home > 通信 >『アセンション館通信』第778号:「今しかない」の現象論的意味



━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
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 ☆☆     ☆☆『アセンション館通信』2019/03/17(第778号)
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☆☆      ☆★ 【気刊】──「私は在る」に導かれ♪──
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 ☆☆   ☆☆   https://www.ascensionkan.com/
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇

このメルマガはアセンション館主人pariと称するあるパターンに
浮上している夢の場面の報告です。

 あなたがしなければならないことは、
 真我でない他のものごとに注意をはらうのをやめることだけだ。
 もしそれらに気づくのをやめれば、純粋な覚醒だけが残る。
 それが真我である。『あるがままに』

内容は人畜無害、でも読む人は相当変わっていますね。現在819名
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◇◇ もくじ ◇◇

1.「今しかない」の現象論的意味

2.いただいたお手紙から:まーさん

3.編集後記
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■ 1.「今しかない」の現象論的意味
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そのときにそういう気分が生じるのか、

そのときをそう思いなすのか知りませんが、

いつもまさにそのとおりの

気分が生じているような気がします。

いつも今がある。

その今はたまたま春。

(*^_^*)

さて、またまた一週間が過ぎて、

楽しい“アセンション噺”ならぬ「私は在る」噺に、

お付き合いいただく今がやってまいりました。

『アセンション館通信』配達人の pari です。

こうして一週間に一度、

誰に頼まれたわけでもないのに

そのとき湧いた思いを書き連ねては配信し、

こうして15年が経過しました。

何かがわかってきたとか

そういうことでもなさそうです。

ただ肉体なら老化するでしょうが、

メンタル体は固化していくのかもしれません。

だんだん形が決まってきて

その動きの範囲が狭まってくる。

もしそういう言い方のほうが望ましいなら、

成熟するという立派な言い換えもあります。

確信が深まっていくわけです。

他のいろいろな想念の影響を受けにくくなる。

そういう言い方もできるかもしれません。

そういうある意味で成熟のなかで、

「今しかない」という言葉の意味が

自分なりにとても了解できる気がしてきました。

スピリチュアルな世界では、

「今しかない」とか、

「存在するのは今だけ」という言い方は

ごく一般的です。

過去、現在、未来という

現象世界の現実(物語)を構成するための

時間の概念から判断しようとすると、

この「今しかない」という言葉は

とても神秘的な観念とも聞こえたものです。

でもこの言葉は別に、

時間の概念に背反するものでもなさそうです。

経験を可能にする時間概念を前提してもなお、

事実として「今しかない」と言えます。

この「今しかない」という事実は、

人生という体験世界(=物語)を

構築するための時間概念のなかでは

「何事も取り返しがつかない」

と表現されます。(*^_^*)

この

「何事も取り返しがつかない」

という時間的表現を裏張り(=保証)しているのは

「何事も取替はきかない」

という空間的事実です。

これが単純な事実なのに

人生という体験世界(=物語)に執着する目的で

あたかも

「何事も取り返しがつく」かのような態度を取り、

そのために

「何事も取替がきく」かのような態度を取る

という虚偽(=誤魔化し)が

人生に密輸入されざるをえないのです。

でも、事実は、

あなたもよくご存知の通り、

そしてもし誠実ならあなたも否定できないように、

人生という体験世界(=物語)でも

事実として何事も取り返しはつきません。

何かの体験を別の体験と

取り替えることはできないからです。

起こってしまったことは起こってしまいました。

起こったということは

単なる【見かけ】上のホログラムであって、

その背後にどんな実体もないというような話は

またそれとは別のことです。

現象世界全体はひとつの虚構かもしれません。

別にその可能性を否定しようとも思いませんが、

でも普通の現象世界を前提にして、

そこで演じられているこの人生を考えても、

何事も取り返しがつかないのは事実です。

「何事も取り返しがつかない」というのは

現象的事実に対する時間的表現です。

これを空間的に表現するなら、

「何事も取り替えがきかない」

という表現になるでしょうか。

Aという事象が存在する、と言ったとき、

その表現は

Aという事象はBという別の事象と

取り替えることはできない、

という事実を含意しているということです。

例を挙げるなら、

東日本大震災が起こった(A)という事象があったのなら、

それは東日本大震災は起こらなかった(B)という事象と

取り替えられないことを含意しています。

なぜなら、

それができることにしてしまうと、

A=A

A≠(not equal) B

という現象世界を規定している

埴谷雄高さんがいうところの「自同律」が

否定されてしまうことになるからです。

自同律が否定されるということは、

じつは何も起こっていないということ、

Aという事実も存在しなければ、

Bという事実も存在しないことが、

明々白々になってしまうということです。(*^_^*)

