ざして発現するが、
肉体そのものが
自分の存在を知っているわけではないのだ。
──────────────────
質問者
私は完全にはそれが理解できません。
マハラジ
マインドでは決して理解できないだろう。
あなたはマインドでもなく、
言葉でもなく、
言葉の意味でもない。
私は真我の知識を、
真我に対して詳しく説明しているが、
あなたはそれを
自分の肉体の知識として受け入れている。
私は完全に
肉体と肉体内部の意識から離れている。
それにもかかわらず、
この病気のせいで、
肉体の耐え難い苦痛が
意識を通じて経験されている。
それは耐え難いものだが、
私は肉体と意識から離れているので
話すことができる。
それは扇風機のようなものだ。
そよ風がそこにあり、
音もまたそこにある。
同様に生命−呼吸がそこにあり、
音がまた流れ出てくる。
しかし、
これらの出来事すべてが耐え難い……
それでも、
その苦しみは耐えられねばならないのだ。
『意識に先立って』(p132)
──────────────────
> 質問者
> 私は完全にはそれが理解できません。
(まあ、
そういう言い方をすればそうなんだけど。)
> マハラジ
> マインドでは決して理解できないだろう。
とはいえ、
肉体が生きていても、
眠ったとたんに存在感を失うわけだから、
肉体自体が存在感そのものでないことは、
論理的に理解できるとも言えます。
> あなたはマインドでもなく、
> 言葉でもなく、
> 言葉の意味でもない。
体験をしているあなたは、
気づきの対象であるマインドでもなく、
気づきの対象である言葉でもなく、
気づきの対象である言葉の意味でもない。
あなたはそれらの気づきの対象物に
気づいている者だ。
> 私は真我の知識を、
> 真我に対して詳しく説明しているが、
> あなたはそれを
> 自分の肉体の知識として受け入れている。
私はこうして
真我の知識を真我であるあなたに
詳しく説明しているが、
あなたはその知識を
肉体の立場で解釈し直して受け入れている。
> 私は完全に
> 肉体と肉体内部の意識から離れている。
私自身の今の立場は、
肉体とも肉体内部の意識とも完全に離れている。
> それにもかかわらず、
> この病気のせいで、
> 肉体の耐え難い苦痛が
> 意識を通じて経験されている。
だがそういう状態にあるにもかかわらず、
この病気のゆえに、
肉体内部の意識を通じて
耐え難い苦痛が経験されている。
> それは耐え難いものだが、
> 私は肉体と意識から離れているので
> 話すことができる。
その苦痛は耐え難いものだが、
私は苦しんでいる肉体に同一化していないので
こうして話すことができる。
> それは扇風機のようなものだ。
> そよ風がそこにあり、
> 音もまたそこにある。
それは扇風機が回っているとき、
そこにそよ風が吹くと同時に、
扇風機の音もしているようなものだ。
> 同様に生命−呼吸がそこにあり、
> 音がまた流れ出てくる。
それと同じように、
この肉体に生命−呼吸現象が起こっていると、
そこに音も流れ出ているのだ。
> しかし、
> これらの出来事すべてが耐え難い……
> それでも、
> その苦しみは耐えられねばならないのだ。
とはいて、
これらの出来事すべてが耐え難い……。
それでも、
この苦しみは耐えるより仕方がないのだ。
──────────────────
「私は在る」の知識がないとき、
あなたは何かを認識したり、
観察したりすることができるだろうか?
