home > 通信 >『アセンション館通信』第779号:ネイサン・ギルの自死について



━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
  ☆☆   ☆☆
 ☆☆     ☆☆『アセンション館通信』2019/03/24(第779号)
☆☆   ☆   ☆☆
☆☆      ☆★ 【気刊】──「私は在る」に導かれ♪──
-☆☆────-☆☆─────────────────────
 ☆☆   ☆☆   https://www.ascensionkan.com/
━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇

このメルマガはアセンション館主人pariと称するあるパターンに
浮上している夢の場面の報告です。

 あなたがしなければならないことは、
 真我でない他のものごとに注意をはらうのをやめることだけだ。
 もしそれらに気づくのをやめれば、純粋な覚醒だけが残る。
 それが真我である。『あるがままに』

内容は人畜無害、でも読む人は相当変わっていますね。現在816名
──────────────────
◇◇ もくじ ◇◇

1.ネイサン・ギルの自死について

2.編集後記
──────────────────

━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■ 1.ネイサン・ギルの自死について
━━━━━━━━━━━━━━━━━━

今日は雨模様で寒い日ですね。

今朝はチラホラ

雪が舞っていたくらいです。

すぐに雨になりましたけど。

画面はいろいろ変わります。

すべてつかの間の場面です。

この身体が現象している間は

こういう画面がつねに現れるようです。

注目すれば

もちろんそれが現実になります。

いつも注目しているので、

こうして現実になっています。(*^_^*)

ただし必ずしも注目しなければならない

というものでもないらしいですね。

興味があるから注目しているだけです。

意識は興味には逆らえませんから。

こういう画面が何なのかに得心がいったら、

自然にそんな興味も失せて、

ただ安らぐことが起こるのかもしれません。

(*^_^*)

さて、またまた一週間が過ぎて、

楽しい“アセンション噺”ならぬ「私は在る」噺に、

お付き合いいただく今がやってまいりました。

『アセンション館通信』配達人の pari です。

前回投稿欄にご質問をくださったまーさんから、

再度個人メールで

少し長目のご質問をいただきました。

とても興味のあるテーマだったものですから、

じっくりご返事したい気分になりました。

ご本人からメール掲載について許可を得た上で、

メルマガ上でのご返事を許していただきました。

「いただいたお手紙から」のコーナーで

ご返事してもいいのですが、

最初から書かせてもらったほうが

エネルギーも分散しないし、

自由に時間を使えると思いました。

なのでここで書かせていただきます。

まーさん、メールの掲載許可、

ありがとうございました。m(_ _)m

さっそく、

まーさんのメールからご紹介します。

【件名】:ご回答ありがとうございました。
──────────────────
 Pariさま
 
 こんにちは。
 
 まーです。
 
 778号でのご回答ありがとうございました。(^^)v
 
 立て続けで申し訳ありません。
 
 お聞きしてみたいことがあり
 投稿フォームからしようと思ったのですが、
 
 文才ゼロゆえ端的に質問を纏めることが難しく、
 メールから質問させて頂く失礼お許しください。
 
 Pariさんは、ネイサン・ギルの自死について
 どんな思いを持たれていますか?
 
 
 私あちこち迷走もしましたが、
 ラメッシの本を最後に
 これ以上精神世界の本は買わなくてもいいかな?
 
 覚者と呼ばれる方々は究極
 皆同じことを言われているのだし・・・
 
 と思っていたのですが、
 古閑さん訳でもあったからか
 何気に又ネイサンの本に手が出てしまいました。(つい最近)
 