宇宙ゴシップ的には、

この地球は「悲しみの星」とか、

「制限の帝王」と呼ばれているそうです。

そのニュアンスを保証するかのように、

この惑星地球での人生は比較的に真面目で

この自同律は否定されていない世界です。

だからこそ

ここにはわれわれ人間が住んでいて、

そこには人生があるわけです。

自同律が否定されて、

「何事も取り返しがつく」ことになり

「何事も取り替えがきく」ことになると、

そこにあるのは

「人生」ではなく「ゲーム」になります。

するとそこでは

過去から未来へと一直線につながる記憶、

つまり「時間」は、

その時その時の好みで選択可能な

たくさんの並行現実の集合「タイムライン」となって、

「いま」の選択によって

自由自在に過去や未来の現実を

消去したり変更したりができることになります。

別の言い方をすると、

われわれは

投影された現実の中の登場人物(人間)ではなく、

好みの現実を投影するゲームプレーヤ(一種の神)に

なるということでしょうか。

それを称して「アセンション」と言うのかもしれません。

しかし、

アセンションとは言っても、

自分もいれば他者もいるわけで、

そこでドラマを演じることができる現実はあるわけです。

いわば「ゲームの規則」がある世界です。

こういう世界のことを

ニサルガダッタは「巨大な詐欺」と断じました。

「巨大な詐欺」というのはきつい表現ですが、

それは現実はあると思い込み、

自分はその現実に拘束される人間だと思いこんでいた

その思い込みの叫びとも言えます。

しかし実際は、

存在するのは<意識>だけだったわけです。

その唯一の実在である<意識>には、

現象という【見かけ】の多様性と、

その【見かけ】に気づいている一体性という

二つの側面があったわけです。

「ゲームの規則」自体は

思いつけるなら何でもありです。

ちょっと話がずれたかもしれません。

「今しかない」、

「存在するのは今だけ」というのが、

不思議なことでも何でもなくて、

このわれわれの時間概念に即した人生でも

否定しがたい端的な事実だという話でした。

過去も未来も現在も存在しない、

「あるのは今だけ」と表現すると、

とても理解しがたい神秘的概念とも聞こえます。

でも、

これを次のように表現してみたら、

それは不思議でもなんでもない、

ただの単純な事実になります。

いま起こっていることは、

事実いま起こっている。

わたしはそれを知っている。

過去の記憶の中の誰かが、

そんなものが存在することはないだろうと断言しても、

未来に想像される誰かが、

そんなものは存在しなかった断定しても、

そんな判断に一切動揺することなく、

いま起こっていることが、

事実いま起こっていることを

わたしは知っているのです。

いま起こっていることの意味を、

過去の誰かの判断に再確認する必要もなければ、

未来の誰かの判断に委ねる必要もありません。

たとえそうしてみたところで、

いまそれが起こっているという事実を、

どう取り返しようもないわけです。

だって現に今そのように

起こっているのですから。

たとえそれが

夢の中の囚われであろうと、

未来へのいたずらな期待であろうと、

それがいま起こっているという事実を

わたしは知っているわけです。

これが

それほど理解しがたいことでしょうか。

それほど神秘的な話でしょうか。

いまこの瞬間

このような体験が起こっている。

その事実はけっして他の瞬間によって

代替できるものではありません。

どんな今もけっして取り返しがつきません。

けっして比較可能ではありません。

それが「私は在る」によって

裏打ちされているからです。

比較とか意味とは

記憶の中の観念的操作です。

意味とは物語の中にしかありません。

意味とは物語のなかで捏造されるもの。

実在するものではありません。

意味へのこだわりとは

物語への執着のこと。

娯楽への耽溺でしかありません。

別に良くも悪くもない。

ただ耽溺はすべて高くつくと言うだけです。

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 人が意識しているかぎり、
 そこに苦痛と快楽はあるだろう。
 意識のレベルで
 快楽や苦痛と闘うことはできないのだ。
 それらを超えていくには、
 意識を超えなければならない。
 意識をあなたのなかにではなく、
 あなたに対して起こる何か外部の、
 異質な、
 あなたの上に押し重ねられた
 ようなものとして見るときにだけ、
 それを超えることが可能なのだ。