知ることが知識であり、
知らないということもまた知識であるが、
知識には形が備わっていない。
もしあなたがそれと肉体を同一化するなら、
そのとき初めてあなたは自分を男だとか、
女だとか言うようになるのだ。
知識がなければ、
私は知っているとか
知らないという問題は起こらない。
知識について私が言ったことを理解するとき、
あなたは完全にそれと一体化することだろう。
意識の帳簿から自分が抹消されたことを
私は自然に理解した。
あなたは自分の肉体を通じて、
自分自身を味わわなければ
幸福を感じないことだろう。
肉体が重要なのは、
ただ「私は在るという性質」、
つまり意識がその中に居住しているからだ。
もし「私は在るという性質」、
意識がそこになければ、
肉体は廃棄物として処分されることだろう。
自分の肉体を知識と呼ぶのではなく、
「私は在る」というその知識を
自分の真我と呼びなさい。
普通、
グルたちは真我を
これほど深くは紹介しないことだろう。
彼らはただすべての儀式を紹介するだけだ。
「私は在る」という知識が第一の神だ。
ただ、
それだけを瞑想しなさい。
今、
なぜ人間は神を創造したのかと
人は尋ねるかもしれない。
一つの神の概念とは、
もしあなたが祈るならその神は
望むもの何でも与えてくれるというものだ。
そういった神は偉大だ。
もし何かを要求すれば、
神は満たしてくれるだろうという考えを
私たちはもっている。
『意識に先立って』(p132-133)
──────────────────
> 「私は在る」の知識がないとき、
> あなたは何かを認識したり、
> 観察したりすることができるだろうか?
もし肉体に根ざす存在感がなくて、
あなたが自分の存在を知らないとしたら、
それでもあなたが
何かを認識したり観察したりできるだろうか?
あなたは熟睡のさなかで
何かを認識したり観察したりしたことがあるかね?
> 知ることが知識であり、
> 知らないということもまた知識であるが、
> 知識には形が備わっていない。
何かを知ることはそれ自体が知識だ。
あなたが何かを知らないことを知っていれば
それもまた知識だ。
たが、
この知識という知的過程には
物質現象のような形態は備わっていない。
> もしあなたがそれと肉体を同一化するなら、
> そのとき初めてあなたは自分を男だとか、
> 女だとか言うようになるのだ。
だからもしあなたが
自分を男だとか女だとか言うとすれば、
それはあなたが
その何かを知っている知的過程を
そこに現象している
男性または女性の肉体と同一化したからだ。
> 知識がなければ、
> 私は知っているとか
> 知らないという問題は起こらない。
もしそこに存在の感覚がなくて、
存在感に基づく知的過程が起こっていなければ、
私は知っているとか
知らないとかいう問題は起こりようがない。
そして
その存在感こそがあなた自身なのだ。
あなたを苦しめる問題のすべてを、
存在感であるあなた自身が
支えていることを理解しただろうか?
すべての問題は
あなたが関心をもつから
現象しているだけなのだ。
> 知識について私が言ったことを理解するとき、
> あなたは完全にそれと一体化することだろう。
「私は在る」という知識について
いま私が言ったことを理解したら、
あなたは完全にその知識と一体化して、
それを完全に自家薬籠中のものにするだろう。
> 意識の帳簿から自分が抹消されたことを
> 私は自然に理解した。
私が意識に対する関心をまったく失ったとき、
自分が意識の帳簿から抹消されたことを
私は自然に理解した。
> あなたは自分の肉体を通じて、
> 自分自身を味わわなければ
> 幸福を感じないことだろう。
おそらくあなたは、
自分の肉体を通じて自分自身を味わわなければ
幸福を感じないことだろう。
> 肉体が重要なのは、
> ただ「私は在るという性質」、
> つまり意識がその中に居住しているからだ。
肉体が重要な理由は、
ただあなたの存在の感覚が、
その肉体のなかで発現するからなのだ。
つまり
あなたは肉体を通じてしか、
自分が存在することを知りえないのだ。
なぜなら
自分は存在するという感覚は、
肉体のなかでしか発現しないからだ。
> もし「私は在るという性質」、
> 意識がそこになければ、
> 肉体は廃棄物として処分されることだろう。
もし肉体(というバイオロボット)によって
自分が存在するという感覚、
全意識世界の根拠である存在感が発現しなかったら、
肉体はただの糞袋として廃棄処分されるだろう。
> 自分の肉体を知識と呼ぶのではなく、
> 「私は在る」というその知識を
> 自分の真我と呼びなさい。
肉体を自分の存在の根拠と見なすのではなく、
自分が存在するというその存在の感覚を
真実の自分だと理解しなさい。
> 普通、グルたちは