 マハラジたちが語っていることを、
 他の人の語る言葉で復習し理解を深める(←何を偉そうに
 ・・・なんですが、正直言ってそんな)
 気分で読み始めました。
 
 
 ネイサンは「私はジニャーニだ」というのでもなく、
 
 思考は景色のひとつとして捉えるというのも、
 「やっぱそれいい!貰いますw」っていう
 感じで読み進めましたし、
 
 例え知識による理解であっても
 「私」という幻想のゼンマイが少しづつ緩むことによって
 土台が徐々に崩れていくということなどが書かれており、
 
 「私」ががっつり居る、
 知識としての理解を超えることが起きていない者としては、
 読んでいて勇気を貰えた気がしていました。
 
 
 ただそれは
 
 “古閑さんの訳者あとがきを読むまで”の
 たった数時間の思いでした。
 
 
 ネイサンが日本での初版出版以前に
 亡くなられていたとは知らず。
 
 結構混乱したというかショックでネイサンの死について検索し、
 古閑さんの「塩人間・・・」に書かれてた
 ネイサンの死についての記事も拝読したのですが、
 
 率直なところ
 「おいおいお前さん、悟ってもいないのに勝手に
  解った気になってるんじゃないよ」と、
 新たな課題を突き付けられた気がしました。
 
 
 溝口あゆかさんはネイサンの死について、
 
 彼は非二元ティーチャーであって、
 悟った人ではないから、
 そこがまず違うと答えていらっしゃったようです。
 
 
 私がいなくなることはごく稀で、
 それが起きるかどうかは
 その肉体精神機構にプログラミングされた物語に既にあり、
 
 全くコントロールできるものではないという知識はあっても、
 
 ネイサンの言葉は気楽なトーンで、
 どこかバカボンのパパよろしく
 「これでいいのだ!」
 と言われた気がしました。
 
 
 彼の痛みがどれほどのものであったか、
 どのような思いで自死の決断に至ったのかも
 当然測り知る由もありません。
 
  
 
 ですが、彼が身体の痛みについての質問に対し、
 
 劇を見抜くことが展開し、
 その痛みを未来に投影する土台が崩れることによって
 その痛みは我慢しやすくなり、
 少なくともそこに苦しみに伴わない
 (原文をかなり端折ってますが)
 
 と書いていたことは何だったのだろう?
 
 
 考えてみれば、
 この痛みに対処する方法ともとれる言葉は
 コントロールできるものがあるってこととも
 解釈できないこともない?
 
 とか、いやいやネイサンは、
 この劇を見抜くが展開するが起き、
 その痛みが未来に投影される土台が崩れるが起きたら
 痛みは我慢しやすくなるって言ってるだけだから。
 
 とか思いながら・・・・
 
 
 結局ゼンマイが徐々に緩もうがどうしようが、
 「私」がいなくなるが起きないことには
 どうしようもないことなの?
 
 個我が残っているネイサンにとって
 もしかしたら激痛と自死というのは、
 彼の物語に決められ与えられていた
 卒検のような出来事であり、
 
 彼は再び探求することになっていた?
 みたいな変な憶測まで湧いてきてしまう始末。
 
 
 自死に対する偏見はありませんし、
 叶うことなら、激痛だけは勘弁願いたいと思うものの
 何時この肉体がなくなってもよいと思っていますし、
 
 あの世も、この世への輪廻も
 異次元への再生も金輪際一切ないことだけが望みですから、
 死によって楽になる「私」なんていなくていいのですが、
 
 結局この世に於いては、
 悟りが起きない以上苦しみは続くのかという落胆を
 ネイサンの物語から感じました。
 
 
 つい数か月前、
 長年不幸物語中毒で苦しんでいる(←私も
 苦しいといいながら自分のレアな物語を
 相当愛していたと思うものの)
 
 高校からの友に
 少しでも気が楽になってくれたらいいと
 ラメッシの本を送ったところ、
 
 そんな探求してるとは微塵も言ってなかったこともあってか
 「大丈夫か?」と頭がおかしくなった?
 的反応を受け
 
 「生きてくのにそんな探求なんて必要か?」
 と言われ腐れ縁を絶しました(笑)。
 
 確かに彼女の不幸自慢には自己憐憫の蓑を着た、
 “今はあなたに勝ってる私”が見え隠れして
 面倒臭かったので良い機会にはなりましたがwww
 
 
 何の意味はなくとも
 この探求が起きてる私にとっては
 止めることはできないのだから仕方ないと思いつつ、
 
 二元相対の世界を
 もうそういう世界だからと
 現実的なお金や立場などという、
 この世的幸せ基準で生きたほうがまともなのかも?
 