 『私は在る』(p400)
 http://tinyurl.com/s747u
──────────────────

> 人が意識しているかぎり、
> そこに苦痛と快楽はあるだろう。

物語を自分の住処とするかぎり、

苦痛と快楽を避けることはできない。

> 意識のレベルで
> 快楽や苦痛と闘うことはできないのだ。

夢のなかで

夢の出口を探すことは無駄だ。

> それらを超えていくには、
> 意識を超えなければならない。

夢を超えていくには、

物語そのものを放棄するしかない。

> 意識をあなたのなかにではなく、
> あなたに対して起こる何か外部の、
> 異質な、
> あなたの上に押し重ねられた
> ようなものとして見るときにだけ、
> それを超えることが可能なのだ。

物語が呼び起こす意識を、

自分の中に起こる反応としてではなく、

何か外側から押しつけられた

自分にとって異質なものと見るときにだけ

夢を超えることが可能になるのだ。

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 人は身体と彼自身を同一視し、
 その身体の行為の報いに執着するか、
 あるいはそれから離れ、
 身体の活動の単なる目撃者となるか、
 という選択の自由だけをもっているのである。
 
 『あるがままに』(p389)
 http://tinyurl.com/2aar6zj
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> 人は身体と彼自身を同一視し、
> その身体の行為の報いに執着するか、
> あるいはそれから離れ、
> 身体の活動の単なる目撃者となるか、
> という選択の自由だけをもっているのである。

人は

自分の身体が生きていると誤解して、

その身体の生存に執着するか、

身体への自己同化から離れて

身体の活動の単なる目撃者となるか、

それを選択することができるだけなのである。

(-||-)

──────────────────
 「私は実現していない」という想いが
 実現への障害である。
 実際には、
 それはすでに実現されている。
 それ以上実現されるべきものは何もない。
 さもなければ
 実現とは何か新しいものだろう。
 いままでなかったものなら、
 これから起こるということである。
 誕生したものは死ななければならない。
 実現が永遠のものでなければ、
 得る価値もない。
 それゆえ、
 われわれが探究するものは、
 新しく起こる何かではない。
 それは永遠なるものなのだ。
 
 『あるがままに』(p116)
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> 「私は実現していない」という想いが
> 実現への障害である。

あなたが抱えている唯一の問題は、

自分が悟っていないと

誤解していることだけだ。

> 実際には、
> それはすでに実現されている。

実際には、

あなたはすでに究極の状態にある。

> それ以上実現されるべきものは何もない。

あなたの現状以上に

実現されるべきものなどなにもない。

> さもなければ
> 実現とは何か新しいものだろう。

もしそうでなかったら、

そして悟るためにこの上何かを

実現する必要があるのだったら、

そこで実現される何かは、

あなたの現状にはなかった

何か新しいものということになる。

> いままでなかったものなら、
> これから起こるということである。

もしそれがあなたの現状にないものなら、

それはこれから起こるということだろう。

> 誕生したものは死ななければならない。

これから起こるような何かは、

早晩失われる何かということになる。

> 実現が永遠のものでなければ、
> 得る価値もない。

そんなものは獲得する意味もない。

それは永遠のものではないのだから。

> それゆえ、
> われわれが探究するものは、
> 新しく起こる何かではない。
> それは永遠なるものなのだ。

だから、

あなたが探し求めているものは、

これから手に入れるようなものではない。

それはすでにあなたの現状である

永遠なるものなのだ。

(-||-)

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 あなたは在る。
 ほかのすべては現れにすぎない。
 
 『私は在る』(p421) 
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(-||-)