> 真我をこれほど深くは紹介しないことだろう。
たいていのグルたちは
真我をこれほど深くは説明しない。
> 彼らはただすべての儀式を紹介するだけだ。
彼らは従来の儀式を説明するだけだ。
> 「私は在る」という知識が第一の神だ。
> ただ、それだけを瞑想しなさい。
自分が存在することを知っている
その知識こそが第一の神なのだ。
ただそれだけにすがりなさい。
> 今、
> なぜ人間は神を創造したのかと
> 人は尋ねるかもしれない。
なぜ人間は神を創造したのかと、
それを問題にする人々もいるかもしれない。
> 一つの神の概念とは、
> もしあなたが祈るならその神は
> 望むもの何でも与えてくれるというものだ。
神の概念のひとつに、
その神を頼り、崇拝して、祈りを捧げれば、
何でもこちらが望むものを神が与えてくれる、
という概念がある。
> そういった神は偉大だ。
たしかに、
そういう神がいるならそれは偉大な神だろう。
> もし何かを要求すれば、
> 神は満たしてくれるだろうという考えを
> 私たちはもっている。
その神に何かを頼んだら、
その神が願いを叶えてくれるという考えを
私たちはもっているようだ。
(-||-)
──────────────────
あなたは在る。
ほかのすべては現れにすぎない。
『私は在る』(p421)
──────────────────
(-||-)
──────────────────
永久的なもの、
それはあなた自身の存在である。
真我として在りなさい。
それが至福である。
あなたはいつもそれなのである。
『あるがままに』(p58)
──────────────────
……。(-_-)
ありがとうございました。<(_ _)>
(-||-)
今日はこんなところで。
……。
m(_ _)m
………○…………○…………○………
『私は在る』の「目次」はここ↓にあります。
https://www.ascensionkan.com/books/I_AM_THAT-index.html
「ニサルガ辞書」で遊んでみてください。
https://www.ascensionkan.com/ndic/
「ラマナ・マハルシ辞書」はここです。
https://www.ascensionkan.com/rdic/
『アセ通』既刊号はすべてここにあります。
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………○…………○…………○………
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■ 2.編集後記:
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この一週間ほど
いろいろ体験を通してしか知りえない
情動の動きを通過してきました。
想念は想念に助けを求め、
あたかも何かが割り切れているかのような
幻想にたどり着こうとします。
でも、どんな想念も
ひとつのつかの間の場面でしかなく、
かならず過ぎ去っていくものです。
つかの間の想念に
どんな究極の理解を求めようというのでしょう?
しょせん、それは無理な願いです。
想念とは、
そして想念の学びとは、
想念への過剰な期待を終焉に導くための
踏み石でしかありえないのでしょう。
そしてそれらすべての想念の源こそが
「私は在る」という存在感なのだと思います。
マハラジは、
> 「私は在る」という知識が第一の神だ。
> ただ、それだけを瞑想しなさい。
と言います。
マハラジから何かを教わろうとするのなら、
ここを外しては他にはありえないのでしょう。
わたしたちは自分が存在することを知っています。
あらゆる意識世界の彩りは、
すべてこの「私は在る」に依拠しています。
そして全意識世界の根拠こそが
この「私は在る」であり、
それこそがまさにわたしでありあなたであるようです。
(-||-)
今日はかなり暗くなりました。
<(_ _)>
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■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
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メール: pariアットマークjk2.so-net.ne.jp
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二つの配信スタンドで発行されています。
mag2:http://www.mag2.com/m/0000126287.html
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