 偉そうに彼女に本を送った私
 (善意で送った気でいたけど、
  どこかにに選民的感覚がなかったとは言えない
  かもしれない)が、
 
 この後ネイサンの最期のような時を迎えたとすると?
 と思うと、「これ」しかないなんて言えるだろうか。
 
 
 ネイサンの死が質問の骨子なのに、
 乱文の長文になりご迷惑お掛けしすみません。
 
 もし機会がありましたら
 アセ通でネイサンの死について
 触れて頂ければ幸いに存じます。
 
 
 ありがとうございました。
──────────────────

まーさん、このような質問をいただけて、

とても感謝しています。(-||-)

われわれが道具であるということが

これほどわかりやすい形で明証されることは

あまりないのかもしれませんね。

> もし機会がありましたら
> アセ通でネイサンの死について
> 触れて頂ければ幸いに存じます。

もしかしたら、わたしのなかにも

ネイサンの死について触れたいような

気分があったかもしれません。

とはいえ、

こうしてプッシュしていただかないことには、

自ら書き出すようなテーマでも

なかっただろうと思います。

> 立て続けで申し訳ありません。

いいえ、

こうして書いていることについて

反応していただけると

調子者のわたしなどは嬉しいです。

> お聞きしてみたいことがあり
> 投稿フォームからしようと思ったのですが、
> 
> 文才ゼロゆえ端的に質問を纏めることが難しく、
> メールから質問させて頂く失礼お許しください。

こうして個人メールのスタンスで、

ざっくばらんに書いていただいて、

しかもその掲載を許していただけるというのが、

起こるべきことだったんでしょうね。

他の方にもとても良く伝わるでしょうから。

> Pariさんは、ネイサン・ギルの自死について
> どんな思いを持たれていますか?

今回のテーマにさせていただきますね。

> 私あちこち迷走もしましたが、
> ラメッシの本を最後に
> これ以上精神世界の本は買わなくてもいいかな?
> 
> 覚者と呼ばれる方々は究極
> 皆同じことを言われているのだし・・・
> 
> と思っていたのですが、
> 古閑さん訳でもあったからか
> 何気に又ネイサンの本に手が出てしまいました。(つい最近)

そうでしたか。

じつは

わたしがヒロさんのサイトを知ったのは、

ネイサン・ギルのご縁でした。

当時ヒロさんのブログサイトに
https://resonanz360.com/

ネイサン・ギルの『Clarity』の翻訳が

PDFファイルで置かれていたのです。

ヒロさんの翻訳で現在出版されている

『すでに目覚めている』

の最初の方に掲載されている文章です。

当時『アセ通』で少しずつ無断翻訳していた

James Brahaの『Living Reality』のなかに

ネイサン・ギルの『Clarity』について

触れている箇所がありました。

それで【Clarity】と検索してみたら

ヒロさんのサイトに行き着いたのです。

2012年のことだったようです。
https://www.ascensionkan.com/mm/vol446.html

わたしはヒロさん訳の『Clarity』を

何度も読みました。

それくらい印象的な文章でした。

> ネイサンは「私はジニャーニだ」というのでもなく、
> 
> 思考は景色のひとつとして捉えるというのも、
> 「やっぱそれいい!貰いますw」っていう
> 感じで読み進めましたし、
> 
> 例え知識による理解であっても
> 「私」という幻想のゼンマイが少しづつ緩むことによって
> 土台が徐々に崩れていくということなどが書かれており、
> 
> 「私」ががっつり居る、
> 知識としての理解を超えることが起きていない者としては、
> 読んでいて勇気を貰えた気がしていました。

はい、わたしもまったく同じです。

> ただそれは
> 
> “古閑さんの訳者あとがきを読むまで”の
> たった数時間の思いでした。

あ、そうでしたか。(?_?)