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 永久的なもの、
 それはあなた自身の存在である。
 真我として在りなさい。
 それが至福である。
 あなたはいつもそれなのである。
 
 『あるがままに』(p58) 
──────────────────

……。(-_-)

ありがとうございました。<(_ _)>

(-||-)

今日はこんなところで。

……。

m(_ _)m


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『私は在る』の「目次」はここ↓にあります。
https://www.ascensionkan.com/books/I_AM_THAT-index.html

「ニサルガ辞書」で遊んでみてください。
https://www.ascensionkan.com/ndic/

「ラマナ・マハルシ辞書」はここです。
https://www.ascensionkan.com/rdic/

『アセ通』既刊号はすべてここにあります。
https://www.ascensionkan.com/mm/


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■ 2.いただいたお手紙から:まーさん
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▼『アセ通』へのご意見投稿フォーム:
http://www.formzu.net/fgen.ex?ID=P48750702

「私は在る」に関するご意見や単なるメールなど、

ご自由にお書きください。


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今回、まーさんとおっしゃる方から

はじめてのご投稿をいただきました。

さっそく、ご紹介します。

【件名】:質問
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 パリさま。
 素敵な記事ありがとうございます。
 私、マハラジ経由でラメッシの意識は語るで
 やっと降参した者です。
 アセンション館通信新参者ゆえ、
 まだ読めてない記事が多くて見つけられないのかもし
 れませんが、2018年11月18日の記事の中に、
 2018年にタイムラインの扉がひらいてコマの選択がで
 きるようになったとありますが、
 選択するのは誰でしょうか。
 シナリオは決まってるのではないのですか。
 私が文意を上手くつかめてないのかもしれませんが、
 気になるので関連記事番号教えてください。
──────────────────

まーさま、ご投稿ありがとうございます。

> パリさま。
> 素敵な記事ありがとうございます。

お読みいただき、感謝です。(-||-)

> 私、マハラジ経由でラメッシの意識は語るで
> やっと降参した者です。

そうでしたか。

> アセンション館通信新参者ゆえ、
> まだ読めてない記事が多くて見つけられないのかもし
> れませんが、2018年11月18日の記事の中に、
> 2018年にタイムラインの扉がひらいてコマの選択がで
> きるようになったとありますが、
> 選択するのは誰でしょうか。

まったくですね。(*^_^*)

> シナリオは決まってるのではないのですか。

おっしゃるとおりです。

シナリオのことなど何も知りませんが、

まーさんがご指摘のとおり

すべて夢の中の話しであることだけは

間違いありません。

> 私が文意を上手くつかめてないのかもしれませんが、
> 気になるので関連記事番号教えてください。

いいえ、

まーさんのおっしゃるとおりなのです。

ときどき、夢の中の物語について

知ったかぶりのことを

言いたくなるという癖が出てくるだけです。

なにしろ『アセンション館通信』ということで

メルマガを始めたようなタイプの人間ですから。

もちろん、そういう話はすべて

時間の中にある物語、

要するに夢の中の話です。

ゼンマイが少しずつ緩んでいるはずですが、

ときどき何かの情報に触れたりすると、

一瞬ゼンマイが巻き込んだりするのです。

現象構造体のなかで使われている

pariという道具の癖だとお考えください。

そんな癖を自慢もしませんが、

恥じるほどの責任もないと思っています。(^_-)

よろしければ、

また何かご投稿いただければ嬉しいです。

ありがとうございました。

m(_ _)m


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▼『アセンション館通信』への情報ご投稿フォーム
http://www.formzu.net/fgen.ex?ID=P87119518


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■ 3.編集後記:
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現象として起こっていることは

まったく個人的なものでないことが

だんだん理解されてくるようです。

と言ってもこういうたぐいの話ですから、

論理的に理解されるということでもありません。

ただ、事実としてそうだという

感じが深まってくるというだけです。

今日はすっかり遅くなりました。

おやすみなさい。

<(_ _)>


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■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
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  メール: pariアットマークjk2.so-net.ne.jp
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二つの配信スタンドで発行されています。
mag2:http://www.mag2.com/m/0000126287.html
melma:http://www.melma.com/backnumber_110091/
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Copyleft(C)2018 paritosho
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