> ネイサンが日本での初版出版以前に
> 亡くなられていたとは知らず。
> 
> 結構混乱したというかショックで
> ネイサンの死について検索し、
> 古閑さんの「塩人間・・・」に書かれてた
> ネイサンの死についての記事も拝読したのですが、
> 
> 率直なところ
> 「おいおいお前さん、悟ってもいないのに勝手に
>  解った気になってるんじゃないよ」と、
> 新たな課題を突き付けられた気がしました。

なるほど……。

> 溝口あゆかさんはネイサンの死について、
> 
> 彼は非二元ティーチャーであって、
> 悟った人ではないから、
> そこがまず違うと答えていらっしゃったようです。

そうなんですね。

> 私がいなくなることはごく稀で、
> それが起きるかどうかは
> その肉体精神機構にプログラミングされた物語に既にあり、
> 
> 全くコントロールできるものではないという知識はあっても、
> 
> ネイサンの言葉は気楽なトーンで、
> どこかバカボンのパパよろしく
> 「これでいいのだ!」
> と言われた気がしました。

さて……。

じつはここの文意はよくわかりませんでした。

> 彼の痛みがどれほどのものであったか、
> どのような思いで自死の決断に至ったのかも
> 当然測り知る由もありません。

わたしはネイサン・ギルの自死の報に触れて、

痛みという問題をそれほど感じませんでした。

> ですが、彼が身体の痛みについての質問に対し、
> 
> 劇を見抜くことが展開し、
> その痛みを未来に投影する土台が崩れることによって
> その痛みは我慢しやすくなり、
> 少なくともそこに苦しみに伴わない
> (原文をかなり端折ってますが)
> 
> と書いていたことは何だったのだろう?

なるほど。

まーさんは、

ネイサンが肉体の痛みに耐えかねて

“自死を選んだ”と思われたのですね。

わたしは、ネイサンのなかで

これ以上無駄な肉体の生を保つ意味が

崩壊したのだと思いました。

> 考えてみれば、
> この痛みに対処する方法ともとれる言葉は
> コントロールできるものがあるってこととも
> 解釈できないこともない?
> 
> とか、いやいやネイサンは、
> この劇を見抜くが展開するが起き、
> その痛みが未来に投影される土台が崩れるが起きたら
> 痛みは我慢しやすくなるって言ってるだけだから。
> 
> とか思いながら・・・・

たしかに、そのような文面もありましたね。

> 結局ゼンマイが徐々に緩もうがどうしようが、
> 「私」がいなくなるが起きないことには
> どうしようもないことなの?
> 
> 個我が残っているネイサンにとって
> もしかしたら激痛と自死というのは、
> 彼の物語に決められ与えられていた
> 卒検のような出来事であり、

【個我が残っているネイサン】ですか……。

> 彼は再び探求することになっていた?
> みたいな変な憶測まで湧いてきてしまう始末。

なるほど。

> 結局この世に於いては、
> 悟りが起きない以上苦しみは続くのかという落胆を
> ネイサンの物語から感じました。

この世のことはお釈迦さまがおっしゃる

「一切皆苦」だと思いますが、

悟りというのは

それを苦しんでいる人物が存在しないことを

知っているということだと思います。

> 二元相対の世界を
> もうそういう世界だからと
> 現実的なお金や立場などという、
> この世的幸せ基準で生きたほうがまともなのかも?

それが起こることになっているなら

そうなるしかないですよね。

自分の体験に照らしてそう思います。(*-_-*)

> この後ネイサンの最期のような時を迎えたとすると?
> と思うと、「これ」しかないなんて言えるだろうか。

まーさんのこの言葉は、

【ネイサンの最期のような時を迎え】るかもしれない

まーさんという登場人物が自分だという前提を

少しも疑っていないようにも聞こえますね。

ネイサンはお読みになったんですよね?

(と、配信時点のメルマガには書きました。
 
 いま読み直してみて、
 
 まーさんの気分がとてもわかる気がしました。
 
 わたしは
 
 知ったかぶりをするためと、
 
 恥をかくための両方の意図をもって
 
 道具としてこのメルマガを書かされています。
 
 自分が使われる道具なのか、
 
 すべてを理解している<意識>なのかを
 
 見極めるために……。)

> ネイサンの死が質問の骨子なのに、
> 乱文の長文になりご迷惑お掛けしすみません。
> 
> もし機会がありましたら
> アセ通でネイサンの死について
> 触れて頂ければ幸いに存じます。

おっしゃることよくわかりました。

まーさんとわたしは

ある意味、何も違わないのですが、

ネイサンの死に対する反応は

随分違うような気もします。

まただからといって

どちらの反応のほうがまともだとか

そういうことでもないと思っています。

そういうことすべてについて、

ネイサン・ギルは充分に語ってくれています。

ところで、

まーさんのお手紙のなかに

【個我が残っているネイサン】

という言葉があります。

いろんなふうに取れる言葉ですよね。

これは、

『すでに目覚めている』のどこかで

ネイサン・ギル自身が

「自分には個我が残っている」と表明していた、

とまーさんは理解しているという意味でしょうか?

それとも、

『すでに目覚めている』を読んで、

「ネイサン・ギルには個我が残っている」と

まーさんが判断したという意味でしょうか?

ま、どちらでもいいのですが、

わたしにとっては、

ネイサン・ギルは

【記憶も予測も、
 過去も未来も、
 実際には今この瞬間に
 生じている思考にすぎない】という事実を
 
改めて強烈に意識させてくれた方です。

その上で彼はこう言います。

──────────────────
 たった今、
 はじめからここには
 100%の目覚めしかありません。
 一体性が気づきと気づきの内容という
 ふたつの側面として内在的に現れていて、
 見かけ上自らの
 思考のストーリーの催眠にかかっています。

 『すでに目覚めている』(p35)
──────────────────

その思考のストーリーというのが、

たとえば、

まーさんが上で吐露されたようなお話です。

(メールの掲載を許可してもらいながら、

 まるで後出しジャンケンで揚げ足を取るような

 失礼をお許しください。m(_ _)m

 でも、折角の機会なので、

 夢の中にしか存在しないネイサン・ギルにも

 発言のチャンスを差し上げたいと思います。)

まーさんは、書籍としての

『すでに目覚めている』を先に読まれたので、

最初の部分の「Clarity:明晰さ」の印象が

それほど強くなかったかもしれません。

でも、

ヒロさんの翻訳書が出版される前は

ネイサン・ギルに関しては

「Clarity:明晰さ」の文章しか

わたしは知りませんでした。

その印象から言えば、

ネイサン・ギルが申し分のない悟り

(というかエゴの喪失状態)を、

何度も体験している幸運な方であることを

誰も疑わなかったような気がします。

その方が「Clarity」を書いたことに

当時それを読んだ人間は驚いたわけです。

それまでわたしたちは、

一度悟ったら何もかもすべて解決して、

二度と再び戻らないようなのが“悟り”だと、

そんな“悟り体験”神話を信じていましたから。

しかし、

ネイサン・ギルが教えてくださったことは、

「分離幻想の消失」とは体験だということでした。

体験というものは大なり小なり必ず変化します。

つまり悟った方の体験も

一瞬一瞬変化していくということです。

そしていわゆる“悟った方”は

その変化する体験が自分ではないことを

よく知っているということです。

そしてご存知のとおり

分離幻想の消失という至福状態を

何度か体験した幸運なネイサン・ギルは

分離幻想の復元も経験します。

道具として体験させられたと言ってもいいです。

そういう体験の中で理解が成熟していきます。

ネイサン・ギルは

理解という体験もまたストーリー内部にある、

と言います。

なぜなら、

「理解」という言葉には、

理解する実体が存在するかのようなニュアンスが

不可避的に含まれてしまうからです。

その辺りの機微を表現するために

彼が選んだ言葉は

体験の中に【知が浸透する】という表現です。

いずれにせよ、

ネイサン・ギルの表現は

体験を個人的実体に結びつけようとする試みを

破壊することに捧げられていると思います。

知覚可能なあらゆる体験が自分ではないことが

深く感じられているからでしょう。

ネイサン・ギルの自死に言及するなら

ネイサン・ギルが

何を教えてくださったのかにも

それなりに配慮をすることは必要だと思います。

そのネイサン・ギルは

体験のなかでわれわれが陥りがちなお話、

たとえば、

【あの世、この世への輪廻】

【異次元への再生】

【死によって楽になる「私」】

といったお話はすべて、

「漫画のセリフの吹き出しのようなもの」

と考えるといいとおっしゃっています。

──────────────────
 こういった思考は、
 漫画のセリフの吹き出しのようなものだと
 考えるといいかもしれません。
 自分の本質のうち、
 気づいているという側面が見落とされ、
 気づきの内容だけに注意が集中して
 その催眠にかかってしまうと
 ──登場人物との同一化と言ってもいいですが──
 思考という吹き出しのメッセージが
 信憑性のあるストーリーに思えてきます。
 そうすると、
 その内容は実際には気づきの中で
 今この瞬間に現れているにもかかわらず、
 思考のストーリーによる催眠が、
 今あるということ「以外」、
 またはその「外」へと注意を逸らす働きをします。
 
 『すでに目覚めている』(p33)
──────────────────

> 思考のストーリーによる催眠が、
> 今あるということ「以外」、
> またはその「外」へと注意を逸らす働きをします。

するとその催眠状態のなかで、

死とか転生といった“漫画の吹き出し”が

まるで現実のように見えてくるのだと。

このような状態を

ラマナやニサルガダッタなど他の覚者同様

ネイサン・ギルも

映画に夢中になっている観客に喩えます。

──────────────────
 ここで、
 スクリーンに映される
 映画という比喩が役に立ちます。
 映画が内容で、
 スクリーンが気づきです。
 このふたつはひとつのものです。
 スクリーンは三次元のスクリーンで、
 映画がその中に映っています。
 すべてはこの三次元スクリーンという
 背景に現れています。
 そのため映画の中では、
 <意識>つまり全体性、一体性は、
 つねにいろいろな形として
 認識されることになります
 
 『すでに目覚めている』(p34)
──────────────────

3次元空間の中に投影される映画。

その映画を投影し

自ら投影したその映画を見ているのが

<意識>つまり全体性だと

ネイサン・ギルは言うわけです。

ネイサン・ギル使う比喩はもうひとつあります。

──────────────────
 ここで使えるうまい比喩がもう一つあるとしたら、
 それは、
 現れるすべてが一人の人間の身体で、
 人間として現れている登場人物は
 その一人の人間の身体を循環しているちっぽけな
 細胞だという喩えです。
 ひとつひとつの細胞は観点にすぎません。
 そういう細胞のひとつひとつを通して
 一体性は自分自身の中で
 自分自身として自分自身を見ています。
 
 『すでに目覚めている』(p38)
──────────────────

ネイサン・ギルは

現象世界全体がひとりの人間の身体で、

われわれ個々の登場人物を

その宇宙全体という巨人の小さな個々の細胞

に喩えています。

わたしたちは<意識>が創造するいわば一つの観点です。

わたしたちという個々の窓をつうじて

<意識>という一体性は

自分の中に自分の可能性を既知のものとして展開して

それを見ているというイメージです。

ネイサン・ギルが、

【たった今、
 はじめからここには100%の目覚めしかありません。
 一体性が気づきと気づきの内容という
 ふたつの側面として内在的に現れていて、
 見かけ上自らの
 思考のストーリーの催眠にかかっています。】

と言うのはそのことです。

そういう意味では、

われわれ個々の登場人物の観点は、

全宇宙という巨大なアメーバーが伸ばす

個々の触手の先端にも喩えられるかもしれません。

もちろん、

個々の登場人物になりきった立場からすれば、

その夢は耐え難い苦痛かもしれません。

しかし、

その個々のストーリーを見ているのは

本当にその個々の登場人物なのでしょうか?

いや、それは無理です。

なぜなら、

道具としての個々の肉体も、

その肉体をつうじて展開される物語(体験)も、

知覚の対象物だからです。

ネイサン・ギルは

この知覚の対象物の側面とそれに気づいているものを

「気づき」と「気づきの内容」という

一体性のふたつの側面として定義します。

「気づきの内容」は多様性として顕れても、

「気づき」の側面はひとつしかありません。

まーさんがいう“自分”という感覚と、

pariがいう“自分”という感覚は、

まったく同じものを指しているわけです。

思考のストーリーの催眠にかかって

多様性が展開する劇に夢中になれば、

“漫画の吹き出し”はすべて現実になります。

では誰が劇に夢中になっているのか?

これが自分自身を探すという

宇宙のジョークであるわけでしょう。

ネイサン・ギルが教えてくださっていることは

そういうことだと思います。


まーさんのご質問にストレートに

お答えしたいと思います。

> Pariさんは、
> ネイサン・ギルの自死について
> どんな思いを持たれていますか?

それが自然なことだったのだろうと思います。

肉体をほとんど動かせないホーキング博士は

「これ以上何が望めるだろう?」

とおっしゃったそうです。

それはホーキング博士が

宇宙が展開するそのような成長点だからです。

ネイサン・ギルに起こったことは

それとは別のことでした。

それはネイサン・ギルが

宇宙が終焉まで展開し終えた

成長点だったからかもしれません。

ネイサン・ギルの観点は、

【はじめからここには
 
 100%の目覚めしかありません】

というものです。

ネイサン・ギルにとっては

覚者もいなければ

覚者でない者もいません。

ただ

【一体性が気づきと気づきの内容という
 
 ふたつの側面として内在的に現れて】いるだけです。

彼が悟っているとか

悟っていないという者は、

ネイサン・ギルという観点の中では

催眠状態の夢の中にしかいないのです。

これは必ずしも、

ネイサン・ギルという観点が正しい

と言っているわけではありません。

ネイサン・ギルは悟っていないという観点も

同じように正しいのです。

まーさんの観点も同じく正しいのです。

なにしろ、

大宇宙の細胞のひとつとして

それは現に現象しているのですから。

ただ、

こういうことは言えるかもしれません。

ネイサン・ギルは

現に起こっていること以外に

何も求めてはいなかったことでしょう。

ただ

ひとつの自然な過程として、

無駄な肉体の生を断つということが

起こったのだろうと思います。

ネイサン・ギルの肉体が

無用に苦しんでいたのかもしれませんし、

あるいはご家族に無用な手間を

掛けていたのかもしれません。

いずれにしろ、

自然なことが起こったのだろうと思います。

なぜなら、

ネイサン・ギルという宇宙の触手にとって

それが現に起こったわけですから。

まーさん、

ご質問いただけて嬉しかったです。

もしよろしければ、

これに懲りず、

またなにか反応いただければ嬉しいです。

もしそれが起こればですが。

ありがとうございました。m(_ _)m

(-||-)

──────────────────
 あなたは在る。
 ほかのすべては現れにすぎない。
 
 『私は在る』(p421) 
──────────────────

(-||-)

──────────────────
 永久的なもの、
 それはあなた自身の存在である。
 真我として在りなさい。
 それが至福である。
 あなたはいつもそれなのである。
 
 『あるがままに』(p58) 
──────────────────

……。(-_-)

ありがとうございました。<(_ _)>

(-||-)

今日はこんなところで。

……。

m(_ _)m


   ………○…………○…………○………


『私は在る』の「目次」はここ↓にあります。
https://www.ascensionkan.com/books/I_AM_THAT-index.html

「ニサルガ辞書」で遊んでみてください。
https://www.ascensionkan.com/ndic/

「ラマナ・マハルシ辞書」はここです。
https://www.ascensionkan.com/rdic/

『アセ通』既刊号はすべてここにあります。
https://www.ascensionkan.com/mm/


   ………○…………○…………○………


▼『アセ通』へのご意見投稿フォーム:
http://www.formzu.net/fgen.ex?ID=P48750702

「私は在る」に関するご意見や単なるメールなど、

ご自由にお書きください。


   ………○…………○…………○………


▼『アセンション館通信』への情報ご投稿フォーム
http://www.formzu.net/fgen.ex?ID=P87119518


   ………○…………○…………○………


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■ 2.編集後記:
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

相変わらず週に一度、

土曜日だけはマインド無礼講で

言いたい放題をさせていただいています。

そのような道具なのでしょう。

起こることを許すしかありません。

いつまでもある夢でもありませんし。

今日もすっかり暗くなりました。

おやすみなさい。

<(_ _)>


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
  メール: pariアットマークjk2.so-net.ne.jp
──────────────────
二つの配信スタンドで発行されています。
mag2:http://www.mag2.com/m/0000126287.html
melma:http://www.melma.com/backnumber_110091/
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
Copyleft(C)2018 paritosho
↑コピーレフトの概念はこちら↓をご覧ください。
http://now.ohah.net/commune/--license--copyleft.html#copyleft
──────────────────